2008年7月29日火曜日

匿名ブログだって世間でしょう

 「世間では言えないが」という題名で、匿名の方が、実際に世間では言えないようなことを書いていらっしゃいます。まるで良識的であるかのような書き方なので、だまされるひともいるのかな、と思うが、まず書いている本人が自分にだまされているのではないかという印象をもちます。
 一行目が「彼氏・旦那からのDV被害者を公言する女性の多くが、『言葉によるDV加害者』」とパーンときて、二行目が「自分の経験、知人の話、みんな共通してた」です。それで書いてあることは「超わがまま」な女とつきあった経験ですね。最後は「だからと言ってDV男を肯定するつもりはない」となり、「ただ、『自称元DV被害者』を(ママ)単純に同情するのはやめた」と云って終わります。
 これはやはりヴェールをかけた女性差別なのだろうと思います。大方の良識的であるかに見せかけた差別的な意見は、「自分の経験」を根拠にして述べられます。相手の女性のことばに腹を立てたときでも、この匿名氏は「俺だから我慢できるんだぞ!DQN野郎だったら間違いなく手を出し…」と思いとどまったのだそうです。このように書くことによって、自分の意見が無教養な人間のものではない理性ある経験者のものであることを読者に理解させようとしています。冒頭二行目で経験談が「みんな共通していた」ことを述べ、そこから「DV被害者を公言する女性の多くが言葉によるDV加害者」であるということを引き出したという理性的な結論が引き出されていると思わせています。
 それでもやはり「自称元DV被害者」という書き方のなかに、飽くことなく繰り返される「女の云うことは信用ならない」という意識の影を私は見てしまうのです。どうしてここに「自称」とつけなければならないのでしょうか。冒頭の一行から「公言する」ということばが出てきています。私はどうにもこういうものの言い方に違和感を感じてしまうのです。匿名氏はつきあっていた相手について「少々自己主張は強いが、仕事はバリバリこなす活発な女性。尊敬できるひとだ」と書いています。何だか書き方がおかしくないですか。「少々自己主張は強いが」というものいいのなかに、女は何も云わずに黙ってろ、という匿名氏の態度が読みとれるような気がするのは私の気のせいなのでしょうか。
 この記事のなかにあるいちばん大きな問題は、「言葉によるDV」という表現でしょう。「ことばの暴力」という表現はあります。それは家庭という場に限定されたものではありません。私はどうして日本人が現在DVということばを好んで用いるのかは知りません。「家庭内暴力」ということばがしばしば親子間の暴力を想像させるからなのでしょうか。だとしたら「妻に対する暴力」、「配偶者に対する暴力」という表現を用いればいいでしょう。夫の妻に対する暴力、妻の夫に対する暴力は、その関係性を口実、前提としたもので、そこに「DV」と呼ばれるものの特質があります。この配偶者に対する家庭内暴力に、無視しえない「ことばの暴力」がともなうことがあるということはよく云われることです。しかしここにともなうものとして問題視されていることばの暴力だけを、「ことばの家庭内暴力」として抽出することができるでしょうか。私はそう思いません。肉体に対して加えられる暴力行為と、ことばの暴力は比較できないものなのに、「DV」という同じ用語を用いることによって、対称性が成立しているかのような幻想を与えようとしています。
 私は最初の「彼氏・旦那からのDV」ということばも気になるのだけれども、「彼氏」をどのように規定するのかがはっきりしないので、「彼氏」からのDVは現在の日本社会ではありえないとは云えません。ともかく「家庭内暴力」は簡単に別れられるところには存在しません。相手がことばの暴力をふるった場合、家庭という枠組みがない場合は「こんな奴とはつきあっていられない」と思って簡単に別れられるのです。そこで「ぶん殴ったろうか!」と思うこと自体が既におかしい。やはり「女は黙ってろ!」ということなのだと思います。
 私が読みとっていることは、この匿名氏にとってはきっと思いもよらないことなのだと思います。このひとのことばがとりわけ意識的に差別的で悪質なものだと主張しているわけではありません。しかし「世間」の女性差別的な発想をはっきりと刻印されているとは思います。それは私が黙っていられないくらいにはっきりしています。
 何はともあれ、「世間では言えないが」という題名でこのような匿名ブログを発表することのなかには、「女がうるさくなった世間」に対する反撥がはっきり表れています。このひとは便所の落書きのような「匿名の世間」のなかで、女性差別的な意見を吐きだしているのだと私は思います。まあ、実際に相手を殴っちゃうよりはこうやって気持ちを発散した方がいいのかもしれませんが。その辺はよくわかりません。でもやっぱりこういう鬱憤晴らしは世間的にちょっと有害じゃないか。

P.S. ことばだけの家庭内暴力は存在するが、それは殴るか殴らないかにかかわらず、肉体的な暴力に「いたらない」ということ、その反対に肉体的暴力にいたる可能性において家庭内暴力なのであって、やはりことばだけの家庭内暴力なるものを抽出することはできないと思います。たとえば夫が妻に「お前はだれに喰わせてもらっていると思ってるんだ。文句があるならさっさと出ていけ」と云った場合、家から追い出すという肉体的な暴力をちらつかせることに暴力性があるのです。実際に殴らないとしても「ぶん殴ってやるからな」というのは、肉体的暴力の可能性をちらつかせる、ことばの家庭内暴力です。いずれにせよ、ここには「家庭」の力関係が前提にあるのであり、この匿名氏の前の恋人のことばの暴力がこのような家庭内暴力であったとはなかなか信じることができません。

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2008年7月26日土曜日

理解があるひとのうさんくささ

 今朝の朝日新聞の「天声人語」が、「憮然とする」という表現の意味が忘れられていることについてこう書いています。
 「日本語の乱れ」と嘆く向きもおられよう。だが、これらはもはや「誤」が「正」になった感がある。「憮然」から想像するのは仏頂面であって、失望の顔ではあるまい。歩くひとが多くなれば、それが道になっていく。
 何かおかしいんですよね、云っていることが。「あるまい」と云うのだけれども、これはただの開き直りではないですか。「天声人語」はふだん「みんなやっていることだから、と云って同じことをするのはよくない」ということをよく書いていたんじゃないかな。
 私自身は、頭のなかで「そういえば憮然とするとか、檄を飛ばすとか、みんなまちがって使っているということらしい」と思うくらいで、実際にどういう意味が正しかったのかはしょっちゅう忘れています。それでも、このような意味が忘れられたことばを教訓として、他のことばも同じ運命をたどらないように、ことばを大切にしていこうという気運がどうして盛り上がらないのだろうか、と私は不思議に思います。「理解のある良識派」はみんな「ことばとはこういうものだよ、うん、うん、あとは野となれ山となれ」と納得してしまっているような印象を抱きます。みんな芸者のように時代に色目をつかってやがる。これは職業差別ではなくて、中桐雅夫の詩「やせた心」のなかの表現の応用です。中桐雅夫は、「ある意味で」と書く学者はどういう意味なのかちゃんと書いた方がいい、ということも云っていましたね。まあ、私もよく使っちゃいますけど、「ある意味で」。あらさがしをしてみたら、中桐雅夫も使っていたぞ!、ということもあるのかもしれないし。でも理解をみせるのよりも、中桐雅夫のようにひとが嫌がるようなことを云うのが大切だと思うんですよ。
 ことばをコミュニケイションの武器として闘ってゆく、という意識が薄いからことばの意味の変化に対して無頓着になるのだと思います。「私はこのことばをこの意味で使うが、これは相手に通じるのか?」という疑問を抱くことがない。たとえば多くのブロガーがパソコンのスクリーンでしか通じないことばを仲間意識から用いています。この意識はさっきの疑問を感じる意識とむしろ逆で、自分の話している相手に通じる意味の方に意識的にことばの意味をずらして使うのです。自分の話が通じる人間にだけ話が通じてくれればいい、という慎み深いひとが多すぎるのです。みんな「これ、わかるよね。うん、うん」でやってやがる。たとえば外国人で日本語を勉強しているひと、外国人の日本文化の専門家などが自分のブログを読むという可能性を考慮に入れて書いている日本人はどのくらいいるのでしょうか。ほとんどいないのではないかと思います。日本語が読めない外国人にも通じる日本語で書いてやろう、というくらいの気概がほしい(うそ)。それでもしょっちゅうパソコンの前に座っていないひと、あるいは20年後の日本人に通じそうな日本語を使おうというような気持ちがもう少しあってもいいのではないか。だから私は何の役にも立たないくだらない世代論をやめろと言っている。フランス人の中高生やじいさんばあさんは私と普通に会話が成立するのに、十歳ちがう日本人が私と話が通じないと思いこんでいるのはものすごいことですよ。
 結局、理解があるひとが「私は理解がある」というメッセージを発する行為も、「こういうことを云うと私は理解がある人間として理解される」という、大きくとらえられた「仲間うち」のコードにのっとったものでしかないのです。「憮然ということばから想像されるのは失望の顔ではあるまい」と書くことによって、その「わかります仲間」を規定しているのです。ここでもくろまれているのは「ささやかなコミュニケイション」であって、まったく闘いのコミュニケイションではない。「ことばとはこういうものだよ、うん、うん」という気運はたぶん今だけのものだろうが、今のなかでそれが通じていればそれで満足だ。「ねえ、そうだよねえ」、それ以上のことは云っていない。「私が理解する仲間」に理解される言説を繰り広げることで、その外部にあるものをばっさり切り捨てているのです。「憮然とする」の正しい意味が忘れ去られている、と主張するひとはまさにこの過去という「私」と「あなた」の間に成立するコミュニケイションの外部を切り捨てないでほしいと主張しているのにもかかわらず。「私」と「あなた」が会話している場において現れる「彼」(三人称の人物)は、実際に今も生きているかどうかを別として、その不在において語られている会話においては過去のものとして表象されています。言語の過去を切り捨てることは、「私」と「あなた」の会話の場に居合わせていない三人称の人間を切り捨てることにつながります。言語の過去を忘れないようにすることは大切なことなのです。
 先月朝日新聞に「和テイスト短歌」のことが書いてあって、そこでもコラムを書いているひとは、もともと「話」のきわみである短歌なのに…、といってめくじらをたてることはしない、ねじれを楽しもう、というようなことを書いていました。もうここでめくじらをたてないのがお約束であるように感じられ、そのお約束に従ってものを書くという態度が何やら許せないものに思えるのです。みんなこうやってささやかに毎日を楽しんでいって、それでいいのか、それで満足なのか、と私は思うのです。「私は理解がある」というメッセージがせいぜい大好きな日本人に対してしか向けられていない。日本語を愉快な日本人同志の暗号にしてゆく態度のなかには、非常に危険なものがあります。辞書を用いて日本語と親しむ外国人のことももう少し考えましょう。

 話はちょっと変わりますが、前回ヴェジタリアンについての記事を書いたときに、「あれ、食事を制限するってこういう漢字でいいのかな」、と思いました。でもヴェジタリアンは病気で食べものを制限しなければならないのではないのだから、これでいいのだろうと思いました。しかし昨日のテレ朝の番組では、糖尿病について、「食事療法」、「食事の制限」と書いていました。そのすぐ後でこの「憮然とする」「檄を飛ばす」の話をしていたので、何かおかしかったな。この「食事療法」に困ってしまうのは、いったいテレ朝のひとは知識がないのか、それとも「餌」という漢字が常用漢字にないから「事」でいいだろうといい加減なことを考えているのかどっちなのかがわからないということです。どうして得意の「食じ療法」と書かないのだろう。「食餌療法」が「食事療法」でいいのなら、「障がい者」もたとえば「障概者」「障該者」あるいは「生涯者」「渉外者」でいいような気がするのですけれど、どうでしょうか。これがばかにしていると感じられるなら、「障がい者」もばかにしていると思いますけどね。

