2008年10月31日金曜日

論理の破綻を気にしない人々

 今朝テレビを見ていたら「俳優の清水健太郎容疑者が…」と云って速報としてニュースをはじめていました。まだ事件の話をしていないのに、最初から「容疑者」と呼ぶのは、ニュースを伝える側には理解できる理屈だとしても、ニュースを聞く側を面喰らわせることです。
 
日本のメディアに独特の言語のなかで非常に気になるのが、それが自分たちの業界内のしきたりだけにのっとっていて、情報の受け手のことをまったく考えてい
ないということです。テレビの視聴者には、事件の情報が伝えられてはじめて「容疑者」ということばが意味をもつ、程度の論理は理解できるはずだと思うので
すが、このような単純なことすら無視するのです。
 ひとりひとりが自分の責任においてことばを云う、程度のことを、どうしてメディアにすら徹底す
ることができないのでしょうか。なぜ日本のメディアには啓蒙しようという意欲がなく、行政機関の無責任を批判しつつ、自らの構成員も似たような無責任のな
かにとどまることを好むのでしょうか。「自分のことばは自分で責任をとる」程度のことは、メディアやプレスが率先して示すべきなのではないでしょうか。
「私のことばは、私には何ものなのかわからない権力の検閲の痕跡を既にとどめている」という隠されたメッセージを、メディアがみずから嬉々として発するこ
とのなかには非常に大きな問題があるのに、この問題に対してまったく無自覚なのでしょうか。

 もしどうしても「容疑者」とつけなければならないというのなら、のっけから「俳優の清水健太郎容疑者が…」と云って面喰らわせるのではなく、記事の構成を変えればいいのです。最初から「容疑者」とつけることのなかには、「本来は呼び捨てでいいはずなのに、むりやりこのことばをつけさせられている」という意識が見え隠れして、聞く側としては非常に居心地が悪いのです。もっとも「清水健太郎容疑者」というのは「アホの坂田」のようなもので、テレビのひとにとっ
ては「清水健太郎」と「容疑者」がくっついているのかもしれませんが、それならそうとわかるようなふざけた調子で伝えてほしいものです。(ピーター・
フォーク、ピーター・セラーズ、トルーマン・カポーティ(!)出演の映画『名探偵登場』(Murder by death)でアレック・ギネス演じる「名前に挨拶がついている」執事「ジェイムズサー・ベンソンマム(Jamesir Bensonmum)」を思い出します。)
 
事件の話をまだしていないのに「容疑者」ということばを発するのはナンセンスだ、ということよりも、「破綻」の「綻」は常用漢字にないから「破たん」と書
くとか、これからは「依存」を「いそん」と読むことにしようとか、字幕でラ抜きことばを「ラつき」に戻すとか、そういうことの方が気になる人々というの
は、私には非常に不思議な人間に思えます。万人に共通の論理よりも、日々書き換えられる仲間うちの「しきたり」の方が大切だということなのでしょうか。
「こっちに来いよ」という気がします。メディアのことばがこっちに来ていないなんて、本来ならば、本当にとんでもない話なんだけどな。

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2008年10月27日月曜日

フランスの困ったひと

 しばらく前からフランス2の土曜深夜の番組で「とてもだめなコメンテイター」と呼ばれているひとがいて、少し気になっていたのですが、DailyMotion でその姿を見ました。「ドンキホーテの子供たち」という非定住者(宿なし)を支援するグループの代表者(俳優)らがこのコメンテイターに喰ってかかっているのですが、どうもこれだけ見ると、激昂しているひと(世間的には善玉)にとってはこのだめなひと(世間的には悪役)はともかく最初からだめだからだめなんだろうな、という気がします。それでいったいこのような扱いを受けるひとはどういうひとなのだろうと思ってウィキペディアを見ました。以前に友人が「反フェミニストの男がボーヴォワールに対抗しようと『第一の性』という本を書いている」という話を困った顔でしていたが、私もそれを聞いて「それは困ったな」と思い、「それは本当にだめだな」と反射的に答えたものです。同一人物なのですね。
 このひとはエリック・ゼムールというひと。『第一の性』は『女になりたがる男たち』という題名で日本語訳が出ているそうです。読んでないけどさあ、フランスの本の翻訳数が少ないなかで、そんなもん、出す必要あんの? しかも翻訳者は女性だって。「こんなひどいものがありますぜ」といって訳したんでしょうか。しかし新潮社というのは「こんなひどいものがありますぜ」という本を出版するほど暇なのか。謎です。まあ、女が反フェミニズムの本をおもしろがって訳したのだとしたら、いかにも日本日本していてまたピーター・バラカンが喜ぶな。私も暇なのであえて困ったひとの紹介をしてみます。
 仏版ウィキペディアの記事を使って情報をピックアップします。あくまでイメージの話、このひとはだめだと思われているという話をしているので、「お前はこのひとの本を読んでもいないのにウィキペディアだけをねたにしてばかにするのか」とかピンぼけなことを考えないように。
 エリック・ゼムールさんはフィガロ紙に寄稿する政治評論家。自称「68年五月革命のだしをきかせた反自由主義の反動右派」だそうで、これだけでだめじゃん。
 ちょっとおもしろいのが、極右政治家のジャンマリー・ルペンがこのひとのことをエリザベート・レヴィとセルジュ・モアティとともに「自分に対して適切な態度をとる数少ないジャーナリスト」のなかに数えているということです。ゼムールさんは、「以前にルペンがジャーナリストを批判したときにその相手はユダヤ人ばっかりだったが、2002年にルペンが名前を挙げた三人も全員ユダヤ人だ」ということを指摘しています。彼によるとこれはルペンの「皮肉をこめた目くばせ」だということです。(エリザベート・レヴィは私は好きだし、セルジュ・モアティもときどき変だが評価しています。ふたりとも全然反動ではありません。)
 ちなみにルペンがむかし批判した政治評論家のなかで有名なのが、ジャンピエール・エルカバッシュというひと。このひと、まだ気を吐いておりますが、ルペンに批判されたことよりは、むかしの共産党書記長のジョルジュ・マルシェが Taisez-vous, Elkabbach, taisez-vous! (「黙れ、エルカバッシュ!」)と怒鳴りつけたことで有名ですかね。(しかしこれ、多くのコメディアンがほぼ30年がたとうとしているのにいまだに語りぐさにしているのだが、実際にはこうやって怒鳴りつけたことはなかったらしい。) エルカバッシュはラジオ局ヨーロッパ1の局長でしたが、パスカル・スヴランという有名な歌手が死ぬ前に死亡記事をラジオで流してしまった責任をとって今年の6月に辞任しています。
 さて、エリック・ゼムールさんはドゴール主義者、ナポレオン信奉者であり、反自由主義の反動右派です。この「反動」は家族と伝統という社会秩序を解体する社会に対する反動です。この社会は個人を解放すると云いつつ、その実個人は疎外され、ただの消費者の地位に押し込められているのです。今は革新派が支配し、革新派が今や秩序そのものであるのだから、革新派には秩序を批判することはできないとゼムールさんは考えます。今や反動勢力こそが反権力なのです!(パチパチパチ) ゼムールさんはフランス社会とはまったく両立できない欧州の連邦主義に反対します。
 ゼムールさんはまた自称「反人権主義者」でもあります(喜べ、日本人!)。ベルナール・クーシュネール、ベルナール・アンリ・レヴィ(BHL)らと人権団体を批判し(喜べ、日本人!)、彼らの掲げる人権の名における干渉の権利は新植民地主義であると断じます。(クーシュネールやBHLの名を挙げてこういうことを云うのであれば、確かにそこには一理あると云わざるをえないのが、ゼムールさんの困ったひとたるゆえん。でも人権主義を掲げるひとの方法論はクーシュネールとBHLだけが代表しているのではないのだよ。この「干渉」に関しては、クーシュネールやBHLの「西欧の人権が唯一の真実」なひととこういうゼムールさんみたいなひとの意見のどちらをとるかって、究極の選択みたいなところもあるか。)
 移民問題に関しては、ゼムールさんは「同化」(assimilation)の伝統の支持者です。以前も書きましたが、フランス政府が移民に対して正式に求めるのは「社会にとけこむこと」(intégration)であって、ゼムールさんのような反動主義者が求めるような「同化」ではありません(いいですか、朝日さんとこのまずい訳語[intégration 同化]をもとにしてフランスの移民政策を批判するひと!)。現代社会の反人種差別とフェミニズムは、「フランスと西欧の自称エリート」の「良識派(bien-pensants)の主張」であり、人民はまったく同意していないのです(喜べ…)。こういう困ったひとが困ったひとであるのは、むかしながらの移民の「同化」を拒絶すると、それは「人種隔離」につながる、と何だか理屈が合ってるんだかどうだかわかんないようなことを云うことなのね。(でも「同化」しなくったって必然的に「混血」はあるんだけどね。) このままいくと億万長者が増えて中流階級が貧困化するという「ブラジル化」がフランスを待ち受けているとゼムールさんは警鐘を鳴らします。
 『第一の性』(変な邦題は無視)においては、21世紀はじめの社会では男が去勢を望んでいるのだと云います。フェミニズムによる去勢は、「権威の概念の喪失」という、社会にとって有害な結果を導き出しました。「フェミニズムはあらゆる『イズム』で終わることばのように、全体主義をうちに抱えている」とゼムールさんは主張します(パチパチパチ)。(こういう一節が出てくるだけで、「ひどい本がありまっせ」ということだとしても、邦訳を出すのはどういうものかという気がしますね、新潮社さんよ。) 「女は男と同じ性の自由を要求したが、また元に戻った。女はロマンチックな夢にしがみつき、ちょっとした浮気も許さない。女には男になることができなかったから、男を女にしなければならないのだ。」 典型的な詭弁ですね。いきなり最後に深淵を飛び越えるジャンプをしてしまうという。ゼムールさんによれば、フェミニズムを弁護する男性は Politiquement correcte (英語では politically correct)を振り回しているのであり、フランスの社会史とフロイトの業績を否定しているのだ。同様にゼムールさんは、「男を女にするもの」として、「ゲイのイデオロギー」も拒絶します。
 このウィキペディアの記事を読むと、良識派左派を代表する「ドンキホーテの子供たち」の人々が喰ってかかっているのも理解できます。(わたしゃ別に「ドンキホーテの子供たち」の活動に両手を挙げて賛成しちゃいないし、それがゼムールだから喰ってかかるのがいいことだとも思っていないよ。) それにしても、日本でも「正論」と思うひとがたくさんいるんでしょうかね。まあ、今や日本語では「正論」ということばの響きそのものが反動的か。「フェミニズムを弁護する男性はPCだ」とか、議論のしかたが徹くん風。
 男性原理を云うのは自由だけれども、それを『第一の性』というボーヴォワールへの反動の形でしか云えないのがだめなんだよ。現代フェミニズム以前から存在する伝統の価値を云うのなら、反動としてではなくそれを主張しなさい。
 2002年の大統領選では、ゼムールはジャンピエール・シュヴェンヌマンを支持していたというのがおもしろいことだと思います。仏社会党の設立者のひとりでもあるシュヴェンヌマンは一応左派ですが、2000年に社会党を離党しています。2002年の選挙ではマリアンヌ紙のジャンフランソワ・カーンや著述家レジス・ドブレーの支持を得ました。2007年の大統領選には出馬せずに、社会党の候補セゴレーヌ・ロワイヤルを支持していました。ゼムールは自分では伝統を重んじる右派であると主張しても、五月革命のだしがきいているので、きっと伝統的な右派に受け入れられているわけではないでしょう。その結果、実際の政治的な立場としては、不透明な中道のあたりをさまよっているのでしょう。私自身、不透明な中道のあたりをさまよっているので、その辺がおもしろいと思います。私が支持する「革命的中道」のジャーナリスト、ジャンフランソワ・カーン(JFK)やエリザベート・レヴィの裏側に張りついている変なものとして、「五月革命のだしをきかせた反動右派」エリック・ゼムールのようなひとは存在するのかなあ、とも思います。(親しみを表明しているのではありません。) そういや、モンペリエのジョルジュ・フレッシュというひとも、失言のせいで社会党から離党を余儀なくされて、そろそろ復党が許されるかというところ(まだ復党はしていないはず)だが、このひとも「社会党なのに云うことがルペンみたい」なんだよ。ゼムールさんとちょっとイメージが似たような感じかな。そんな比較をしたらフレッシュがかわいそうなのか、ゼムールがかわいそうなのか、よくわからない。私、このゼムールというひとは、旧共産党で現在は極右のばかアンチフェミニスト、アラン・ソラルのソフト版なんじゃないかな、という気がしました、何となく。こういうわけのわかんないのは世界的な流行りなのかな。
 ちなみに、Kahn, Lévy, Zemmour は全部ユダヤ系だが、シュヴェンヌマン(Chevènement)という苗字は、実はもともと Schweinmann というユダヤ人の苗字なのにフランス風につづりを変えたのだという話を読んだことがあります。テレラマ誌への読者への投書に書いてあったことなので、本当かどうかはわかりません。私は投票権があったら2002年の時点でバイルーかなあと云っていましたが。JFKは2007年にはバイルーを支持し、今度はバイルーの政党の「モデム」から欧州議会に立候補します。

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2008年10月24日金曜日

困った意見

 「世に倦む日日」というブログで、一週間ばかり前に「十年前の右側の説得力」なる記事が発表されています。本当は題名には都知事慎ちゃんのフルネイムと著書の題名が前半についているのだが、省略。前半は慎ちゃんの話をしています。後半になって、十年前は右派のひとの方が社会をしっかり認識していて、「左側(岩波系)のアカデミー」は「脱構築主義の神への奉仕」に夢中だったと云われています。ばかばかしいんだけど引用します。(このひとが右か左かということに私は関心がありません。)
 彼らの関心は一にも二にも脱構築であり、アカデミーを脱構築教の神殿にして浄めることであり、「近代知の解体脱構築」のために血道を上げ、だから、米国資本による侵略や新自由主義の跳梁には何の痛痒も感じることはなかったのだ。ジェンダーとマイノリティと言っていれば、それで日本社会の問題は全てかたづいた。国民大衆が左側のアカデミーの言論能力を疑い、左側の社会科学の説得力を疑ったのは無理もない。左側は経済や国民の生活に関心が無かった。
 「左翼は社会に無関心だった」「脱構築アカデミーの罪は本当に大きい」のだそうです。ジェンダーとマイノリティと脱構築とどういう関係があるのか、私にはよくわからないなあ。
 何だかコンプレックスのにおいがぷんぷんするんだけど、それはいいとして、こういう文章が困るのがなぜかというと、たとえば
1. ここでアカデミーと呼ばれているのが大学を中心とした知の場であるとしたら、たとえ社会科学の分野だとしても、その使命はいささかも社会参加にはないし、社会参加をしないからと云ってまったく責められるべき理由がない。
2. 最先端とされるものに飛びついて、わけもわからず、まったくその本質をとらえることもできていないのに、言辞を弄する人間がいるのは常のことであり、それは別に「脱構築」にかぎったことでもなければ、左派にかぎったことでもない。(ただしこの記事のなかで名前が挙げられている山之内靖らの学者に関しては、そもそもどこが「脱構築」なのかわからないし、まったく「思想おたく」ではないと思います。)
3. アカデミーの研究は非常に長いスパンにおいて影響を及ぼすものだろうが、ここで地道な研究をしているひとのことを世間の言説が問題にしないからといって、彼らが存在しないわけではないし、彼らの仕事に意味がないわけでもない。
 からです。
 シュルレアリスムの言説が及ぼす眩惑的な効果にナチスドイツが注目して、それを分析して利用したというのことが知られています。十年前の日本で一部の右派が一部の左派の流行りのわけのわからぬ言説を分析して利用したかどうかは知りませんが、大戦間の時代と同様、同じわけのわからぬことばでも、右派のわけのわからぬことばの方がひとには説得力をもって聞こえたということでしかないのではないでしょうか。右派の方が心をつかむのがうまかったからと云って、それは左派がだめだったということを意味しません。まあ、98年にはもう日本にいなかったのでわかりません、と逃げる。(この文章のなかでは「脱構築はわけがわからない」とは云っていないのかもしれませんが、これを宗教にたとえるのはそういう意味だと解釈しました。)
 「左の脱構築主義と右の新自由主義はみごとに癒着した」というのは、きっとそのとおりなのだろうけれども、ここで問題になっているのは、実は脱構築というのが何の話かよくわからなかった、その倫理的な意味を消化できなかった腰の座っていない左の話でしょ? 何も左派の話をするときに覚悟のない左派のことをあげつらわなくてもいいんじゃないの? (まあ、覚悟のない左派のことをあげつらうのがこのひとの目的なのでしょうが。)
 日本で脱構築の話をするときにはだれの名前が思い浮かぶのでしょうか。もしジャック・デリダだとすれば、日本におけるデリダブームは、実はアメリカ経由でやってきたものだということを忘れてはいけません。フランス人の若手著述家(38歳)のフランソワ・キュセは、90年代末にニューヨークで出版関係の仕事をしていたときに、ワインガイドやホテルガイドの著作権よりも、デリダやドゥルーズの著作権の方が人気であることに驚いたそうです。このようなフランス思想に対する心酔は米国左派独自のものであり、フランス人には実感できないものであるというのが事実です。脱構築思想として日本に渡ってきたものは、すでに米国人がわけのわからないものとして祭り上げたものの刻印を捺されています。(80年代前半にはスクリッティ・ポリッティが「ジャック・デリダ」という歌を歌っていましたが、あれは英国です。) それに英訳や日本語訳がわけがわからないからといって、それはデリダがわけのわからないことを書いていたということではありません。(そういう時期がないとは云いませんが。) デリダは(私から見ると)腰の据わった左派ですが、それをありがたがった米国人には軽薄な左派が多かったのかもしれません。だから米国の方から来た、既に倫理的な根拠を軽くされてしまった脱構築なら、そもそも新自由主義と結びつく契機を抱えていたのかもしれません。だいたいフランスでは「脱構築」なんて流行ったことがないでしょう。(ポール・ド・マンに関しては、正直なところだれも読んでないんじゃないかな、と思う。読んでないんなら功罪もないよな。ポール・ド・マンやデリダのような深いテキスト読解能力を要求する「脱構築」は本来流行りようがないものです。これがいかに社会科学に応用されているのかについては、私は知りません。[註])
 どちらにしろ、わかっていないひとがわかっていないままで書いているものを読んで「脱構築とはこういうものか」と思うのは筋違いでしょう。衒学的な言説の罠にはまっているものは醜悪であるというのはいつの時代だって変わらないことだろうし、そういうものが目についたからといって、それをアカデミーの代表として考えるのはまちがっているでしょう。そもそも20世紀(と21世紀)の現存の著述家の思想に飛びつくのは、「アカデミー」としてはまったくの邪道ですよ。(「方法論」に関してはこういう軽薄さが存在することは否めないかもしれません。だから社会科学の分野で、どういうものかはわからないけれども、脱構築の方法論が流行ったということはあるのかもしれません。) デリダはすぐれた哲学者だが、すぐれた哲学者をアカデミーがすぐにもてはやす必要があるかといえば、それはまったくありません。むしろ現存の著述家をもてはやすことに何の疑問も感じないひとが、知の資本主義化に加担しているのです。アカデミーの目的は集積された知の伝達であり、本を売ることではありません。このブログの書き手には「日本のアカデミーは脱構築がはやったら脱構築一色に染まるほどに軽薄なものではない」ということがみえていないということが、読者にはわからないということがありうるでしょう。読者がそれに気づけばいいのだけれども、納得してしまう読者もいるだろうと考えると、困ったものだと云わざるをえません。
 フランスの流行の哲学者にミシェル・オンフレーというひとがいますが、このひとの『無神学概論』という本が2005年にベストセラーになりました。私はこれ、ぱらぱらと見ただけで書いてあることにげんなりして読んでいないのだが、この時期に「こんなもん読むくらいなら、こういうものがあるんでっせ」とごくごく一部の気むずかしいひとの間で話題になったのが、2000年に出ていたミシェル・ゲランの『慈悲心・無神論によるキリスト教の弁護』という本。これはなかなかおもしろい本だったんだけど、ミシェル・ゲランなんて一般人はだれも知らないし、彼の書いている本は世のなかに何の波及力をもちません。しかし私のようなまじめな無神論者からすれば「何云ってるの?」というようなオンフレーの無神論が世のなかではもてはやされるのです。でももてはやされないからといってゲランのことを責めるひとはどこにもいないでしょうね。そもそもゲランは大学で教えているけれども、オンフレーは在野です。アカデミーの世界に属するひとの方が世間では知られていないのですが、ここには何も驚くべきことはないでしょう。
 しかしこの「世に倦む日日」というブログの書き手なのですけれども、「ジェンダーとマイノリティと言っていれば、それで日本社会の問題は全てかたづいた」とお書きなのですが、まじめな学者が本当にそんな風に考えているものだと思っているのでしょうか。こういう人間不信のようなものはあまり高貴なものだとは思えません。学者のなかには確かに「私はこんなに物知りだ」と云っているだけのひともいるでしょうが(そういうひとの研究だって決してむだなものではありません)、もっとまじめに倫理的な目的をもって研究しているひとだっていくらでもいるでしょう。もっと人間を信じてみたらいかが、と思うのだけれども、まあ、本当に世に倦んでいるのなら云ってもむだか。
 これはどことなくひとをだまそうとしている文章なのではないかという気がしました。「困った意見」なのか、それとももっとひどいものなのか、どちらでしょうか。「脱構築」コンプレックスがあるから、何でも「脱構築」と呼んでみたのかな。

