2008年11月19日水曜日

世界の映画名作百本

 フランスの映画評論家、脚本家、名画座主宰ら76人が投票した「世界の映画名作100本」がフィガロ紙のサイトに掲載されております。リストは以下のとおりです。順位は得票数によるものでしょう。題名と監督名が挙げられています。ときおり題名が気まぐれで「わたし風」になっておりますが、ご容赦を。適当に検討をつけてやってください。

一位 『市民ケイン』オーソン・ウェルズ
二位 『狩人の夜』チャールズ・ロートン、『ゲイムの規則』ジャン・ルノワール
三位 『夜明け』F・W・ムルナウ
四位 『アタラント号』ジャン・ヴィゴ
五位 『M』フリッツ・ラング
六位 『雨に唄えば』スタンリー・ドウネン、ジーン・ケリー
七位 『めまい』アルフレッド・ヒッチコック
八位 『天井桟敷の人々』マルセル・カルネ、『捜索者』ジョン・フォード、『強欲』エリック・フォン・シュトローハイム
九位 『リオ・ブラヴォー』ハワード・ホークス、『生きるべきか死ぬべきか』エルンスト・ルビッチ
十位 『東京物語』小津安二郎
11位 『軽蔑』ジャンリュック・ゴダール
12位 『雨月物語』溝口健二、『街の灯』チャールズ・チャップリン、『ジェネラル号の機関士』バスター・キートン、『ノスフェラトゥー』F・W・ムルナウ、『音楽サロン』サタジット・ライ
13位 『フリークス』トッド・ブラウニング、『ジョニー・ギター』ニコラス・レイ、『母ちゃんと売女』ジャン・ウスタッシュ
14位 『独裁者』チャールズ・チャップリン、『山猫』ルキーノ・ヴィスコンティ、『広島、わが愛』アラン・レネ、『パンドラの匣』G・W・パプスト、『北北西に進路をとれ』アルフレッド・ヒッチコック、『すり』ロベール・ブレッソン
15位 『黄金のかぶと』ジャック・ベケール、『裸足の伯爵夫人』ジョゼフ・マンキーウィッツ、『ムーンフリート』フリッツ・ラング、『…夫人』マックス・オフュルス、『快楽』マックス・オフュルス、『ディアハンター』マイケル・チミノ
16位 『情事』ミケランジェロ・アントニオーニ、『戦艦ポチョムキン』セルゲイ・エイゼンステイン、『汚名』アルフレッド・ヒッチコック、『イワン雷帝』、『名づけ親』フランシス・フォード・コッポラ、『黒い罠』オーソン・ウェルズ、『風』ヴィクトール・シェストレーム
17位 『2001年・宇宙の旅』スタンリー・キューブリック、『ファニーとアレクサンドル』イングマール・ベルイマン
18位 『群衆』キング・ヴィダー、『8½』フェデリコ・フェリーニ、『投げ捨てられた女』クリス・マーカー、『道化師ピエロ』ジャンリュック・ゴダール、『ぺてん師の物語』サーシャ・ギトリー
19位 『アマルコルド』フェデリコ・フェリーニ、『美女と野獣』ジャン・コクトー、『お熱いのがお好き』ビリー・ワイルダー、『奔流のように』ヴィンセント・ミネリ、『ゲルトルード』カルル・テオ・ドライヤー、『キング・コング』アーネスト・シュードサック、メリアン・J・クーパー、『ローラ』オットー・プレミンガー、『七人の侍』黒澤明
20位 『若き日の過ち』フランソワ・トリュフォー、『甘い生活』フェデリコ・フェリーニ、『ダブリン人』ジョン・ヒューストン、『極楽特急』エルンスト・ルビッチ、『すばらしきかな、人生』フランク・キャプラ、『殺人狂時代』チャールズ・チャップリン、『ジャンヌ・ダルクの受難』カルル・テオ・ドライヤー
21位 『息切れ』ジャンリュック・ゴダール、『地獄の黙示録』フランシス・フォード・コッポラ、『バリー・リンドン』スタンリー・キューブリック、『大いなる幻想』ジャン・ルノワール、『不寛容』D・W・グリフィス、『ピクニック』ジャン・ルノワール、『プレイタイム』ジャック・タチ、『開かれた街ローマ』ロベルト・ロッセリーニ、『センソ』ルキーノ・ヴィスコンティ、『モダンタイムズ』チャールズ・チャップリン、『ゴッホ』モーリス・ピアラ
22位 『めぐりあい』レオ・マッケリー、『アンドレイ・ルブリョフ』アンドレイ・タルコフスキー、『スカーレット・エンプレス』ジョゼフ・フォン・スターンバーグ、『山椒大夫』溝口健二、『彼女と話して』ペドロ・アルモドバル、『パーティ』ブレイク・エドワーズ、『タブー』F・W・ムルナウ、『バンドワゴン』ヴィンセント・ミネリ、『スター誕生』ジョージ・キューカー、『ユロ氏の休暇』ジャック・タチ
23位 『アメリカ・アメリカ』エリア・カザン、『エル』ルイス・ブニュエル、『キッスで殺して』ロバート・オールドリッチ、『むかしむかしアメリカで』セルジオ・レオーネ、『日は昇る』マルセル・カルネ、『見知らぬ女からの手紙』マックス・オフュルス、『ローラ』ジャック・ドゥミ、『マンハッタン』ウディ・アレン、『マルホランド・ドライヴ』デヴィッド・リンチ、『モードとの一夜』エリック・ロメール、『夜と霧』アラン・レネ、『黄金狂時代』チャールズ・チャップリン、『スカーフェイス』ハワード・ホークス、『自転車泥棒』ヴィットリオ・デ・シーカ、『ナポレオン』アベル・ガンス

