今朝テレビを見ていたら「俳優の清水健太郎容疑者が…」と云って速報としてニュースをはじめていました。まだ事件の話をしていないのに、最初から「容疑者」と呼ぶのは、ニュースを伝える側には理解できる理屈だとしても、ニュースを聞く側を面喰らわせることです。
日本のメディアに独特の言語のなかで非常に気になるのが、それが自分たちの業界内のしきたりだけにのっとっていて、情報の受け手のことをまったく考えてい
ないということです。テレビの視聴者には、事件の情報が伝えられてはじめて「容疑者」ということばが意味をもつ、程度の論理は理解できるはずだと思うので
すが、このような単純なことすら無視するのです。
ひとりひとりが自分の責任においてことばを云う、程度のことを、どうしてメディアにすら徹底す
ることができないのでしょうか。なぜ日本のメディアには啓蒙しようという意欲がなく、行政機関の無責任を批判しつつ、自らの構成員も似たような無責任のな
かにとどまることを好むのでしょうか。「自分のことばは自分で責任をとる」程度のことは、メディアやプレスが率先して示すべきなのではないでしょうか。
「私のことばは、私には何ものなのかわからない権力の検閲の痕跡を既にとどめている」という隠されたメッセージを、メディアがみずから嬉々として発するこ
とのなかには非常に大きな問題があるのに、この問題に対してまったく無自覚なのでしょうか。
もしどうしても「容疑者」とつけなければならないというのなら、のっけから「俳優の清水健太郎容疑者が…」と云って面喰らわせるのではなく、記事の構成を変えればいいのです。最初から「容疑者」とつけることのなかには、「本来は呼び捨てでいいはずなのに、むりやりこのことばをつけさせられている」という意識が見え隠れして、聞く側としては非常に居心地が悪いのです。もっとも「清水健太郎容疑者」というのは「アホの坂田」のようなもので、テレビのひとにとっ
ては「清水健太郎」と「容疑者」がくっついているのかもしれませんが、それならそうとわかるようなふざけた調子で伝えてほしいものです。(ピーター・
フォーク、ピーター・セラーズ、トルーマン・カポーティ(!)出演の映画『名探偵登場』(Murder by death)でアレック・ギネス演じる「名前に挨拶がついている」執事「ジェイムズサー・ベンソンマム(Jamesir Bensonmum)」を思い出します。)
事件の話をまだしていないのに「容疑者」ということばを発するのはナンセンスだ、ということよりも、「破綻」の「綻」は常用漢字にないから「破たん」と書
くとか、これからは「依存」を「いそん」と読むことにしようとか、字幕でラ抜きことばを「ラつき」に戻すとか、そういうことの方が気になる人々というの
は、私には非常に不思議な人間に思えます。万人に共通の論理よりも、日々書き換えられる仲間うちの「しきたり」の方が大切だということなのでしょうか。
「こっちに来いよ」という気がします。メディアのことばがこっちに来ていないなんて、本来ならば、本当にとんでもない話なんだけどな。
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日本のメディアに独特の言語のなかで非常に気になるのが、それが自分たちの業界内のしきたりだけにのっとっていて、情報の受け手のことをまったく考えてい
ないということです。テレビの視聴者には、事件の情報が伝えられてはじめて「容疑者」ということばが意味をもつ、程度の論理は理解できるはずだと思うので
すが、このような単純なことすら無視するのです。
ひとりひとりが自分の責任においてことばを云う、程度のことを、どうしてメディアにすら徹底す
ることができないのでしょうか。なぜ日本のメディアには啓蒙しようという意欲がなく、行政機関の無責任を批判しつつ、自らの構成員も似たような無責任のな
かにとどまることを好むのでしょうか。「自分のことばは自分で責任をとる」程度のことは、メディアやプレスが率先して示すべきなのではないでしょうか。
「私のことばは、私には何ものなのかわからない権力の検閲の痕跡を既にとどめている」という隠されたメッセージを、メディアがみずから嬉々として発するこ
とのなかには非常に大きな問題があるのに、この問題に対してまったく無自覚なのでしょうか。
もしどうしても「容疑者」とつけなければならないというのなら、のっけから「俳優の清水健太郎容疑者が…」と云って面喰らわせるのではなく、記事の構成を変えればいいのです。最初から「容疑者」とつけることのなかには、「本来は呼び捨てでいいはずなのに、むりやりこのことばをつけさせられている」という意識が見え隠れして、聞く側としては非常に居心地が悪いのです。もっとも「清水健太郎容疑者」というのは「アホの坂田」のようなもので、テレビのひとにとっ
ては「清水健太郎」と「容疑者」がくっついているのかもしれませんが、それならそうとわかるようなふざけた調子で伝えてほしいものです。(ピーター・
フォーク、ピーター・セラーズ、トルーマン・カポーティ(!)出演の映画『名探偵登場』(Murder by death)でアレック・ギネス演じる「名前に挨拶がついている」執事「ジェイムズサー・ベンソンマム(Jamesir Bensonmum)」を思い出します。)
事件の話をまだしていないのに「容疑者」ということばを発するのはナンセンスだ、ということよりも、「破綻」の「綻」は常用漢字にないから「破たん」と書
くとか、これからは「依存」を「いそん」と読むことにしようとか、字幕でラ抜きことばを「ラつき」に戻すとか、そういうことの方が気になる人々というの
は、私には非常に不思議な人間に思えます。万人に共通の論理よりも、日々書き換えられる仲間うちの「しきたり」の方が大切だということなのでしょうか。
「こっちに来いよ」という気がします。メディアのことばがこっちに来ていないなんて、本来ならば、本当にとんでもない話なんだけどな。
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