註 ポール・ド・マンはラフォンテーヌの『寓話』のなかに「聞いた話だが」というようなことばが頻発することに注目して、ラフォンテーヌは、この距離化によって、この作品のなかには自分の意見を書いていないということを云います。私からすれば(というよりはむしろ、ひとが「脱構築の方法論」と呼ぶらしいもので私に理解できるのは)、脱構築の方法論とは、この例や、デリダの『拍車』における「ニーチェの全作品が『私は傘を忘れた』と同じレベルのことばだったらどうなるか」という議論に典型的に見られるものなので、これが社会科学にどう応用されるのかがよくわかりません。

P.S. ファイアーフォックスの zotero というアドオンの機能紹介ヴィデオを見ると、米国人のデリダに対する心酔の程度がわかります。私は結構笑った。フランスではまずありえません。
 全然関係ないんだが、レジデンツのベスト盤(笑)『ペッティング・ズー』のCDケイスの裏には、「このCDをテーブルの上に置いておくと、あなたは趣味の広い知的な人間だと思われます」と書いてあります。きっと米国の一部では、本棚にデリダを並べると知的だということがあるのでしょう。レジデンツはむかしのはあまりピンとこないんだが、『ウォームウッド』以来結構ファンなのよ。ロックって感じがする。

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「津軽弁の日」に行ってきました

 10月23日は方言詩人高木恭造先生の命日にあたり、毎年「津軽弁の日」が催されています。一般公募した詩、俳句、短歌、川柳、体験談の入選作が野津こうへいや伊奈かっぺいらの地元タレントにより披露され、表彰されます。賞としては、高木恭造賞と牧良介賞があります。
 昨日の「津軽弁の日」は第21回にあたりましたが、郷土愛などとまったく無縁の私は初めて見に行きました(見に行ったからって郷土愛が突然わいたりはしませんよ)。第一部は落語家の立川談笑が「金明竹」の大阪弁の口上を津軽弁に変えたものを披露しました。東京生まれで津軽弁はまったくわからないそうですが、お父さんは五所川原出身だそうです。骨董屋の「専門用語」ばかりの大阪弁の早口のことづてがまったくちんぷんかんぷんである「金明竹」を知らないだろうお客さんは、「よそもの」が津軽弁をねたにして話すところが何を云っているのか全然わからないので、野次を飛ばしていました。ちょっとお気の毒ではありますが、たぶん談笑さんとしてもそのくらいは織り込みずみだったと思います。フジテレビの朝の番組には出演しているけれども、青森にはフジテレビネット局がないので無力であるということを自虐的に語りつつ、16年前からやっているこの題目をようやく「里帰り」させることができたと感慨深げに話していました。談笑さんをこの催しに呼んだ伊奈かっぺいさん自身が「談笑さんは落語のなかで東北弁を使うということは読んだことがあったが、どこにもそれが津軽弁だとは書いていなかった」ので、今年立川一門会を見るまで知らなかったとのことですから、案外知らないひとが多いのでしょう。
 第二部が公募作品の披露となったのですが、ここでの地元タレントのアドリブの猥雑な感覚は、ずいぶんフランス人の gauloiseries と通じるのではないかと思いました。この単語は何と訳したものかわかりません。フランスのマスコミで日本人の syndrome de Paris というばかばかしいものがちょっと話題になったときに、「日本人はあこがれを抱いてフランスにやってくるが、フランスの現実があまりにそのあこがれとちがっていて、特にフランス人の gauloiseries のせいで精神に変調をきたす」とからかいまじりで紹介されていました。ゴール(ガリア)の地に特有の気楽で下品で猥雑(むしろ猥褻か)な感じということでしょうか。お上品な日本人がお上品なフランスにあこがれて海を渡ると、そんなばかばかしい病気になってしまうのでしょうが、私はそもそもこういった猥雑さ、悪趣味な冗談には慣れているので、フランス人気質には何のショックも受けませんでした。俺の国かと思ったよ。フランス人にはしばしば「おまえは gaulois だ」と云われたのだが、これは日本で云うと、日本人が外国人に「お前には大和魂がある」と云うようなものか(本当かよ)。
 昨日は会場で52ペイジのパンフレットが無料配布されていましたが、ここに「津軽弁の会」をはじめるきっかけとなった地方紙東奥日報明鏡欄への投稿とそれにつづく論争が紹介されています。論争の口火を切った投稿は「青森に転勤してきて」と題されています。掲載日は1987年4月20日ということです。
 東京から転勤して来て十日目、小学校四年生の我が娘から、青森では「いい」というのを「ええ」というの?と、質問されました。夫がむりに買わされたと持ち帰った六十余市町村の宣伝雑誌の表紙に「ええ話ええ味っこ」とあります。それはちがう、いままで通りの「いい」でよいのです、と子供をたしなめた。
 いつも同じことを言って奇をてらうにわかタレントの伊奈かっぺいや、吉幾三が方言で名を売ったからとて、まねる必要はないでしょう。学校では一体どう教えるのでしょうか。市長会、町村会といえば指導機関でしょう。一言表紙裏あたりにでも方言を使ったことを書けばよかったと思いますが、関係者のご所見をぜひお伺いしたいものです。
 東京の友人から「ええ」ところに転勤したのネ。「えま」にあなたもそうなるワ、とあざけ笑いの手紙が参りました。
 東奥日報には青森県民から次々とこの投書に対する反論が寄せられました。そのなかににわかタレントの伊奈かっぺいさんからのものもありました。
 ちょっとこれは長いので全文引用はしませんが、伊奈氏はこのA子さん(仮名)が娘さんに質問されてそれをたしなめたのが残念であるということを云っています。日本語には共通語と方言があり、その数多い方言のなかで、青森では「いい」のことを「ええ」というという説明を、小学校四年生のお子さんであれば理解できるだろうと云います。「ましてお子さんからの質問であれば、共通語と方言の違いを教え、そして母子で言葉について、語らいのひとときをもつ絶好の機会だったのに」と残念がっています。「東京のあなたの友人へ『ええ所に転勤した』と、心楽しく手紙が書ける日が一日も早く来ますように。少なくとも津軽には、シとヒの区別がつかない江戸っ子を、自分のことは棚に上げて平然と小ばかにするようなひとはいませんからご心配なく」と伊奈氏は締めくくっています。
 この論争の翌年1988年10月23日に「第一回津軽弁の日」が開催されたとのことです。
 しかしこの最初の投稿は、「夫がむりに青森市町村の宣伝雑誌を買わされた」あたりに「いやだなあ」という気持ちがにじみ出ていておもしろいですね。(「ネ」や「ワ」というカタカナの使用法に高木恭造先生からの間接的な影響が…、それはないか。) 子供としてはまったく純粋な好奇心から母親に質問しているのでしょうが、その好奇心をすぐに断ち切ってしまうのが本当に残念なことだと思います。「指導機関」というものいいもいやな感じがします。この投書主にとっては、地方の指導機関は中央の指導機関の意向を徹底するものなのでしょう。もしかしたら、このようにたしなめられた記憶を娘さんは大切に保存し、地方に対する偏見をもって育ったかもしれません。
 ちょっと話は脱線します。差別的な感情は世代から世代へと受け継がれるものです。「道徳をきびしく指導しろ」と主張するひとにかぎって、いったいどういうわけか、「道徳観念は子供のなかから自然に生まれるものではないこと」を知らないふりをします。だからこそ、この自称「きびしい道徳教育」のなかで、「差別はいけない」とか「いじめはいけない」とかいった基本的なことはまったく熱心に教えないようにするのです。こういったことはしっかりと教育をすれば子供でもわかること、むしろ子供の頭にしっかりと叩きこむことができることなのに、それをやろうとしないのです。自分のなかからやさしい気持ちが湧いて出るとでも信じているのでしょうか。事実日本の子供はやさしいのはやさしいのだろうが、まったく社会的な問題に対して不感症に育っているのではないでしょうか。子供が真実を云う国では、「子供を素直に育ててあげなければならない」という口実の下で、単なる経済原則に従って教育を放棄します。いらないことを教えないで、子供が「野蛮」のなかにとどまることの方を好むのです。
 「道徳教育」を声高に叫ぶひとが本当に道徳教育のことを考えているのならいいのですが、事実はそうではなくて、せいぜい「象徴」的なことしか頭のなかにありません。偶然の一致ですが、天皇は象徴です。それでこの「象徴」のなかに「中央集権」を明確に示す日章旗もあるのです。「象徴として日章旗を教え込む教育は地方差別とまったくかかわりのないことだ」とだれに自信をもって主張できるでしょうか。道徳教育を主張するひとほど道徳を語るにふさわしくなく思えるという逆説的な状況に強い違和感を感じているひとは少なくないでしょう。道徳を叫ぶひとの一部は、奇妙なことに多様性を認めないことを特質とする彼らの道徳教育の名において、異質なものに対する差別を継承することに何の抵抗感も抱いていないのです。あんたらの「愛国心」なんぞが道徳と関係があるわけがなかろうが、どあほ。(これは私が愛国心を憎むということではありません。米国では、ランディ・ニューマンやスーフィアン・スティーヴェンズなどが愛国的な歌手だと思いますが、私は好きです。「愛国心」ということばで国民がいなくてもカプセルのなかに保存できるようなからっぽの象徴のことを考えるのか、生きている国民のことを考えるのかのちがいです。国のために命を捨てられるようなそんな国に対する愛国心ならば、そんな風にして個人の命を軽視するものは道徳とは関係がありません。国ではなくて、「隣人」ならば話は別です。グスコーブドリはこの「愛国心」の寓話ではありません。)
 道州制の導入を語るひとがいます。いいでしょう。道州制を導入したら、その道州の数だけの星か何かを図案化した国旗をつくりましょう。そうして中野重治も提案したように、標準語と方言を国語教育の一環として同時に教えるようにすればいいのです。

P.S. 直接的には関係ないですけど、昨日「報道ステーション」で、円高の影響で海外からの観光客の消費が芳しくないという話をしていました。そのなかの映像なのですけれど、「フランス人観光客」として、黒人の男性と白人の女性のカップルが映っていました。というよりも、画面に映っていて話しているのは白人女性ばかりで、黒人男性はほぼまったく映っていませんでした。これを差別だと叫ぶつもりはありません。ただこのような誤解を招きかねない映像は放映すべきではないのです。少なくともカメラをもう少し右にずらして、黒人男性もちゃんと画面に入るようにするべきです。その辺のことがわからないひとが多すぎるからこそ、真の道徳教育を徹底するべきだ、ということを私は主張するのです。

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2008年10月21日火曜日

おしゃべり!おしゃべり!