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2008年7月24日木曜日

キュイジニエールという職業名

 私のブログに「キュイジニエール」「職業」というキーワードでたどりつくひとがしばしばいるので、これからそのようにしてたどりつくひとのためにこのブログに今まで書いたことをまとめておきます。前から私のブログを読んでくださっているひとにとっては、最後の引用だけが新しい情報なので、そこまで飛ばしてくださって結構です。
 このようなキーワードで検索するひとがいるからには、おそらくフランス語で料理人の職業名は男性の場合は cuisinier (キュイジニエ)で、女性の場合は cuisinière (キュイジニエール)だと主張しているひとがいるのだと推測します。この主張は今や決してまちがっていると云い切れるものではないのでしょうが、これは浅薄な知識なのです。フランス語には、職業形や役職名にもしばしば男性形と女性形のちがいがあるというのは事実です。もともと男性形しか用いなかった職業についても女性形をつくるのがフランスでは流行になっているので、この「料理人」を意味する単語についても、ほぼ無意識に女性には女性形を用いることが多くなっているということが云えるのでしょう。しかし伝統的なフランス語の立場からすると、これは正確だとは云えません。「料理人」は職業としては男性の職業というイメージが強く、さらに女性がこの職業名に女性形を用いると「軽く見られる」という意識も働いて、女性でも cuisinier (キュイジニエ)という男性形を用いるのが、本来は正しいのです。この「軽さ」を拒否して、あえて男性形を用いている女性の料理人もいるということを理解してほしいものです。もともとフランス語のなかに存在しているこの単語の女性形 cuisinière (キュイジニエール)の方は、職業ではなくて家庭で料理を担当する女性のことを意味するということを理解してみれば、職業名としてはこの女性形が軽いイメージをもつということが想像できるのではないでしょうか。ソムリエ(sommelier)の場合は、大方の女性は sommelière (ソムリエール)という女性形を用いるものの、やはりこの「軽さ」を拒否して男性形を名乗っている女性のソムリエもいるということを以前このブログで紹介しました。
 キュイジニエール(cuisinière)は同時にレンジつき調理台を意味します。女性をさすときには「無教養でがさつな女」を比喩的に意味する場合もありえます。「ええ! だったらキュイジニエールを名乗るのはやめよう!」とか別に思う必要はないと思います。フランス人相手に Je suis cuisinière と云っても、「私は無教養でがさつな女です」と云っているのだと理解されることは、どんなひねくれものを相手にしているとしても、決してありえません(そういうことをついつい皮肉で考えられてしまうような女性は存在するでしょうが)。文法に厳しいひとには男性形に訂正される可能性があります。「ら抜きことば」を使う外国人に、「あなた、まじめに日本語を勉強したいのなら、そんな日本語を使っていちゃあいけないね」ということをおっしゃる気むずかしい日本人のようなフランス人と話している場合にはそういうこともありえるでしょう。日本人が相手なら、そもそも何も気にする必要がありません。「自分はどうして日本人相手にフランス語風の職業名を名乗りたいのだろうか」ということは気にする必要が大いにありますが、まあ、そんなことは言うだけむだでしょうか。
 いったいどうしてこういう情報を求めてインターネット上で検索しているのか、私にはわかりませんけどね。フランス語を勉強しているのなら、頑張ってください。変なおしゃれのためなら、やめてください。浅薄な知識を振り回しているひとは恥じ入りましょう。私は毎日恥じ入ってますよお!twisted
 最後にコレットが「無教養でがさつな女」の意味でこの単語を用いた文を引用しておきます。
 キュイジニエール風の紙に、キュイジニエール風の文体で、キュイジニエール風のつづり方。何を書いているのかはっきりしない。
 ついでだからグラックの例も。
 キュイジニエール向けの小説は、情熱の嵐、情熱の竜巻、情熱の台風の話をするものではないのか。
 ここはたとえば「料理女」と訳すところです。こういう料理女と自分の職業名がいっしょになっても別に気にならないひとと、やはり気になるというひとがいます。気にならないひとが今は結構多いんじゃないんですか。
 日本語の場合は、以前は問題が感じられたが最近は気にならなくなったことばの使用法が、あら、不思議、正しくなってしまうことがままあるが、フランス語でもそうなのかどうか、胸に手をあてて考えてみましょう。
 (私は「考えてみましょう」と云っているのです。女性が自分の職業を「キュイジニエール」と名乗るのは今や決してまちがっているとは云い切れないだろうと最初から云っています。フランス人でもひとの考え方によって揺れがあるフランス語の使用法に関して、日本人に対して「これが正しい」ということはできないので、こういう事情にかんがみて、あなたはどう考えますかということを聞いているのです。ともかく伝統的なフランス語ではこの職業は性別にかかわらずに男性形を用いるのに、それを知らずに「女性は女性形」というフランス語の初心者が最初に学ぶ単純な文法的な知識を振り回すのはどういうものかと、私は思います。まあ、どういうわけかはわからないがフランス語ができないのにフランス語の職業名を名乗りたい変なひとにとってはどうでもいい話かもしれないなとは思います。もしかしたら男性形の cuisinier を「キュイジニエール」とカタカナで読んでいるお話にならないひともいるのかもしれないし、こういうお話にならないレベルで満足しきっているひともいるのかもしれません。やめてほしいんだけど、私がここでやめてほしいと云ってもむだでしょうか。)

2008年7月23日水曜日

今どき珍しいひと

 NHKの「クローズアップ現代」にロサンジェルス、ソウル、バルセロナのオリンピック代表のレスリング選手だったという太田章というひとが出ていました。早稲田大学の准教授だそうです。吉田選手だかだれだか女子レスリングの代表が「三歳のときにその気もなしにタックルを決めていたというおいたち」がレスリング選手としての素質であるということを、一応まじめにみえる報道番組で一応まじめなはずの解説者として云っているのを聞いて、「今どき珍しいひともいるものだなあ」と思いました。しかし真の驚きはその後に待っていたのでした。
 「今はアメリカがぐんぐん追い上げてきている。ロシアと中国は共産主義のなかで選手を育ててきている」
 今のNHKってこういう発言をしてもそのまま何のフォローもないのね。NHKの内部の人間ではないひとの発言をその場で訂正するのは失礼だとか変なことを思っているのかもしれないけれど、こういうことは放送中にフォローしておいてあげた方が太田さんに対してずっと親切だと思うんですが。
 そのあと「ためしてガッテン」で「ばばあに怒られちゃうよ」と云っている漁師さんのことばに「ばぁばに怒られちゃうよ」と字幕をつけるのは、まさに今どきのNHKという感じです。太田さんの場合は「このひとの頭のなかではいまだにロシアは共産主義なんだあ。メダルをとったソウルオリンピックで人生終わっちゃったんだろうなあ」と感心しておしまいですが、「ばばあ」と云っているものに「ばぁば」と字幕をつけると、とっても不適切な表現が、ああら、不思議、適切になっちゃった、と思う放送人の感覚にはいらだちしか感じません。

イメージとイマージュ

 また十年前の論文をアップロードしてみました。題名は「拒絶される『私』」(クリックしてください)というもので、モーリス・ブランショの小説の語りの問題を分析したものです。このサイトにはきわめて読みにくいレイアウトを選んでいたのですが、普通に戻しました。そもそも読むのが苦痛な読みにくい文章なのに、レイアウトでまで苦痛を与える必要もないだろうと思ったので。興味のある方はどうぞ。
 もともと仏文のひとを相手にした論文なので、ジャルゴンは使っているのですが、どうしても「エクリチュール」ということばなどは今になってみると自分で耐えられないので、「書くこと」「書く行為」などに書き直しました。あと本や論文の題名の訳なども今の自分が用いているものに書き換えました。
 たとえばブランショの第二評論集 La Part du feu は『火の部分』あるいは『防火地帯』という風に日本語に訳されていますが、私は最近これを『捨て石』とすることにしています。これは自らが燃えて延焼を防ぐ防火林のことですが、faire la part du feu という言い回しは、防火林のように、全体を守るために一部を犠牲にするということです。だから私は日本語ではこういう感じかと思って『捨て石』としたのですが、別にこれが正しいとか、みんなこう言えとか云うのではないですよ。「脳の活動を停止させない」というのが目的です。
 この論文には出てこないのですが、ブランショの第一評論集の Faux Pas は『踏みはずし』と訳されていますけれども、私は今これを単純に『あやまち』としています。単語の意味をそのまま訳すか(faux は「まちがった」、pas は「歩み」)、言い回しの意味を訳すかという立場のちがいです。さらに fopa という発音が、耳で聞くと Faut pas 「いけません」とまったくいっしょだから、この連想される同音の文の意味を考えると、『あやまち』の方がいいかと思われるのです。「私はこう訳す」ということです。私はブランショのことば遊びが好きないたずらっ子の側面を強調したいからです。単語の意味をそのまま訳すしかたでは、なかなかそれがわかりません。確かに『あやまち』でも全然わかりませんけどね。「踏みはずし」という日本語には、道徳的というかどことなく宗教的な意味合いが感じられるような気がするけれど、フランス語の faux pas にはそういうニュアンスはありません。
 私の目的はむかしの論文をパソコンで打ち直すことであり、全体的に書き直すことではないのだから、「今の自分にはとても使えない」という用語や言い回しを書き換えるだけで、仕事はほぼ機械的なものだったのだけれども、それでも困ったのは「イマージュ」ということばでした。
 英語とフランス語で語形が似ているか同じだけれども意味がちがうことがはっきりしている単語は、そこに気をつければいいだけの話で、あまりそれ以上の問題はないのだけれども、英語とフランス語のなかでの使用法が似ているけれども多少のニュアンスのちがいがある単語を解釈するのには困難が伴います。だからといって、英語の文章のなかで用いられている image は「イメージ」と音訳し、フランス語の文章のなかで用いられている image は「イマージュ」と音訳するというのは安易にすぎないでしょうか。この安易さは日本語にとっての罠だと思うのです。「イメージ」と「イマージュ」はどこがちがうのか、と考えたときに、もしイマージュをイメージに置き換えても意味の上では全然問題がないときには、「イマージュは気どっている」というのがちがいだということになるとしたら困らないでしょうか。フランス社会に対するまちがった「イメージ」を正したい私にはこういう用語を使うことができない。(ブルジョワ志向の日本人がフランスのブルジョワ社会からコンプレックスをまぶして輸入する「気どったフランス人」というイメージはまちがっていると私は断じているということです。それがまちがっていないひとにとってはまちがっていないのでしょう。) 英語派とフランス語派の住みわけに加担するような感じもものすごく恥ずかしい。
 今回パソコンで打ち直した論文の場合は、image を「映像」と訳しておそらく意味は通るだろうと思うのだけれども、それでも「イマージュ」の方がわかりがいいのかな、と心のなかで何かが云っているのです。しかしこういう「わかりのよさ」を認めてはならない、「自分の云っていることが通じる世界のひとだけを相手にする」ようなことばの使い方はやめるべきだ、という原則の方を重視して「映像」にしました。Image だから「映像」というのも、安易といえばかなり安易だということは認めます。
 私が云っていることは、仏文学のジャルゴンが通じるひとに対して、ジャルゴンを使うのはできるだけ控えようね、ということだけであって、今すぐにジャルゴンをすべて排斥せよ、ということではありません。そんなことは私自身ができません。「エクリチュール」や「イマージュ」はだめなのに、どうして「ジャルゴン」はいいのか、と聞かれても、それは私の感覚ですとしか云いようがないのだけれども。ほんと、すんません。何だか、恥ずかしい気がするんだよねえ。「仲間うち」の匂いというか。自分でも本当はよくわかっていないことについて「これ、わかるよね」って云ってるような感じが恥ずかしい。「これ、わかるよね」という態度は否定するということでやってますから。
 問題提起だけで、答えの方向性さえ示せないだめな僕(ブライアン・ウィルソン)。でもまあ、問題提起だけでもしておいた方がいい、という状況はあると思います。疑問すら感じない、あるいは疑問を抑圧しているひとが多いでしょうから。

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2008年7月22日火曜日

支える寛容

 私の云うことはなかなか理解されません。たとえば「ゆるす」は英語で forgive で、フランス語では pardonner です。このふたつの単語のなかにある要素 give、donner は「与える」という意味で、英語やフランス語において「ゆるす」という単語は「与える」ことを含意していると云えると思います。しかし日本語ではせいぜい「ゆるす」は「ゆるい」「ゆるめる」をしか連想させません。「ゆるす」相手に何かを与えるという発想がないのです。何のありがたみもありません。こんなことを日本人に云うとだいたい「何云ってるの?」といらいらされるんだけど。
 「寛容」ということばについてはどうでしょうか。手元の広辞苑では「①寛大で、よく人をゆるし受けいれること、咎めだてしないこと。②他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。③異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見のひとを差別待遇しないこと」とあります。②を見ると、これはやはり西洋語の訳語なのかという気がします。でも日本国語大辞典を見ても、特にこれこれの単語の訳語ということは書いてありません。
 それでももしこれが何かの単語の訳語であるとすれば、英語の tolerance、フランス語の tolérance が元の単語であると考えられるでしょう。それではこの tolérance という単語はどういう語源をもっているのでしょうか。
 この系列の単語の印欧語の語幹は *tel-, *tol-, *tla で、「支える、もちあげる」を意味します。この語幹から生まれた単語はたくさんありますが、特に発想をよく表すと思われるのが、Atlas です。地球、あるいは天の柱を支える神様アトラスですね。ラテン語の動詞 tollere は「ひきあげる、もちあげる」を意味します。
 手元のフランス語の辞書では、tolérance は「禁止、要求できるのにそうしないこと。このようにして行動を控えることから結果する自由」とあります。これにつづく定義は「自分のものとしている考え方、行動様式とちがう他人の行動様式を認める態度」、さらに「宗教、哲学、政治に関する意見に関して他人の自由を尊重すること」とあります。ちょっと面白い表現では、「寛容の館」(Maison de tolérance)という表現は1946年まで許容されていた娼館のこととあります。
 私の意見では、ことばはその語源を忘れないのですが、それは同じ語根をもった単語が同じ響きをもっているからです。フランス人が tolérance ということばを聞いて「支える、もちあげる」という意味を連想するかといえば、必ずしもそうではないでしょうが、たとえそれがむしろ無意識に訴えかけるものであっても、語源の記憶は保っていると思うのです。(これは私がカタカナことばの使用に対して批判的である理由です。語源の記憶を完全に排除して、その単語が属する言語のなかでのニュアンスも連想もすべて切り捨てて、ひとつだけに限定された意味で外来語を輸入しているけれども、しかもそれが日本語のいかなる記憶にも結びついていないからです。このようにして単語があまりにも貧相なものにされていて、そこには流行という皮相的な価値しかないからです。)
 翻って考えてみると、日本語の寛容には、その寛容から相手の自由が結果するという発想はまったくないと思うのです。寛容というと聞こえはいいけれど、むしろせいぜい相手の自由に対して無関心であるということしか実質上は意味していないのではないでしょうか。その寛容が相手の自由の「支え」であるという意識はまったくないでしょう。自分の寛容から結果するものに対する自覚がないのです。たぶん西洋語の方の非対称性が日本語の方にはないのでしょう。西洋語の方では、「寛容」は禁止することが可能な権威の側にあると考えられます。日本の寛容は「俺はお前に勝手なことを云わせておくから、俺にも勝手なことを云わせてくれ」というようなものとして理解されているということはないでしょうか。
 日本語には「ゆるす」という単語にまったくいい意味がないと思われるのと同じように、「寛容」ということばにもどうにも貧乏臭さを感じてしまいます。「与える」とか「支える」とかそういう発想がないんですね。「与える」とか「支える」とか云うと、「上から目線」なんて批判されたりするから、やっぱり国民性が貧乏なんでしょう。
 別のブログでちょっと書きましたが、英語の generosity、フランス語の générosité についても同じようなことを感じます。「寛大さ」、「気前の良さ」を意味することばですが、贈りもののお礼に Thank you for your generosity とか Merci pour votre générosité ということを云われたら、それを日本語でどう訳したらいいのでしょうか。「寛大さ、気前のよさに感謝します」では何だかおかしいですね。いろいろ考えても、自然な日本語にするためには、「心くばり」とか「もったいない」とかそういうことばしか思いつきません。相手の心の大きさが、こちらではそれが大きすぎるものと感じられてもったいなさに翻訳されてしまうというのが、何ともしみったれた感じがします。「結構なものをどうもありがとうございました」と訳すとしたら、相手の心ではなくてものをほめてますからね。困ったものです。
 フランス人に Je t'invite と云われたら、これは「あなたを招待します」というよりも、「おごるよ」という意味です。「おごる」というのも何だか寂しいことばだなあ、と私は思うんですけど。発想のちがいを云っているだけだから、国粋主義者のひとは怒らなくてもいいよ。
 日本語の生理のなかには贈りもののやりとりの関係がしみ込んでいます。外国語を日本語に自然に訳そうとするときに、「だれだれがだれだれに」といちいち訳すのがうるさく感じられるときには、「て」プラス「やる」「あげる」「もらう」「くれる」などを使ってみるといいですよ。こういう技術を使って翻訳をしてみると、さらに日本語と西洋語の間のやりとりの関係の発想のちがいにはっきりと気づくことになり、その系列に属することばの使い方に敏感になるということはあるかもしれません。