 ということで、別におもしろくありません。白黒映画が多いですね。欧米(しかも米仏の比重が高すぎ)以外は日本が数本とベンガルが一本だけという大きなかたよりが。クリス・マーカーの短編映画が入っているあたりがポイントかしらね。ふと『ゴッホ』が入っているあたりがわけがわかりません。2000年代の映画はアルモドバルとデヴィッド・リンチだが、一方が好きじゃない。
 これを紹介しているフィガロ紙のサイトの記事では、グリーナウェイもヴェンダースも入ってないと云ってるが、まあ、それはいいんじゃないの。スコシージがいないのは多少問題かもしれません。が、別にいいです。
 『ジョニー・ギター』のジョーン・クロフォードのピアノは必見。『めぐりあい』はかわいい映画。
 『山猫』を『チーター』にしたいのはやまやま。『甘い生活』は『ドルチェ・ヴィータ』にするのもばかくさいな、と思いつつ他の映画の題名は『スカーレット・エンプレス』『センソ』と書いたりと、まったく首尾一貫しておりません。
 私がこのなかから10本選んでみますと、好きな順で『母ちゃんと売女』、『パンドラの匣』、『エル』、『スター誕生』、『すばらしきかな、人生』、『七人の侍』、『快楽』、『すり』、『狩人の夜』、『キッスで殺して』、だいたいこんな感じかしら。