(なぜかアクセスが多いのでつけくわえておきますが、この記事はフランス語がわからないひと向けには書いておりません。ですからもしこの記事を読んだとしても、フランス語がわからないひとは性急な結論を出さないようにお願いします。左に書いてありますが、「ひとが言ったことがそのとおりだと主張するのは、狂気と虚栄心のきわみである」。)
 弁護士の小倉秀夫さんという方のブログがどうにも気になるのです。最初にお断りしておきますが、まったくこの方の意見の批判ではありません。
 このひとの日本語のブログはなぜか、ブログの機能にかかわる部分の表示がフランス語になっています。日本人を相手にしたブログで「コメントしてください」とか「このブログを購読してください」だけがフランス語になっていて何の意味があるのかなと思うのだけれども、まあ、おしゃれみたいなものか。どうしてフランス語にすればおしゃれなのかは一向にわからないけれども。
 別にこのブログにかぎったことではないのだけれども、フランス語を使えばおしゃれだと思うのはいいんだが、どうしてそのフランス語が「よくわからない代物」なのかな、というのは本当にわからない。そもそもフランス語がおかしかったら、たとえ百歩譲ってフランス語がおしゃれな言語だとしても、全然おしゃれじゃないじゃないのよ! 街角の喫茶店やお菓子屋さんだったらまだいいけど、この弁護士さんはちゃんと見識があるひとなんでしょ? 見識があって、フランスが好きなひとが、いい加減なフランス語をおしゃれに使うなんて、少なくとも僕には許せないな。フランスが好きと云いつつ、本人のつもりでは心の底からそう思いつつ、その実ばかにしている気がするから。
 まずブログの題名の la causette。これ、おかしいよね。まあ、こういうのがおかしいかおかしくないかというのはなかなかむずかしい問題なんだが、私がおかしいと思うという理由を云います。
 この単語は、新しい用語として、英語の chat (チャット)という単語の言い換え(いわばフランス語の訳語)として推奨されています。推奨されたってみんな英語風の発音で chat と云っていますが、それは別の問題です。ブログはチャットではありません。「チャット」という題名のブログがあったら変じゃないですか。ケベックでは chat にあたる新語をつくって clavardage と云っていて、私はこちらの方がお気に入りです(「キーボード」 clavier と「おしゃべり」 bavardage をくっつけたことば)。ともかくひとりで causette はできません。「おしゃべり」をフランス語にしたかったのだろうけれども、この場合は conversation 「会話」の類義語としての「おしゃべり」ではなくて、ひとりでもできる bavardage 系統の単語を用いるべきなのだと私は思います。
 日本語では「おしゃべり」はひとつの単語です。しかしこの単語には複数の意味があります。「おしゃべりなひと」というのはたくさん話すひと(あるいは口の軽いひと)のことです。しかしこういう「おしゃべりなひと」が「ひととおしゃべりするのを好むひと」であるとはかぎりません。「おしゃべり」は「冗漫な話」と「気楽な会話」の両方を意味しています。たくさん話しすぎの「おしゃべりなひと」(bavard)が自嘲気味に bavardage というブログの題名をつけることはありうるでしょう。しかし「おしゃべり好きなひと」(causeur)がサイトに causette という題名をつけるのは、おしゃべりの場を提供する場合でなければありえません。同系列の単語でもこれが causerie なら全然ブログの題名としてOKなんですよ。「文学についてのおしゃべり」は causerie littéraire です。もしこれが clavardage だと、causette と同じ「チャット」の意味だとしても、「キーを叩いてするおしゃべり」(bavardage)ということで、こんな単語をブログタイトルにつける弁護士さんがいたら、私だって「センスいいなあ」と思っちゃいますよ。(私がひとのセンスを判断するセンスがいいかどうかは別としてね。)
 「何を細かいことを云っているんだ」とお思いのひともいるでしょうが、類義語の使用に関するいい加減さは、外国語を学ぶ日本人の大きな欠点なのです。フランス語をきちんと使おうとするならば、「似ているんだからいいだろう」ではすまないのです。(適切な単語が見つからない能力不足は別の問題です。「これでいいだろう」でいい加減に決着をつけてしまうのが問題なのです。適切な単語が見つからないから、申しわけないがとりあえず暫定的に別の単語ですませるのは、私のよくやることです。) そもそもその「似ている」という感覚が日本語の発想にとらえられている場合が往々にしてあります。(この場合は、causette と bavardage はフランス語でもかけ離れているわけではありません。)
 私はときどきこのブログで causeur.fr の記事を紹介しています。この「おしゃべり好き」の情報サイトでは複数のひとが記事を書いていて、読者の参加を奨励しています。フランスの causette.com は当然 IRC のサイトです。おかしいのが、causette で検索して出てくるヴィデオが赤ちゃんばっかりなんだ(Google Video)。「おちゃべりはじめまちたよお」という感じなのでしょう。「小鳥さんもおしゃべりしてますよ」というときには causette を使えるが、当然 bavardage は使えません。童話には「おしゃべり」(bavard)な鳥が出てきますけど。(Causette は子供の喃語を意味することばではありません。それはむしろ babil です。小鳥のさえずりにもこの単語が用いられます。)
 手元の類義語辞典では、causette は conversation の類義語として、"petite causerie à bâtons rompus" 「とりとめのないちょっとしたおしゃべり」として紹介されています。決して弁舌をふるうのではなくて、ちょこちょこっと話すのです。だからこれは一回のメッセージが決して長くなることのないチャットであり、赤ちゃんのおしゃべりでもあるのでしょう。いわゆる俗語ではないですけれども、くだけた文脈のなかで使われることばです。A bâtons rompus という言い回しについては別のブログで書きましょう。この causette という単語は一種の隠語として「警察の取り調べ」の意味でも使われます。
 しかし最初に云ったように、こういうことは「絶対におかしい」とはなかなか言い切れないものです。小倉さんがこの単語が気に入ってこれをブログの題名に用いているのなら、それはそれでいいと考えることもできます。フランス人に意見を聞いてもわかれるでしょう。しかし benli というもうひとつのブログの方では、カテゴリーのところのフランス語が全滅しています。これは意見のわかれようがありません。D'autre problème de droite, L'organisation nouvalles, Sur la propriètè intellectualle... 私、実は最初のは Autres problèmes de la droite のことで「右派のその他の問題」なのかと思ったのだが、見てみると、別にそこでは右派批判をしていないので、そうでもなさそうです。第一「右派」ならどうして「その他の問題」なのかがわかりません。だからこのひとの専門を考えると、この droite 「右」は droits 「法律」のことなのでしょう。「法律のその他の問題」を云いたいのだと思います。(La causette の方でカテゴリーに loi 「法」というのがあるのですが、loi は制定されたひとつひとつの法律のことですから、総合的な概念である droits に変えた方がいいと思います。少なくとも複数形にした方がいいです。) 二番目のは Les organisations nouvelles 「新しい機関」なのでしょう(よくわかりませんが)。三番目のはなぜアクサンがひっくり返っているのかがわからないけれども、intellectualle とか nouvalle とか、el が al になるのはこのひとの癖か何かなのでしょうか。
 コメント欄のところにある Conserver mes coordonnées? 「私のアドレスと氏名を保存しますか?」というのも変ですし。これはフランス語の問題というよりも論理の問題ですね。これでは「小倉さんがアドレスをくれるんか?」と思ってしまいます。フランスのサイトではこういう場合「私」も「あなた」も両方ありえますけど、「私」なら「私のアドレスと氏名を保存します」で疑問符はつかないでしょう。(「Coordonnées をください」と云ったときに、本当は住所や電話番号がほしかったのに、メイルのアドレスだけをもらうことはあるかもしれないけれども、こちらの方で住所も電話番号も聞かないでメイルアドレスだけを求めておいて、それを coordonnées と呼ぶということはあるのだろうか。よくわかりません。)
 Les notes récentes, les commentaires récents というのは、この場合は定冠詞をとった方がいいでしょう。フランス人は英単語の濫用を嫌いますから、trackback ではなくて rétrolien の方がいいでしょう。カテゴリーの nouvelles も、おそらく actualités の方がいいのではないかと思います。もしこれは actualités だけではないのだということなら、すぐに前言を翻すようで何だが、この場合は news の方が 「短篇小説」を意味しうる nouvelles よりはわかりがいいと思います。
 こういうフランス語のまちがいは、お菓子屋さんなら「かわいい」と思っておしまいだが(うそ、うそ)、このひとは味覚を楽しませることではなくて、ことばを職業としているのだから、もう少しことばを大切にしてほしいものです。こういうのは本人に直接云いに行った方がいいのかなあ、と思ったんだけど、やっぱり「あなたのブログをまったく書き換えなさい」というのは気がひけます。本人がうれしいのにわざわざ水を差すのもなあ。その辺はお菓子屋さんといっしょですよね。まちがってますよ、なんて直接は云わない。
 でもこのひと、フランス人がいかにひとのつづりのまちがいをばかにするかを知らないし、つづりのまちがいは教育のレベルの低さを露呈するものとみなされるということが全然わかってないんだろうな。これは日本人が漢字のまちがいをばかにするのの比ではないよ。こういうフランス好きの日本人って、しあわせだなあって思うんですよ。しあわせならいいんだよね、きっと。
 気になってしょうがないので書きました。ごめんです。もし本人が通りがかることがあったら、見なかったふりをして、少なくとも恥ずかしいつづりのまちがいは直しましょう。私も直っていても気づかないふりをしますから。

P.S. あの、そんなみなさん、読んでくれなくていいんですが…。徹くんみたいなひとのために云っておきますけど、これ、悪口じゃないですからね。愛ですよ、愛。くれぐれもこれを揚げ足とりの材料に使ったりはしないように。

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2008年10月19日日曜日

『水のなかのナイフ』と『袋小路』

 ポランスキーが『ピアニスト』で完全復活したという話を聞いたときは、ずいぶん懐疑的な気分になったものです。やっぱりカンヌ映画祭に第二次世界大戦のユダヤ人迫害をテーマにした映画をもってきてほしくないなあ、というのが正直なところでした。だってどうせみんなほめることになってるんだからさ。実際見てみても、それほどいいってものでもありませんでした。確かにジョニー・デップが主演した映画あたりでは「腐ってもポランスキー」と云うのさえ慎まれたようなところはありましたが。『過去のない男』ではアキ・カウリスマキについて「やればできるんじゃない!」と思ったが、そのような感動はありませんでしたね。「ポランスキーなんだからもうちょっとがんばれ!」という気がしました。(「のび太のくせに生意気だぞ!」の反対ですかね。)
 ポランスキーのデビュー作は『水のなかのナイフ』ですが、これもまた水の印象が強烈な映画です。



Polanski - Nóż w wodzie (Knife in the water) 01

 ポランスキーでいちばん好きなのはこの映画か『袋小路』です。どちらを選ぶかはむずかしいところです。やっぱり『袋小路』かなあ、という気持ちがかなり強いのだが、どこかで「やはり『水のなかのナイフ』も捨てがたい」という声が聞こえます。
 これは『袋小路』のラストシーンです。ラストシーンだと断っているのだから、この映画を見ていないひとは「ラストシーンを見せやがって」と文句を云わないでくださいね。これ、ちょっと長いんだけど、最後の一分が圧倒的に美しい。



Cul-de-Sac/Roman Polanski,1966/take me away...

 水の上のシーンは『水のなかのナイフ』の方が圧倒的に長いのですが、奇妙なことに『袋小路』の方がずっと水際感が強いのです。この映画の満潮の場面は水マニア必見でしょう。このラストシーンでも水の上を走っていますね。
 『水のなかのナイフ』も『袋小路』もなかなかわかりにくい映画です。「これはこういう映画です」と云えないのが『水のなかのナイフ』のいちばんの魅力でしょうか。情事は女の妄想なんじゃないかと私は思います。
 『袋小路』について、「最後にどうしてこの男がアグネスと云うのかはわからないがおもしろい」と云うひとがいるのだけれども、「それじゃ何もわかっていないじゃないの」と思うのですが。この映画については諷刺とかブラックユーモアのことがよく取り沙汰されますけれども、私には滑稽さと入り混じった悲痛さがひしひしと来る感じがたまりません。あるものの悲痛は他者にとって滑稽であるというときに、私はその滑稽をしっかりと意識しながら悲痛に近づいてみたいということを思います。
 ポランスキーの処女性に関する同時期の映画『反撥』(この二作には劣るがいい映画)ではカトリーヌ・ドヌーヴが主演していますけれども、『袋小路』に出ているのは姉のフランソワーズ・ドルレアックの方です。フランソワーズ・ドルレアックが早死にしたからわからなくなってしまったけれども、もともとは姉の方がスターでした。姉が人気があったから妹が出てきたということらしいです。
 ドナルド・プレザンスは007の『二度死ぬ』(確か)に出ていますが、『オースティン・パワーズ』のドクター・イ―ヴィルはこのひとがモデルです。ドクター・イ―ヴィルはフランス語版では Docteur Denfer といいます。Denfer は d'enfer 「地獄の」から来ています。「地獄野博士」って日本語でもいけます。
 ポランスキーのアメリカ時代では、ジャック・ニコルソンは別に好きじゃないが『チャイナタウン』がいちばんいいでしょう。フェイ・ダナウェイとジョン・ヒューストンがいいです。ジョン・ヒューストンは俳優としてはここでの役柄がいちばんいいと思うんだが、役名が「ノア・クロス」というのがさすがにポランスキー、よくわかっていらっしゃる。ジョン・ヒューストンが名監督というのもわたしゃよくわからんのだが。ジャック・ニコルソン主演では私は『クロシング・ガード』という映画が好きなのだが、これが嫌いなひとと真っ二つに意見が分かれているときにフランス人の女の子の友だちが「あれはジャック・ニコルソンが嫌いなひとが好きな映画だから」と云っていたので、「ああ、そういうものなのか」と思いました。
 『ローズマリーの赤ちゃん』はいろいろな意味で気持ち悪いが、ミア・ファーロウとジョン・カサヴェテスの夫婦という変なキャストがいい。「ひとの映画に出たカサヴェテス」のなかではかなり好きな部類。『特攻大作戦』でのカサヴェテスも好き。嘘を云っているひともいるけど、ポランスキーの『吸血鬼』はつまらないので見なくていいです。

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シェリー・ウィンターズ

 前の記事には後で思いついて追記をくっつけたのですが、しかし書いている最中に『狩人の夜』(1955)のロバート・ミッチャム演じる人物像を考えていたわけではありません。それでも確かにこの映画のことはぼんやりと頭のなかにあったのです。私が考えていたのはこの場面のことでした。



The Night of the Hunter (Charles Laughton, 1955)

 ここで死んでいる女優がシェリー・ウィンターズです。水というとなぜか私はこの場面を思い出してしまいます。水というともうひとつ思い出すのが、『陽のあたる場所』(1951)という映画で、モントゴメリー・クリフトがコダック社の令嬢エリザベス・テイラーと結婚するために、邪魔になった恋人を湖で消す場面なのだけれども、なぜかここで殺されるのもシェリー・ウィンターズです。だれが云ったのか忘れたけれども、おかげでシェリー・ウィンターズは死人の役しかできない大根女優と呼ばれたこともあったようです。キューブリックの『ロリータ』(1962)ではロリータの母親役もやっています。これらの役柄のために私のなかでは妙にカルトなイメージが強いのですが、世間では普通に大女優だと考えられているようです(『ポセイドン・アドヴェンチュア』などにも出ています)。気づかなかったけど、ポランスキーの『間借人』では門番役をやっていたらしいです。ヴィットリオ・ガスマンと結婚したときに一児を設けています。
 それでも私のなかでこのひとのカルトなイメージを決定づけるのは、ロジャー・コーマンの『ブラディ・ママ』(1970)での、ボニーMの歌でもおなじみ、「ママママー」マ・ベイカー役です。この映画には若き日のデニーロが出てますよ。ジョン・ウォーターズの『シリアル・ママ』はこの映画の韻を踏んでいたというのは有名な話(どこで)。ボニーMの歌はこの映画よりも後のヒット曲で、この映画のテーマソングではありませんので、念のため。
 韻を踏んでいるといえば、『アメリカン・ビューティ』という映画がありましたけれども、題名はグレイトフル・デッドかなあと思ったんだが、よく考えてみると、間接的には『陽のあたる場所』(原作は『アメリカン・トラジェディ』)のことをかすかに記憶しているのではないかという気が今しました。かなりこれ、ありそうな気がしませんか。『陽のあたる場所』なんて、今のひとはあまり見ませんかね。別に傑作というのではないですけど、見ておいた方がいい映画だと思います。逆に、私はキューブリック不感症だからいらないことをつけくわえておくが、『ロリータ』や『バリー・リンドン』などを除いたら、キューブリックの映画は、それは傑作だろうけど、映画好きだけ見ていればいいような気がします。いらないことでした。

 シェリー・ウィンターズは2006年に亡くなっています。

P.S. 後になって思いついたけれども、「水フェチ」ということだと(水の量の多さでも)、『アビス』や『タイタニック』が思い出されます。「つまらない」と頭ごなしに云うひとがいるんだけど、こういう映画をつまらないと云われても困ると思うのよ。『アビス』って水の擬人化のきわみだなあ、そういえば。