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2008年7月21日月曜日

議論の課題

 ひとを悪の方へと導くような議論は、原則的には大々的に発表されないことになっています。日本のメディアはたとえば女性に対する差別的な議論を大々的に繰り広げますが、それは民度の問題で、無知にもとづく愚かしさをのぞくと、人前に悪の論理をさらすのはいけないという気運はかなり強いという気がします。
 これはひとが云うことを聞くとそれを信じてしまう素直なひとのための施策であると考えられます。しかし正論を見聞きするとそれに反発せざるをえないひねくれものもいます。「悪いことをしてはいけないよ」と書いてあるのを見ると、「それだったら」と考えて悪いことをするような心がねじけたひとのためにものを書いた作家の数はそれほど多くありません。このようにして、人間は心がねじけたひとが犯罪者であるような社会をつくりあげてきたのです。
 サド侯爵はこのことに気づいた作家でした。彼がキリスト教の美徳の議論を読んで聞いて反感を感じたからこそ、その美徳の議論のしかたを正反対に活用した悪徳の議論を読むと、かえってそれに反感を感じて悪に走らないひとも出てくるのではないかと考えたのです。悪徳の「正論」による抑止効果を彼は想像したのです。しかしこのような議論はどこに発表するべきでしょうか。彼はそれを読者層が限定されているポルノ小説のなかにはさみ込むということを思いつきました。こうすると、ポルノ小説を読むような堕落したひねくれものしかこの議論を読むことがないでしょう。そうしてこのひねくれものは悪徳の正論に反感を感じて犯罪には走らないはずです。サドの思考は実に論理的なのです。
 しかし論理がすべてではありません。自らが過度の読書のために目を患い、なお読書を控えることのできなかった読書狂であったサド侯爵は、読者は面倒なところは飛ばして読むということだけはちゃんと理解できなかったのです。こういうわけで、サド侯爵の作品が簡単に手に入るようになった20世紀において、サドを読んだから犯罪に走ったと語る殺人者が出てくることとなりました。しかし彼らは決してサドの作品を満足に読まなかったのです。サド侯爵の悪徳の議論を部分的に読むことほど危険なことはありません。
 私はあえてここでサド侯爵の悪徳の議論のうちで最重要であると思われる箇所(『ジュリエットの話』)を引用してみようと思います。以上のことをふまえて読んでみてください。ここにある荒ぶる自然、サドの小説の登場人物にとっては神に代わる存在に注目してみましょう。
 私の考えでは、堕落した世紀にはこのような議論が必要であると考えたサド侯爵は正しかったし、自らの身を危険にさらしてまでこのような議論を発表したサド侯爵はあっぱれであったと思います。奇しくも同時期に発明された種痘のように、サドは文字によって書かれた小さな悪によって、大きな悪を制しようとしたのです。ジルベール・レリも云うとおり、「サドが署名するものはすべて愛である」。

 つまり罪はまったく現実性をもたず、常に作用する自然…常に人間を越えているがゆえに、人間をいかなる意味でも恐れるはずのない自然を冒瀆する罪も方法も、本当は存在しない。どんなに恐ろしい残酷で恥ずべきものだと想像される行為であっても、したいと思ったときに常に無差別に実行することのできないような行為は存在しない、もとい、むしろそれを実行しないという過ちを犯してはならないのだ。そもそも自然がそれをすることを鼓舞しているのだからな。というのも、習慣、宗教、しきたりは、簡単に、そしてさらに必然的に私たちを欺きうるものだが、自然の声は確かに決して欺くことはないからだ。私たちが美徳と呼ぶものの絶対的に均等な混合物によって自然の掟は支えられている。破壊によって自然は再生する。罪によって自然は存続する。一言で云って、死によって自然は生きているんだ。完全に美徳に満ちた宇宙は一瞬も持続できないだろう。自然の智慧ある手は無秩序の秩序を生み、無秩序なしでは自然は何ものにもたどりつかないだろう。これが星の進行をつかさどり、宇宙という巨大な平原に星を吊るし、周期的に動かしている深遠な均衡なのだ。悪によってのみ自然は首尾よく善をなすことができる。罪によってのみ自然は存在し、もし美徳だけが地上に存在していたとしたら、すべてが破壊されてしまうだろう。しかるに、きみに聞きたいのだが、悪が自然の偉大な計画にとって有益であり、悪なしでは自然は何ものにもたどりつけないのなら、どうして悪をなす人間が自然にとって有益ではないということがあるだろうか。さらに悪党は自然が自らの計画を遂行するためにつくりだした存在だということをだれに疑えるだろうか。どうして動物のなかに自然がつくりだしたとみえるものを、自然が人間のなかにつくりだすことを人間は望まないのだろうか。自然の掟が維持されることが必要な状態によって、あらゆる階級は地上で互いにむさぼり合い、弱め合っているのではないか。アグリッピーナに毒をもったネロの行為は、狼が羊をむさぼり喰うのと同じくらい確かなこの同じ掟の結果であることをだれが疑うだろうか。マリウスとスッラの弾圧は、自然がときどき地上に遣わすペストと飢饉とちがうものなのではないかと疑うひとがいるものだろうか。自然は人間に対してこれこれの罪を優先して割り当てているのではなくて、ある種の罪なるものに対する傾向をもったものとしてまとめて人間をつくったということはわかっている。これらすべての犯罪の結合、理にかなったものだろうとそうでなかろうと、あらゆる破壊の塊から、自然は秩序と増加をふたたび見いだすために必要な無秩序と弱化をとりだす。もし人間が毒を用いることを望まないのだとしたら、どうして自然は私たちに毒を与えたのか。もし残虐な人間による破壊が自然の目的を満たすものでなかったとしたら、どうして自然は地上を荒らしたティベリウス、ヘリオガバルス、アンドロニコス、ヘロデ、ヴァンセスラス、他のあらゆる悪党と英雄(これは同義語である)などを生み出したのか。もし自然が破壊することが本質的でないとしたら、罪と破壊が本質的に自然の掟によるものでないとしたら、どうして自然はこれらのならずものとともにペスト、戦争、飢饉を送り込むのだろうか。自然が破壊することが本質的なことだとしたら、どうして破壊するために生まれてきたと思うひとがその性向に抵抗することがあろうか。それゆえ、もし地上に悪が必要なのだとしたら、私たちに関する自然の目的に抵抗することでしていることの方が明らかに悪であるはずだと云えないのだろうか。人間をしか傷つけず、人間をしか傷つけることができない人間の犯罪が自然をいらだたせるためには、自然が他の存在よりもある種の存在に関心を払っていて、すべては自然の手によって同等につくられたのに、みな同等に自然の子供ではないということを想定しなければならないだろう。それでももし私たちがもっている力は別としてもみな互いに似ているのだとしたら、自然が皇帝も靴直しも同じくやすやすとつくりだしたのだとしたら、これらのさまざまな行動はもはや原初的な衝動から生じる必然的な事件でしかなくて、必然的に遂行されなければならなかったもので、自然が好きなように私たちをつくったようなしかたでなされたものだということになる。次に、自然が人間の間に肉体的なちがいを置き、あるものを強く、あるものを弱くつくったことがわかってみれば、この方法によって、最強のものの手によって自然が必要としている罪がなされるべきだということを自然は私たちに教えたのだということは明らかで、それは狼の本質は羊を食べることで、ねずみの本質は猫にむさぼり喰われることだというのと同じことではないだろうか。

 よって私たちの先祖ケルト人が、最良で至上の権利は強者の権利であると…それは自然の権利であり、自然が私たちに同胞よりも強い力を分け与えようとしたのは、自然が同胞に対する権利を私たちに与えたということをよりよく教えるためでしかなかったと主張したのは正しいことだった…。まさに私たちの先祖のこの民族が、この権利が至高のものであるだけではなくて、この権利を与える自然の意図そのものが、私たちがそれを活用することなのだと主張したこともまちがっていなかった。自然の目的を達成するためには、強者は弱者から奪わなければならない。そして後者は自分に守ることのできないものを進んで放棄しなければならないと彼らは主張した。たとえ物理的には事態が変わったとしても、精神的には相変わらず同じである。社会においては豊かな人間が強者を代表する。彼は社会のあらゆる権利を買い占めた。この権利を享受し、そのためにはできるかぎり自らに劣る階級の人間を自分の気紛れに従わせなければならなくて、それによってまったく自然を傷つけることはない。なぜなら彼は自然からもらった権利を、物質的にであろうと、表面的にであろうと、使わなければならないからだ。そう!もし自然は私たちが罪を犯さないことを望み、罪が自然を苛立たせるというのが本当だとしたら、自然には罪を犯す手段を私たちから奪うことだってできただろう。自然は私たちがこの手段を使えるようにしているのだから、罪は自然を辱めることはなく、自然にとっては無関心なものであるか、あるいは必要なものであるということだ。もし罪が軽いものであれば、無関心だろう。それが重いものだとすれば、常に有用なものだろう。というのは、私が隣人の財産を奪おうが、その息子や妻や妹を強姦しようが、まったくどうでもいいことだからだ。こんなことは自然にとって重要なものであるためには、あまりに些細な価値しかもっていない罪だ。しかし自然にそう言われたときに、この息子、妻、妹を殺すことは自然にとって実に必要なことなのだ。こういうわけで、私たちが大きな犯罪に対して感じる性向…欲望は小さな犯罪に対して感じる欲望よりも常に激しいものであり、そこから得られる快楽は千倍も刺激的なものだ。もし罪が自然にとって必要なものでなかったら、自然はこんな風に段階的にあらゆる罪に対する快感を割り当てただろうか。自然が自らの手によって媚態をもって加えたこの魅力によって、自然の意図は自然によって導かれるこの坂道を登ってゆくことだと教えているのではないか。罪を企んでいるときに感じるこのえもいわれぬ心地よさはどうだろうか。罪に身を委ねているときの陶酔は? ことがなされたときにもまだ喜ばせるひそかな楽しみは? こういったものは、自然が罪の魅力をいい具合に配置したのだから、自然は私たちが罪を犯すことを望んでいるということを証明しないだろうか。さらに自然は罪の大きさに比例して魅力を倍増させているのだから、慣習的にはもっとも残酷なものと考えられている破壊の罪がもっとも自然の気に入るものだと証明しているのではないか。というのも、罪が復讐の念からきているにしても、野心あるいは獣慾からきたものだとしても、よく考えてみれば、私が話しているこの魅力はその激しさ、あるいは邪悪さに比例して罪に付随するものだということがわかるだろうからね。私たちの同胞の破壊がこの原因の結果となるときは、その魅力にはかぎりがない。なぜならこの必然的な破壊によって自然の掟は最も多くを獲得するのだからね。

2008年7月20日日曜日

笑い屋のおばちゃんと笑い屋のおじちゃんのちがい

 むかしのテレビ番組にはよく笑い屋のおばちゃんの笑い声がかぶさっていたものですが、最近のテレビ番組では笑い屋のおじちゃんの笑い声しか聞かないような気がします。どうしておばちゃんがおじちゃんにとってかわられたのでしょうか。
 まず笑い屋のおばちゃんの笑いと笑い屋のおじちゃんの笑いには質のちがいがあることが気づかれます。笑い方は笑い屋のおばちゃんの方がわざとらしかったと考えることができますが、それは大したことではありません。大きなちがいは、むかしの笑い屋のおばちゃんの笑いは、今のテレビの笑い屋のおじちゃんの笑いほど均質ではなかったということです。みんなが一斉に笑うこともあれば、二、三人だけが笑うこともありました。その笑いが大きいときもあれば、ごく小さく控えめなときもありました。「ああ」とか「へえ」とか云うこともありました。笑いに演出があったのです。
 今の笑い屋のおじちゃんの笑いには、こういった質のちがいはありません。どこまでも同じ笑い声です。録音したものを繰り返して流しても別に問題はないでしょう。それでも日本人はまじめだからそんなことはしていないのかもしれません。
 むかしの笑い屋のおばちゃんの笑いは、テレビを見ているひとが楽しく見られるようにつけくわえられたものでしょう。今の笑い屋のおじちゃんの笑いは「ここは笑うところです」とテレビを見ているひとに教えるためにつけくわえられています。
 むかしの笑い屋のおばちゃんは、外から笑うためにやってきていたのだと思います。笑いを演出するひとも、番組づくりに直接かかわっていないひとに笑ってもらうということをしていたのでしょう。しかし笑い屋のおじちゃんはたぶん番組づくりの現場にいるひとです。この均質な笑いの蔭には何らかの力関係を見るべきでしょう。確かに笑い屋のおばちゃんの笑いは笑い屋のおじちゃんの笑いよりもわざとらしく聞こえたかもしれないけれども、笑い屋のおじさんの一聴したところの自然さはまったく自然なものではないと考えるべきでしょう。「いや、自然に笑っているんだ」と主張するかもしれませんが、本当に自然なのであれば、たとえば「何だよ」とか「ばっかじゃねえの」とか云っている声が聞こえてもいいはずです。自分の束縛に気づいていないのは、気づいていない人間の責任です。
 笑い屋のおばちゃんは、全体の演出の一環として、番組の雰囲気を盛り上げるためにいたのだと思います。しかし「ここは笑うときだ」と教えるためにはそれが男の笑いでなくてはならないということなのでしょう。女なんて雰囲気を盛り上げるのにしか役に立たないのです。観客がいない場合は、笑い屋のおじちゃんの笑いに滅多に女性の笑いが混じっていないことに注意すべきです。女には笑うところがわからない、という程度の偏見ならまだしも、ここには何らかの指示を出すのは男でなければならないという深刻な性差別が見られるのです。番組をつくるスタッフは男だ、というメッセージが言外に含まれています。笑い屋のおばちゃんの笑いが演出を外からゆるい形で補完するものだったとすれば、笑い屋のおじちゃんの笑いは、欠くことのできない演出の一部を必死で担っているのです。
 テレビ画面に出ている人間が番組を牛耳っているのではない、本当にここで力を握っているのは画面に出ている人間ではないのだ、ということを知らせるために、ヘゲモニーをもっているものが自分の部下を笑い屋のおじちゃんに仕立て上げているのだと考えることもできるでしょう。笑い屋のおばちゃんは番組と離れた別個のもの、視聴者との間の絆として存在していました。しかし笑い屋のおじちゃんは、画面には現れない「見えない神の手」の存在を視聴者に指し示すものとして存在しているのです。笑い屋のおじちゃんは、視聴者が笑うところまで支配できると信じるテレビ人の肥大したナルシスムです。反吐が出ます。