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2008年11月14日金曜日

変な悪夢

 鈴木孝夫先生の『日本語と外国語』(岩波新書、1990年)は、全体的には悪い本ではありませんが、ところどころ妙なことが書いてあります。日本語における漢字の使用の利点を述べ、欧米語におけるギリシア・ラテン語起源の「高級語」の意味がわかりにくいことを主張したいがあまり、こういうことを云っています。 
英語のこの難しさは、何も外国人である日本人にとってだけではなく、英語を母語とする人々にとっても厄介なのだ。私は米国のある著名な大学で、日本語の漢字のしくみについての講演を行った際に、黒板に pithecanthrope と大書してその意味を聴衆に尋ねたところ、誰一人として答えられなかった。これは日本語の猿人に当る語で、pithec- の部分はギリシャ語の猿を意味する πιθηκος に由来し、-anthrope は人間を指す ανθρωπος である。
 この集まりは文化・社会系の大学院生や教授たちが主であったこともあろうが、それでも日本で黒板に「猿人」と書いて、何十人もの一般知識人のなかに一人も理解できるひとがいない状況を想像できるだろうか。私はこの種の実験をカナダやイギリスでも何度か行ったが、結果はいつも同じであった。
 さきに挙げたような高級語彙の多くは、教養ある英米人にとっても難しいのである。
  ひとはわかりきったことをおおまじめに聞かれると、「このひとは本当にこんなことを聞いているのだろうか」と思って萎縮してしまいます。「結果はいつも同じ」だったのは、きっと鈴木先生の聞き方が悪かったのでしょう。特に相手が学者だと、「きっと何か専門の知識を要求しているのだろう」と思ってだれも答えないでしょう。それに、いくら何でも聴衆のなかに「そう云えばミンガスに Pithecanthropus erectus ってあるよなあ」と思ったひとがひとりもいなかったとは信じられません。Pithec- という要素が何を意味しているのかわからなかったということはあるかもしれませんが、この単語が何を意味しているのか、どこの国に行ってもだれも知らなかったということはありえません。
 もひとつおまけに。
 この日本語[「蜂食性」]に対応する英語のapivorous とは、ラテン語の apis (蜂)と《食べる性質の》を表わす -vorus の組合せなのであって、その意味はまさに蜂食性なのである。この語はしかし、英語では生物学者にしか分からない専門語である。
  「蜂食性」をかなで書いたり(「ほうしょくせい」)ローマ字で書いたりしても(hôshokusei)意味がわからないが、漢字で書くとあら不思議、意味が手にとるようにわかりますという論旨はそのとおりなのですが、apivorous という単語が「生物学者にしかわからない」ということはありえません。(まあ、もしかしたら英語話者はフランス語話者よりもばかなのかもしれんがのお。) 鈴木先生は「蜂食性」ということばを初めて聞いても、漢字をみれば意味がわかるということを云います。私は apivorous という単語を初めて見ましたが、それでも意味を云われなくてもだいたいの想像がつきます。Apiculture は「養蜂業」(フランス語ではもっぱらこの単語を用いますが、英語では beekeeping という方が普通なのかもしれません)で、carnivorous (フランス語では carnivore)は「肉食性」ですから、字面をよおく見ると、これは「蜂を食べる」という意味だとわかります。生物学者ではなくとも、多少の古典的教養があればわかることです。
 もちろん漢字を用いた表記の方が、こういった欧米語の「高級語」よりもわかりやすいということは云えるでしょう。こういった「高級語」、あるいは「学者語」がクイズになるというのは本当です。日本語の「養蜂業」はクイズになりにくいでしょう。でもフランス語でなら、「蜜蜂を飼う職業は何というか」、あるいは「apiculture ってなあに?」というクイズがありえます(後者は子供向けかな。前者は「いざ聞かれると出てこない」ということがありえます)。それに「漢字を用いた表記が日本人にはわかりやすい」からといって、「それがどうしたの?」という気がしないでもありません。
 日本人にとっての漢字ほどに一目瞭然でないとはいっても、初めて見た、聞いた「高級語」が欧米人にとって謎にとどまるということはありません。たとえばフランス語にはostréiculture という単語があります。初めて見ると何ものかわかりませんが、後半に -culture という要素がくっついているので、「何かを育てることだろう」と見当がつきます。それでその後に ostréi- という要素をよくにらめると、「育てる」ものを考えてゆくうちに、だいたい huître (「牡蠣」)のことではないかと想像がつきます。Iの上の山(アクサン・シルコンフレックス)はこの際 S が省略されていることを示しています。英語で「牡蠣」は oyster です。この ostréiculture という単語を一度も見たことがなくても、だいたいの見当はつきます。英語では oyster farming というそうなので、英語の方が古典語の教養から離れているということは云えますが、言語学を真剣に勉強している英語話者が ostréiculture (「カキ養殖」)というフランス語の単語を見て、まったく意味の見当がつかないということはまずありえないでしょう。岩波新書に書いてあることは信用してしまうひとがいるのだから、もう少し注意して書いてもらいたいものです。
 ちょっと脱線します。「高級語」のような姿をしていても、実際にはそうではないということがありえます。フランス語の会話でよく「ミト」という音を耳にすることがあります。チャットでもさまざまなつづり(mytho, *mito, *myto)でよく見かけます。この単語は mythomane を省略したものです。見た目は古典ギリシア語起源の由緒正しい単語ですが、実はこれは由緒正しい高級語ではなくて、比較的に新しい単語です。「神話」を意味する mytho- と「…狂、マニア」を意味する -mane からなりますが、これは「神話マニア」の意味ではなくて、「うそつき」のことです(もとは「病的虚言癖があるひと」のことですが、頻繁に日常語として用いられます)。「だったらこれを mytho と省略するのはおかしいんじゃないの? 要素がふたつあって「うそつき」になるんでしょ?」というひともいらっしゃるでしょうが、まったくそのとおりです。他にも似たような例があります。「女性憎悪」は misogyne (ひと)ですが、これは「嫌い」を意味する miso- と「女」を意味する -gyne からなります。でも、mytho ほどよく聞くことばではありませんが、これを略して miso (「ミゾ」。「ミソ」ではない)ということがあります。理屈からいうと、まったく省略のしかたがおかしいんですが、これは口頭語ですから。ひとではない事象の方は misogynie です。(カタカナで「ミソジニー」(あるいは「ミゾジニー」)と書いているのを見ると「ばかかな」と思う。ちなみにこの反対の「男性憎悪」はmisandre, misandrie ですが、ほぼ用いられません。Androgyne は「オトコオンナ」ですな。)
 フランスのラッパーに Doc Gynéco というひとがいますが、これは「産科の先生」の意味です(日本の産科のイメージだとわかりにくいと思うのですが、いちばんそのものずばりの「お医者さんごっこ」のエッチな名前です)。「産婦人科(医)」は gynécologie (gynécologue)です。「女性に関する学問」だとわかるでしょう。(厳密には「産科医」は obstétricien で、gynécologue は「婦人科医」です。だから「産婦人科医」は gynécologue obstétricien ですが、だいたい gynécologue ですむと思います。)
 脱線しました。鈴木孝夫先生の本は、言いたいことはだいたいわかるのだが、何とも納得のいかない記述が多いのです。今の世界で英語がでかい顔をしているのは私もいやですが、勢いあまっておかしなことを云うと、下手をすれば「西洋の教養を甘く見る」ことになってしまうので、これはもう少し注意をしていただきたいものだと思います。
 英語の場合では、耳で聴いて意味の分からない高級語彙は、たとえそれを紙に書いたものを見ても ― ということは、文字表記を与えられても―、はじめ聴いて分からなかったものは、いくら眺めても分からないのである。理解できない原因は、それが見慣れぬ古典語要素から出来ているからだ。
 しかし、日本語の場合はまったくちがう。
 「偉い先生が云っているのだからきっとそうなのだろう」と思ってしまうひともいるのではないかと危惧します。そんなに西洋の教養の伝統は甘くないのです。「古典語要素」を見慣れている教養人は、もちろんそれが人口の大半を占めているわけはありませんが、それでもたくさんいます。「Pithecanthrope という単語を知っているひとはだれもいない」と主張するのは滑稽です。鈴木先生は西欧人が日常生活をいかに生きているのかを理解しようとするという点で、凡百の学者とは一線を画すひとでありますが、それだからこそ残念なことだと思います。
 題名の「変な悪夢」というのは、ハル・ウィルナープロデュースもののなかでも最高傑作ではないかと思われるミンガス作品集の題名(Weird Nightmare)です。この記事の内容とは、「猿人」の話をしたこと以外は、まったく関係ありませんが、一聴をお勧めします。