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2008年10月18日土曜日

本気で水を擬人化せよ

 江本勝さんが『水からの伝言』は「ポエム」であるというときに何が云われているのかを多くの人が見逃しているようです。前の記事で暗示したように、この題名は『自らの伝言』とかけられているのです。この意図せざるダブルミーニングという「ポエム性」が非常に重要なものです。
 でも「自らの伝言」とは何でしょうか。ひとは自分で自分に伝言するものでしょうか。今年の三月に茨城県の土浦市であった通り魔事件の犯人は、自分のもっている複数の携帯電話間でメールのやりとりをしていたそうです。「果たしてこの留守電は本当に機能しているのだろうか」と不安になって、自分で自分の留守電にメッセージを入れてしまった経験があるひともさほど珍しくはないのかもしれません。
 一方で、孤独なお年寄りには動物との交流がすすめられることがあります。動物は話し相手として非常にいいのだそうです。確かに動物は話を聞いているだけで、決して反論もしないし、人間がするような思いもしない反応をしたりはしません。もっとも本当に動物が話を聞いているのかどうかはよくわかりません。
 人間同士のコミュニケイションに疲れると、ひとは動植物に話しかけたくなるものかもしれません。これはまったく責められるべきことではありません。毎朝木に話しかけるひとはほほえましいものです。あるいはこのような欲求は人間にとってもっと根源的なものなのかもしれません。子供は人形やぬいぐるみに話しかけます。
 フランスの国営テレビのよい子向けアニメ番組に『かわいい仔熊』というものがありました。登場人物はみんな森の動物ですが、主人公の仔熊にはただひとり人間の女の子のエミリーという友だちがいました。非常におもしろかったのは、森の動物はみんな人間のことばを話すのに、エミリーの犬と人形だけは口を利かないのです。それでもエミリーはいつも人形に話しかけ、何も云わない人形のことばをうんうん云いながら聞くのです。たとえば仔熊に森に遊びに行こうと誘われたときに、森に行ってもいいのかを人形に聞きます。もちろん人形はエミリーの望む返事をします。町で生活するテレビの視聴者の子供にとって、夢の世界である森の動物は、決して出会うことのない真の友達であり、みんな人間のことばを話すけれども、そんな子供の身の周りにも現実に存在している人形と犬だけは口を利かないリアルなものとして存在しているのです。このアニメのなかでは、いつでも自分の望む答えを云ってくれる人形が現実の世界と夢の世界の蝶番のようなものとして作用しています。
 子供のころから人間はこのような「透明」な話し相手を求めているのではないでしょうか。人形でもぬいぐるみでも動物でも草木でもいいけれども、いつでも自分の望む反応だけをしてくれるコミュニケイションの相手を必要としているのかもしれません。人形に対して「あなたはどう思う?」と聞き、耳を澄ましてうんうんと人形の話を聞き、自分の聞きたかった答えを人形の意見として云うのです。自分から自分にメールしてしまうのも、このような幼児性の延長として考えられるでしょう。土浦の通り魔は「俺が神だ」と自分にメールしたそうです。幼児の成長の過程で暴力性が前面に出る時期がありますが、このとき子供は神のように世界を支配しようとしているのです。人形が自分の望むことしか云わない時代は、子供が世界を支配している時代につづいてやってきます。
 人間はそのうちに幼児期の初期の暴力性から脱却します。自分が世界を支配しているわけではないということがわかってくるのです。それでも自分の支配しえない他者性を本質的なものとして理解しはじめたとき、子供は人形やぬいぐるみという自分の所有物にこの支配欲を向けるのでしょう。
 エミリーが人形に質問してその答えを聞くように、自分のことばを遅延した形で自分に伝える「自らへの伝言」の相手には、このように動植物や人形、ぬいぐるみがあります。しかし犬猫は食事もすれば排泄もする、草木は滅び、人形は手足がもげます。云ってみれば、理想的なコミュニケイションの「透明」な相手としては、人形は「擬人化されすぎている」のです。動植物や人形はイメージとしてあまりに人間に近すぎるのです。
 さらなる透明性を求める人間は、別のコミュニケイションの相手を求めます。ただ本当に鏡に対して話しかけることはためらわれます。人形にしても鏡にしても、あまりに幼児性の刻印をおされすぎていて、いいおとなのコミュニケイション相手としてはふさわしくありません。しかも鏡には「伝言」を可能にする遅延効果がありません。ここで現れるのが水です。この水は自分の思ったようには反応しない人間の不都合をもたず、必ず自分の気持ちを表現してくれるものとして機能します。水が自分の気持ちを表してくれるまでに、結晶するための時間がかかるというこの遅滞が魅惑として作用します。
 それでもおそらく「水からの伝言」信者は犬猫や人形に話しかけるようにして水に話しかけたりはしません。まさにここに問題があるのです。まったく擬人化が不可能である物質を相手にしているから、彼らはエミリーが人形に話しかけるようなしかたで、水にどうしたらいいかを相談したり、今日あったことを話したりはしません。そうではなくて、ひとつの単語に還元された非人間的な言語の機能を問題にするのです。「にせ科学にだまされるな」などということを私は云いません。しかしこのような言語の非人間な還元にだまされてはいけないということを強調したいと思います。ひとのだまされやすさを利用するのはひとつの悪ですが、その批判は他のひとにお任せします。私が許せないのは、ことばを科学実験の対象とすることによって非人間化するということと、水という弱いものに対して示される醜悪な支配欲です。自分の人形が自分のものでなくなることをエミリーには想像できないでしょう。これと同じく、「この瓶に入った水は私の所有物である」ということについては、「水の伝言」信者に疑問を感じることはできないのです。
 水を選んだのは巧妙なトリックなのです。相手が人形だったらどうなるでしょうか。「戦争」と書いた紙を自分の大切な人形に貼りつけられますか。友だちの人形を本気で「ばかやろう」と罵倒できますか。いいえ、そんなことはできません。そうしたとしてもあとで謝るでしょう。一時の怒りで人形を壊してしまったら、後で後悔します。なぜならこのとき相手は擬人化されていて、言語はまだ人間的なものとして機能しなければならないからです。しかし擬人化が不可能な水に対しては何でも云えます。「人形にだけは何でも云える」と考えるエミリーの気持ちは人間的なものです。なぜならこのときの「何でも」は、エミリーと同一化する子供にとって、たとえ今身の周りにはいないとしても、いつか森のなかの人間のことばを話す動物と話すことができることだからです。しかし「水からの伝言」信者が水に対して投げかけることばは「何でも」のレベルがちがいます。「ばかやろう」だの「死ね」だの、まったく水の気持ちになってみろ、と言わざるをえません。しかもその後で「ひどいことを云ってごめんね」と謝ったりはしないのです(たぶん)。
 「愛と感謝、水からの伝言」と題されたペイジに、小学生の実験として、「瓶にご飯をつめて、片方には『ありがとう』と書いた文字を貼り、もう一方には、『ばかやろう』という文字を貼り、学校から帰るたびに、毎日、瓶に向かって、『ありがとう』、『ばかやろう』と、大きな声で叫んだ結果」の写真が載っています。一箇月後には「ばかやろう」と云われたご飯は腐敗して真っ黒になったそうです。
 子供に人形をもたせることには情操教育の価値があります。人形を人間のように思い、人形を大切にすることを覚えるからです。それでは、ことばがわからない物質に対して、ことばがわからないのだからと、小学生に「ばかやろう」と一箇月の間叫ばせることが教育なのでしょうか。こんな「教育」からは、肌の色がちがうひとに対して、「どうせことばがわからないだろう」と日本語でいろいろ差別的なことを云ってほくそ笑むような人間が生まれるでしょう。あまりに醜悪すぎることです。何が「愛と感謝か」。ふざけるのもいい加減にしてほしいものです。
 人形に対しては「ばかやろう」と云えないのは、もしかしたら人形にはことばがわかってしまうかもしれないからです。人形のことを大切にしているからです。だから「水にもことばがわかるというのは事実だ」と云っているひとは、自分でも信じていない嘘をまるで本当に信じているかのように感じているという実に分裂症的な状態にあります。もし本当に水にもことばがわかると信じているのなら、「死ね」というラベルを瓶に貼りっぱなしにはできないからです。このひとたちは自分の主張していることと裏腹に「水には何の価値もない」という本心を明らかにしてしまっているのです。水が徹底的に侮辱されているのです。犬猫や草木や人形が人間のことばを理解するほどには、決して人間のことばは理解できないものとして、「水にはこの程度のことばしかわからないだろう」という扱いを受けているのです。
 「ばかやろう」「死ね」ということばがひとを傷つけることができるのは、それが何の文脈もなく投げつけられるからです。この「水からの伝言」信者は、ことばは生命を奪われた文脈のないものであるとして、人間の最大の財産である言語を非人間化しているのです。「ばかやろう」ということばに愛をこめて使うことができるというのが人間の事実です。この人間性を否定することを目的とする、あるいはこれが否定されてしまった世界を生きている「水からの伝言」の信者は、記号化されて機械化され、非人間的なものとなってしまったコミュニケイションの犠牲者であるとも云えるでしょう。
 人形が自分の唯一の友人だと大人になっても思いつづけるとしたら、これは狂気とみなされるでしょう。しかしこの狂気にはあまり害がありません。しかしその一方で、目の前にいる人間がものであるかのような扱いをしても、それは狂気であるとはみなされないのかもしれません。たとえ一般にはそうだとしても、私はこちらの方がよほど重大な狂気だと思います。もしかしたらことばがわかるかもしれない草木を擬人化して「今日も元気かい」と云い、「草木の気持ちを傷つけないように」話しかけることの方が、「どうせことばがわからない」水やお米に対して「ばかやろう」と叫んでことばから人間性を抜き去る卑劣な行いよりも何万倍もましです。
 しかし彼らは水を愛しているのだと主張します。水は真実を知っているのだと。いいでしょう。ではなぜ水に真実を聞きに行くのですか。それは人間に対する愛ゆえですか。いいえ、彼らは人間に対する深い不信にとりつかれているのです。人間よりも無生物に信を置くとする彼らの主張は、他の多くの中小宗教と同じく、人間に対する深い憎悪に土台を置いているのです。しかもここには何の罪もない水の反応を完全に制御しようとする醜い支配欲があります。水という弱いものなら自分の思いどおりに反応するはずだ、という考え方のなかには、人間の形をした人形の他者性にすら対処できなかった原初的な幼児性が顔をのぞかせています。「悪いことば」を見せて醜い結晶をつくらせる、これは想像的なサディズムです。実に邪悪なものを感じます。
 「水からの伝言」は「自らへの伝言」です。自分のことばを録音しておいて後で聞いているだけです。遅れてくる鏡なのです。自分の前を通りかかった見知らぬ人間との距離感がとれない通り魔と、「水に対する距離感」がもてないこのひとたちは、案外共通するものを抱えているのかもしれません。「ありがとう」や「ばかやろう」ということばが記号としてしか理解できない人間には、生きている他者が本当の意味では存在していないのです。まずは水を本当に擬人化することからはじめて、ふたたび情操を育てるように努力してみたらいかがでしょうか。その後で、子供の頃に大切だった人形のような、自分の自由になる所有物ではないものとして、水を水として見ることを学んでください。そのときには平気で水に対して「ばかやろう」と言っていた自分のことが恥ずかしく思えることでしょう。

P.S. 知っているひとにとっては何をいまさらという有名な話でしょうが、『狩人の夜』という映画では、邪悪な宣教師ロバート・ミッチャムが両手の指に LOVE と HATE という刺青をし、善悪の闘いによるマニ教的な説教で人々を魅了します。しかしこの男の魔の手から子供たちを護るリリアン・ギッシュだけはだまされません。私はこの映画のなかのリリアン・ギッシュのような正しいキリスト教徒ではありませんが、善悪の対立の図式によって道徳を語るひとを信用してはならないということを知っています。

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2008年10月17日金曜日

水の人格を尊重しよう

 フランスにいるときにちょっと疑問に感じたのは、「動物には何語で話したらいいのか」ということでした。やっぱりフランス語だろう、と思って犬猫にはフランス語で話していたのだけれども、その結果日本に帰ってきても散歩をしながらついつい通りすがりの猫にフランス語で話しかけてしまうことがあります。果たして陸奥湾沿いの野良猫がフランス語を解するかどうかはわからないけれども、ここは気持ちの問題ですからね。
 一部で再燃の様相を見せているらしい『水からの伝言』問題に関しても、「どうして水に日本語がわかるのか」という言いがかりに近い反論が寄せられることがあります。しかしもちろん言語は問題ではありません。真心の問題なのです。だからフランス人は「はあ?」と思ってしまうような日本人のカタカナ発音の「メルシー」に対しても、心がこもってさえいれば、水は何の問題もなくよい反応を見せるのです。
 この『水からの伝言』の話を聞いた米国人が、「これはいい話だ」と思い、水に話しかけようとしました。しかしこのひとは水に対しては日本語で話しかけなければならないと思ったのです。でも日本語の感謝のことばがどうしても思い出せません。確か「アリゲーター」だったろうか、「クロコダイル」だったろうか、と思い、両方云ってみたものの、いまひとつ確信がもてず、See you later, alligator. Mean a while, crocodile と踊りながら歌ってみたところ、このときも水はやはり美しい結晶をつくったということです。これに気をよくした米国人が今度はピアノをかき鳴らしながら「火の玉ロック」を水に対して歌うと、むかしながらのロックンロールに昂奮した水は急速に沸騰し、男は大やけどを負って病院に運ばれたということです。
 このように水は結晶するだけが能ではなく、きわめて柔弱な性格を見せます。しかし我々はひとつ重要なことを見失っていないでしょうか。そう、水の人格です。私はフランスにいても日本にいても、フランス語で猫に話しかけることができますが、しかしこのとき猫の人格は無視されています。「きっと私のことばはわかってもらえるだろう」という私の真心は通じるとしても、かけがえのない猫の単独性が無視されているのです。これは猫を愛するものにあってはならない態度でしょう。(私は別に猫好きではありません。)
 水だから、H2Oだからといってすべて同じ水だと考えるのはおおまちがいです。さまざまな要素を含んだ水にはそれぞれの性格があるのです。確かにエヴィアンに「ありがとう」と日本語で話しかけても気持ちは通じます。それでももしあなたが本当に水を愛するなら、フランス語を勉強して正確な発音で Merci と云うべきです。それが水の気持ちを考える、水の立場に立つということです。「水は私の気持ちをわかってくれる」と思って、水に甘えていてはいけません。あなたの側にも「水に近づく努力」が必要とされるのです。
 水を愛するものは、えてして銘柄つきの水を愛する傾向があります。しかし水道水だって水です。泥水だって水です。しかしこのような水の博愛主義が水自身に通用するかどうかはまた別の問題です。自分の目の前に泥水を見せつけられた蒸留水はどのような結晶をつくるでしょうか。ここで汚い結晶をつくった蒸留水のことを、あなたには責めることができますか。あなたは水を愛しています。それはすばらしいことです。しかし水が自分の仲間を毛嫌いするからといって、あなたには責めることができるでしょうか。犬が互いに吠え合うのはしようのないことです。犬には人間の理性がないのです。では水はどうでしょうか。水がいがみ合ったからといって、驚くにはあたらないことのように思えます。
 これからの時代、フランスから来た水が日本の水道水をばかにする、あるいは日本の水がフランスの水にへつらう、日本の誇り高い名山の水が自虐史観を批判するなどということが見られるかと思います。ミネラルウォーターと蒸留水の主張の間には、決して埋めることのできない隔たりがあります。このようなときに、「水のみなさん、争いごとはいけません」と云っても、そのことばは届きません。私たち人間にできることは、水それぞれの言い分を聞き、たとえ意見はちがっても、それぞれの人格を尊重する、ということだと思います。何しろ水のことですから、「天皇」という文字を見せたらうじがわいてしまうような反日日本原住民論の水に出会ったとしても、決して驚いてはいけません。
 このような寛容はむずかしいものです。もう何年も前のことになりますが、フランスの発泡水バドワのテレビコマーシャルで、制服を着たにこりともしない日本人がザッザッと列を組んで行進してレストランに入っていくが、バドワを飲んだ途端みんな楽しく大騒ぎというものがありました。このことから考えると、もしかしたらバドワは、日本人がまじめに「ありがとう」の文字を見せても、おちゃらけた結晶をつくるかもしれません。このときに「何だ!お前は日本人をばかにしているのか!」と怒ってはいけません。あなたは人間、相手はフランスから来たとはいっても、たかが水です。あなたの思ったとおりの反応をしなかったからと云って、水を責めないでください。
 水の理解能力を過信するのも問題でしょう。たとえばあなたは水に対して「戦争のない平和な世界」と云います。書いてあれば問題ないのでしょうが、なかには格好をつけようとして、「戦争」と聞いた途端に汚い結晶をつくってしまうおっちょこちょいな水もいるかもしれません。フランスの水に対して「愛」と云った場合は、この水は間投詞の aïe 「いてててて」を思ってちょっとびっくりした結晶をつくってしまうかもしれないし、あるいは正反対の「憎む」haïr の過去分詞を思ってしまうかもしれません。果たしてどこまで水に対して真心が通じるのか、むずかしいところだと思います。
 サド侯爵の『ジュリエットの話』のなかで、登場人物のデルベーヌ夫人は、「私たちは死者といっしょに食べものや飲みものを埋める民族の素朴さを笑いますが、私たちがよく考えるように、死者が喜ぶだろう、悲しむだろうと信じることは、未開の民族のひとが死者も飲み食いするだろうと考えることとどこかちがうのでしょうか」と云います。『水からの伝言』を批判するひとのなかにも、「じっちゃんのため!」と叫ぶ金田一秀穂少年のことは笑えないひとがかなり多いのではないでしょうか。
 ちょっと思ったのですけれど、『みずからの伝言』という題名は自分で自分に話すというナルシス的なものではないのでしょうか。「ありがとう」ということばが自らに向けられているという、そんな感じではないかと思うのですが。この江本さんというひとは『自分を愛するということ』という本も書いているようですし。何てきみは美しいんだ、と水に話しかける人々。エコーが繰り返すのはお約束。
 関係ないけど、荒川洋治が「松浦久輝の散文詩は一言で云うと『水の向こうからあなたが手を振る』だ」と云っていたな。松浦久輝ってむかしは詩人から小説家になったポール・オースターのことを安易な道に走ったと批判していたなあ、そういえば。

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コーベとかネモについて

 「知らない英単語を辞書を引かずに読む方法」という不思議な記事があります。いろいろと不思議なことがあるのだけれども、考え方はひとさまざまですから、とお茶を濁して、とりあえず気になった箇所をまずひとつ。
 大学生の頃、日本語を勉強している米国人の同級生が、「日本語も英語も母音は5つなので同じだ」と話してくれた。もちろん間違っているのだが、なぜそう思うのかと問い返したところ、英語でも母音は「AIUEO」だけだと答えた。
 何が気になるかといえば、「もちろん間違っているのだが」というところです。どうもこのひとは「Yが入っていないのはおかしいではないか」ということを云いたいのではなさそうです。このひとが云いたいのは、音声として英語には母音が五つしかないというのは「もちろん間違っている」ということなのでしょうけれども、母音ということばを聞いて母音を示す「字母」の数を考えるこの米国人の考え方は「もちろん間違っている」と簡単に断定できるものではないでしょう。
 ラテン文字を用いた西洋言語が母語である外国人が、日本語を熱心に勉強しているとします。このひとの頭のなかには日本語には母音が何個、子音が何個あるという情報が収まっています。さて、このひとが日本人に「日本語には何個の音がありますか」と日本人に聞きます。この日本人が「五十音って云うんだから50でしょう」と思って「50個」と答えた際に、この外国人に「もちろん間違っている」なんて頭ごなしに断定されても困ると思いますよ。それと同じで、言語学を真剣に勉強していない大方の欧米人(つまりほとんどの欧米人)にとっては、自分の言語のなかに存在する母音の数と子音の数を足したらたいてい26個程度になるのです。母音は五、六個程度という考え方はまったく「まちがっている」と云われる筋合いのものではありません。
 相手が母音を表す字母の数を母音の数として語った際に、「母音の話をするときにあなたが字母の話をするのなら、日本語の表記体系から五個の母音を抽出することのなかには何の正当性もないという考え方もできるのではないか」と反論するというのなら、わからないでもありません。
 もうひとつ気になったところです。
 「綾子」の"ayako"は、"a+ya+ko"に区切られると「エイヤカ」、"ay+a+ko"だと「エイアカ」になる。
 日本人は自分の名前のローマ字表記した場合、こうしたルールから英語圏の人からどう読まれやすいか心得ておくのも国際ビジネスの基本になる。
 「アヤーコウ(ウヤーコウ)」みたいな感じになることがかなり多そうな気がするんだけどねえ、ちがうんですか。まあ、英語圏のひとが自分の名前のローマ字表記をどう読むかなんて、まったくもって余計なお世話以外の何ものでもないですが。ひょっとしたら米豪だけが相手の「国際ビジネスの基本」としてはそうなのかもしれんが(英語を話すフランス人が英単語でもない Ayako を突然英語風に発音したら驚く)、「私の名前は『アヤコ』と読みます」ということをしっかり伝えて、相手に繰り返させて「よくできました」と云ってみるのが「国際交流の基本」じゃないかな。

 ところでバスケットボールの選手にコーベ・ブライアントというひとがいますけど、このひとの名前はよくコービーと書かれています。名前が神戸から来ているんだったら、「コーベ」とか「コウベ」とか書けばよさそうなものだが、理由はわかりませんが「コービー」です。「理由はわからないって、アメリカ人はこう発音するんですっ!」って云うんだろうが、だってこの名前は神戸にちなんでるんでしょ? 日本人にもちゃんとわかるようにカタカナを書いた方が親だって本人だって喜ぶんじゃないかなあ。ちなみにこの固有名詞の英語での発音は辞書サイトによって異なっていて、hyperdic.net というところでは kow'bey という比較的に「コウベ」に近い発音を紹介しています。他にメリアム・ウェブスターでは \ˈkō-bē, -ˌbā\、Dictionary.com では/ˈkoʊbi; ˈkɔˈbi/ [koh-bee; kaw-bee] ということになっております。ここ、「コーバーでもいいのか」と思うところではないんですが、まあ、そう考えたいひとはそう考えたらいいんじゃないの。「これが絶対に正しいの!」と額に青筋を立てるよりはずっとましです。
 ずっと日本にいなかったもので知らなかったのですが、この前テレビでかかっていて(題名に)驚いたのが『ファインディング・ニモ』なるもの。「ニモ」って何じゃい、これからは「ニモ船長」で行くのか。「アメリカ人はこう発音するんですっ!」ってんだろうが、こうなってくるとこのかたくなさは何かの病なのかなと思えてきます。アメリカ人はそういう風に発音するのかもしれないが、コーベは神戸にちなんだ名前で、ネモはネモ船長にちなんだ名前でしょ?ちがうの? アメリカ人はこう発音するというのならだよ、いつまでも慣習にならって「ファインディング」の「グ」をつけているのはどういうものかと俺は思うよ。どうして「ネモ船長」の慣習の方は無視して、そっちの旧習は守るんだ。『ネモくんの大冒険』にでもしときゃいいじゃん、悪いことは云わないから。『新・地底旅行』じゃなくて『センター・オブ・ジ・アース』だなんて、孫を連れて喜んで映画館に行くおじいさんおばあさんの存在なんてはなから考えられてないよな、敬老の国日本が。どうせならカタカナにしなきゃいいじゃん。
 ニーコ・ケイス(Neko Case)というのも謎なんだが、これはちがうんですかね。