ヴェジェタリアンとヴェジェタリアン

 フランスではしばらく前から végétarien と végétalien を区別しています。英語でもときに vegetarian と vegetalian が区別されているようです。英語には vegan という単語もありますが、これは公式のフランス語ではまだ認められていないようです。ちょっと調べてみると、végétalien は英語の vegan をフランス語風にしたものだという説があるようです。すると英語で用いられる vegetalian はフランス語からの逆輸入ということになるのでしょうか。この辺はよくわかりませんが、何となくそんな気がします。
 フランスで一般にこのふたつの単語のちがいがどのように理解されているかと云えば、R のヴェジェタリアンは卵、牛乳、はちみつなどを消費するけれど、L のヴェジェタリアンは動物からきた食物はまったく消費しないと考えられているようです。しかしフランスの徹底的な végétalien のなかには、végétalisme が食事だけにかかわるものと理解されるのを拒んで、この訳語ではなくて、あらためて vegan という英語の単語を用いるひともいるようです。なかにはこれをフランス語風につづった végane という単語を用いるひともいるとフランス語版のウィキペディアには書いてあります。まだ認められていない単語なので、表記には揺れがあるようです。これを主義主張として、veganisme あるいは よりフランス語的なつづりの véganisme という単語を用いるひともあるようです。ちなみにこの三つ(végétarien, végétalien, vegan)のなかでもっとも穏健な végétarien の主義主張ないしライフスタイルは、フランス語では végétarisme となります。
 さて、フランスの「菜食主義」のなかでもっとも極端な主張である véganisme は、普通は単なる食事の制限であると考えられてしまう végétalisme を越えてさらにどういう主張をしているかと云えば、毛皮の使用、生産の過程で動物実験が用いられた製品、あるいはブリーディングなども拒否しようというものです。「菜食主義」は食事のしかたではなくて、倫理であるということをこういう人々は主張しているようです。
 しかしたとえば Veggie Pride のようなムーヴメントや PETA などの毛皮の使用を批判し攻撃するグループがこの véganisme の思想から理解されるものであるととらえられているかといえば、必ずしもそうではないようです。いろいろな考え方があるようですね。日本ではあまり報道されなかったようですが、Veggie Pride には végétariens と végétaliens が参加しました。いろいろな考え方の間に特に対立はないということなのかもしれませんが、véganisme はより閉鎖的なのかもしれません。もっとも人数が少ない運動が多かれ少なかれ閉鎖的な傾向をもつのはよくあることです。
 フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは「n個の性」ということを云ったらしいのですが、この奇矯なものいいだけが記憶されてその意味がよく理解されていないのは残念なことです。ヴェギー・プライドはゲイ・プライドにならって開催されたものですが、ゲイやレズビアンを「同性愛」というひとつの均質なカテゴリーに押し込めるのではなくて、そこに参加するひとがひとりひとりちがう性的傾向をもっていると考えなければならないのと同様の考え方を、ヴェギー・プライドについても適用することができるでしょう。私は同性愛者ではないけれど、ゲイ・プライドに参加したこともゲイ・レズビアン・センターに行ったこともあります。だったらヴェジタリアンではなくてもヴェギー・プライドに参加してもいいかなあと思います。同じことをすることよりも理解することの方が大切だと思います。(口に出して発音してみると、何となくヴェジー・プライドかなとも思います。私はあんまり気にしませんが。)
 フランスにおけるこういった「菜食主義」のムーヴメントに関して、vegan のアメリカの動物の権利の専門家に意見を聞くインタヴューが結構面白いです。フランスのサイトですが、文章は英語です。インタヴューを受けているひとはvégétarien も végétalien も vegan になれという主張で、それだけを見ていると、こういった主張をもつひとの頑迷さのようなものが気にはなります。「肉と乳製品を論理的に区別する方法はない」という議論のしかたそのものは嫌いではないですけど。私としてはフランスとアメリカの用語や定義のちがい、こういう問題に関してはアメリカ人が権威だと思っているかのような、フランスの動物の権利を訴えるサイトの記事構成など、なかなか面白いと思いました。
 語源の話をしておくと、印欧語の語根の *weg- は「活力」を意味しています。ラテン語では vegere は「活潑である」、vegetare は「活気づける」を意味します。もともと植物は「よく育つ」ものであったのですが、現代のフランス語の動詞 végéter は正反対に「(植物のように)力なく生きる」という意味になっています。現代のフランス人は végétal という単語から「ぐんぐん伸びる」ことよりも「停滞する」ことの方を連想するのではないでしょうか。「私は植物よ」と云っている無敵のエミリー・シモンちゃんにどっちのイメージなのか聞いてみなくちゃ。でもクリップでは結構ぐんぐん伸びてますね。
 Végétarien, végétarisme は1890年頃に英語からフランス語にとりいれられたものですが、végétalisme は同時期に végétal からつくりだされた単語だそうです。Végétalien は、vegan のフランス語版だとすれば、もう少し遅いのではないでしょうか。
 同じ語源から、他に veille, veiller, éveiller, réveiller, surveiller, vigueur, guetter などの「見張り、目覚め、活力」に関する単語が生まれています。面白いところでは vélo 「自転車」も同じ語根をもちますが、自転車は素早く移動するためのものだと考えると納得がいきます。

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2008年7月19日土曜日

PMR

 フランスの交通機関で頻繁に目にする略語に、PMR というものがあります。フランス語を話さない日本の観光客のひとは特に気にしないでしょうけれども、ちょっとフランス語がわかるひとなら、「これは何の略語なのかな?」と思ったこともあるのではないでしょうか。
 これは Personne à mobilité réduite の省略です。これを逐語訳してみますと、「可動性が減ぜられたひと」ということになります。「移動が困難なひと」ということですが、réduit(e) は、「減らす」を意味する動詞 réduire の過去分詞で、特に「困難」とか「制限」のニュアンスはありません。「可動性」の方は、移動するものの属性であり、フランス語の単語 mobilité の語源のなかには「可」の要素はありません。
 車椅子を利用しているひとなどの身体障害者を指す婉曲的な表現ですが、足どりがおぼつかないお年寄り、足をけがして松葉杖をついている若者なども、定義上 PMR に入ると考えられます。社会制度によって障害者だと認定されているひと、手帳をもっているひとが障害者だという区切りとはちがう考え方がここには見られます。
 障害者の「害」という漢字がよくない字だからそれをひらがなで書くというのは実に滑稽なことだと思います。それなら「障」の方はどうなのですか。「障碍者」あるいは「障礙者」と書く場合はどうなんですか。「碍」という字を「害」で置き換えようとしたひとがおかしかった、ということが云われているのですか。
 こんなことにこだわるよりも、区切り方を変えるということを考えた方がいいのではないかと私は思います。日本社会のどこにおいても、障害者は障害者であり、障害者と同じカテゴリーに決して「健常者」は入らないという現状を変えた方がいいのではないでしょうか。命にかかわる病気をしていなくても障害者は障害者であり、重い病気にかかっていても健常者は健常者だ、こういう不条理な区切り方は場によって変えてゆくべきではないのでしょうか。PMR は、交通機関が独自の区切りとして考えたものですが、それがフランスの社会に浸透してきています。利用者が困難を感じずに移動することができるかどうか、そういったひとにいかなる配慮をするか、それが交通機関の利害にとって問題だから、こういう新しい用語を考えたのです。日本の社会においても、それぞれの仕事や活動の場において、おかみに決めてもらわなければわからないような区切りではなく、自分たちの利害にかかわる、理性によった区切りを考え、その区切りに対応する、自然に日本語として理解できる新しい表現を考えてみたらどうでしょうか。

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2008年7月18日金曜日

差別がだめだとはわかっている、とはどういうことなのか

 「差別はだめだとわかってはいるのだが」といらない前置きをして、素朴な差別感情を述べるひとがよくいます。このひとはいったい何をわかっているのかがよくわかりません。「わかってないでしょう!あなたは!」と額に青筋をたてて怒ってもいいのだが、それもあまり生産的ではないので、こういうひとは何を理解しているのかと、まじめな私は悩むことになります。
 ひとつには「何かやましいから一応云っておく」ということがあるでしょう。ではいったいなぜ「何かやましい」のでしょうか。「もしかしたらみんなが云っていることと自分は本音のレベルではちがう意見をもっているのではないかと思うとやましい」と思うということでしょうか。そのようなやましさゆえに、本音のレベルまで書き換えてしまって、本気で「私は差別はだめだということがわかっている」と、まったく何もわかっていないのに、心の底から思い込んでいるのかもしれません。
 もうひとつの理由は「私は差別されたらいやだ」ということでしょう。「差別はだめだとわかっている」という公式見解が、自分が差別されないための免罪符になっているとでも信じているのではないでしょうか。ただこの「自分が差別されたらいやだから、私は差別はだめなことだとわかっていると云っておく」という態度が、実際に自分が差別を受ける可能性のないぬるま湯のような状態で生きていると、そのうちに根拠を失ってきて、実際には全然わかっていないことを露呈しまうということもあるのかもしれません。
 差別的意見はまるで平凡なことであるかのようにして発表されます。おおっ!この差別的意見はオリジナルだ!と思わず感心してしまうような差別的意見には決して出会わない、差別的意見は絶望的なまでの凡庸さを刻印されているのは、いったいどうしたことなのでしょう。このようなことばを発するにいたる心的葛藤、屈折を含めて、すべてがあきれるほどに平凡です。ここに何か秘密があるような気がします。
 「差別はいけないことだけど」と前置きして、何の恥ずかしげもなく差別的意見を述べるひとは、なぜかは知らないが「どうせみんなほんとは私と同じことを思っているんでしょ?」と云いたいかのようです。「差別はだめだとわかっていつつ、差別的な感情をもっているのは私だけじゃないよね?」と云っているのではないでしょうか。どこからこういう考えが来るのか。それは私にはよくわかりませんが、これが差別的感情の力なのでしょう。
 「各々の存在の根幹には、不充足の原理が存在する」とバタイユは云っています。個体の不充足を満たしてほしいと思うところから共同体への志向が生まれるのです。差別的意見ないし感情は、自分と同質のものであると想定される想像的な他者の存在の補完によって成り立つ(それによってしか成り立たない)共同体、本質的にそれを構成する個体が不充足を抱えているものがつくる(かもしれない)共同体を指し示すものの典型であるかのように思われます。
 「私は差別はだめだとわかっている」という主張も、結局は「みんなわかっていること、わかっているはずのこと、わかっていなければならないと思われること」として云われているだけであって、それを自分のからだと頭でわかっているかはまったく問題ではなく、自らの不充足を満たしうる「みんな」と共有されている知識として云われているにしか過ぎないのでしょう。「差別はだめだとわかっている」と確認しておくことが、自分が差別を免れるための免罪符として成立するとこのひとたちに考えることができるのは、自分は「みんな」の一部をなしている、「みんな」と同質のものであるということをこのことばが云っているからでしょう。
 しかしこのとき「差別されるもの」の方は、この「みんな」の一部をなしていないということが理解されている。だから「差別するのはだめだとわかっている(私は「みんな」と同質ですという確認)けれども、私は差別します(みんなと同質でないものは差別に値します)」という一見極端に矛盾した論理が、ああら、不思議、これを理解できるひとには理解できる論理として成立することになります。
 だいたいこういうことなのではないでしょうか。
 それにしても、日本の警察は、東京在住のひとが橋本知事を殺すとか、投すとか小女子を殺すとかいうおふざけを理由にしてひとを逮捕するのなら、こういう差別的なことをインターネット上で云っているひとのことも、それが悪い冗談なのかパロディなのかも別にして逮捕したっていいんじゃないの。
 ことわっておきますけど、私が云っていることは、「まったく、悪い冗談のためにひとのことを逮捕するなよ、日本の警察は!」ということですからね。かんちがいしないように。恥知らずな差別的意見をインターネット上に書き込む人間は醜悪だし、読みたくないが、権力を用いてそれを排除すべきだなんてことは私は思いません。私が云いたいのは、こういう書き込みの方が、おふざけの殺人予告よりもずっと悪質だということです。だからもしおふざけの殺人予告が逮捕に値するというのなら、こういうやからだって逮捕に値するだろうと云っている。「でもあっちの方は殺人予告だ!」なんて云わないでください。おふざけはおふざけです。殺人予告ではありません。警察が念のために警戒にあたるということがあるとしても、「念のため」の部分までおふざけをしたひとに責任をとらせるわけにはいきません。「念のため」の部分の責任は警察の自主性にあると考えるべきでしょう。
 ただこの悪質な書き込みに関しては(不愉快だからリンクも貼らないし、その文全体の引用もしないから、具体的にどういう意見のことを云っているのかわからないだろうけど)、「差別がだめだとわかってはいるのだが」というあたりが、もし差別的な意見のパロディだとしたら、よくできているのかもしれません。でもあまりによくできすぎていて(悪趣味なパロディだとしてもいかんせん本当に趣味が悪すぎて)パロディだということがわかりませんが。