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2008年11月8日土曜日

「キュイジニエール」に関するアンケート結果

 日本人が職業名をフランス語風のカタカナにするのはそもそも愚劣なことです。しかし愚劣なことにもさまざまなレベルがあります。何度もこのブログで繰り返していますが、本来ならば、女性の料理人は、たとえ女性であっても、職業名は男性形で名乗るのがただしいのです。しかしこの意識はフランス語圏でもだんだん薄れてきています。どのくらい薄れてきているのかよくわからないので、フランス語のブログの方でアンケートをしてみました。一箇月間のアンケート期間で答えてくれたのは22人。少ないですけれど、それでも大まかな傾向を表していると思います。
あなたの考えでは、cuisinière (キュイジニエール)という単語は職業名として用いることができますか。
  1. はい。何の問題もないと思います。14人(63%)
  2. たぶんむかしながらのフランス語ではありませんが、可能です。3人(14%)
  3. いいえ。職業名としては、cuisinier (キュイジニエ)は常に男性形でなければなりません。5人(23%)
 私はこの Blogger.com のアンケートが一人一回しか投票できないようになっているのかどうかも、だれが投票したのかも知りません。でもだいたいこんなものかなという気がします。
 もちろんこういう問題は多数決で決められるものではありません。「何の問題もない」と云うひとはそう答えるだけで、それ以上の意見をもっていません。しかしこの単語は、職業名としては常に男性形でなければならないと云うひとは、コメントを寄せてくれました。
 Cuisinière という単語は調理器具(コンロつきオーヴン)を意味する、あるいは「料理女」には軽蔑的なニュアンスがあるという根拠は、既にこのブログのなかで指摘したことですが、この cuisinière という単語は、大統領 président の奥さんが大統領夫人 présidente であるように、男性だけが職業をもっていた時代には「料理人の妻」を意味していたのだということを教えてくれたひとがいました。たとえばもともとフランス語では女性形のない職業名に、écrivaine (女性著述家)という新しい女性形をつくるフェミニズム運動はあるけれども、cuisinière を職業として用いるのはそれとはかかわりのないまちがいであるということをこのひとは主張しています。「ただしいフランス語を使いたい」ひとは、依然としてこの女性形に抵抗感を感じていることがわかります。最近はこの意識が薄れているとはいっても、cuisinière という単語は、もともと華やかなシェフよりも「給食のおばちゃん」のようなものを連想させるものだと云えます。もうひとつの愚かしい日本語のカタカナことばコンシエルジュのように、あまり品がいいとは云えない太っちょのおばさんを連想させる単語です。
 しかし現在では、フランス語圏の女性の料理人が cuisinière を名乗らないということは云えません。とはいっても、「フランス語では、女性の職業名は女性形」という初等文法の教科書に載っている生半可な知識を、ただしいフランス語の知識としてフランス語を話さない日本人に対して振り回すのは、やはり恥ずかしいことだと思います。
 まあ、こういうひとたちにとっては、「これはフランス語ではこうなの!」と日本人に吹聴するのが楽しいだけなのであって、むかしながらのただしいフランス語の知識なんて、知ったこっちゃないですか。
 (初めて通りがかったひとのためにつけくわえておきますが、C'est une bonne cuisinière は「彼女は料理がうまい」で、職業名ではない「料理する女」はまったくただしいフランス語です。ここには何の軽蔑的なニュアンスの可能性もありません。)

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2008年11月5日水曜日

翻訳の秋 「我々の社会は大いに異性愛原理主義的である」

 1974年にマルチニーク島で生まれたルイジョルジュ・タン(Louis-Georges Tin)さんは、同性愛恐怖に対する闘争と、黒人の主義主張を推進する闘争に深くかかわっている歴史学者です。今年『異性愛文化の発明』(L'Invention de la culture hétérosexuelle, Ed. Autrement)という著書を発表しました。ルモンド紙の電子版に発表されたネットサーファーとの対話を翻訳します。大括弧内([ ])は訳註です。

我々の社会は大幅に異性愛原理主義的である

Jルイ 西洋文明はいつから「異性愛的」になったのでしょうか。

ルイジョルジュ・タン(LGT) 私の考えでは、西洋文明は12~13世紀ごろから異性愛的になりました。その頃までは、日常的に称讃される文化的な事物はむしろキリスト教や騎士道の倫理の範疇に入るものでした。

ネフェルティティ 議論のテーマが逆説的だと思います。異性愛は多くのひとにとって自然なものだと思われるのに、どうして異性愛文化の発明のことを語ることができるものでしょうか。

