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サルコジ政権は、ロマ人を含め年間2万6千人の不法滞在者の送還を目標に掲げる。「仏社会に同化する意思のある者だけ残ればいい。そうでない者は出ていくべきだ」。サントゥアンの治安当局者はルモンド紙にそう語った。残念ながらこのル・モンド紙の記事はインターネット上で全体を閲覧できないので確認できないが、それでもこの訳がまちがっていることには確信があります。移民問題にかかわる公務員が、移民の「フランス社会への同化」を求めることはありえません。「同化」とは assimilation であり、自らの文化や価値を捨てて、フランス社会の価値を自分のものにすることです。これは尊厳ある民族に可能なことではなく、現在のフランス国家はそのようなことを強制しません。センゴールやセゼールが半世紀以上も前に拒絶したこの「同化」は、決して移民に関するニュースでは聞かないことばです。
もしオリンピックの組織がスポーツだとしたら、中国は金メダルを授与されるということに、まちがいなくあなた方も同意してくれますね。前の記事 ディスるって何?
7月28日にフランス東部アン県ラニユーの路上で11歳のヴァランタンくんが殺されました。自転車に乗っていたヴァランタンくんは40回ばかりナイフで刺されていました。DNA鑑定によって、あるはぐれもののカップルが逮捕されましたが、犯行に及んだのはステファン・モワトワレ(39歳)という男の方で、ノエラ・エゴ(48歳)という女の方は犯行を妨げなかったことによって訴追されています。以前から警察には狂信者と思われていたこのカップルは「神の使命を負っている」としばしば云っていたそうです。犯行に及んだ男は自分のそっくりさんが犯行に及んだのであると主張しているそうです。精神鑑定医らの意見はステファン・モワトワレには責任能力がないという意見に傾いており、波紋を呼んでいます。「マリアンヌ」という週刊紙のサイトがある精神鑑定医に意見を聞きました。興味があるひとも多いでしょうから、この記事を訳してみましょう。(本当はこんな記事をブログで全訳することには意味がないと思うのだが、気分で全訳してみました。)
精神医学の法医学監察医のロラン・ウータンソーさんは、オディル・ジャコブ社から2006年に出版された『愛と暴力 ― プライヴァシーの挑戦』という本の著者です。
ヴァランタン事件 ― 狂人を裁くことはできるか
ヴァランタンくんが犠牲になった殺人事件が衝撃をもたらしているが、精神鑑定医のロラン・クータンソーは、ウートロー事件[小児性愛に関する冤罪事件]の判例に頼り、法的手続きの進展を期待して、刑事責任能力の有無に関する本当の議論が保証されることを望んでいる。
ヴァランタンくんの殺人に関しては、ステファン・Mの責任能力の不在が予想されるのだろうか。「蛮人」の容疑者を憤慨した輿論に差し出すお膳立てを支障なく執り行えるような手続きを既に進めているラシダ・ダティ[法務大臣]にとって、それは「とんでもないこと」である。法務大臣はこのようにして精神鑑定の手続きを片手で振り払おうとしているのだ。彼女はまちがっている。というのも、精神科の法医学監察医のロラン・クータンソーによると、法的手続きはよい方向に進展してきたからである。メディアの圧力に逆らって、専門家の間のより厳密で対立しあう議論の方へと進んできたのだ。
Marianne2.fr 心身喪失による刑罰上の責任能力の不在はどのようにして証明されるのですか。
ロラン・クータンソー 精神科の調査には三段階あります。第一段階は、実行された行為には関心を払わず、当人が病んでいるのかどうかを知ろうとすることにあります。もしそうならば、第二段階では、この精神病者の病理が「生産的段階」にあったか、急性発症の状態にあったかどうかを決定します。このふたつの問いに答えることが私たちの仕事です。微妙なのは精神鑑定の第三段階です。第三段階は次の問いに答えることにあります。この病人の病理の急性発症は、行為の実行につながりうるものだったのだろうか。法医学監察医の答えが、法的責任能力があるかどうかに関して予審判事の意見を方向づけることになります。そうしてまさにこの最後の段階において議論がありうるのです。