P.S. 「みんな」は本質的に不充足を抱えた個体の集まりですが、この個体は不充足が本質的なものであることを意識しつつ、その不充足を埋めることができるのではないかという想像と期待をもって生きています。「差別がだめだとはわかっている」ひとが障害者のことを怖いというのは、障害者がその不充足を決して満たされない本質的なものとしてみせるからなのでしょうか。「私は五体満足なのだから満たされている」とある種の健常者は信じます。しかし「満たされている」ということは生きているかぎり決してありえることではなく、この信念はせいぜい「いつか自分は満たされたものになる可能性があるかもしれない」という空想しか意味していません。障害者はこの空想が空想でしかないという事実を知らせるのかもしれません。そのような事実を目に見える形で知らせる人間が、ある種の人間にとっては怖いのかもしれません。

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2008年7月12日土曜日

フランス語を話題にしたブログ

 ここのブログはおふざけ半分の万人向けなので、フランス語を話題にしたまじめなブログをつくってみました。まじめなブログですがあまり役には立たないでしょう。だいたいフランス語中級者以上向けという感じです。興味のある方はどうぞ。

辞書後進国の悲しさ

 「辞書後進国の悲しさ、どの辞書を見ても満足を覚えることは めったに無い。」
 と山田忠雄先生は新明解国語辞典の序に書いておられます。辞書後進国の悲しさはまた、そのような国に生まれ育っているがゆえに、辞書とはどういうものであるのかがわかっていないひとが非常に多いということでもあります。今の世のなか、英々辞書や仏々辞書の類を頻繁に引くひともまれではないだろうが、それを本当に使いこなせているひとがどの程度いるかといえば、はなはだ疑問であります。
 辞書先進国フランス語の辞書であっても、決して完璧ではありません。フランス人は決して正しい意味でだけことばを使うのではなく、意味をまちがって用いた個人的な用例は辞書には収録されないからです。しかしこのまちがった用法が広がると、辞書編纂者もそれを考慮せざるをえません。
 フランス語の場合で云えば、英語に影響された用法が多く用いられ、それが辞書に収録されるという例が最近はよく見られます。たとえば réaliser, basique, approche の例が考えられます。Réaliser はフランス語では「実現する」の意味ですが、英語の影響から「理解する」の意味で用いられることが多くなっています。他の二例についても、もともとフランス語には「ベイシック」「アプローチ」の意味はないのに、その用法がかなり頻繁に見られるようになっています。そこで現在の辞書にはこれらの英語の似た単語からきた意味が収録されています。これらは「偽りの友だち」(faux-amis)と呼ばれるもので、同じ語源で形は似ているけれども、英語とフランス語では意味がちがうものです。たとえば préjudice (prejudice) は英語では「偏見」ですが、フランス語では「損害」です。(英語でも法律用語になると「損害」の意味があるようです。) フランス語で「偏見」は préjugé になります。「偽りの友だち」は英仏語間の翻訳者が注意しなければならないものです。(形が似ているけれども意味がちがうフランス語の単語と英語の単語を並べたときに、これは「偽りの友だち」であると云えますが、フランス語のなかの単語の英語の意味に影響された用法はむしろ anglicisme です。「偽りの友だち」は言語学者のジョルジュ・ムーナンが1970年代に考えた新しい用語です。)
 日本は辞書後進国であるからと云って、必ずしも翻訳後進国であるとは云えないのかもしれません。フランスは逆に、辞書先進国だけれども、ある意味では翻訳後進国なのかもしれません。隣国に比べて非常に翻訳出版物の点数の数が少ないことで知られています。そもそも数が少ないなかでしょっちゅう同じものを訳し直しています。日本は非常に翻訳出版物の数は多いですが、そんなに訳す必要があるのかな、と私なんかは思ってしまいます。しかも改訳の数も非常に少ない。この状況が最近変わってきているのかな、という感じもするのですけれども、わざわざ質の悪い改訳をしてしまう場合もあるようです。その場合は(少なくとも読者にとっては)改訳には何の意味もないでしょう。翻訳後進国ではないけれども、その翻訳の質が高いかというと、話は別ということになりそうです。
 翻訳するのが比較的簡単な文章、非常にむずかしい文章があります。比較的簡単な文章だからといってむずかしさが存在しないというわけではありません。フランス語のインタヴュー記事などはわりと訳しやすいものですが、編集はあっても本人の云ったことばを尊重するので、話者が英語にかぎらず別の外国語に親しんでいる場合、数箇国語を話すひとの場合には、上に云ったような「偽りの友だち」をとりちがえて用いることが非常によくあります。同じ語源から生じた派生語は必ずしも同様の意味をもちませんが、それをかんちがいして用いる場合もあります。翻訳する場合にはこのようなかんちがいを見極めなければなりません。こういう場合は「辞書に載っている意味」で訳せばいいというものではありません。あるいはこれは最近の政治家に多いのだけれども、とっさにその場で新語をつくって受け答えをする場合があります。この場合はそもそも辞書に載っているわけがないので、言いたいところを汲み取って訳さなければなりません。
 セリーヌなどの非常に訳すのがむずかしい文章についても同様のことが云えます。そもそもどんな辞書にも載っていない表現をセリーヌは用います。フランス人に聞いてもわからない場合がよくあります。私の場合はたまたま雑誌に載っている表現にぶつかって、「ああ、セリーヌのあれはこういうことだったのか」とわかったということがよくあります。
 前に云ったことですが、セリーヌの本だなんて、一所懸命研究して一冊だけでもちゃんと日本語に訳せたらそれでいい、程度のことを考えればそれでいいのだと思います。初期のものは比較的に翻訳の困難は少ないだろうが、中期以後のものは非常にむずかしい。セリーヌ研究家のなかでもっとも有名な高坂和彦というひとは、非常に熱心に研究したひとだと聞いています。むかし私の通っていた大学で授業があったけれど、なかなかついていくのが大変な授業だという話でした。しかしこのひとはセリーヌを全部訳そうという計画をたてた。ひとりの人間の研究によっては、どんなことをしてもこんな無謀な計画を実現することはできません。するとここで間に合わないところを埋めるために、必然的に想像力で補うということになる。それでも間に合わなかったから全部は訳せなかったということになるのでしょう。何やら感動的なものはありますが、だからといってすべてを許すというわけにもいきません。だいたいそこを想像力で補ったら、セリーヌの面白さの大切な部分を否定することにはならないでしょうか。
 文章を読んでいて、「これはわからないな」と思ったら、調べることです。調べもしないで想像力で補うべきではないのです。作者に対する敬意の問題です。セリーヌというのは調べても調べてもよくわからないような表現を用いるひとです。だから私は「全部とことん研究することはどう考えても不可能だが、せいぜい辞書くらい引いてよね」ということを考えているのに、まるで私は辞書がすべてであると云っているかのような、いきなり思考の回路がショートしたことを考えるひとがいるらしいのです。「辞書くらい引け」と云っているところだけが目に入るのでしょうか。まあ、ブログなんてちゃんと読まないのが当たり前です。
 広辞苑の第四版の序文にはこうあるそうです。
 日常の言語生活において、語の意味や発音が知りたかったり、その表記法や用法の適否を判断したかったりする場合、辞書を引きさえすれば直ちにその正しい解答が得られると信じている人は、意外に多い。
 ひとが「辞書を引け」というのを見ると、反射的にこれは辞書は権威であるとみなした意見だと考えちゃうんでしょうね。私は辞書を引く程度の労力もいとうのは論外だと云っているのに。辞書後進国においては論外じゃないんでしょう、きっと。
 もしかしたら「調べもしないで想像力で補うべきではない」ということも理解できないひともいるのかなと思います。たとえば日本語の「足が棒になる」という表現を見て、外国人が「ぎこちないしかたで歩く」の意味だと想像力をふくらませて解釈し、そう訳したとします。それに対してただ辞書を引いただけのひとが、これは「歩きまわって疲れ果てた」という意味ですよ、と云う。それを聞いたひとが「辞書がすべてか! 文学とはそんなものじゃないだろう!」と云う。そんなこともあるのかなと思います。
 前にも云ったことですが、フランス語の sentimental という単語は、一見「感情」(sentiment)を語源にもつ形容詞のようにみえます。しかし実際には、スターンの Sentimental journey を訳したフランス人が18世紀の後半にこの題名を Voyage sentimental と訳したのがこの形容詞の最初の用例とされています。(逆に sentiment という単語はフランス語から英語に導入されたもので、英国人がこの形容詞をつくりました。) 何となく sentimental という単語はそれ以前にフランス語にあったのではないかとかんちがいしていたのですが、J・P・フレネという訳者がつくった新語だったのでしょうか。フローベールはこの新しめのフランス語を L'Education sentimentale という題名に用いました。だからここは「感情」の形容詞ではなくて、18世紀以来用いられている英語からきた意味、「愛」の形容詞として訳さなければなりません。しかしおそらくそれを知らなかったひとが想像力を駆使して(あるいは知っていたけどよく理解できなかったのか、それともよほど変なことを考えたのか)『感情教育』と訳し、それが気が利いていると思いました。こうしてひとりの人間の気の利いた思いつきを後のひとも気が利いていると思って踏襲しているのです。ひょっとしたら文学とはひとりの人間の気が利いた思いつきを読者が大切にすることによって成り立っているのかもしれません。滑稽が文学の重要な位置を占めることはフローベールも否定しないでしょう。

前の記事 ルルーシュはどこがだめなのか

2008年7月10日木曜日

ルルーシュはどこがだめなのか

 いま生きているフランス最大の作家は?という質問には、きっとパトリック・モディアーノと答えるフランス人がかなり多いのではないかという気がするということを書きましたが、映画監督の方はどうでしょうね。ベルトラン・タヴェルニエとかクロード・シャブロルとか答えるひとが多いのではないでしょうか。「ゴダールは?」と思うひともいるだろうが、ゴダールはスイス人だと考えているフランス人がかなり多いと思います。
 クロード・ルルーシュというひとがいます。このひとは大変ですね。新作が出るたびに良識派の映画雑誌各誌に酷評されます。数年前はあんまり新作映画の入りが悪いので「無料で入場できるよ!」なんてもうやけくそなことをやっていました。
 私はルルーシュのいちばんいい映画と云われる『男と女』とかも別に何とも思わないし、何本か見たが全然だめなんだけど、それでも「どうしてルルーシュはこんなに映画評論家の目の敵にされるの?」という疑問を感じずにはいられません。他のフランス映画と比べて特に悪い映画を撮っているとは思えない、むしろ平均以上なのではないかという気もするからです。でもこれには理由があったんですね。
 『男と女』が公開されたときに、元カイエ・デュ・シネマ誌の映画評論家だったが、監督になってからしばらく映画評論を書いていなかったフランソワ・トリュフォーは、感動してこの映画のために久しぶりに記事を書こうと思いたちました。その記事の題名は「ヌーヴェル・ヴァーグの子供」になるはずでした。しかしその計画を知ったルルーシュさんは一言云いました。「私はヌーヴェル・ヴァーグの子供ではない。だいたい私はヌーヴェル・ヴァーグを支持していない。ヌーヴェル・ヴァーグは私の愛するフランス映画を支えていた映画監督、ルネ・クレール、ルネ・クレマン、クロード・オータンララらを葬り去ったではないか。」
 これを聞いてフランソワ・トリュフォーはかちんと来ました。それでこの記事は自分で書かずに友だちに任せたのですが、そこでどうやら悪口を書かせたらしいのです。
 それ以上のことはよくわかりません。それでもこれがどうやら長年にわたるフランス映画評論のルルーシュに対する敵意の理由らしいのです。トリュフォーがルルーシュを仲間はずれにするようなつまらない人間だったのかどうかはよくわかりませんが、アイドルのトリュフォー大先生を怒らせたひとのことを悪く云おうという映画評論家の党派性は存在するということなのでしょう。ルルーシュのことを悪く云うのは良識派の映画評論家にとってはかなり前から反射的なものなので、そういう自覚もないのかもしれません。ちなみに私はトリュフォーも別に何とも思いません。フランス映画でいちばん好きなのはロベール・ブレッソンです。
 これは何年か前に、まさにルルーシュのことを悪く云わずにはおられらない良識派文化雑誌の代表テレラマ誌の「でもどうしてルルーシュはこんなに悪く云われなくちゃならないの?」というような記事に書いてあったことです。しかしその後に出た映画についてテレラマはかなりいい評を書いていたのがほほえましいですね。
 ところでジャンルイ・トランティニャンの初期作なら、『男と女』よりもこのまえ死んだディーノ・リージ監督の『追い越し野郎』の方を見てみてね。ずっといいです。

 「自由」と口に出した途端に、まるでそれが規則であるかのように全然自由じゃないものについて語りはじめるやつらに比べたら、多少議論のしかたに問題はあっても、「まったくもう、すぐに自由を自由の正反対の方向にもってゆくなよ」ということを云おうとするひとの方にずっと共感を感じます。フランク・ザッパも絶対に自由じゃなくちゃいけないって云ってましたしね。

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2008年7月7日月曜日

むかし書いたもの

 むかしブランショについて書いたものが突然出てきました。1996年か1997年に書いたものですが、書いたことも忘れていました。発表するつもりで書いたのではないのは確かですが、それにしても何のために書いたのでしょう。
 当時は「お前の書いていることは意味がわからない」とみんなに云われていたので、「きっと意味がわからないことが書いてあるのだろう」と思いながら読み返してみると、全然そんなことはなくて、かなり面白いのです。かといってこれからこれを発表することもないでしょう。むかし書いたものだし、衒学的な文体がかわいらしいと自分で思ってしまいます。
 ということでインターネット上で公開することにしましたよ。題名は「回想するブランショ ― ある20世紀文学史の挿話 ―」です。興味あるひとは題名をクリックして読んでみてください。短い論文ですが、レイアウトは酷いほどに読みにくいです(自分で選んでいるのですけれどね)。せっかく新しいペイジをつくったのだから、これからも何か出てきたらネット上に投稿するかもしれませんが、具体的な予定はありません。