LGT もちろん私がここで問題にしているのは、ずっとむかしから存在し、世代から世代へと人類の再生産を可能とした異性愛の行為のことではありません。
 そうではなくて、異性愛の文化、つまり男女のカップルとその愛の称揚は、西洋の歴史のなかに比較的に遅い時期にやってきたものです。
 たとえを用いて考えてみましょう。摂食行為はもちろん普遍的なものです。どんな文明においても、生きてゆくためには食べなければなりません。
 その一方で、美食の文化の方は普遍的なものではありません。上等のワインやチーズに対する信仰、すぐれたレストランにつけられる星の数、料理番組、ゴー=ミヨー[美食ガイド]、こういった要素はすべてフランスに特有の文化を定義するもので、これは単純な食べる行為だけに還元されるものではありません。
 異性愛の文化についても同じことが云えます。

cbm 私は中世史家ですが、いったいタン氏はどこから中世の騎士は「非異性愛」の一例であるということを引き出したのか、とても興味があります。

LGT 武勲詩のなかに現れるような騎士道の倫理は、ふつう男性間の友情をたたえています。たとえば『ロランの歌』[11世紀末のもっとも有名な武勲詩]のロランとオリヴィエです。『クラリスとラリス』[13世紀後半の武勲詩で、アーサー王伝説群の一部]の例もそうです。同じく『アミとアミール』[1200年頃に成立した武勲詩]のふたりの主人公もヒロイズムの価値と男性同士の間のやさしさをたたえる英雄です。
 大半においては異性愛であったとしか思われない性行為のことを云っているのではありません。でもこれらの騎士道の倫理を特徴づける作品において、大切なもの、たたえられるべき価値のあるものは、たとえばジョルジュ・デュビーとジャック・ルゴフが注意を喚起するように、この男性の文化、男同士の愛着、男性の間のやさしさなのです。

ティバブ 異性愛の関係は私たちの生殖機能の到達点でしかないのでしょうか。

LGT 動物にはさまざまな生殖の方法があります。無性生殖と有性生殖があります。人間の種は男性と女性の性的な結合によって再生産されます。
 しかしこのことはさまざまな主題の対象をもちうる文化の生産とは関係がありません。
 たとえば天体観測、農業のサイクル、法律や宗教の規則の確立は、さまざまな人間社会にとって同様に特権的な主題です。
 しかし西欧においては、12世紀から、男女のカップルとその愛が主題のなかの主題になりました。これを私は異性愛文化の発明と呼ぶのです。

イザベル 同性愛について、しばしばギリシア文明が「前衛」だと云います。これは神話でしょうか。それとも現実なのでしょうか。

LGT 実を云うと、ギリシア文明を分析しようとするものにとっては、同性愛も異性愛も本当の意味では適した範疇ではありません。
 実際、ここで問題になるのは、むしろ少年愛、すなわち年上の男と少年の間の関係で、これは社会へのイニシエイションを目的にしたものです。この行為は古典ギリシアの伝統において幅広く価値を認められていました。
 その他の男性間の関係は、たとえば同年齢同士であれば、弾劾されることがありえました。
 ですから、ある意味で同性愛文化の黄金時代だったのかもしれない古代ギリシアというお仕着せのイメージには抵抗しなければなりません。これはまちがったものの見方で、大変に時代錯誤的なものです。[ギリシア・ローマ時代の性については、パスカル・キニャール『性と恐れ』(Pascal Quignard, Le Sexe et l'effroi, Galliard Folio)を参照のこと]

マクシム 文化においては、いつごろから非異性愛行為は追放されるのでしょうか。それはどのような理由によってなされたのでしょうか。

LGT 西洋において、12~13世紀の男女のカップルの発展は、どんどん男性同士の関係に疑いの目を向けるようになってゆきます(女性同士の関係が問題にされることはそれよりもまれでした)。[女性の同性愛の歴史については、マリージョー・ボネ『女同士の恋愛関係』(Marie-Jo Bonnet, Les Relations amoureuses entre les femmes, Ed. Odile Jacob)を参照のこと]
 それに先立つ時代においては、肛門性交はほぼ法によって罰せられることはありませんでしたが、13世紀の末には西欧の多くの国家において焚刑に処せられうるものだったのです。
 この同じ時代に、異教徒一般に対する制裁が強まりました。「魔女」、ユダヤ人などです。
 これはキリスト教の西洋が全体的に硬化した時期です。

ゼゼッタ もし学校、妖精物語、家族、テレビなどによる勧誘熱が存在しなかったとしたら、異性愛は常に支配的なシステムでありつづけることができるのでしょうか。簡単に云うと、異性愛が多数派であることは、数量的なことであること以上に政治的なことなのではないでしょうか。

LGT 確かに支配というものは必ずしも数に結びついたものではありません。
 南アフリカの黒人は多数派でしたが、それでもやはり支配されていたのです。
 おっしゃるとおりで、これはただの数字だけの単純な効果であるよりも、文化、社会、政治的な手段によって行使される支配力の問題なのです。
 さらに、異性愛は異性愛原理主義(hétérosexisme)[タンさんの造語]と区別されるべきです。異性愛原理主義は、あらゆる人間は異性愛であり、異性愛でなければならないという幻想的なものの見方と定義できます。男性は女性のためにあり、とりわけ女性は男性のためにあるとする共通観念です。
 つまり異性愛者は必ずしも異性愛原理主義者ではなく、同性愛者は必ずしも異性愛原理主義から免れているわけではないのです。