 この前たまたま小林克也が司会をしているNHK教育の英語の番組を見ました。むかしは「確かに発音はいいが、英語の会話能力はあやしい」と云われていた小林克也ですが、今聞くとずいぶん発音も悪いですねえ。それはともかくこの番組のなかのコーナーで、英語を話すひとが What's your favorite word? と繰り返して云い、それを子供らがカタカナで書きとり、その後でこの子供らが別の英語を話すひとのところにおもむき、そのカタカナで書いた文を読んで、理解されるかどうかを試すという、いったいどういう教育的意味があるのか私のようなものには皆目見当のつかないことをしていたが、それなりにおもしろかった。私は残念なことにメモしなかったが、子供たちはだいたい「ワッチョーヘーリッワー」というようなことを書いていました。閉音節の最後の子音はだれにも聞きとれていませんでした。あと favorite は辞書を引くと一応三音節ということになっているけれども、実際にはVとRの間の母音はほぼ発音されないので、この辺は子供たちには何を発音しているのかまったくわからなかったようです。教育的な意味としては、「英語をカタカナで書くのはむだ」ということを云いたかったのかどうかはよくわかりませんでした。
 私はばかだから、「アメリカ人はこう発音する」ということと、日本語であるカタカナの表記をどうするべきかという問題にどういう関係があるのかがはっきりとはわかりません。何度も云いますけど、アメリカ人は英語をカタカナでは発音しませんからね。カタカナは日本語なのだから、字面を見て何となくでも意味がわかるということが大切だと思うのですが。「ソン」ではなくて「ソング」、「ライ」ではなく「ライト」と書くのはこういう配慮によるもので、カタカナ表記はこういう配慮によるものだとするならば、絶対に何も意味しない「ニモ」ではなく、わかるひとにはわかる「ネモ」と書くべきでしょう。じゃなかったら「ワッチョーヘーリッワー」で行きなさいよ。「米人のこの英語の発音は日本人の耳にはこう聞こえるカタカナ」の嘘を暴くという意味でこの番組はおもしろかったです。(そういう意図ではないのか。) いっそのこと、子供は「戦争をやめよう」とか真実を云うから、子供に「これはどうやってカタカナで書いたらいいの?」と聞くのはどうか。「ファインディング・ニモ」は「ハイニーニーモー」、「コービー・ブライアント」は「コーベーバーヤン」という感じ。
 しかしこのカタカナで書いた文「ワッチョー…」を目の前でおずおずと読む子供たちのことばを聞いて、「オオ・マイ・ゴッド!」なんて云ってあきれて苦笑している米人(たぶんね、たぶん)の姿を見ると、何となくNHK教育の英語番組は英語を勉強しようという気にさせるよりは「米帝粉砕!」という気分にさせるように思われるのですが、これは私の気のせいでしょうか。それが日本在住の外国人のあなたの日本の子供に対する態度かって。(苦笑は子供たちではなくて番組のコンセプトに向けられたものだろうが、そうは問屋が卸さないのが日本のテレビの演出。) 取引の相手に「エイヤカ」と呼ばれて「エイヤカとは私のことかと綾子云い」と心のなかでぐっとこらえる綾子さんの態度とこれは裏表ですね。ああ、それで日本を代表する「おしん」のひとの名前なんだ。
 Mizu is Miu.

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2008年10月15日水曜日

まったくのばか

 みなさんはどのように想像しているのかどうかわかりませんが、米国に本拠地を置くインターネットのサイトのフランス語訳にはいい加減なものがかなり多いということが云えます。たとえば MySpace でも、フランス語訳はかなりあやしいのです。しばしば英語の単語のフランス語訳として最初に出てくるもの、あるいは英語とフランス語で語の形が似ているが必ずしも意味が同じではないものをとっているので、たとえば「スマイリーの顔と名前が合わない」例がかなりあります。技術系のひとは機械を信用しすぎるのでしょう。
 これはまたもや Causeur.fr で見つけたおかしな話題です。アップルのフランス語のサイトのマックブックのコマーシャルで、英語の Beautifully engineered というコピーが「まったくのばか」 Parfaitement con とフランス語に訳されてしまったという現場が押さえられています(今はもう訂正されています)。

 いったいどうしてこういうことになってしまったのでしょうか。今は Parfaitement conçu (「完全構想」)ということばに訂正されていますが、英語のエンコードではフランス語のCの下のひげ(セディーユ)が出なかったので、最後の二文字が飛んでしまったのでしょう。そのおかげでこの新製品は「まったくのばか」ということになってしまいました。
 本当にまったくのばかでどうしたらいいんだか、というお話でした。

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2008年10月14日火曜日

リーマン・ブラザーズ

 リーマン・ブラザーズと聞いたときに、むかしリーマンズとかいうお寒いタレントがいたよな、と思ったのは私だけではないだろうが、つづりを見ると Lehman なので、「どうしてレーマンじゃなくてリーマンなのかな」と思ったのも私だけではないでしょう。Inogolo.com というサイトでは、発音はこのように表記されています。

 カタカナで書きますと、発音は「レイマン」だが、註には「リーマン」とも「レイマーン」とも発音されると書いてあります。タグは「よく発音がまちがっている」となっています。これが註にあるふたつの発音はまちがいだということを意味しているのかどうかはよくわかりません(論理的にはそういうことなのだと思いますが)。ともかく「レイマン」が代表的な発音であることにはまちがいがないでしょう。英語のラジオは面倒くさいので聴きませんが、RTLの番組 On refait le monde では英語なまりの強い米人ジャーナリストが「レーマン」と発音しています。フランス人はまちがっても Lehman を「リーマン」と発音しないとはいっても、この場合米人ジャーナリストがフランス人に合わせて発音を変えているということはたぶんないでしょう。
 ではどうしてカタカナ表記は「リーマン」なのでしょうか。もしかしたら日本の法人名をつけるときに、「零マン」では縁起が悪いと考えたのでしょうか。

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2008年10月12日日曜日

あんたらは署名記事でも元社長を連呼できんのか

 元社長が亡くなりました。今朝もまた朝日新聞の紙面にはこれが最後とばかりに元社長の三文字が飽きることもなく繰り返されています。こんな文章を書いたら、常識的には「あんた、文章書けないんとちゃう?」と云われそうなもんだが、天下の朝日新聞が堂々とものおじをすることもなくこういう文章を恥ずかしげもなく人目にさらすのが今の日本のすばらしいところです。読むひとが読んだら「これは現代詩か」と思うかもしれませんが、いやいや、日本現代詩をばかにしてはいけませんよ。
 最初NHKのニュースで確か末田正雄アナウンサーが元社長を連呼するのを見たときに、私は一瞬ギャグかと思い、「おもしろすぎる、もうやめてえ!」と思ったのだが、冗談を云っている風ではありませんでした。むしろ末田さんは「これは私の云っていることではない」という顔をしているように思えたのですが、これは私のかんちがいでしょうか。
 ところでフランスでは、テレビニュースの「アナウンサー」は基本的にジャーナリストです。ニュースの構成、記事の取捨選択にもメインのキャスターがかかわります。日本のアナウンサーだって番組構成にかかわらないで用意された原稿を読むだけなんてことはないのだろうが、どうもその辺が判然としません。「末田正雄」という字幕は出るけれども、どうも末田正雄さんがアナウンサー末田正雄の責任において元社長を連呼しているという気がまったくしない。「こんな元社長を連呼する原稿は滑稽だから読まん!」と云って原稿を投げ捨てる自由が末田さんにはないような。自分で読んでいて思わず吹き出しそうなくらいにおかしいはずなのだから、視聴者が見ていて「このひとは原稿を読まされているだけ」という気がしてしまうのも当然でしょう。しかしこんなひとが公共放送NHKの現役アナウンサーではいちばんのベテランなのだから、日本はどこに本当の権力があるのかわからないと云われるわけです。「見えない権力の網の目」なんて云ってきゃははと喜んじゃったひともむかしいました。
 日本の新聞の記事が無署名なのはしばしば問題になるところですが、このような奇妙な用語の連発はますますこの匿名性の問題を明らかにします。だれかわからない記者が「俺が書いているんじゃないぞ」ということをこの元社長の非常識な連呼によって示しているのです。
米でも徹底的に争う姿勢を見せていた元社長に何があったのか。
元社長の妻から、その2日前にも元社長は「闘う」と語っていたと聞かされていたからだ。
河村さん自身も同月中旬には、元社長と直接、電話で話した。
元社長はメディアを相手に名誉棄損訴訟を相次いで起こし、多くの訴訟で勝訴。
 「元社長の妻から、その2日前にも元社長は『闘う』と語っていたと聞かされていたからだ」とか、少しは音読するひとの気持ちを考えてほしいよなあ。お笑いじゃないの。私のむかしの日本語の生徒には「これも早口ことばですか」と聞かれてもおかしくないね。年譜は特にすごい。
85年9月 殴打事件に絡み、警視庁が殺人未遂容疑で元社長を逮捕
88年10月 銃撃事件の殺人容疑で警視庁が元社長を逮捕
03年5月 東京都内の書店で雑誌1冊を万引きした疑いで元社長を現行犯逮捕
07年4月 元社長は正式裁判を申し立て、公判では万引きを否認
08年9月 サイパンの地裁が、元社長が申し立てた人身保護請求を棄却
10月 サイパンからロスに元社長を移送。元社長は到着後に自殺[今でも新聞ではロサンジェルスのことをロスっていうのね、というのがちょっと新鮮]
 日本語を勉強する外国人に新聞を読むことは決して勧められません。絶対に「元社長」は代名詞か何かだと思ってしまうでしょう。ここまで元社長を連発されたら「私も元社長ですが、何か?」というひとが出てこないのがおかしいくらいです。
 「88年に三浦元社長を逮捕した当時の警視庁捜査1課長だった坂口勉さん(73)」という記述を読むと、「どうしてここは『坂口勉元課長』ではないのか?」と私のようなひねくれものは思ってしまいますが、これはまた話がちがうということなのでしょうね。(「捜査1課」とか、表記はこれでいいんですか、警視庁。これは疑問ですから。確かに正式な表記は「一課」じゃなくて「1課」だと云うのなら「そうですか」と思います。「雑誌1冊」「2日前」なども十までは漢数字で書くことにしたらいかがと私は思うのですが。)
 ともかく私にはジャーナリストが署名記事でここまで愚劣な文章を書けるとは思いません。「これは俺が云ってんじゃねえぞ」という匿名記者の鬼気迫る気魄がここには感じられます(「俺」とは云わない女性かもしれませんが、とりあえず乱暴な云い方の「俺」で代表させてください)。「俺はロス疑惑なんぞのこたあ知ったこっちゃねえや、しかし書けと云われているからしょうがなくて書いているんだ。文句があるなら他のひとに云ってくれい」という匿名記者の主張が「元社長」の連呼の端々にうかがわれます。自分が自分のことばに対して無責任であることに対する言いわけであると同時に、責任をもつことが許されていないことに対する一個の人間の切々たる抗議なのです。これは新聞記者の魂の叫び、赤心の歌なのです。「入社したときには夢があったはずじゃないか」という溜息が元社長の連発の蔭に聞こえるではありませんか。明日は署名記事を書ける編集委員になろう、というあすなろのやるせない気持ちが響いてくるではありませんか。新聞記者に表現の自由を!鯨を救え!フリー・ウィリー!
 最後に報道機関のひとにお願いします。もし何か悪いことをして逮捕されることがあったら、私はポンにしてください。絶対に私のことをポンと呼んでください。これが私のただひとつの要求です。元社長を連呼することができるのなら、ポンを連呼することもできるはずです。大丈夫、頑張ればできるよ。

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2008年10月11日土曜日

フランス思想界50人のスター

 Le Nouvel Observateur の最新号では「思想界の50人のスター」という特集を組んでいます。ばかばかしいですが、さて、どんな名前が挙げられているんでしょうか。カテゴリーと肩書はだいたい元記事(電子版)に従っています。括弧のなかは、この記事のそれぞれの人物の説明から適当に選びました。フランス人の云うところの「フィーリング」です。

お約束の先生方
クロード・レヴィ・シュトロース(Claude Lévi-Strauss) 人類学者(西洋民族中心主義からの脱却)
エリザベート・ド・フォントネー(Elisabeth de Fontenay) 哲学者(唯物論)
フランソワーズ・エリティエ(Françoise Héritier) 人類学者(親子関係)
ルネ・ジラール(René Girard) 人類学者(人間の行動の模倣的性格)
ジャック・ル・ゴフ(Jacques Le Goff) 中世史家
ジャクリーヌ・ド・ロミイ(Jacqueline de Romilly) ギリシア学者(アカデミー・フランセーズの会員になった二人目の女性)
ピエール・ノラ(Pierre Nora) 歴史家、編集者(国家のシンボル)
エドガール・モラン(Edgar Morin) 社会学者(複合思考、「文明の政治」)

メディア露出型
ベルナール・アンリ・レヴィ(Bernard-Henri Lévy) 哲学者(人間の顔をした野蛮)
アンドレ・グリュックスマン(André Glucksmann) 哲学者(旧マオイストのフランス流新保守)
ミシェル・オンフレー(Michel Onfray) 哲学者(ニーチェ左派、ヘドニスト)
パスカル・ブリュックネール(Pascal Bruckner) 評論家、小説家(「白人の嘆き」、第三世界主義批判)
レジス・ドブレー(Régis Debray) 哲学者
リュック・フェリー(Luc Ferry) 哲学者、政治家、元教育相
アンドレ・コント・スポンヴィル(André Comte-Sponville) 哲学者
ジャック・アタリ(Jacques Attali) 経済学者、評論家、元文化相
アレクサンドル・アドレール(Alexandre Adler) 歴史家、国際問題専門家

時流に乗った改革主義者
マルセル・ゴーシェ(Marcel Gauchet) 歴史家、哲学者(「幻滅した世界」)
ピエール・ロザンヴァロン(Pierre Rosanvallon) 歴史家(参加型改革)
パトリック・ヴェイユ(Patrick Weil) 政治学者、移民史専門家
オリヴィエ・モンジャン(Olivier Mongin) 哲学者、「エスプリ」誌編集長
アラン・トゥーレーヌ(Alain Touraine) 社会学者
トマ・ピケティ(Thomas Piketty) 経済学者(税制専門家)
ダニエル・コーエン(Daniel Cohen) 経済学者

断固たる保守主義者
アラン・フィンキェルクロート(Alain Finkielkraut) 哲学者
ニコラ・バヴェレーズ(Nicolas Baverez) 経済学者、歴史家、弁護士(「凋落するフランス」)
マルク・フマロリ(Marc Fumaroli) 修辞学史家、シャトーブリアン研究家
ブランディーヌ・クリーゲル(Blandine Kriegel) 哲学者、社会統合高等議会議長
ピエール・マナン(Pierre Manent) 政治哲学者(トクヴィル、コンスタン)
アントワーヌ・コンパニョン(Antoine Compagnon) 文学史家
アランジェラール・スラマ(Alain-Gérard Slama) 歴史家、政治思想家(反ブールディユ)

粋なラジカル
アラン・バディユー(Alain Badiou) 哲学者(「サルコジとは何の名前か」)
ジャック・ランシエール(Jacques Rancière) 哲学者(参加型民主主義)
リュック・ボルタンスキ(Luc Boltanski) 社会学者(「資本主義の新精神」)
ヤン・ムーリエ・ブータン(Yann Moulier Boutang) 経済学者(2005年の暴動論)
ミシェル・シュリア(Michel Surya) 哲学者、編集者(バタイユ、アルトー)
ジェラール・モージェ(Gérard Mauger) 社会学者(反自由主義)
エリック・アザン(Eric Hazan) 編集者(反サルコジ)

青年予備軍
フランソワ・キュセ(François Cusset) 著述家(「フレンチ・セオリー」)
メディ・ベラージュ・カセム(Mehdi Belhaj Kacem) 著述家、哲学者「「ポップ哲学」」
パップ・ンディアイ(Pap Ndiaye) 歴史家、米国専門家「「黒人の条件」」
ピエール・テヴァニアン(Pierre Tévanian) 哲学者(人種差別、保安の思想批判)
ブルース・ベグー(Bruce Bégout) 哲学者(都市)
ミケラ・マルザーノ(Michela Marzano) 身体の哲学者(ポルノグラフィ)
トマ・デルトンブ(Thomas Deltombe) 歴史家(メディアによるイスラム恐怖の扇動)
ヴァンサン・セスペデス(Vincent Cespedes) 哲学者(リアリティTV)

新世界の知識人
オリヴィエ・ロワ(Olivier Roy) 政治学者(イスラム問題)
ジャン・ティロール(Jean Tirole) 経済学者(産業組織理論)
エステル・デュフロ(Esther Duflo) 歴史家、経済学者(「貧困に抗する知」)
テレーズ・デルペッシュ(Thérèse Delpech) 哲学者
フィリップ・アギヨン(Philippe Aghion) 経済学者(「フランスの成長のてこ」)
ジル・ケペル(Gilles Kepel) 政治学者、社会学者(アラブ世界専門家)