2008年7月6日日曜日

メインディッシュ

 これからどんどん見かけることは少なくなってゆくのだろうけれども、フランスの電器屋に行くと K7 という表記を目にすることがあります。最初見たときは何かと思ったけれども、音訳するとKは「カ」、7は「セット」なので、「カセット」のことです。フランス語においては正書法が大切だというのは事実だけれども、このようなインパクトを狙った表記も見られます。商品名、ポスター、チラシばかりでなく、チャットや携帯電話のSMSでは特に良識派を嘆かせる略語、いい加減なつづりが見られます。
 ゲーム屋などに貼ってある紙に OKAZ と書いてあることがあります。「おかず?」なんて最初は思っちゃいましたが、OCCAZ と書いてあることもあります。これも一種の略語、「中古」を意味する occasion の省略です。ところで「おかず」ってフランス語でどういうのかな。考えてみてもどうしても「おかず」にあたることばがない。よくよく考えてみると、日本の食事ではお米以外はみんな「おかず」なんだ。と気づいたとき私は結構驚いたのですが。
 「主食」ということばの意味は、何となく食文化のなかで中心となっている食べもの、とくに穀物のことなのではないかと思っていたのだけれども、実は一回一回の食事のなかで米はヘゲモニーを握っていたのでした。
 前から気になっていたのだけれども、「ヨーロッパで主食は何ですか?」と聞く日本人がいて、それに対して別の日本人が「向こうの主食はパンです」、あるいは材料で「小麦です」と答える。これ、どういう意味で云っているのかな? 並み入るおかずに打ち勝って権威を確立している日本のお米みたいなものは西欧の食事のなかには存在しないでしょう。フランス料理のなかにおいて、朝食を別にしたら、パンはまったく主ではなくて、副も副です。まったく食べなくてもかまいません。(それでも普通は食べるけど。) そもそもレストランではただですから。米が背負っている思想的な価値がパンや小麦にはありません。(フランスで云うと、むしろワインの社会的な立場の方が米に近いでしょう。もちろん「フランスの主食はワインです」ということばは意味をなしませんが。)
 「米」という日本語もくせものです。米を炊いたら「ご飯」や「ライス」になるのかと云うとそういうわけでもありません。日本の主食は「米」であって、「ご飯」でも「ライス」でもありません。ご飯やライスはお代わり自由だけれども、「米お代わり自由」と書いてあったら、「なりすまし?」と眉をしかめるひとも少なくないと聞きます。米ということばは日本の根幹をなす反自由のイデオロギーと結びついているのでしょうか。「ライス」はただでもいいが、値段のつかない「米」はないということはあるのかもしれません。この辺、ただのものがない国日本の象徴、という感じがします。
 「西洋では米は野菜です」と書いてあるものもあります。これもどういうものかな、と思います。麦やパスタのように料理のつけあわせに用いられる、ということからこのように云われるのでしょうか。フランスでは長い米は料理用で、丸い米はお菓子用という無言の前提があります。別に丸い米を炊いてご飯として食べたらいけないということはありませんが、結構興味深くみえるものらしいです。最近はにんじんケーキとかあるので話がややこしくなっているけれども、お菓子に使うことになっている野菜というのはちょっとおかしいですね。(マダガスカルの隣りのレユニオン島も立派なフランス領ですが、レユニオン島では日本のようにお米を炊飯器で炊いて食べるらしいです。ちなみにレユニオン島では選挙も日本風の路上がなり合戦だと聞いてちょっと驚きました。) 「欧米では米は日本のようなステイタスをもっていない」ということを「西洋では米は野菜です」ということばは云いたいのだろうが、「野菜」ということばはちょっとちがうような気がします。これがちがう気がするからと云って「欧米では米は穀物です」と云うと、「日本でも米は穀物だろう」という話になります。「西洋では米は他の穀物とちがわない平凡な穀物です」と云えばいいのではないでしょうか。考えてみると、日本人が「日本では米が主食だけれども、西洋では何なのだろう」と感じるような疑問を、西洋人が「西洋ではパンが主食だけれども、日本でパンにあたるのは何なのだろう」と考えることはまずありえないのではないでしょうか。
 日本では米以外全部おかず、と云ったからといって、ラーメンやパン食を食べているときに「ああ、私は今おかずだけを食べているのだなあ」と思う日本人はまずいないでしょう。この辺曖昧なのです。米の絶対的な優位は、日本の典型的な家庭の食事において明かされるという恐るべき事実があります。米主食の思想は「典型」においてのみその力を発揮するのです。よくよく考えてみると米ってよっぽどいやなものです。
 メインディッシュということばは「主菜」と訳されるようです。「主菜」はわが新明解では「主となる副食物」となっています。「主となる副」って…。一方、『広辞苑』の定義は明快です。「主食以外で、食事のもっとも中心的な位置を占める料理。」 明解なような気もしますけど、それでは普通の西洋料理のコースではやはり「パンが主食だよ!」ということなのでしょうか。これはあくまで日本流の「主菜」の定義で、西洋料理に定義を拡張することはできないと思います。この定義は日本の米中心イデオロギーに毒されているのです。「主」なんだけど、「おかずのなかでは主」という地位を勝手に日本で与えているだけの話です。このようにして米の思想的な価値を死守しているのです。「さかな」の「な」はおかずの意味ですけれど、「西洋では米は野菜」と云われるときの「野菜」の「菜」もおかずの意味なのでしょうか。角川新字源によると、この漢字の「おかず」という意味はシナ語にはない日本独自の国義ということになっています。きっと「野菜」という単語のなかの「菜」は本来の「草」の意味なのでしょうが、「西洋では米は野菜」と日本人が云うときには、この「菜」の意味が無意識に国義「おかず」の方へとずらされているのではないでしょうか。
 日本人が日本の思想にとらわれて、海外の食に関しても「(日本では米がそうであるような)主食は何ですか?」と聞くことができるのであれば、外国人の旅行客が日本のお膳料理を見て、「このなかで(コースメニューのなかにあるような)メインディッシュはどれなのか」と聞くこともできるはずです。このとき日本人は「米です」と本当の答えをするのか、それとも「焼魚です」と外国人向けの「主食以外で、食事のもっとも中心的な位置を占める料理」を答えるのでしょうか。それにしてもメインが米だなんて、日本料理というのは実につまらないものです。
 米というのは、力はあるけどまったくありがたみはないという、森義朗みたいなものなのかと思います。(ニール・ヤングはむかし「リチャード・ニクソンにすら魂はある」と歌ったが、そういう意味で「森義朗ですらいいことは云う」とは思います。)

P.S. 日本語の生徒のなかに数人国立科学研究所の研究員がいたのだけれども、そのなかにアフリカでも育つような米の品種改良の研究をするために日本に渡る予定のひとがいました。今はもうフランスに戻っているでしょう。そういう存在としての米はいいものだと思いますが、日本の国家思想と結びついた米は嫌いです。私は「遺伝子操作反対!」とか云って苗を引っこ抜くひとではなく、厳しい自然のもとでも育つ品種を開発する研究者の方を支持しています。

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2008年7月4日金曜日

今フランス最大の作家はだれなんですか?

 ピエール・ジュールドという文芸批評家が2002年に出版した評論『胃袋なき文学』はかなり話題になりました。もちろん題名はジュリアン・グラックの『胃袋の文学』のもじりです。グラックは文学賞が過度の重要性をもつフランス文壇を批判しましたが、ジュールドはまさにいま文学賞をにぎわす作家を滅多切りにしています。
 フランス人は今、むかしはフランス文学が世界に影響をもっていたのに、まったく大作家がいなくなったとお嘆きで、ジュールドの本はその雰囲気を象徴するものです。だれだったか忘れたけれども、ある非フランス人の世界的に有名な作家はこのことについて聞かれて、「フランス人はこういうことを云ってぶーたれるのが好きだからね」と云って、フランス文学が絶望的な状態にあるというのは大げさだということを暗示していました。それでも今のフランス文学は元気がないという印象があるということは否めないのではないでしょうか。
 「今フランス最大の作家はだれなんですか?」という質問に対してどういう答えが返ってくるでしょうか。妥当なところではパトリック・モディアーノでしょうか。何だかあまり日本語訳はないみたいなんですけど。ソレルスやルクレジオも元気なのですけれど、名前が出てきがちなのはむしろモディアーノでしょう。特にソレルスはフランスではイメージが非常に悪いです。
 ピエール・ギヨタも健在です。健在とはいっても今や自分の病気の話がメインなので、健在というよりも病在かもしれません。すごい作家だとは思うが、いろいろな意味で読むのがつらいです。一般人の間ではまったく知名度はありません。
 日本でもかなり翻訳が出ているらしいパスカル・キニャールは、私は好きですけれども、彼のゴンクール賞受賞作は、ゴンクール賞をとった本としては史上最低の売り上げを記録していました。あまりに知的過ぎるのが問題らしいです。なぜかフランスでは小川洋子が好んで訳されているのですけれども、キニャールも小川洋子が好きなのだそうです。
 個人的にはシャルル・ジュリエが非常に好きですが、代表作が日記なので、なかなか紹介されにくいかと思います。
 親しみやすい作家としてはダニエル・ペナックがいます。子供向けの作品や推理小説風の作品が多いけれども、ベストセラー作家でありながら上質の作品を提供する作家として知られています。日本にも熱心なファンがいるようです。
 もうちょっと若い作家にだれがいるか、ということになると、なかなかむずかしいのです。よく売れる過大評価の作家と云えばミシェル・ウェルベックでしょうか。「面白いから読んでみて」と云って貸してくれたひとがいたから読んでみたのだが、もう、ものすごくつまらなかった。古いんですよ。ウェルベックの本を読む時間は今までの人生で過ごしたもっともむだな時間でした。ジュールドは「確かに小説の方法としては古いが有効である」という一定の評価を与えているようにみえるが、逆にものすごく皮肉なことを云っています。「ウェルベックの味気なさは文体上の武器となっている」だって。このひとと比べたら、元広告作家でテレビの司会とかもやったおちゃらけ作家フレデリック・ベグベデの方がまだましです。まだ読む気を起こさせる文章を書いています。テレビで「日本でも有名なベグベデですが…」と云われたら、司会者のことばを切って、「いや、日本でだけは俺の本は売れないんだよ。ほんとだよ」と云っていたのが印象的でした。ウェルベックとベグベデは一般人のイメージとしてはセットになっています。そういえばウェルベックはカルラ・ブルーニの新作に詩を書いているらしいですね。まあ、どうでもいいんだけど。ウェルベックは文学界のピンク・フロイドだ(フランス人が珍重するつまらないものの意)。
 クリスチアン・ボバンは嫌いではないけれども、弱いです。もうちょっと文学からはみでるくらいの気概があっていい。ジャンフィリップ・トゥーサンは、私はちょっと…。
 ジュールドが今のフランス文学の中で例外として挙げている数少ない作家のひとりがヴァレール・ノヴァリナです。たぶん今フランス語文学最大の作家と云えばこのひとになるのではないかと思います。ただしスイス人のノヴァリナはフランスでは大して知名度がありません。劇作家なので、演劇をやっている学生くらいしか知らないと思います。アラバールなんかも日本では劇作家としてそこそこ有名だけど、フランスではテレビの迷場面集で有名ってなもんです。(映画監督チームのストローブとユイレもそんなところがあります。もし一般人が名前を知っているとしたら、テレビの迷場面でしか知りません。)
 ノヴァリナの処女作『生命のドラマ』(1984年)とかものすごいんですけどね。もはや新しい文学はない、とお嘆きの方が腰が抜けてしまうようなものです。戯曲ではあるが上演不可能なので、その代りに1983年の7月5日と6日の二日間にわたって、ノヴァリナは2587人の登場人物を描くというパフォーマンスをラロシェルで行いました。『生命のドラマ』の文学的興味の中心は、この登場人物の多くの場合は翻訳不可能なことば遊びのようなごろあわせのような名前なのです。変な名前のひとが舞台に出てきては死んでゆく。そのなかに不意にパトリック・アンリという殺人犯の名前が出てきたりするのが意味がわからない。変な名前のひとだけならまだわかるのに、普通に寓意がわかる名前も多い(後の作品ではそういう名前の方が多くなります)。この戯曲を締めくくる最後のせりふはアダムが2587人の名前を全部云う文庫本で12ページにわたるせりふです。
 雰囲気がわかるようにちょっと訳してみようかと思います。
モルビ(Morbi) あなたが見たがっていた発信する穴はどこにあるのか。
わかたれたヨハネ(Jean Séparé) なかに、奥に、てっぺんにあり、いつも言語を発信しています。フランス語では普通「わかたれたものの穴」と呼ばれています。世界にもはや言語がなくなり、人々が消え去った後にならなければこの穴は話しません。
オルビエ(Orbier) その穴を見せろ。直径はいくらか、どこにあるのか!
わかたれたヨハネ 私にはその穴を見せることも見ることもできません。常につくらなければならないのです。私の言語はだまりこくっていると云わなければなりません。いかなるものだろうと肉は堪えられません。話すものの肉の声は僕に聞こえないのです。
モルビ あらゆる他の言語が消え去ったときにも残っている言語はふたつしかない。
わかたれたヨハネ その名前を教えてください!
モルビ ダンセツ語とジョセン語です。(La masculienne et féminide.)
わかたれたヨハネ そんなことばは知りません。
(ヨハネは他のわかたれたものらと合流する。オルビエはモルビを犯罪する。子供カインの誕生。)
 モルビは morbide(陰鬱)の de をとったものにみえますが、もうひとりの登場人物の名前 Orbier によってその仮定がそらされます。とはいってもどちら側にそらされているのかはよくわかりません。法皇の挨拶 urbi et orbi をどことなく連想させるような気もします。このようにこの戯曲の登場人物の名前はいろいろなものを連想させながらもひとつの結論を導くことがありません。それはひとの名前ばかりではなく、masculienne et féminide のような奇妙な造語についても云えます。(冠詞の使い方もちょっとおかしいです。) 「男性語と女性語」だとすれば、masculine et féminine になるでしょうが、語尾をねじって他のどの単語に近づけようとしているのかは判然としません。「犯罪する」(crimer)という他動詞もノヴァリナの造語で、「犯罪」(crime)を勝手に動詞にしています。何となく強姦を思わせますが、これも判然としません。
 この戯曲の聖書との類似は明らかなので、ジャンではなくヨハネと訳してみました。ノヴァリナの戯曲作品は字面だけを読むと肉体を奪われた言語の存在を照出しているようですが、奇妙な造語によって逆説的に言語の肉体性を明らかにしてしまっているとも云えます。新語が見せる肉体性によるその作品の革新性にも関わらず、他方の特徴のためにまるでむかしの格言集を読んでいるかのような印象を与える古典性をたたえています。
 せっかくだからもうひとつ他の箇所を訳してみましょう。申しわけないけど、いちいち登場人物の名前のもとのつづりとか説明とか面倒くさいからつけません。雰囲気で読んでみてください。
ズウォウサン先生とクダナキ先生 あなたは考える穴が痛いのだ。
動物エノック ぼんやりしていました。私は自分が後ずさりしなければならない大地の機械であることを忘れていたのです。倒れることなく常に内側から後へと世界を渡り直す苦渋の機械なのです。
動物クラティロス 私も同じです。一日一度は犯罪を犯さないと元気がありません。常に世界のなかで前方から退却して、後ずさりしなければならない大地の機械であることを忘れていたのです。
(ズウォウサン先生は動物エノックを犯罪し、クダナキ先生は動物クラティロスを犯罪する。逆ジーグ、マルボ、グラヴォン、フォルジット、イルクの誕生。)
イルク 生まれるやいなや苦痛がある。僕らは考える穴が痛い。
クダナキ先生 あなた方は話すために考えるところが痛すぎるのだ。
ズウォウサン先生 どうびつの言語を聞くと私はいつも大笑いすることになろう。
クダナキ先生 人間は理性の遅滞について理性をもって話す。ほしくもない頭を前の方から嵌め込んでほしいと常に夢見ている。でも我々はそんな風なものなのだ。
ズウォウサン先生 おお、わが頭脳、生ける穴よ、私のからだのなかでほしくもないところはお前だけなのだ!
クダナキ先生 どのようにして死が近くからこのひとに語りかけているのかをごらんなさい!
イルク 僕らは口を閉ざさなければならないのかどうか教えてください。僕らは数が多すぎて話すことができないのです!
ズウォウサン先生 もはやことばをもたない動物のリストを云いなさい。
イルク 犬、猫、ねずみ、馬。
(イルクはクダナキ先生を犯罪し死ぬ。子供スカルダブロンの誕生。クダナキ先生はズウォウサン先生を犯罪する。大地の男の誕生。子供スカルダブロンは大地の男を犯罪する。脚人の女の誕生。)
子供スカルダブロン あなたはご存じなのだから教えてください。人間は世界の劇場のなかに生まれるのか、それとも世界が人間の劇場のなかに生まれるのか。
脚人の女 動物人間よ、この場面は聾者の劇場のなかで生じると理解しなさい。
子供スカルダブロン 人間は何を話したのか。
脚人の女 人間はげんごんを話した。
大地の男 それでは我々は何で死ぬのか。
脚人の女 単に別々に肉で死ぬのです。
大地の男 子供ですらどうして人間は話すのかと聞く。母さん、これはいいことでしょうか。
子供スカルダブロン 我々には指で空気を実行することは決してできないのだろうか。
大地の男 我々は話す動脈によって常に引き裂かれ、ふたつに割られているのだろうか。
脚人の女 子供らよ、お黙りなさい。今や世界のなかに入って、口をきかずに言語を横断しなければならないときが近づいています。
子供スカルダブロン ああ、母さん、僕はできたらもう何も云いたくないのです!
大地の男 母さん、もはやひとつのことばしか存在しないところに行くことはできますか。
脚人の女 子供らよ、お黙りなさい。外に出てからそんな話をしなさい。
 何だかこれを訳していると終わりません。この辺にしておきましょう。
 今のフランス最大の作家はスイス人だった、というわけのわからないお話でした。現在のフランス最大の映画作家はベルギー人のブノワ・デュモンとダルデンヌ兄弟だから、まあいいのかな。レーモン・ドパルドンはフランス人だけど。