[あまりおもしろくないので、問答をひとつ省略]

ネフェルティティ 同性愛文化の発明についてはどうですか。「異性愛文化の発明」のことを語るのは、あなたにとっては同性愛と異性愛を同じ局面に置くひとつの方法なのでしょうか。

LGT 私たちの考えるような同性愛文化は西欧において19世紀の末に生まれた、と多くの研究が私の思うところでは正当なしかたで示しています。
 もちろんこの時代の前には女性同士、男性同士の関係がなかったということではありません。でもそのようなものとはみなされず、本当の意味での社会的な主題を構成してはいませんでした。
 この点において、確かに同性愛文化の発明のことを語らなければなりません。
 私が同じく異性愛文化の発明のことを考えることになったのは、これと同じ考え方によるものです。異性愛を「自然の秩序」の外に出して、「時代の秩序」、つまり歴史のなかに入れなければならないのです。

アントニオ あなたはまるで自分で新しい研究分野をつくったかのようにふるまっています。でも合州国においては、異性愛文化について多くの大学研究があります。どうしてこのことについては語らないのですか。あなたの研究はどのような新しい寄与をもたらすのですか。

LGT 合州国には異性愛に関する研究がいくつか(多くはありません)ありますが、これは一般的にフェミニストの枠組み、レズビアンの潮流、あるいはクウィアー[おかま]の運動が先導するものです。研究の末尾で、私はかなり広く引用しています。
 反対に、私の考えでは、この異性愛文化の歴史そのものについての研究、中世における発生から、この時代以来の変遷についての研究はありませんでした。
 私がしようとしているのはこの仕事です。

カティア あなたの歴史家という肩書は、「市民」としての社会参加と両立しうるものでしょうか。

LGT そう思います。歴史は我々の市民性と同じ基盤をもつ科目です。
 これはおもしろいことだと思います。同性愛について研究していたころ、ゲイとレズビアンの闘士としての社会参加と私の研究は両立しうるものか聞かれることがありました。
 今私は異性愛について研究しているのに、この質問がされるのは興味深いことだと思いますが、この質問については感謝します。まじめな話に戻りますと、この分野におけるあらゆる研究は、他の多くの研究と同じく、それが明白なものであろうとそうでなかろうと、事実上社会参加を想定するものです。
 変化のために闘うものもいれば、恒常状態のために闘うものもいます。
 お読みになっていただければわかると思いますが、この研究のなかでは、私はさほどこれこれのことのために闘うということはしていなくて、それはたとえば数年前に私が発表した『同性愛恐怖事典』(Dictionnaire de l'homophobie, PUF)のなかで私に可能であった闘いとはちがいます。
 今回私は闘おうとしているのではなくて、むしろ「自然」の観念を脱構築しようとしているのです。この場合闘うのはばかげたことでしょう。明白性の蔭に逆説を、逆接の蔭に明白性を出現させるのは、人文科学の仕事だと私は思います。

Jルイ 「同性愛恐怖」の概念が事態を逆転させたと私は思います。まだ西洋文化は異性愛的なものとして同定されるとあなたはお思いですか。[フランスにおいては、「同性愛恐怖」(homophobe)のレッテルは、人種差別主義者のレッテルと同様に、ある種の社会的な制裁をひきつけうるものである。]

LGT もちろん同性愛恐怖という用語は事態を逆転させました。おっしゃるとおりです。
 もはや私には「私の同性愛」を正当化する必要がなく、同性愛を恐れるひとがその同性愛恐怖を正当化しなければならないと要求されています。
 この認識論的であると同時に政治的な逆転の結果は、まだ十全に判定されていません。こういう理由もあって、私は「世界の同性愛恐怖と闘う日」を提案したのです。
 なおかつ西洋文明はまだ大いに異性愛的なものとして同定可能だと私は思っています。これは問題ではありませんが、西洋文明は大いに異性愛原理主義的でもあり、これはより腹立たしいことです。
 確かにフェミニズムとLGBT運動(レズビアン、ゲイ、バイ、トランス)は、支配的な規範を疑問に付しました。たとえば、個人の性的傾向と種の再生産の間の関係はかなりゆるいものになりました。だからといって、私たちの社会が幅広く異性愛原理主義的な性格をもっていることを否定できると私は思いません。

[問答をひとつ省略]

アンリカルド どうして挑発的な問いに惹きつけられるひとがいるのでしょうか。

 それは挑発が思考を強いるからです。異性愛に関しては、これは一般的なひとの世界観であって、その結果盲点なので、どんなに素朴なものであっても、あらゆる問いが必然的に単なる挑発以外の何ものでもないと思われてしまうのです。このこと自体は気づいてみるとおもしろいものです。望むと望まないとにかかわらず、挑発の効果を生むことなしに、異性愛を疑問に付すことはできません。
 でも研究者や知識人の目的は、まさしく普通のひとはしない問いかけをすること、一般のひとにはみえないものを見せることなのです。

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2008年11月4日火曜日

第二次南北戦争?