 Le Nouvel Observateur はいやんなるほど「良識派左派」なので、「断固たる保守主義者(保守であることを自ら任じるもの)」とか「粋なラジカル」とかカテゴリーが余計なお世話です。確かにジャック・ランシエールは好きだが、マルク・フマロリやアントワーヌ・コンパニョンの本の方が個人的には私の役に立つ。ジラールって人類学者なんだ、と思ったり。あと50人も名前が並んでいる割にはずいぶん「このひとは入っていないの?」というのがありますねえ。地味なひと(ジャンリュック・ナンシーとかミシェル・ゲランとか…)が入っていないのはいいけれど、このリストの顔ぶれからすると、どうしてソレルスが入っていないのかというのが結構不思議。エマニュエル・トッドが入っていないのが許せん!といううるさ型(笑)のひともいるかも。
 しかし「新世界の知識人」ってこれ、アメリカで有名なひとのことなんだろうね。フランソワ・キュセって私はただのジャーナリストじゃないかと思っていたんだが、Nouvel Obs 的には好きってことなんでしょうね。あまり興味ないっす。ミケラ・マルザーノというひとはおもしろそう。
 世のなかではみんな(あの、みんなといってもどちらかといえば左の方のひとの話です)ミシェル・オンフレーが好き、というのはよくわかんない。何がおもしろいの? オンフレーだったらフィンキェルクロートの方がずっといいよ。BHLやグリュックスマンについてはそんなことは云いませんが。わたしが云いたいのは、「BHL、グリュックスマン、フィンキェルクロートはメディア化されただめな哲学者だが、オンフレーはいい」というひとが多いので、現時点ではオンフレーよりは最近失地回復に成功しているフィンキェルクロートの方がずっとましだということです。
 最後にカタカナ表記に関して。私がレヴィ・シュトロースと書くのは、「こう発音するひとが多い、よく耳にする」というだけの話で、何もこれが正しいとか、みんなこう書けとか言っているのではありませんからね。フィンキェルクロートは「ファン」も「フィン」も両方あるし。エが大きいか小さいかというのはまったくどうでもよくないか。クリーゲルがクリージェルだったり、バヴェレーズがバヴレーズだったり、ひとの発音はいろいろあります。どれが正しいかなんてことは、わしゃ知らんよ。フランス人がどう発音するのか知らないひとにはなぜかよくわからないだろうが、Strauss は「シュトロース」という風に読まれることはあっても「シュトラウス」という風に読まれることはありません。同様にスペイン風にみえる(本当にスペイン系かどうか私はわざわざ確認していません)Baverez に関してもアクサンのない e を「エ」と読むひとはいても、最後の z を「ス」と読んだり v を b で発音したりするひとはいません。そもそも同じスペイン語でもスペイン人は b と v を区別して発音するという話を私はしょっちゅう聞きました。ひょっとしたら本人に聞いたら Baverez はスペイン系でも何でもなくてもともとフランスの名前なのかもしれないのだが、たとえそうだとしてもみんな各自の読み癖で読むのです。ルクレジオは逆に読み方は問題ないが、つづりが Le Clézio なんだか Le Clezio なんだかよくわからないな。
 私がカタカナ表記に関して批判するのは「ありそうもないカタカナ表記をなぜか突然発明してしまうひと」とか「このことばはカタカナでこう書け!と主張するひと」のことなので、おまちがいなきよう。「今までのカタカナ表記の慣習を無視して大した理由もなく新しいカタカナ表記を広めようとするひと」も嫌いです。レヴィ・シュトロースというのはそうではないのか、と考えるひとも当然いるでしょう。しかし、まず私はこの表記をひとつの可能性として提示しているのであって、ひとにおしつけようとはしていません。もうひとつ、Strauss は普通「ストロース」ではなくて「シュトロース」という風に読まれると思うからです。フランス人は普通デュルケームではなくてデュルカイムという風に発音するのと同じで、たぶん最初にストロース、デュルケームとカタカナで書いたひとはフランス人がどのように発音するのか知らなかったのではないかと思うのです。しかしこれはあくまで「私はこう思う」ということでしかありません。いくらブリュッセル Bruxelles をフランス人のほとんどが「ブリュクセル」という風に発音しようと、先生方が認めないかぎり、それは正しい発音ではありません。これと同様に、私はフランス人の多くはこのように発音すると思ってシュトロース、デュルカイムと書くけれども、ストロース、デュルケームの方がよりフランス語の正しい発音(一般人はしないが、大学教授はするような発音という意味)を転写するカタカナ表記としてはふさわしいということは十分にありえます。(しかし正直なところ「デュルケーム」というような発音は聞いたことがない。)
 フマロリとは許せん、フランス人なんだからフュマロリと書け、とおっしゃるひともいるかもしれませんが、私は意に介しません。1.たぶんこの苗字はイタリア系でしょう。2.日本人がカタカナで「フ」と発音したら、たいていの場合フランス人の耳にはカタカナで「フ」と転写される fou や feu ではなくて、むしろ「フュ」と転写される fu が聞こえる。3.そもそも「フュ」はいまだに一般に認められたカタカナ表記とは云いがたいのではないか。以上が理由です(本当は1だけでいいんだけど、2は「フランス人の名前はブルースじゃなくてブリュスと書け」とか、私には正直云ってよくわからない細かいことにこだわりがちなひとにも向けられています)。かといって、フュマロリと書くな、と言っているのでもありませんから。こう書きたいひとは書けばいいのだと思います。まあ、カタカナ表記をどう変えたって、カタカナを参考にしているかぎりフランス語の発音はよくなりゃしないよ。

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2008年10月10日金曜日

ルクレジオと『瞳』について

 J.M.G. ルクレジオがノーベル文学賞を受賞しました。最近はハロルド・ピンターとかドリス・レッシングとか有名なひとがノーベル賞を受賞していてほっとしますね。このニュースを伝える日刊紙フィガロ紙やラジオ局RTLのサイトの記事にはフランス人のノーベル文学賞受賞者のリストが載っていますが、フランス人としては2000年のガオ・シンジャン以来の受賞ということになっています。ちなみにこのリストにサミュエル・ベケットは数えられていません。アイルランド人なんだから当然ですね。前にも書いたけれども、フランスの事典にはパウル・ツェランのことを「ドイツ語で書いたフランス人の詩人」と書いているものがあります。日本の百科事典ではどうなっているのでしょうか。
 有力候補としては、同じフランス人の詩人イヴ・ボヌフォワの他に、イタリア人のクラウディオ・マグリス、チェコ人の Arnost Lustig (アルノスト・ルスティッヒと読むのでしょうか)の名前が挙げられていたようです。しかしヨーロッパ人ばかりでは何なので、地理的な配慮から挙げられる名前のなかに村上春樹もあったようです。まあ、腐ってもノーベル賞、村上春樹がとる恐れはこれからもまずないでしょう。
 ルクレジオのことをヌーヴォー・ロマンの作家のなかに数えるひともいるようですが、これはちょっと乱暴だと思います。ヌーヴォー・ロマンといえばやっぱり教科書通りにアラン・ロブ・グリエ、クロード・シモン、ミシェル・ビュトール、ロベール・パンジェあたりでしょうか(ナタリー・サロートは劇作家としてのイメージがかなり強くなっています)。
 パンジェの L'Inquisitoire というのはおかしな小説です。ある家で殺人か何か事件があったらしいのだが、この家の無教養な年寄りの執事か召使か何かが警察の取り調べに対して答えるという形をとっています。対話だけを記録したもので、いわゆる小説の地の文はありません。警察の非常に無機質な質問に対して、このおしゃべりであまり云っていることに信用がならないような男がぺらぺらしゃべるのです。話に脈絡はなく、実際に何が起きたのかはよくわかりません。この小説でおもしろいのは、この供述のなかにいろいろと語彙や文法のまちがいがあるんですね。無教養だからいろいろと単語をとりちがえているのです。既に題名が『取り調べ』と云いたいのだろうが、inquisitoire って、これ、形容詞じゃないのかなあ。私もこういう inquisition と inquisitoire をとりちがえるようなまちがいはよくやります。「おんもしろい小説だなあ」と思ったが、面倒くさくなって最後までは読みませんでした。ギヨタの『エデン・エデン・エデン』のような、つらくても最後まで読まねばならぬと思わせるような魔力はありませんでした。ヌーヴォー・ロマン特有の遊びの感覚が私のようなまじめな人間にはちょっとつらかった。でも日本に帰ってくる前に古本屋に売っちゃったのはちょっと後悔。
 何はともあれ、推理小説というのは普通しっかりとストーリー構成をして書くものですが、もし警察の調査の後述の記録を並べたら、小説としては「読めない」ものになってしまうでしょう。たとえ表面的には本物の口述記録を気取っているとしても、あくまで小説として書かれているパンジェのこの本を、私は最後まで読まなかったけれども、最後まで読んでもきっと結局この小説が何を物語っているのかはよくわからなかったのだと思います。
 ところで二週間ばかり前までNHKの朝ドラで『瞳』というのをやっていたのだけれども、終わる前の日の金曜日にもまったく終わる気配がなかったので(というか「いつ話がはじまるのかな」と思っていた)、土曜日の新聞に最終回と書いてあるのを見て驚きました。最終回ったって何も解決するべきものがないじゃないのよ。毎朝テレビがついているだけでほぼ画面を見てもいなかったのだが、朝ドラなんてほぼ画面を見ていなくてもそこでテレビがついていればだいたい物語がわかっているものではないかと思うのに、こればかりはまったく話がよくわかりませんでした。何か新しい話題が出たときに、「この話はこの後展開するのかなあ」と思ってもまったくそんなことはなく、どこかに行ってしまう。当然伏線などというものも何もなし。ここまでドラマ性を廃したのは意識的なものだったにはちがいありません。放送中は「何とつまらないドラマだろうか」と思っていたのだが、終わったら「もしかしてこいつ、『将来的には傑作だったことになる』つもりなんじゃないか」なんてあらぬことを思ってしまいました。まったく「評価する」という意味ではありませんよ。
 『瞳』の脚本家らはまさかヌーヴォー・ロマンの方法論を意識したわけではないだろうし、「好きな映画監督はペドロ・コスタ」だったりはしないのだろうが、前衛は知らぬうちに凡庸化し、知らぬうちにひとは前衛をどこかでなぞっていることがあるものなのです。『瞳』においてはあくまで「どこかで」でしかなかったのだが、これはもしかしたら見るひと各々が「猫がかわいい」ということだけに注目するような未来のドラマの姿を指し示したものなのかもしれません。私はその猫の存在に気づきもしなかったけれども、つまらないと云いつつ見ていたひとが発見した『瞳』の猫は、『嫉妬』のむかでだったのかもしれません。もっともまったく朝ドラからドラマ性がなくなったらドラマと呼ぶわけにはゆきません。朝ドラからドラマ性をとったらただの朝になってしまいますからね。でもインスタレイションアートのような「ただの朝」の朝ドラというのも可能性としてないでもないか。
 前衛の凡庸化の例には事欠きません。ブランショは「書物の不在」という地点を指し示したけれども、今やインターネット社会がまったく意識をせずにブランショの予言を実現しています。それはきっとブランショ自身が予測しなかった形でのことでしょう。デリダはブランショ論『すみか』のなかで、ブランショは記述のなかにわざとまちがった情報をまじえることによって、倫理的な目的をもって、自分の言説の信用度を落とそうとしていたことを分析しています。現代のインターネット上にあることばは、まったく自覚することなしに、一個の人間の比喩である書物という枠組みを失った、はじめもおわりもない新しいことばの形を指し示しています。
 デリダ自身の「署名理論」も、この情報社会のなかで、おそらく本人も思いもしなかったような形で有効性を獲得しています。比較的に短いものでありながらもきわめて重要なものであるニーチェ論『拍車』において、デリダはニーチェの「今日私は傘を忘れた」という文から、もしニーチェの書いたものがすべて「私は傘を忘れた」の側から理解されるようなものだとしたらどうなるのかという疑問を提出しています。「ニーチェの書いた文はすべて収録しよう」という全集の編集者の意図は、たとえ「傘を忘れた」という文がその統一性を乱すものであるように思われたとしても、明確な方向性をもったひとつの意図ですが、インターネット上においては、もはや署名によってひとりの人間の全的な人格を代表するものとされた一冊の書物は存在せず、ただことばがことばだけで存在しているのです。ツァラトゥストラが過去を振り返って嘆いた、まさに「断片でしかない」ものの姿がここにはあるのです。ブランショが『ツァラトゥストラ』のことを「不快な書物」と呼んだとき、彼は「ではもう一度」と叫んで過去を回収するべきではなく、「断片は断片のままとどまるべきだ」と考えていたのでしょう。「インターネットはポルノ」という連想は、ポルノが人間の人格の同一性を粉砕して断片化された肉体を示すことと、インターネットの言説の断片化の類似から生まれたものであるのかもしれません。
 このようにしてことばから名前が奪われてゆけば、将来的にはピカソがにこちゃんマークを書いた皿がピカソの作品ではなくてにこちゃんマークを書いた皿としてきちんと評価されるような時代がやってくるかもしれません。そのうちに世界がようやく、出自と身分をもった全的な人間によってではなくて、サド侯爵の云うところの「一日のうちに美徳と悪徳の両方に身を委ねることがある」、人格などない断片化された人間によって構成されることになるのかもしれないのです。


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2008年10月9日木曜日

NNNと「ゆうちょ」の関係?

 さっきテレビのNNNのニュースで「フランスでは『ゆうちょ』がブーム」というニュースをやっていました。何の話かなと思ったら「リーブレア」のこととのこと。Livret A のことでしょう。「A通帳」とでもいうんですか。フランスの金融機関には普通いわゆる通帳がありませんけれども(月ごとの支出明細が送付されます)、この「A通帳」と呼ばれるものはもともと Caisse d'épargne (ケース・デパルニュ)という金融機関の商品です。Crédit mutuel (クレディ・ミュチュエル)では同じものが Livret Bleu (リヴレ・ブルー)と呼ばれます。「青色通帳」というんですか。A通帳しか聞いたことがないんだけど、B通帳というのはヌーヴェル・カレドニー(ニュー・カレドニア)にあるようです。「A通帳」はCaisse d'épargne の商品ですが、郵便局(2005年以後金融部門は「郵便局銀行」 Banque postale の名前)でも取り扱われています。  A通帳は1818年に人道的な目的で設立された金融機関 Caisse d'épargne がつくったものですが、1870年代から郵便局の窓口でも Caisse Nationale d'Epargne の業務として取り扱われていて、これが1990年に郵便局の業務に統合されています。むかしは通帳が発行されていたのですが、もう通帳が使われない現在でもA通帳の名前が残っています。  Caisse d'épargne の訳語は「貯金金庫」「貯蓄銀行」などとなっています。手元にある1987年発行の新スタンダード仏和辞典には、「日本の郵便貯金にあたる」と書いてあります。どういう根拠のある記述なのか私にはわかりませんが、きっとそれなりの根拠はあるのでしょう。おそらく郵便局が当時 Caisse Nationale d'Epargne (国営貯金金庫)の業務を兼ねていたからということなのでしょう。しかし現在もある Caisse d'épargne と、もう存在しない Caisse Nationale d'Epargne は同じ商品を扱っていたとしても別の金融機関です。郵便業務とは縁のない Caisse d'épargne の口座 compte d'épargne (その理論上の通帳が A通帳にあたります)が日本の郵便貯金の口座にあたると云うのはむずかしいと思います。Caisse d'épargne に相当する金融機関は、ドイツ、スペイン、イタリア、ルーマニア(とカナダ)にあるということです。ヨーロッパの金融機関のグループは英語で World Savings Banks Institute と呼ばれるそうです。一方で Crédit mutuel は訳してみると「相互信金」という感じでしょうか。  正直なところ、私は日本でも郵便貯金と普通の銀行の貯金の間のちがいがよくわかりません。通帳の名前がちがうのかなあ、と思うくらいです。これに信用金庫とか農協などを加えてみても、やっぱりちがいがよくわかりません。興味がないからですね。フランスにも色々な制度がありますが、当然日本ではこれにあたると簡単に云うことはできません。私の知識がないからというよりも、そもそもヨーロッパの国と極東の国がそれぞれにつくっている制度が並行して一致するわけがないのです。  私の理解するかぎりでは、Caisse d'épargne が提供するのはどことなくイメージとしては日本の積立定期預金に似たようなものです。しかし普通預金のように管理の自由が効きます。積立金額は決まっていないし、引き出しも自由です。これに結構いい利息がつくので人気があるのです(2008年8月1日からは非課税で年利4%)。ただしこれには上限額があり、個人では15300ユーロまで(200万円くらい)、非営利団体では76500ユーロまで(1千万円くらい)とのことです。よってこれはまったくの庶民向けの商品です。通帳はひとり一冊しか所持することができません。この Caisse d'épargne という銀行の名前は「へそくり銀行」というニュアンスで考えたらわかりやすいと思います(この銀行のマスコットは少しずつ堅実に食べものを蓄えるリスです)。他の銀行もこの商品を扱いたく思って、三つの金融機関だけに独占されているのは不当だと主張していますが、今のところこの主張は認められていません。  Livret A にはもともと Caisse d'épargne の商品とのイメージがあり、この金融機関は郵便業務とは無縁です。確かに郵便局銀行もこの商品を扱っていて、その人気があるというのが事実としても、これは郵便局銀行以前に Caisse d'épargne が扱っている商品で、名前はちがうとはいっても同じものを Crédit mutuel が扱っています。これらの複数の金融機関によって扱われているただの「A通帳」という名前の Livret A のことを、しかもこちらは日本で生まれたばかりである「ゆうちょ」であると云うことには、いくら何でもむりがありすぎないでしょうか。たとえ「フランスでは『ゆうちょ』が人気」というニュースには大した宣伝効果もないとしても、これは情報操作による「ゆうちょ」の宣伝であるという印象を私はもちます。  日本の銀行もフランスにならってこんな商品をつくってほしいというのならまだ話はわかるのですが…。まあ、上限200万円の口座の商品をつくるなんて、日本の銀行家からすると「何云ってるの?」という感じでしょうけどね。 P.S. Caisse d'épargne はこの金融が不安定な時期に投機に失敗し、6億ユーロの損失を出しました。責任をとってトップが三人辞任しました。一般の顧客には影響がないと主張していますが、本当でしょうか。  来年の一月からはすべての銀行が Livret A を商品として提供できることになっているそうです。現在の不安な時期にこの商品は魅力的なので加入者数が増加しているとのことですが、来年の二月には金利を見直して、3%から3.5%程度になるだろうという話です。何にしろ「フランスでは『ゆうちょ』が人気」というニュースは実に不透明なものであるという印象をもちます。 前の記事 相互性の論理を一度括弧に入れる 次の記事 ルクレジオと『瞳』について

