2008年6月30日月曜日

虫けらどもをひねりつぶせ

 このブログのいっとう最初の記事では、セリーヌの L'Ecole des cadavres をわざわざ奇をてらって『死体派』と訳すのはおかしくて、素直に『死体の学校』であろうということを書いたのだが、それでは Bagatelles pour un massacre は『虫けらどもをひねりつぶせ』と訳されているけれど、これは合っているのか、ということをコメントで聞かれました。私は、これは独自の日本題だから合っているとも合っていないとも云えないということを答えたのですが、何だかこれが題名の訳だと考えているひとも多いようです。
 L'Ecole des cadavres に関しては、意味はよくわからないけれども、とりあえず école を「派」という意味で考えるのは「それはないよ」ということで、私がこのことについて聞いた数人のフランス人の意見は一致していました。これがモリエールのもじりだろうというのは、私の誘導だったけれども、みんな同意していました。しかし Bagatelles pour un massacre の方は意味がわからないということでした。ひとり説明してくれたセリーヌにくわしいひとがいたのですが、そのひとが酔っ払って話していたこともあって、よくわかりませんでした。それでちょっと調べてみたのですが、たぶん信が置けるだろう意見を紹介しておきます。(インターネット上のページがどうしたものかどこに行ったか見当たりません。ごめんなさい。)
 まず massacre 「殺戮」の方ですが(不定冠詞がついていることもあり)これは特定の殺戮ではなく、来るべき殺戮のことを意味していると考えられます。おそらく第二次世界大戦のことを意味していると考えられるでしょう。もっともこれは後から云えることで、セリーヌは第二次世界大戦を予見していたと主張することには意味がないでしょう。戦争が勃発してしまったから予見していたということが云えるだけの話で、そんなことを云うのならセリーヌだけではなくて多くのひとが予見していたといくらでも云えるのです。
 そして bagatelles の方がむずかしいのですね。これは普通「つまらないもの」という意味なのですが、イタリア語の bagatella からきたもので、bateleur 「手品師、道化」がすることであると考えられます。S'amuser à des bagatelles といえば、bagatelles をして楽しむ、ということで、「つまらないことをして暇をつぶす」「付随的な活動にかかずらう」ことになります。それで私が見つけたインターネット上の記事(本からの抜粋でした)によれば、セリーヌが道化として来るべき殺戮に向けておどけているというのですが、ちょっと考え直してみると、殺戮が起こることがわかっていながらくだらないことをして時間を過ごしている、という意味なのではないかということも考えられます。私に説明してくれたひとは、これを云っていたような気がします。
 何となく『殺戮を待ちながら』と云うような題名がいいのではないかという気がします。語感だけで云ったら『殺戮ごっこ』かもしれないが、これはやっぱり意味がちがいますね。
 『虫けらどもをひねりつぶせ』は Pépé le Moco に『望郷』という題名をつけるようなものでしょうか。

 と書いたあとで、ふと思ったのだが、ま、ま、まさか『虫けらどもをひねりつぶせ』って、Bagatelles pour un massacre の訳のつもりなんじゃないか。十数年も前に「bagatelles って虫けらのことなの?」とひとに聞かれて、深く考えずに「いや、ちがうと思うよ」と答えたことがあって、そのとき以来まさか日本題とフランス語の原題のあいだに関係があるとは思ったこともなかったのだが、もしかしたらこの日本題を考えたひとは「つまらないこと(もの)」の意味をとりちがえて「虫けら」にしてしまったのではないか。仏々辞典をちょっと引けばわかることだけれども、これは上に云ったような、暇つぶしのためにするようなつまらないものごとのことであり、「つまらない」とはいっても、「虫けら」とはニュアンスがほど遠い。イタリアの道化がやることという語源のせいか、「軟派なこと」という意味になることもあります。Ne penser qu'à la bagatelle とは「bagatelle のことしか考えない」、つまり「あれしか考えていない」ということです。「虫けら」とは到底結びつかないでしょ。これはフランス人の中高生がみんな知っているような単語ではなく、s'amuser à des bagatelles など一部の表現にだけもっぱら使われる単語だと思われます。でもセリーヌは定型表現をもじったりして、ことばの使い方に広いヴァリエイションを与えたひとですから、こういうフランス人にも意味がよくわからない題名ができてしまうのです。ちなみに les bagatelles de la porte というのは「ドアの下を滑らせて交換することばの類のつまらないもの」という意味だそうです。
 「つまらないもの」という日本語から「虫けら」と考えてしまったひとは、それが「殺戮」に捧げられているものだと思い、「虫けらどもをひねりつぶせ」と考えて悦に入ってしまったのでしょうか。たぶんこの日本題を考えたのは、『死体派』と名づけたひとと同一人物であろうから、何だかそうやって、ありそうにない方向にばっかり行って変な訳を考えて満足していたのかなという気がします。せいぜいフランス語の辞書くらいちゃんと引かなかったのかな。
 しかもそういうのをありがたがるひとがいるから、困っちゃうのよ。