 残念ながらランディ・ニューマンの新作はまだ聴いていないのですが、ランディ・ニューマンは後回しということではなく、最近CDをまったく買っていないのです。
 1972年のランディ・ニューマンの歌「政治学」の歌詞です。おまけブログの前の記事とだぶるけど、まあ問題ないでしょう。

政治学

俺たちはみんなに嫌われる。どうしてなんだろう。
俺たちも完全ではないだろうけど、俺たちが努力していることは神様が知っている。
なのに世界中でむかしからの友だちにさえこきおろされる。
ドカーンと一発落としてやったらどうなることかな。

奴らにお金はやった。でも奴らは感謝しているのか。
いいや、奴らは意地が悪くて憎たらしい。
俺たちのことを尊敬していない。だったらびっくりさせてやろう。
ドカーンと一発落として、粉々にしてやろう。

アジアはひとが多すぎで、ヨーロッパは古すぎ。
アフリカは暑すぎで
カナダは寒すぎ。
ラテンアメリカは俺たちの名前を盗んだ。
ドカーンと一発落とせば
もう俺たちのことを責めるやつはいなくなる。

オーストラリアはとっておこう。
カンガルーを傷つけたくはないからな。
全米アミューズメントパークをつくって
サーフィンで楽しませてやろう。

ロンドン、ドカーン、パリ、ドカーン。
きみと俺の居場所がもっと増える。
世界中のあらゆる町が
アメリカの町になる。
ああ、何と平和な世界になるだろう。
みんなを自由にしてやるのだ。
きみは日本の着物を着て、
俺にはイタリアの靴が用意されている。

でも結局奴らは俺たちのことが嫌いなのだ。
だからドカーンと一発落としてやろう。
ドカーンと一発落としてやろう。

 1972年の歌なのにブッシュの心情を言い当てるとは、ランディ・ニューマンは予言者か、と思ってしまいますね。全然ちがうのに、なぜかランディ・ニューマンと比べられることの多かったウォーレン・ジヴォン(合掌)の「使節を送れ」という歌も、1982年の歌なのに21世紀の世界情勢を歌っています(あきれるほどに時代が変わっていないだけの話か)。
 1974年のランディ・ニューマンの歌には「どん百姓」というものがあります。

どん百姓

ゆうべテレビでレスター・マドックスを見た
何だか皮肉っぽいニューヨークのユダ公も出ていた
ユダ公はレスター・マドックスのことを笑い
観客もレスター・マドックスのことを笑った
確かに彼は道化なのかもしれないが、私たちの道化なのだ
このひとたちが自分は彼よりもいい人間だと思っているのならそれはまちがいだ
それで私は紙をもって公園に行き
そこでこの歌をつくりました

ここでは俺たちゃしゃべくってりゃ楽しいし、飲みすぎででかい声で話す
俺たちは頭が悪すぎて、北部の町ではこんなことはできないな
それに俺たちは黒んぼのことを踏みつけにしつづけているのだ

テキサスの首がないガソリンスタンドの男
テネシーの気さくなあんちゃん
ルイジアナ州立大学の学生
入学したときはばかだったが卒業してもばかだった
アトランタあたりでワニ革の靴で騒いで
週末はいつもバーベキューで酔っぱらい
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
ケツの穴と地面に掘った穴の区別もつきやしない
俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

北部の方では今やニガーはニグロなんだそうで
尊厳を獲得したらしい
ここでは俺たちゃあんまり無知なもので
北部じゃ黒んぼが自由になったということも知らなんだよ

そう、ニューヨークのハーレムでは
黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにシカゴのサウス・サイドでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
ウェスト・サイドでもそうらしい
それにクリーヴランドのハフでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それに東セントルイスでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにサンフランシスコのフィルモアでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにボストンのロクスベリーでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
何マイルも離れたところで黒んぼを集めて
やつらは黒んぼを踏みつけにしつづけているのだ

俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
ケツの穴と地面に掘った穴の区別もつきやしない
俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ
黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