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2008年7月3日木曜日

世界遺産マニア

 元NHKの池田というひとの問題のひとつは、「風が吹いたら桶屋がもうかる」というのとはちょいとちがうが、「そこには因果関係がないでしょう」というところに、勝手に自分にしかわからない因果関係をつけたがるところです。
 日本人の旅行者がフィレンツェの大聖堂に落書きして停学や懲戒処分を受けたことを、イタリアの新聞が批判しているが、これはお門違いだ。(…)イタリアの遺跡は落書きだらけで、これがイタリア経済の低迷する原因を象徴している。
 こんなことが論理をもって云えるのなら、このひとがNHKだったということが日本のジャーナリズムの低迷を象徴していると云えないこともないが、私はそんなことは云いません。しかも「低迷を象徴する」と云わずに「低迷する原因を象徴する」と云っているあたりが何だかこずるい感じがしていやです。「それおかしくね?」と云われないために「何も云わない」ことを選んでいます(だって「低迷」は事実とだとしてもここで問題になっている「原因」が何なのか云っていないのですから、いくらでも逃げられます)。「私は何も云いません」と書きたいのなら何も書かなきゃいいのにね。日本中の小学校(人生最重要の教育の場ですよ!)の机に落書きがあるのと日本経済が低迷することにも当然関係があるんでしょうね。小学校の机の落書きは小学生が書いたものだけど、イタリアの観光地には日本人観光客を含めた世界中のひとが落書きして、こぞってイタリア経済の低迷に貢献してますから。私はイタリア語が読めないので池田くんが貼っているリンクの記事がどういうことを批判しているのかはわかりませんが、いやしくもむかしはジャーナリズムにかかわったものが、他者からの(同胞に対する?)批判を一言で「お門違い」とか云って片づけるのはどういうものかと思いますけど。「批判は大いにしてください」くらいのこと、言いなさいよ。
 私がこの問題に対して感じる疑問は、「有名な建造物に落書きしたのでなければ見逃してもらえるのか」ということです。たとえばフランスのきたない地方線の電車(最近はびっくりするほどきれいになっていますが)の車窓の下あたりに日本人が落書きしていてそれが見つかったら同じく処分されるのでしょうか。たぶんそんなことはないのでしょう。すると落書きが問題だというのではなくて、世界遺産を汚したのが問題だということになります。
 十年帰らなかった日本に戻ってきて「へえ」と思ったことのひとつは、みんな「世界遺産、世界遺産」と念仏のように繰り返すということです。ユネスコが指定したからといってそれが何なの?と私は思うんだけれど、これが絶対的な価値になっているひとも今やまれではないということなのでしょうか。ちょっと世界遺産の基準を見ただけで、絶対に世界遺産にはなりえないけれど素晴らしいところも世界には数えきれないほどたくさんあるだろう、くらいのことは簡単に想像がつくと思うんですけど。だいたい世界遺産を指定するのは保存することが目的で、これを観光地としてとらえるのはちがうのではないかと思うのですが。
 フランスで日本語を教えていた生徒さんのなかに、ライトバンに数人観光客を乗せて運転手とガイドをするひとがいました。どこの国から来たひとでもお客さんのなかには数えているのだけれども、ヨーロッパからの観光客は自分の車でフランスに来てしまうので、顧客の多くは北米人か日本人だと云っていました。土地勘がまったくない日本の旅行会社は、マニアな顧客の云うがままに、とても回りきれないようなプログラムを組むので大変だということでした。すると物理的にこれを全部回るのは不可能だ、ということをお客さんに説明してプログラムを整理したり、「今日はここを回ります」と予定されているところのあたりにはそもそも行けないということになれば、「こういういいところがありますよ」と云って、お客さんに喜んでもらえそうなところを自分で選んで案内する(せざるをえない)のだそうです。(なかには「回るところは全部ガイドさんにおまかせよ」と云って、案内されたところで大喜びしている気持ちのいい日本人のお客さんもいないわけではないという話です。) 三、四人のお客で運転手やガイドを雇って旅行するような余裕のある人々ですから、プログラムが変更されたからと云って怒りだすということはないようですが、それでも彼の感じる「日本の観光客でちょっと困るところ」は、「ここには行けないから、ここに行きます」と云うと、すぐに日本語の本をとりだして、その名前が本に載っているのかを調べることなのだそうです。それでその名前が本に載っていないとどこか不満げなのだそうです。「いい景色でしょう、すばらしい街並みでしょう」と彼は云うのだけれども、どうも反応がよくない。この話を家族にしたら「それはそうだ、帰ってきても自慢できないもの」と云っていましたが、これはそもそも普通の日本人が知らないようなマニアなところを望んで回っている人々なので、そうではなくてむしろ、その場所に格づけがされていないのが不満だということなのではないでしょうか。素晴らしいところを回っているということを確信させてくれるような権威の側からの意見が存在しないと不安になってしまうのではないでしょうか。
 フランスの地元のひとは知っていて、地元の観光ガイドには載っているが、日本語の本には載っていないから格づけがされていないと感じるのは(そうだとしたらの話)、心情は理解できるけれども、どことなく愚かなことのようにも思えます。ユネスコの世界遺産というのは、海外に旅行に行く日本人のこういう格づけのなかでも最高の権威として格づけされているのではないでしょうか。この落書き問題に関して、みんなマナーの話をしているようです。しかし本当はマナーがどうの、落書きがどうの、というのではなくて、権威に対する冒瀆とかそんなことが問題になっているのではないでしょうか。だったらそう云えばいいんだけど。
 この問題が落書きやマナーの問題ではなくて、尊重されなければならない権威との関係が問題であるというのならば、落書きをしたものが所属する機関から処分される理屈が理解しやすくなるような気もします。しかしこの場合は理屈が理解しやすくなったからいいというものではありません。このような場合に、ある個人が属していると考えられる社会的実体の上部の審級が、その個人の私生活に介入することは許されません。(ことばがこなれていなくて申しわけない。) おそらくこのような処分を支持する人々は、古来よりある美しい日本人の美徳を主張したいのでしょうが、そういうひとたちが「恥」というもののもつ制裁の効力をもはや認めないのだとしたら、これはどういうものでしょうか。もし学校の先生が落書きしたとわかったら、校長が呼びだして「恥ずかしいことですね」とでも云っておけばいいのです。それが機能しないのだとしたらとんでもないことです。「お門違い」なのは、こういうひとたちに対する処分の方なのです。このような処分は、ますます個人の道徳を外面化し、良心の責任を軽くするという、本来望まれているのと正反対の効果しか生みません。本来は内面的な道徳の問題であるはずのものが、権威あるいは権力との関係に組み替えられるというのだから、これからは「自分の良心に従って行動する」というのではなく、「処分されないようにしておく」という傾向をますます強めるからです。これではせいぜい「じゃあ、所属を書かなかったらいいだけ?」とみんな思うだけの話でしょう。この処分のおかげで「へえ、落書きって悪いことなんだ!」とか思うひとはいないと思いますよ。子供のころから落書きは悪いことだと教育されたはずなのに、実はそうではなくて、所属している社会的実体に対する面汚しをするのがいけなかったという衝撃的な事実が明かされたのでした。ふうむ、これはむしろ落書きを助長してるんじゃないか? 「こういうことで処分されるんなら」と考えて、ひひひと笑いながら嫌いな同僚の名前とか書くやつ、絶対に出てくるね。イタリアまで筆跡鑑定のひとを送っちゃったりして、もう大変です。私はこういう処分の被害に合っているひとたちには、絶対に訴訟を起こしてほしいと思います。
 数日前に、生徒にびんたを張った教師に対する訴訟がフランスで問題になっていました。生徒の父親は憲兵さんで、このひとが訴訟を起こしたのです。この教師が教室の机の片づけをしなさいと云うと、子供が「あほんだら」と口応えをしたのでびんたを張ったということでした。こういう話を聞くと「ああ、モンスターペアレンツ」という話になりそうだが、ちょっと待ってください、憲兵さんが求めた賠償金は1ユーロなのです。つまりここにあるのは、「もうちょっとこういう問題についてちゃんと法的に考えてみよう」という態度です。(たぶんね。ポッドキャストのニュースで見ただけだからちがうかもしれない。別にこのお父さんがニュースに出てきたわけではありませんから。) このような考え方から、こういうひとたちは訴訟を起こすべきです。
 この池田というひとは「殺人予告で逮捕されるケース」にも触れているので、そちらの方にも少し触れておきましょう。「殺す」を「投す」と書いたひとも逮捕されたと聞くと背筋が寒くなります。警察はこれが悪質なものだと判断したというのだが、確かにこれはいたずらとしては悪質です。しかし警察はこの程度の悪質ないたずらによって逮捕するんですか。いったい今はいつの時代なんですか。答えは「21世紀は迷妄の回帰の時代です」なんですか。我々はどういう警察国家に生きているんですか。「投す」と書いている時点で、これは真剣な殺人予告ではないという前提があります。それなのに警察が警戒にあたらざるをえなくて、業務妨害にあたるだなんて、まさに狂気の沙汰です。念のために警戒にあたってしまったという事実はあるでしょう。本当にご苦労さまなことだと思います。しかし警察という公僕はそういうご苦労さまなことをするためにあるんじゃないの? ちがうんですか。ここで「苦労させたから逮捕!」になっちゃってていいんですか。
 こんなヒステリーはきっと一過的なものにちがいないだろうとは思います。しかしそのヒステリーの時期が過ぎた後に何が残っているのか。まさかインターネット上ではひとはだれも何も云えなくなり、警察を批判しただけで難癖をつけて逮捕されるのではないかとひとは震えあがることになっているということになっていやしないか。まさかそんなことはないと思います。私はそれでもまだ日本の警察を信用していますから。
 それでも最後に「とん、とん、とんからりんと、隣組!」と口ずさむくらいのことは許されてるんでしょ? それともこれは悪質ですか?