2008年10月8日水曜日

相互性の論理を一度括弧に入れる

 以前に書いたことがありますが、フランスの国立通信教育学校の日本語の教科書の教材のなかに、「沖縄の高校生からの手紙」なるものがあって、その内容に憤慨しました。「最近海外で暮らした日本人の差別の体験を書いた本を読みました。私も差別をしない人間になろうと思います」という記述に私はかちんと来ました。しかしかなりの数の日本人はこのような相互性においてだけ差別というものを考えているのではないかという深刻な危惧を感じます。
 差別とは歴史的、社会的な背景の上に立つもので、いささかも「こういう体験をしていやだった」という個人の体液に基づいたものではありません。それなのに「自尊心が傷ついた」などというくだらないことが差別の体験だったとかんちがいする人間が非常に多いのです。前にフランス人が日本人に対して抱くイメージのひとつに「怒りっぽい」というものがあるということを書きましたが、このときに用いられる susceptible ということばは、「非常に自尊心が高い」ということを意味します。(わざわざそういう日本人がまちがってフランスに行っているのかも。)
 今はもうしませんが、フランスではよくチャットをすることがありました。私は暗いので管理人とばかり仲良くしていました。あるとき管理人にことばを削られたので、それでしばらくやりとりしました。中身はよく覚えていませんが、私が「いいよ、もう黙るよ」と云ったら、「あなたも本当に日本人ねえ ;-p」と云われました。ぶすっとして黙りこむとかそういうのが、むだに自尊心の高い日本人の怒りっぽさのイメージのひとつでしょう。
 こういった鼻高々の日本人がちょっと海外に行って不愉快な思いをしたからといって「差別の経験をした」とのたまうのは、実際に長い植民地支配を受けた諸民族のことを考えてみれば、へそが激怒でお茶を沸かします。
 だいたい「自分が差別されたらいやでしょう、だから差別なんておいたはだめよ」というお子ちゃま向けの差別理解はいったいどこに行ったら通用するというのでしょうか。フランスの白人は「外国で差別されたらいやだから差別はしないようにしよう」と思っているとでもいうのですか。このように考えるのはフランスで有色人種の側に立って人種差別と闘っているひとに対する侮辱でしかないでしょう。逆に、どこの国の名前をあげたら例としてふさわしいかわからないが、長い間植民地支配を受けたアフリカの国の現地人は、「自分たちの民族は長い間差別されていやだったから、外国人のことは差別しないようにしようね」と仏様みたいなことをみんなが思うとでもいうのでしょうか。残念なことですが、ジンバブエのような畸形的な国が生まれてしまうことの方が理解しやすいような気がします。
 多民族間の支配の形にはいろいろなものがあります。ふたつの集団だけを考えてみても、支配するA集団がB集団に比べて圧倒的に多数である場合、A集団は少数だが軍事力、警察力をもって多数であるB集団を支配している場合などが考えられます。
 わかりやすい例として、日本が太平洋戦争、大東亜戦争(たろちゃん)に勝った場合を想定してみましょう。大日本帝国は軍事力によって北米を支配しています。日本人は北米の現地人に比べて圧倒的に少数ですが、役人は日本人によって占められ、裁判も常に日本人に対して有利です。日本人の若者が北米の現地人の女性を集団レイプしても、「元気があってよろしい」と無罪放免です。こんな社会において、ある日本人が現地人の集まる酒屋で袋叩きにあい、身ぐるみはがされました。加害者たちは被害者のことを知らず、ただにっくき日本人だったからという理由で犯行に及んだのです。裁判では加害者が全員死刑の判決が下されました。「加害者は被害者が日本人だったという差別的な理由から犯行に及んだのであり、きわめて許しがたい」からです。このような理屈をうのみにすることができるでしょうか。
 抑圧されている集団は支配的な集団に属するものをリンチに処することができるなどとは云いませんが、それでもこの際まず第一に問題である人種差別は、支配者である日本民族が北米の現地人に対して加えている社会制度による差別であり、酔っ払って荒れ狂うむくつけき北米の酒場の客が、まったく心やさしいひとであるにちがいない日本人の客に対して感じた人種差別的感情は、それに比べると無視できるほどに小さいものだと主張できます。
 しかしもしここで支配する日本民族が公平な裁判を心がけることにして、日本人に暴力をふるったものはみな死刑、という乱暴な法律を廃止し、役人の試験も現地人に開かれた公平なものにしたら、そのときには身ぐるみはがされた日本人の主張に耳を傾けることができるかもしれません。
 素朴かつ単純な考え方をすると、支配者は決して自分に不利な法律はつくらないと想像してしまうかもしれませんが、実際には支配者は自らの権限を制限して、被支配者にとって司法上の不公平がないようにする法律をつくるのです。人種差別を禁止する法律はこのようにしてつくられます。「差別されたらいやだから、差別しないことにする」というような相互性が終わったところから具体的な差別対策ははじまるのです。相互性にとどまっているかぎりは、「この国では差別を及ぼしているのはまず第一に自分である」ということが自覚できないから、それを制限しようという発想も浮かびません。
 政治家が「日本は単一民族である」と発言することがどうして問題なのかよくわかっていないひとが多いと思いますが、この問題はここから理解されるべきです。つまり「日本国は日本民族が支配している」ということに対して無自覚なのが問題なのです。上にあげた例は支配するA集団が支配されるB集団に比べてきわめて小さい集団である例ですが、今の日本の実情は支配するA集団が支配されるB集団にくらべて圧倒的に大きな集団であるという状況にあります。ここにおける力関係は、「私もあなたも差別し差別されている」という夢のように平和な相互性(しかしこのように考えたがるひとが目につきます)によって理解できるものではありません。小さな集団が大きな集団を支配する場合に必要とされる被支配集団を尊重する法律がこの場合にも必要だということが、「単一民族」の意識からは決して自覚されることがありません。このような状況で、「差別を禁止する法律」など生まれようがないのです。自分ではまったく他者を支配してなどいないつもりだから、差別しているつもりもないのです。ないものにどうやって対策をつくれるでしょうか。
 個々の間の相互的な関係ではない集団の間の力関係は存在しないものとして無視する言説が今の日本にははびこっています。すべてが「私があなたの立場なら」という気分的、体液的なものとして理解されるのです。「空気」もそういったものでしょう。「あなたの立場」には決してなれない超越的な懸隔がどこにも想定されていないのです。与党と野党の間の論戦ですら、政権をもっているものと在野のものとの非対称な対立としては理解されず、まったくもって相互的な、気分的ないがみ合いなのです。
 もっと小さな言論の場においても同じことです。インターネット上において、政治家、権力者を批判するが、その批判の根拠を「自分は名もなきものである」というところに置くひとがいます。この立場は尊重されるべきものです。「自分で他人のことを批判しておいて、自分では『名もなきもの』であると云って逃げるのはおかしくないか」という相互性の論理によって、こういった立場を無化することはできません。地位と権力をもっているものと名もなきものの間にある明白な差異を「同じ人間」の相互性によってすりかえることはできません。この種の主張を「私なら」というところから考えてしまうからおかしなことになるのです。「私なら、自分ではひとを批判しておいて、自分では批判から身をかわすことはしないだろう」と思う、というところからすべてを発想する必要はないのです。力関係がある集団の間ばかりでなく、個人と個人の間にも、さまざまなものによってつくられた、越えられない懸隔があるという事実を見据えるべきなのです。インターネット上でことばを発するものはみな平等、などという他愛もない夢物語を信じるのはやめましょう。「私なら」というところから発する主観的な相互性の論理を一度括弧に入れて、行動を理解する対象である他者ではない、ただそこに存在する他者の存在を見たときに、初めて真の寛容が生まれます。この真の寛容とは、寄ってたかってひとを身ぐるみはがす酔っ払いの集団の心情に対する理解ではありません。このような人間がそこに存在するということを理解することです。私ではない人間がそこに存在するということを理解するところからすべてがはじまるのです。これは必ずしも簡単なことではありません。

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英語風なんだ ;-D

 暗いニュースばかりがテレビや新聞紙面をにぎわす昨今、米国籍のひとまで含めて何と三人もの日本人がノーベル賞をとったという、まさに論理の奇蹟、国際性のアクロバットとも呼べるニュースは、久々の明るい話題と云えるでしょう。おめでとうございます。朝日新聞の楽しい記事は毎日私たちをほほえませてくれますが、受賞者のひとり益川さんについての記述にも思わずにっこりしてしまいます。益川さんは自称「国宝級の門外不出人間」で、筋金入りの英語嫌いゆえ英語を話すのがいやとの由。日本語とフランス語ばっかりで英語を話すのはいやな俺とそっくりだ。しかし益川さんは英語論文を読むのには不自由しないのだそうです。よかった、よかった。私が特に気に入ったのはここ。
 論文上では名前のローマ字表記を「MASUKAWA」ではなく、英語風の「MASKAWA」で通している。
 英語風なんだ ;-D これは楽しいですよね。これで今日も一日楽しく過ごせます。MASK というところが英語風ということなんだろうね、ジム・キャリー。どうせならさらに一歩進んで MASKOWER とか MASKAUER (ドイツ系米国人風、米国人なのはドイツ語風ではなくて英語風だから)とかしてほしいね。そういやむかしマーシャ蔵川ってひといたよなあ。
 この朝日の記事は、益川さんは英語を話すのは嫌だが英語論文を読むのには不自由しない、と云って、英語で論文を書くのに不自由しているのかどうかには言及していないところにも、日本人ならではの省略の美学を感じます。益川さんは論文を日本語だけで書いてそれをだれか他のひとが訳すのでしょうか。署名だけ MASKAWA と「英語風」にするだなんて、筋金入りの英語嫌いも何もあったもんじゃねえよ。外から来るものを受けとっては自分の糧にしてばかりいる「和魂洋才」ですなあ。発信する際の力不足に関しては、魂で頑張ってるよ!という気がします。「自分の論文を日本語で世界の人に読んでもらいたい」というのが夢、というんだが、これぞ魂の叫び、赤心の歌、大きく出たもんだ。何云ってるのかわかってるのかなあ。朝日さんも何を書いているのかわかっているんだかどうだか。ねえ。
 日本語の海外教育に関しては、「やめませんとなりませんでした」で行こうぜ。あれ、これじゃあきらめたことになるのか。まあ、自分じゃ外国語を使うのがいやだが、海外のひとは日本語を勉強しろなんてことを云われたら、あきらめたい気分にもなるわなあ。

P.S. 私はフランスのニュースで先に「米国人ひとりと日本人ふたりがノーベル物理賞を受賞」というのを見たので、「日本人三人」に非常に違和感を感じたのです。普通報道は国籍で伝えるものではないかと思うんですが。

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2008年10月7日火曜日

日本軍

 日本人は何の義理があるのか、むかしビルマと呼んでいた国のことをみんなでミャンマーと呼んでいるようです。将来的には、『ビルマの竪琴』も『ミャンマーのたて琴』と題名を変えることが検討されているようです。フランスに行くと簡単に気づくことですが、フランスのニュースや新聞では、よっぽど変わったものでもなければ、ミャンマーという名前は用いません。相変わらず Birmanie といっています。これはベラルーシやモルドヴァに関しても同じことです。むかしどおりの Biélorussie, Moldavie という呼び名はほとんどの場合変わっていません。英語の雑誌から写真を転載するときには、ときどき英語の表記が変わったことがわからなくて、「インドの Mumbai という街」の写真が載って、フランス人にはどこのことやらわからないという困ったこともあります。
 「よっぽど変わったもの」の例としては、Courrier International という変わりものの週刊紙をあげることができます。私は見たことがありませんが、「クーリエ・ジャポン」という日本版も出ているそうです。フランスでは私はCIを定期購読していたのだけれども、この週刊紙ではビルマのことを Myanmar と表記しています。
 この週刊新聞では日本の自衛隊のことをご丁寧にも Forces d'autodéfense と直訳していますが、これもほぼここだけだと思います。他のところでは普通に armée japonaise といっています。何の変哲もない「日本軍」ですね。「天皇」が empereur 「皇帝」と訳されるのと同じで、「自衛隊」がただの「日本軍」になっているのにもショックを受けるひとがいるかもしれません。(ちなみに、フランス語では Mikado はポッキーのことだと思っているひとがいますけど、これはもともとポッキーじゃなくて、箸を何十本もばらばらに積み上げて山をつくり、この山を崩さないように交替で一本ずつ箸を抜いていって、崩したひとが負けというゲイムのことです。ポッキーはこのゲイムに使われるお箸に似ているからこの名前で呼ばれるのです。)
 ショックを受ける、といえば、日本人が核を保有していると疑われていることにもショックを受けるひとがいるかもしれません。これはフランス語版のウィキペディアに載っている図ですが、ピンク色は核の保有が疑われている国です。 私も友人と話しているときに「日本は核をもっていないよ」と主張したら、「お前がそんなことを信じているとはびっくりだな」と笑われました。もちろん彼は日本の話なんてまったく知りませんが、「国が嘘をついているのは明白だろうに、お前のような人間がそんなことを信じているのか」と云いたかったのです。
 日本のことをよく知っているひとならば憲法第九条の存在を知っているけれど、そんなひとはよっぽど変わったひとで、普通のフランス人は日本には強力な軍隊があって核も保有していると思っているのではないかしら。この前たろちゃんが首相になったときに、ヨーロッパ1というラジオ局のニュースで、リポーターがキャスターに「ここ50年の日本の首相の名前を一人でもあげられますか?」と聞くと「いやあ」と相手は照れくさそうに答えて、リポーターは「みんな同じです、だれも知りません」と云っていたのだが、これがフランスの総合ラジオ局としては第2位の局のニュース番組の話ですからね(もっともこの対話はふたりとも軽いひとでしたが)。首相の名前ですらこうなんだから、何の宣伝もしていなければニュースで話す必要もない日本の憲法第九条の話なんてまさか普通のひとが知るわけがありません。
 ところで私は憲法第九条も自衛隊も両方守りたいひとの気持ちがよくわかりません。どうして第九条を守りたかったら憲法に手をつけてはならないという理屈になるのかが理解できないのだが、これは「両方とりたい」という欲張りかつよくわからない気持ちに基づいているので、主張もよくわからなくなるということなのかしら。自分の頭のなかがすっきりしているのなら、憲法を時代に合わせて変えてゆくのは当然として、非戦主義も守ることにすればいいではないか。単純な話です。
 しかしどうして「からっぽの非戦主義」を守りたいとみんな思うのかは私にはやっぱり理解できません。お題目だけありゃあいいってことなのか? 解釈がはっきりとするように第九条を書き換えて、自衛隊も廃止するなり極端に縮小するなりしたいという主張ならわかるけどね。
 やっぱり世界の軍事費ランキングとか発表されたときに、憲法も自衛隊も守りたいひとたちは抗議するべきなのだと思います。「自衛隊は軍隊ではないのだから、いっしょにするな!」と大声で叫ぶべきです。世界自衛隊ランキングだけ別につくってもらって、毎年ナンバーワンと最下位をともに獲得するのです。これぞ日本人にとって夢の世界です。要するに自衛隊容認の護憲論というのはこういう主張なんじゃないかなあ、と私は疑っているんですが。「説明はできないが日本は特別だ!」という主張のヴァリエイションなんじゃないの。「自衛隊が軍隊ではないのは天皇が皇帝ではないのと同じことである」ということなのではないかしら。まあ、だれにも理解できませんね。
 ところでたとえばフランスには防衛省(国防省)がありますけど、これも困りますよね。「日本の非戦主義と混同される可能性があるから、何度も交戦を繰り返しているあなたのところでは防衛省ではなくて国軍省と名前を変えてくれ」といろんな国に難癖をつけて回る、という可能性も検討しなければなりません。九条と自衛隊を同時に守りたいひとたちがするべきことはこういうことなのだと思います。非戦主義の憲法に抵触しない日本の自衛隊がいかに特殊なものであるかを世界中に喧伝するのです。やれるもんならやってみな。
 冗談はさておき、私はもし九条を死守したいというのであれば、たとえ裁判所が何を云おうと理屈からすれば違憲であるにちがいない自衛隊をすぐさま廃止するか、そうでなければまず自衛隊の名前をニコニコ国民守り隊か何かに変えて、大幅に規模を縮小するべきだと思います。いちばんいいのは自衛隊を普通の軍隊にして日本を普通の国にすること、とむかし小沢くんが云ってたような気がするんだけど、気のせいかな。みんな大好きエマニュエル・トッドも日本は核を保有したらいいって云ってますしねえ。(一応云っておきますと、私の本当の本音は「武力の完全放棄」です。)
 最後に有馬敲のポエムを引用しておきます。30年くらい前のものではないかと思います。(名誉のためにつけくわえておきますが、有馬氏は「護憲派」詩人であります。たぶん私のようなふざけた人間ではないでしょう。)

憲法第九条よ
君は永久平和をうたい
戦争放棄をうたっている
でも誰もそんなことは
信用しちゃいない
今じゃ君は 日本人が
ことばと行動を一致させる誠意に
欠いていることを証明する好材料を
世界に提供しているに
すぎないのだ