 レスター・マドックスは60年代末の人種隔離政策のジョージア州知事で、「皮肉っぽいユダ公」は『ベン・ハー』の脚本で有名なゴア・ヴィダルです。ゴア・ヴィダルは米国の良識を絵に描いたようなひとだと云えるでしょう。74年にして、偽善を感じさせる「良識派」に対する反感と、「無教養な田舎もの」に対する、皮肉でありながらもやさしさを示していたこの歌はまったく例外的なものです。(今では考えられないことですが、当時はこんな歌詞の歌なのにシングルまで出ています。)
 私はマケインとオバマの闘いが人種の闘いであるとはまったく思いませんが、この「オバマニア」を見ていると、フランスの「サルコマニア」のことを思い出します。つまり「頭がいいひとにはサルコジのよさがわかる」というような雰囲気が大統領選前のフランスにはあったのです。そのまんま「裸の王様」ですが、このようなサルコマニアを正面切ってばかにしていたのは、「社会的に適切とされる表現」をあえて避けようとする傍流メディアばかりでした。
 オバマにたいする心酔にも似たような空気が感じとられます。何だかわからないけれども、まじめに社会のことを考えている頭のいい人間ならば、オバマのよさがわかってしかるべきなのです。その一方で、場末の酒場で安酒を飲んで酔っ払っている、保守的で貧乏な、気のいい下品なあんちゃんは、オバマとオバマニアに相手にされていないような気がします。
 Causeur.fr にフランス語訳が載っていた記事に、フィリス・チェスラーというひとの書いた「選挙前の心身症的ヒステリア」(リンクは英語のオリジナルの方ですが、私はフランス語訳の方しか読んでいません)というものがあります。この記事によると、イスラム学者のフワッド・アジャーミさんは、エリアス・カネッティを引き合いに出しながら、米国のオバマ支持者は、ますますアラブ世界の群衆のように行動していると考えています。すなわち指導者に対する熱烈な情熱と盲信をもって行動しているのです。落ち着きと良識を失って、神秘的な脱自の状態にある陶酔したセクト信者のように行動する何百万人もの米国人に対して、チェスラーさんは不安を抱いています。
 チェスラーさんの友人も例外ではありません。彼女の友人であるエリカ・ジョング(『飛ぶのが怖い』でおなじみ、といっても今やだれも読みませんかね)は、もしオバマが当選しなかったら、第二次南北戦争が起こるのではないか、と思って、怖くて夜も眠れないのだそうです。ジェイン・フォンダも同じように、「共和党が卑劣な選挙妨害をして、第二次南北戦争が起こる」という不安で、一晩中泣いてばかりいたのだそうです。エリカ・ジョングは、ブッシュがイラクから兵を呼び戻したのは、オバマが落選したことに抗議する人々の鎮圧のためなのではないか、ということも云ったのだそうです。
 オバマもマケインも熱心に支持していない冷静なチェスラーさんは、こういう意見から距離を置いて、この記事のなかで、「19世紀の三流小説から出てきた哀れなヒステリー女のようなふるまい」をしないように友人をなだめています。
 エリカ・ジョングのようなインテリ層はオバマを支持していますが、そのインテリ層がオバマが負けたことを想定したときには、「不正に行われた選挙に対して平和的なデモをする都会的なオバマ支持者」を「すぐに袖をまくりあげる無教養な田舎のむくつけき男の親玉であるブッシュ&チェニーとその軍隊」が弾圧することが想像されてしまうのです。実際に第二次南北戦争が起こることはまずありえないでしょうが、「良識派の群衆」と「無教養な群衆」の対立は、現代の社会において実に典型的な対立です。それでも「良識派の群衆」は、「無教養な群衆」と同じように群衆として行動するのですが。
 だいたいチェスラーさんもマケイン支持者の側には、まるでメシアをまつりあげているかのようなオバマ支持者のような熱狂はないと云っています。「無教養な群衆に支えられた共和党は、国民に対する軍事弾圧も辞さない」というエリカ・ジョングのようなひとの「想像力」こそが、この場合は有害なものだと云えるのではないでしょうか。インテリ層がそこに見たいと思う「けんかっぱやい無教養な群衆」と、マケイン候補とその支持者のイメージは、いかに遠いことでしょうか。

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2008年11月1日土曜日

オバマの支持してますか

 フランスのブログで私がよく読むものに CulturalGangBang (略してCGB)というものがあります。題名通り品の悪いブログではありますが、品の悪いインテリさん(複数)のブログで、非常に私の好みであります。気づかなかったけど、きっと複数でやってるからギャングバングなんだろね。おちゃらけジャーナリスト(ギー・ビランボーム)と極右マッチョ(アラン・ソラル)の両方にリンクが張ってあるという、わけのわからないブログです。キャッチコピーは「文化は民衆の阿片である」って、案外ひねりがないんでしょ。「2008年反動ブログ金賞」だそうです(笑)。
 この前「フランスの困ったひと」という記事で書いた、エリック・ゼムールさんと「ドンキホーテの子供たち」の代表のオーギュスタン・ルグラン(俳優)の衝突についての記事がなかなかおもしろいので、フランス語とフランスの現状がまあまあわかるひとは読んでみたらいかが。(おもしろいブログだが、間口は結構狭い。)
 さて、この記事の内容は各自に確認していただくとして、ここで話題にしたいのは、このブログのおまけについているアンケートです。質問は、「あなたも熱心にオバマを支持していますが、その理由は何ですか」というものです。選択肢は以下のとおり。
  • オバマは死刑制度を支持しているから。
  • オバマは同性愛者同志の結婚に反対だから。
  • オバマは武器の自由な流通に賛成だから。
  • オバマは移民の停止に賛成だから。
  • オバマはパキスタンを攻撃するつもりで、イランを攻撃すると脅迫しているから。
  • オバマはイスラエルを支持し、イスラエルに武器を売ることを支持し、イェルサレムは不可分であると云ったから。
  • オバマは二言ごとに神に感謝するから
  • あなたは死刑に反対で、同性愛者同士の結婚に賛成で、武器に反対で、移民に賛成で、反戦主義者で、パレスチナ支持で、無神論者で…正直云ってちょっとばかじゃないの。
 正直なところ、どうしてみんなオバマが好きなのか、私にもよくわかりません。

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