大方の昂奮した病人は事実を認め、さしたる困難なく病理の図式をさらします。たとえば神の啓示、衝動、何らかの必要性によって行為を説明します。しかし、自分の置かれている状況が惹き起こしうるリスクが理解できるくらいには現実との関係を保ちつづけているがために、調査を受けている人間が事実を否認すると、これは精神科医にとって問題です。
Marianne2.fr ヴァランタンくん殺人事件の調査に及ぼされるような政治と公衆の圧力を前にすると、精神科医にはそれに影響されるというリスクがあるのではないのですか。
ロラン・クータンソー 輿論の圧力を前にして精神鑑定医がひれ伏すかもしれないという考え方そのものがこの職業に対する侮辱です。ヴァランタンくんの殺人のような暴力的な行為によって惹き起こされる気持ちの昂りに対して、判例のシステムが手段を講じています。こういうわけで、2007年の3月以来、検察側、原告側であろうと、被告側であろうと、裁判にかかわる弁護士は法廷の鑑定に対して再鑑定を請求できるようになり、これはしばしば再々鑑定によって補完されることになっています。ウートロー事件以来、この請求は必ず認められることになっています。よってむずかしい事件の場合には、対立しあう三つのちがう意見がありえるのであって、理想的な場合には対立しあう厳密な議論が可能になります。
Marianne2.fr この精神鑑定医の間での対立しあう議論はどのような枠内で行われなければならないのでしょうか。
ロラン・クータンソー 私の意見では、鑑定医と話し合う特別会見が有益です。特に本人が立ち会うかどうかに関してはこの職業の間でも意見がわかれていますが、特にヴァランタンくん事件のように暴力的な事件に関しては、特に私の意見では、議論を公的で透明なものにして、議論の熱を冷まさなければなりません。ポー[フランス南西部の町]の事件(2004年12月に精神病院の患者がふたりの看護婦を殺した事件)においては、検察側にも被告側にも対立しあう空間があり、これは輿論にとって社会的にも教育的にも健全なことでした。ひそかに法的な責任能力の有無を決定するふだんの法的手続きよりもこちらの方がいいでしょう。
「泥棒!と叫ぶことには意味がありません。少なくともひとが想像するような意味はありません。これはただこういうことを意味するのです。真実、平和、権利は我々のものです。このひとが盗むのは、彼が正義の外にいるからではなく、国家がこの実例を必要としているからなのであり、ときどきかっこを開いて、そこから歴史が、過去が流れ込む必要があるからなのです。私は必ずしもそうは思いませんが、社会のアイデンティティのためには犯罪者や身代わりの山羊が必要だとする考え方はありうるのかもしれません。犯罪者に対して、あるいは法による処罰を受けないとしても社会的制裁を受けているひとに対して、同情的であるべきだということを私は言っているわけではありません。そうではなくて、社会のアイデンティティのために社会が繰り広げる制裁の動きに加担する必要はまったくないと云っているのです。そのひとが社会の構成員としてすべきではないことをしたのかどうかではなく、個人として何をしたのかをもう少し考えてみたらどうなのか、ということです。最近報道が繰り返されている多くの犯罪は、個人の内的な良心の存在を否定された、自分の道徳すらもつことのできない「社会の構成員」の悲劇であるような気がしてなりません。
本書(註・上杉隆『ジャーナリズム崩壊』)でこれを「立法・行政・司法に次ぐ権力」としているのは、よくある誤り。これはフランス革命のときの第一身分(聖職者)、第二身分(貴族)、第三身分(平民)に次ぐ「第四身分」が、のちに新聞をさすようになったもの。「第四身分」って何? 不思議ですよね。他の三つには括弧書きがついているけれども、第四身分だけにはそれがなくて、しかもそれが「のちに新聞をさすようになったもの」なのだそうです。それではフランス革命当時にこの第四身分は何だったの? 書けないようなものなの? (「フランス革命のとき」という書き方も何だか変だけどね。「旧体制下」とか「旧制度下」とか云わないか? 好みによっては「アンシャンレジーム下」かもしれんが)