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メディアによる無自覚な差別の例

 「我々はたとえ何があろうと三浦元社長と呼びつづける!」という決意表明はメディアのひと以外にはまったくかかわりのないものだが、このようなどうでもいい決意が差別的なものに転化する場合がありえます。
 数日前に起きた大阪のビデオ屋の火災での被害者について、あるテレビで「前は…県…市在住」(県は滋賀県だったと思います)という表現がされていました。その上に字幕が出ている別の被害者の名前の前には、普通に「大阪市浪速区」と出ていました。今日の朝日新聞の朝刊には、同じ被害者について「住所不詳」という書き方がされています。
 この「前は…県…市在住」という表現と、「住所不詳」ということばは同じことを意味しているのでしょう。「未詳」ではなくて、「不詳」であるところにこだわってみると、「まだよく調べていないので住所がわからない」のではなくて、「よく調べてみたけれどもわからなかった」のでしょう。これがもし容疑者、加害者の側であったら、「住所をよく調べてみたけれどもわからなかった」ひとは「住所不定」と書かれることになるのでしょう。被害者を「住所不定」呼ばわりするのは忍びないということなのだと思います。いわば「住所不定はイメージが悪い」ということをメディアが身をもって示しているのです。一部ではこれぞまさに良識の塊とも呼ばれる朝日新聞のような良心的な新聞が意図的に差別を働くとは私には思えないので、これは住所不定のひとに対する無自覚な差別なのでしょう。「住所不定」ということばはまったく差別的なものではありませんが、被害者に対してはそのことばを用いないことによって、差別的なニュアンスを与えているのです。「住所不定ということばをあえて使わないのは、お前が住所不定ということばのイメージが悪いと思っているからではないのか。このような態度は、たとえ意識的なものではないとしても、差別をはらんでいるのではないか」ということを指摘する同僚がそばにだれもいないのなら、この差別は無自覚なものにとどまります。
 似たような例は他にもあります。たとえば「女性」ということばに対して「女」ということばが差別的なニュアンスがあるとは私には思えません。それでもテレビなどでは、被害者は常に「女性」で容疑者は「女」です。「『女』ということばは差別的だから使用には気をつけよう」と云いたいのなら、同意はしませんが、理屈そのものは理解しようと思えばできます。しかしこの場合は、「『女』ということばには差別的なニュアンスをこめよう」ということをメディアは云いたいのだということが私には理解されます。このようにして、メディアはむしろ自ら差別をつくりだします。「犯人」と云わずに「容疑者」と呼ぶというせっかくの気遣いの意味がここではみごとに無化されています。(「男性」と「男」でも事情は似通っているのだから、ここで問題になっているのは直接的には性差別ではありませんが、このようにして発明された差別[「容疑者」にふさわしいことばとしての「女」]が性差別に活用されるということはありえます。それにメディアで使われることばとしての「男性」と「男」の間の差異と「女性」と「女」の間の差異の質のちがいは無視できないものだと思われます。)
 まあ、無自覚なんだから、大したことじゃないよ。

P.S. もっともここにあるのは差別ではなくて、「住所不定」と「住所不詳」の間には、メディアのひとには明白にわかるけれども私には理解できていないちがいがあるのかもしれません。しかしそうだとしても、「元社長」と同じで、メディアのひと以外にはかかわりのないことです。私の云うことはまちがっているのかもしれませんが、私の考え方を述べてみました。あしからず。

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2008年10月4日土曜日

フランス人がシャルル・ペギーを読まない理由

 フランスの普通の本屋さんでシャルル・ペギーの本を探してもまず見つかりません。私は何となく、ペギーはおもしろい詩人、作家であるにもかかわらず、20世紀初頭のフランスナショナリズムの匂いがするから今は読まれないのかな、と思っていました。このことを精神科医に聞いてみたところ、「いや、高校で勉強するからでしょう」とのこと。学校でむりやり読まされるものをわざわざ改めて読んでみようという気はしないということなのでしょう。
 フランスの中高生に日本語を教えるときに、それが別に障碍になるということはないのですが、彼らが子供のころからどういうことを勉強して吸収してきているのかがわからないということが少し気になりました。いま何歳くらいならこういうことを知っているだろう、ということがこちらの側からはつかめないのですね。それは自分が子供時代をフランスで過ごさなかったからです。
 学生寮にいた頃に、隣りの部屋の女の子が私の部屋でフランス語の俗語辞典を見つけて、「ちょっと貸して」と云って借りてゆきました。「私には必要ないけど、どういうことが書いてあるのかに興味がある」と云っていました。もちろんフランス語を母語としないひとでなければ、めったにフランス俗語辞典を必要とすることはありません。逆に私にとっては、俗語が非常にむずかしいものです。いい作家の文章よりも、しばしば雑誌に載っているジャーナリストの文章の方がむずかしいということがあり、普通の若者の会話を理解することは、大学の授業を理解するよりもずっとむずかしいのです。
 フランス人には、「テレビは見ない、特にTF1のような低俗なテレビ局は見ない」というひとは多く存在します。それは必ずしも趣味のよさと教養を自らもって任じるひとだというわけではありませんが、一般的にはそういう傾向がみられると云っていいかもしれません。彼らにとってTF1のような低俗なテレビ局がおもしろくないのは、それを見ても改めて何も学ぶことがないからです。TF1の自社向けのドラマやドキュメンタリーには、多くの紋切型があると云えるかもしれません。(もっとも「TF1の番組は低俗で紋切型だらけだ」というのがもうひとつの紋切型ではないかと私は思うのですが。国営放送の番組がTF1に比べて特にすぐれているとも思えません。) フランスで生まれ育った人間がフランス人ならとうのむかしに聞きあきた紋切型や、云ってもらわなくてももうわかっていることを嫌悪するのは理解できることです。(その一方で「もう知っていること」を再確認することは常に気持ちのいいことです。何も考えないで他愛のないものを見るのがいいと思うひとが多数いるのはまったく当然のことです。これはふたつのちがうグループではなく、ひとはしばしばこのふたつの傾向を合わせもっていると思います。)
 フランスに行って知り合ったフランス人が、たまたま「TF1は見ない」というひとばかりで、自分でもその態度を真似るという日本人が存在するのは理解できないことではありません。それでも一歩下がって考えてみれば、これは滑稽な態度なのかもしれません。フランスの普通の本屋ではシャルル・ペギーの本は売っていなくて、普通の大人はつまらない作家だとして読まないとしても、それは「もう高校で読んだ」からなのです。高校で読んでいない外国人は、フランス人には「何でシャルル・ペギーなんか読むの?」と思われるかもしれないけれども、改めて読むことができるでしょう。フランス人にはフランス語の俗語辞典の必要がないのは、辞書がなくても俗語の意味くらいわかっているからです。その女の子は、「今まで俗語辞典なんてだれが買うのかと思っていたけど、あなたのようなひとが買うんだね」と云って笑っていました。
 同じように、ある種のフランス人がTF1を見ないのは、TF1で伝えられるような世界は既に知っている通俗的なものだからです。わざわざお金を払って俗語辞典を買う必要がないのと同じことで、わざわざ時間をかけてこんなものを見る気がしないというひとがいるということです。たとえば「良識派」のひとは、TF1のお昼のニュースでは、世界で何が起こっていようと、フランスの地域の話題を伝えることをばかにします(トップニュースが一年330日くらいは「今日の天気」です)。たとえば折々の話題で、かなり時間をさいて、リムーザン地方の陶器づくりの話や、ブルターニュの町ヴィールのアンドゥイユ(腸詰)づくりの話をします。教養あるフランス人なら「そんなおおよそ必要のない話をわざわざニュースで伝えてほしくない」と思うかもしれませんが、日本人としてはどうでしょうか。教養ある良識派の大人のフランス人が求める情報を真似ているばかりでは、現代美術や現代芸術についての知識は身についても、「ヌガーと云えばモンテリマール」という子供でも知っていることをずっと知らないままで終わるかもしれません。このような知識は非常にいびつなものであるのにちがいありません。良識派のフランス人が「くだらない」と断じるコメディアンのことを、わけもわからずいっしょになって「くだらない」と主張するよりも前に、そもそも自分がそのコメディアンの云っていることやつぼが理解できているのかどうかを反省した方がいいでしょう。
 文学研究などについても同じことで、フランスの研究者はフランス人にとっては明白であるようなことば遊びやもじりなどについては、まずわざわざ言及することがありません。それはまったくもってよく理解できる態度です。外国人にとっては大きな欠陥であるこのような「平凡な知識」を身につけるためには、教養ある良識派はあえて追い求めない「平凡な情報」を追い求めなければならないのです。
 そんなことを知らずとも、フランス人の教養ある良識派を首尾よくまねることはできます。彼らはあなたの知識がいびつであることを気にしないでしょう。こういうひとたちを真似たいのなら真似ればいいのだと思います。こういうわけで、もちろん私の云っていることは、高度な教養だけが問題なのであって、「カステルノーダリーのカスーレとトゥールーズのカスーレのどちらがうまいのか」といらないことには決して頭を悩ませたりしないひとにはまったく関係のない話です。大学の授業よりも普通の若者の会話の方がむずかしいからって、若者の会話を理解する必要があるの、というひとには縁のない話です。

P.S. 今日の新聞に『渋谷語事典』というものについての記事が載っているのだけれども、フランス人の若者のことばを理解するために外国人に必要な知識と、こういう日本人すらどこでだれが使っているのかわからない日本の若者のことばのことと似たようなものとして理解されると困るかな、という気がします。

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2008年10月2日木曜日

ポル・マカトニ

 たった一度だけですが、フランスにいるときに韓国人とフランス語で話していたら、「どうしてあなたたちフランス語で話してるの?」と聞かれたことがあります。このひとは「東洋人なら東洋人らしく英語で話せ!」と云いたかったのではなく、単純に私たちがちがう国の出身であるということを知らなかっただけの話です。(変なことをかんちがいするひとがいがちなのでわざわざいらないことを断りますと、「たった一度だけ」だったのは東洋人同志でフランス語で話していることについて理由を質問されたことで、韓国人と話したことではありません。)
 北米からフランスに来ているひとのなかには、「フランス語なんて別に話したくもないが諸般の事情によりしょうがないからフランスに来ている」ひともいるけれど、フランス語を積極的に使いたいひともいます。後者と話す場合は、私も後者なので、当然英語ではなくてフランス語で話します。米国人と日本人がフランス語で話すのはフランスでは珍しいことではありません。私はむしろ英語が話したくないので、米国人やカナダの英語圏出身の人ともフランス語でしか話しませんでした。
 あるとき、日本人と北米人で話しているときに、ある日本人がポール・マッカートニーの話をしたことがありました。フランス語の会話のなかで「ポール・マッカートニー」と英語風に発音していました。そのときに米国人の女の子がわからなくて聞き返しました。繰り返して云ってもわからないので、私が名前を云うと(英語風に発音したかフランス語風に発音したかは忘れました)、彼女は「ああ」と云って理解し、「ポル・マカトニって云うからだれのことかと思ったよ」と笑っていたので、それを云った日本人の男の子は「そんなこと云ってねえよ!」と怒っていました。実際このひとは、確かに「まるでネイティヴみたい!」というような英語の発音はしないとは云っても、普通に英語ができるひとです。
 私がおもしろいなあと思ったのは、彼はポールのルやマッカートニーのトに母音をつけるカタカナ発音はしていない(トにはちょっとついてたかな)とは云っても、長音符号はカタカナ風に伸ばしていたのに、米人の女の子はばかにして「ポル・マカトニ!」と云っていたということです。もちろん私は彼女の耳には「ポル・マカトニ」というような音が聞こえていたのだろうと主張することはしません。単純に東洋人の英語の名前の発音をばかにしていたのかもしれません。ただ一般的に云って日本人の耳に聞こえるものと米国人の耳に聞こえるものはちがうだろうということは思います。だいたい米国人の耳にはカタカナでは聞こえません。
 今の日本人は、バラク・オバマとかジョン・マケインとか書きます。ひとむかし前のひとならバラック・オバマ(オバーマ?)とかジョン・マッケインと書いたことでしょう。ポール・マッカートニーも新人歌手ならマカロニの親戚みたいなマカトニになっていたかもしれません。現代のカタカナ表記はつづりを目で見たときの心理的な要素をどんどんカットする方に向かっているのです。つづりを目で見たときに感じる心理的なものは、「どのように聞こえるか」にも影響します。英語のつづりに関しても日本語のカタカナ表記に関しても同じことが云えます。英語のつづりで McCain であるということを知りつつこの名前の発音を聞くとき私の頭に描かれる発音は、カタカナでは「マケイン」よりも「マッケイン」の方が近いと云えます。マケインというカタカナから原語のつづりを想像すると、かなり多くの可能性が考えられますが、ここに小さなツを入れるだけで、かなりその可能性が絞られます。「マッカートニー」と「マカトニ」についても同じことが云えます。前者はだいたいスコットランド系か何かだろうと思いますが、後者は世界のどこの苗字ともわかりません。マッカーサーとマカーサーを比べても同じことが云えます。促音符号や長音符号は原語のつづりを想像する心理的な支えになるのです。「オードレー」なら何かのイメージをもちうるけれども、「オドレイ」では何が何やらわかりません。ギー・ド・モーパッサンは十年後にはギ・ド・モパサンです(朝日新聞的にはギ・ドモパサン)。カタカナ表記は理論的にはたかが音訳だと云えます。しかしそんなカタカナのなかにも心理的な要素があります。この心理的なものが、正しくも何ともない勝手で新奇な正しさによって次々と駆逐されているのです。
 もちろんカタカナから原語のつづりを完全に想像することはできないとはいっても、カタカナ表記はできるだけそこから言語のつづりを回復しやすいものであってほしいと私は思っているのに、世のなかはなぜかその反対を望んでいるようです。こうしてなぜかいまどきのカタカナは心理的なものをどんどん切り捨ててゆくのです。その理由はよくわかりません。この方向にどんどん進んでいけば、日本人は「ポル・マカトニ!」とばかにされても全然ばかにされた気がしなくなるかと云えば、そうでもないんだろうというのが困ったところです。今のところは「そんなこと云ってねえよ!」と云って怒ることができるけど、将来的には「それがまさに俺の発音したものだ!」と云って怒ることになるのでしょうか。

P.S. 「東洋人なら東洋人らしく英語で話せ!」という冒頭のことばはわかりにくいでしょうが、日本人が白人や黒人に力試しで英語で話しかけるように、特にパリのフランス人は東洋人に対してだけは英語で話しかけるのです。「英語の力を試してみたい」のだそうです。もちろん東洋の国の公用語は英語だというのは常識だからなあ、と思うのです。
 別にこの文章に論理の流れはありません。「そういえば…」という感じでつながっているだけなので、どうしてこの書き出しでこの終わりなのだろうとか考えてもあまり意味がありません。あしからず。

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2008年10月1日水曜日

方言には気をつけよう

 小生先日電車に乗っていたら、中学生くらいかと見える健康そうな女の子が、むっちりと肉づきのいい腕の一か所が赤くなったところをボリボリとかいている。いっしょにいる友達が「どうしたの?」ときくと、「蚊に食われたらしい」。
 小生、「うむ、まだまだ食うは健在だぞ」と大いに意を強ういたしました。
 と高島俊男は「『食う』の悲運」という文章で書いていました。
 しかし東京女子大の篠崎弘一教授(社会言語学)によると、「蚊にくわれる」は「(方言と)気づかない方言」だったのですねえ。こわい、こわい。くわばら、くわばら。蚊に「刺される」が共通語で、「食われる」は方言なのだそうです。「使う側の意識では『刺される』があらたまった言い方、『くわれる』はくだけた言い方と区別して使っているようだという」 へえー。蚊に刺されたらかゆくて、あらたまるもくだけるもあった話じゃないという気がしますけどねえ。この記事によるとこの方言は「東日本を中心にほぼ全国的に使われている」ということだけれども、兵庫県相生出身の高島俊男先生、これが方言だったと気づかなかったとはうっかりだなあ。対立概念が「共通語」なのだから、日常語で普通に理解される「方言」のことを云っているのだろうけれども、何か納得できなくないか、これ。それとも「くだけた言い方」は「方言」だという意味で云っているのでしょうか。ほぼ全国的に使われることばを「方言」と呼ぶのは、日常的に理解される「方言」ということばの意味とちがうような気もします。短いインターネットの記事では何もわかりません。ともかく高島俊男のような食べられない頑固おじいさん(くだけた言い方では「喰えない頑固じじい」)の雑文よりはこちらの方が「信ぴょう性」(くだけた言い方では「信憑性」…、あれ?)があります。「食べれない頑固おじいさん」と書くと、「ら抜きことばはやめなさい」と叱られるので、これも気をつけましょう。「おじいさん」もこれからこの場合は「前期高齢者」と書いた方がいいかもしれません(高島俊男はまだ75歳じゃないから)。食べられない頑固前期高齢者、これが日本語の未来だ。頑固も前期ならまだ見通しは明るい!(あれ?)
 ところでさっきテレビ朝日で「まな娘」という字幕が出ていました。一瞬何かと思ったけどね。まな板と何か関係があるのかと思っちゃった。しばらく考えて、「ああ、マナムスメか」とようやく読めました。テレ朝的には「愛娘」では「愛」を「まな」とは読めない、と視聴者に配慮したんでしょうね。だったら「息子」の「息」も到底「むす」とは読めないから「むす子」と書くのも、また乙なもの、てな気もしますねえ。「乙女」も「おと女」でいくか。(「息子」と「乙女」は「付表」(まだあるの?)に載ってるのは知ってますよ。「まな」は造語要素で「息子」や「乙女」と話がちがいますけどね。そもそもがいい加減な話ですから。しかし「1人で」を「ひとりで」と読ませる字幕を出すテレビ局が、クイズ番組では難読漢字で盛り上がるのはいったい何なんだろう。まあ、豆知識を自慢するのは、ビールのつまみは世界記録みたいなもので、別の話なのか。)

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