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2008年7月2日水曜日

フランス近代詩の栄光

 ボードレール以後のフランス近現代詩は世界中で愛されているという感があります。実際に世界中でそうなのかはわかりませんが、何となくそういう印象があります。谷崎の『痴人の愛』のフランス語訳には、イタリア人のアルベルト・モラヴィアが序文をつけていますが(もう手放してしまったけれど、彼がフランス語で書いたのか、イタリア語からの訳なのかことわり書きはなかったと思います)、そのなかで、開国後に突然詩のモデルがランボーになってしまった国の引き裂かれた状態のことが言及されています。モラヴィアは象徴的にフランス詩人の名前を挙げていますが、実際に20世紀前期の翻訳詩で日本近現代詩に対する本質的な持続する影響を及ぼした上田敏のことを考えてみれば、彼は特にフランス詩を珍重したということは云えないのではないかと思われます。少し時代が下って堀口大學になると、フランス一辺倒という感じになります。この世代からの日本の現代詩人はかなりフランス近現代詩に傾倒していたということが云えるのではないでしょうか。フランスで出会ったさまざまの国からの留学生も、多くがフランスは詩の国である、それも19世紀以後の詩人によって知られる詩の国であると考えていました。
 しかし奇妙なことは、あくまで印象なのだけれども、多くのひとがボードレール以後のフランス詩を念頭に置いているように思われるということです。なかなかその前の詩人の名前が出てきません。詩人としてはヴィクトール・ユーゴーの詩が大好き、という外国人がもっとたくさんいてもいいのではないかと思うのだが、あまり数が多くないような気がします(ユーゴーの小説は読まれていると思います)。16世紀のロンサール、17世紀のラフォンテーヌなどになると、教養としては知っているけれども、愛誦するものとしてはとらえられていないという印象があります。頻繁に口にのぼる名前はボードレール、ランボー、少し時代が下るとエリュアールなどです。それが何となく世界共通のことのような気がします。
 たとえばラフォンテーヌのことを考えてみましょう。ラフォンテーヌの詩の暗誦を外したフランスの学校教育は考えられません。これから先もそうでしょう。確かに『寓話』は子供向きだとも考えられますが、ラフォンテーヌは決して子供向きの詩だけを書いたひとではなく、当時としてはあまりに放埓すぎると考えられた詩集が禁書になってもいます。順序としては禁書になった詩集の方が先で、アカデミー・フランセーズの会員に選出されるに際して、ラフォンテーヌは二度とこんなものは書かないという約束をしています(記憶で書いているので、細かいところはちがっているかもしれません)。
 ラフォンテーヌの『寓話』のことをアンドレ・ジッドは奇蹟と呼んでいます。どうしてこれが奇蹟なのか、フランス語を母語としないものにはなかなかわかりません。
 フランスの定型詩は、多くの場合はアレクサンドランと呼ばれる韻を踏んだ12音節の詩行によって構成されます。しかし必ずアレクサンドランで書かなければならないというわけではなく、8音節や10音節の詩行を用いて書いた詩人も少なからず存在します。ラフォンテーヌの場合は、押韻を規則とした定型詩のなかにとどまっていますが、連や行によって音節数を比較的自由に変えて、しかもそれが自由律になることはなく、他に類するもののない音楽性をもっているということにおいて、まさに奇蹟的なものであるということが云えます。しかもこれがまったく意味上の不透明さのない物語を語っているのです。私はジッドがラフォンテーヌの詩のことを奇蹟と呼んだということしか知らないのですが、おそらくこういうことを念頭に置いて云ったのではないでしょうか。
 ラフォンテーヌと同時代の大詩人のボワローの厳格な定型詩と比べると、ラフォンテーヌの音楽的な自由さは実に画期的なものにみえます。ボワローはその詩の厳格さが強調されるために敬遠されますが、詩そのものは、それから想像されるしかつめらしさとは正反対の皮肉や諧謔のある実に面白いものです。フランス留学中に知り合ったインド人(カルカッタのベンガル人で、エリアーデの『ベンガルの夜』のモデルになった女性の甥だと云っていました)は、フランス人はみんなボワローを敬愛しているものだと思っていたのにだれも読んでいないのがものすごく不思議だと云っていました。詩を愛する国民であるはずのフランス人がボワローの『詩の技芸』(評論と書かれていることがあるが、これは詩集です)も読んでいないというのが非常にショックだと云っていました。事実10年間フランスにいて、ひとの口からボワローの名前を聞いたのはこのインド人と話したときだけでした。
 ラフォンテーヌの詩の奇蹟は、その大部分が音楽的なものであり、それゆえにフランス語という言語と一体化したものですが、これは翻訳によって必然的にその特質のほぼすべてを失ってしまうことになります。フランス語による詩は古代ギリシアローマを再発見したルネサンスとともに隆盛を迎えましたが、ボワローやラフォンテーヌと比べると凡庸な詩人であるペローが太陽王ルイ14世に阿諛追従して、近代は古代ギリシアローマに勝っていると主張し、その主張が結果的に通ってしまうという形になると、「旧」派のボワローらによって守られていたフランス語詩は文学史からしばらくの間姿を消してしまいます。ラフォンテーヌは「新」とも「旧」ともはっきりした態度をとりませんでしたが、それでも「旧」派に対してむしろ共感していたと考えられます。新旧論争は近世史のなかでももっとも面白いエピソードのひとつで、なかなか複雑なものですが、ここでは教科書的な知識をおさらいすることしかできません。近世はフランス革命によって終わりを告げるとはいっても、その約一世紀前のボワローとラフォンテーヌが近世最後の大詩人だったと考えることができます。18世紀の文人は、詩は既に乗り越えられたジャンルだと考えていたと云われます。(これもまた教科書的な知識であり、これは18世紀の文人があまり詩を書かなかったということをまったく意味しません。文学史的には、18世紀の大詩人とみなされるひとの数がきわめて少ないというのは事実です。)
 革命を経験したフランスは、ロマン主義者による詩のジャンルの復活を迎えることになります。ラマルティーヌやユーゴーが代表的な詩人です。ルネサンスの詩人が古代ギリシアローマ文学を再発見して、それにならって詩を書いたとすれば、ロマン主義者が再発見したのは中世の情熱でした。古代にならったルネサンスの均整、理性に対して、18世紀までは批判と嘲笑の対象であった情熱が詩のなかにあらわれます。情熱とともに自然も再発見されます。よくルソーのものであるとされてきた「自然への回帰」は、ロマン主義者によって実現されます。近現代の日本人が考える「詩的なもの」は、ボワローやラフォンテーヌの理性に基づいた詩ではなくて、ロマン主義の詩の趣味によりよく合致すると考えられます。
 しかし19世紀半ばに登場したボードレールは、ルネサンスやロマン主義を特徴づける回帰の上に自分の作品を打ち立てるのではなく、新しい近代性を発見します。凡庸な詩人ペローが一世紀半前に称揚した近代性は詩のジャンルに一時的な死を宣告することになったけれども、ボードレールが発見した「突飛なもの」は詩のジャンルを活性化させることになります。ルネサンスの詩人が音楽的に均整のとれた詩を構築し、ロマン主義の詩人が情熱と自然を歌ったとすれば、ボードレール以後の詩人は新しいイメージをつくりだすことに腐心することになります。決して散文詩はボードレールが発明したジャンルではありませんが、彼が『小散文詩集(パリの憂鬱)』を書いたということは象徴的な事実です。散文には音楽性がないということは云いませんが、詩を特徴づけてきた韻律に基づいた音楽性が、ここでは新しくつくりだされた詩的イメージにとってかわられることになります。
 ボードレールが活躍していた時期が日本開国の時期と重なるのは偶然でしょうか。もちろんここに直接的な関係を認めることはできません。しかし日本の開国は偶然ではなく、この時期の「グローバル化」とも考えられるような欧米諸国の経済拡張の当然の結果でした。市民革命によって盛り上がった民族主義が、日本が開国したころに欧米諸国を中心とした「国際社会」に変わっていったと考えることもできます。
 この時期に登場した詩人ボードレールの詩は、民族の言語の音楽性の束縛から解き放たれたもので、たとえそれが本人の意図しないものであったとしても、それまでの詩がもっていた古典的なものを打ち捨てることによって、近代資本主義経済社会にとって本質的な「新しいもの」をもっていたと考えることもできます。この新しい詩はそれ以前の詩に比べて翻訳によって失うものが少なかったというだけではなく、フランスの新しい絵画が海を渡ってアメリカにわたることが頻繁になっていくような状況と並行して、好んで「輸出」されたのだと考えることができるかもしれません。私は日本人だけが開国後の時期に紹介された印象主義絵画をありがたがるものなのかと思っていたのですが、アメリカ人も同じ芸術的趣味をもっているということに驚きました。絵画芸術ばかりではなく、文学芸術も同じ世界経済の動きのなかで世界に紹介されたと考えるのはまったく不自然なことではないでしょう。
 英語の詩やドイツ語の詩を原文で朗読してみると、世界的に文化的覇権をもっているかに思われるフランス語の近代詩よりも音楽性においてすぐれているとしばしば感じられます。日本の近現代詩だって悪くありません。ボードレール以後のフランス近代詩が世界的に名をはせているのは、これらの詩が翻訳において多くを失ってしまうような言語に内在する音楽性を軽視してイメージを重視していることに理由があるのではないかと思われます。そしてその突飛な「新しい」詩的イメージが、詩人本人の意図は置いておくとしても、書物もまた消費されるものである資本主義社会の論理に適応したものであるがゆえに好まれるのかもしれません。

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2008年7月1日火曜日

The Small Prince

祝・初めての横文字タイトル!
 前回のセリーヌの本の題名についての記事は結構面白いことを書いているのだけれども、それが面白いということがわからないひとでも、読んでくれてかまいませんよ。:-p
 まあ、これは誤訳だ、とか直訳と意訳のちがいとか云って、何とも的外れなことを書いているひとも世のなかにはかなりいて、そういうのと面白いことを書いているものの区別がつかないひとがいるのは、それはしょうがないことかなと思います。私だって見当はずれなことを書くことはよくありますし。それに原文の意をくみとった訳と訳者の思い込みの区別ができないひともいます。原文は知らないが訳には思い入れがあるというのなら、その心理は理解できないでもありません。この訳者の思い込みがきっと原文の意にちがいない、あるいは原文よりもすぐれていると主張するのはどういうものかと思うが、でも主張するのは自由です。思い込みがばけることもないわけではないし。それでもまあ、ばけたものはばけたものとして評価しておかないと。
 そもそも前回の記事を読んで面白いと感じるひとの数はかなりかぎられているでしょう。私は bagatelles は「虫けら」ではありえないと説明しているけれど、それでもこれを理解する前提がないと何を云っているのかわからないでしょう。それがわかる数少ないひと(のなかでもこの題名について前から疑問を感じていたひと)に届いてくれれば、私としてはいいんですが。
 さて「直訳」の問題に関して、サンテグジュペリの Le Petit Prince という題名の直訳は『小さな王子』であると書いているものに何回かでくわしました。実際この題名で日本語訳が出版されています。まず、新しい題名を提出するならば少なくとも『星の王子さま』と思いつくのと同じくらいの精神的労力をつぎこんでほしいということ、そしてこんな短い数語のことばを訳するのに意訳と直訳のちがいを云うのはおかしいのではないかということを私は前に書きました。当然翻訳観によって異論もあることでしょう。もしかしたら(そうはみえないけど)『小さな王子』という題名が労力をつぎこんだ結果だったのかもしれないし。
 ためしに自動翻訳にかけてみたら、「小さい王子」(WorldLingo)「星の王子さま」(Google)というものが出てきました。Google やりますねえ。
 これを英訳させてみると、期待通りに The Small Prince (WorldLingo) というのが出てきてくれました。Google は何とこれを訳しません。フランス語のままです。Google の自動翻訳には独自のポリシーがあるようです。仏英はたくさん自動翻訳サーヴィスがあるから何種類かやってみたけど、みんな The Small Prince です。(Him Small Prince というおかしなものもありました。)
 ということは英語では petit は small と訳されるとプログラムされているということです。しかしこの本の英訳の題名として知られているのはむしろ The Little Prince です。Small は具体的に背が小さいということを意味し、little にはもうちょっと気持ちが入っているということが云えるでしょう。人間が訳したら The Little Prince になるのかな、と思いきや、The Small Prince という題名での翻訳も出版されているようです。
 この場合 little と small のどちらが petit という単語の直訳かと疑問を感じたとしたら、両方とも直訳だと云わざるをえないでしょう。それでも little の方がいいのではないかという感じが私にはしますが、それをあえて small prince と訳すひともいるということです。それはおかしいと云うことは一概にはできないのかもしれません。(私には英語の細かいニュアンスはあまりよくわかりません。)
 それで日本語に戻って考えてみると、少なくとも私が見たかぎりでは、どうしてみんな Le Petit Prince という題名の直訳は『小さな王子』だと云っているのか。おかしいですね。『幼い王子』と云ったって『いとけない王子』と云ったって『かわいい王子さま』と云ったって同じく直訳みたいなものじゃないですか。何もコンピューターみたいに petit は「小さい」「小さな」と頭をプログラムしなくてもいいと思うのですよ。ここから直訳、意訳を議論するのがどういうものかなと思うのです。
 固定化してしまう漢文訓読にならった翻訳の癖がこういうところに残っているのではないでしょうか。
 私は何も「小さな王子」はおかしいとか、「幼い王子」とか「かわいい王子」の方がいいとか云っているのではありませんからね。「直訳」ったらひとつだ、反射的に最初に出てくるものだと思っちゃうのがおかしいということを云っています。だからこそこんな短いことばに関して直訳と意訳のちがいをうんぬんするのはおかしいという意見なのです。
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