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私も世代論をやってみるよ

 「世代」なんてことばがブログのなかに出てくると、顔をしかめて「うわあー!」なんて思っちゃうこと、ありませんか。私はあります。そこで私は王道の世代論として、まず辞書を引きましょう! 相変わらず我が家の辞書は中途半端に古いです。
(もとセイダイ)(generation)①生物が母体を離れてから成熟して生殖機能を終るまでをいう。②㋑ほぼ30年を一くぎりとした年齢層。㋺親・子・孫と続いてゆくおのおのの代。よ。㋩生年・成長時期などの近い者同士をまとめるようにした年代の区切り。考え方・生活様式などの面で同世代には共通し、他とは異なるものを示す。「世代の差」「戦後世代」(『広辞苑』)

〔「せたい」とも〕①一つの血筋を引いた親・子・孫などのそれぞれの代。代。「三世代が一軒の家に同居する」②生まれた年をほぼ同じくし、時代的経験を共有し、ものの考え方や趣味・行動様式などのほぼ共通している一定の年齢層。ジェネレーション。「若い世代」「あの連中とは世代がちがう」「世代を超えた支持を受ける」③《生物》出生期がほぼ同一の個体群。(『大辞林』)

(「せたい」とも)①時代。世々(よよ)。代々。②人が親の跡を継いでから、子に譲るまでの期間。約30年。③生年や成長の時期によって区別した年代の区切り。共通の時代的経験をもつことによって、そこになんらかの共通の意識、あるいは共通の社会的行動様式が認められる年齢層。また、その人々。ジェネレーション。④生物が母体を離れてから、生殖機能を終えるまでの間をいう。(『小学館日本国語大辞典』)
 わが『新明解国語辞典』は「①ある年齢層。ジェネレーション。②親・子・孫、それぞれの代。」とそっけない。もとが「せいだい」だったり「せたい」だったりと喰いちがっているのはどういうことでしょう。『角川新字源』には「せいだい」「せだい」という読みが載っているけれども、「せたい」はありません。『哲学字彙』では Period の訳語として出ているそうです。こういうのは全辞書に共通している意味がいちばん「正しい」意味というわけにもいかないのでむずかしいところです。
 私の頭のなかには「世代」と云えば「30年」という区切りがあります。「世」という漢字ももとは30という意味です。だからこの日本語の単語は欧米語の訳だと云わなくても、やはり30年の意味だということが云えます。
 翻って考えてみるに、今のひとはあまりに狭い期間をさして「世代」と言いすぎないでしょうか。何だかみんな「同じころに生まれたから同じような考え方をする」人々の意味で使っている気がするのですが、気持ち悪いよねえ、そんなの。下手をすれば四、五歳若いひとのことを、ちょっとずれるな、と思うと「私よりも若い世代」なんて云ってしまう。こういうのはどういうものかな、と思います。何となく、非体育会系の小心者が控えめに先輩風を吹かせてみたいときに使うことばなのかなという気もします。
 加藤智大が酒鬼薔薇少年と生まれた年がいっしょだから酒鬼薔薇世代なのだそうですが、これは「おやおや、生まれた年がいっしょだよ!」という驚きでとどめておけばいいのではないかなという気がします。「なにどし生まれ」とかと同じようなものでしょう。ジャーナリスト感覚というよりは、むしろ高島易断みたいなものなんじゃないかなあと思います、発想が。
 もちろん、どういう風に読むか、によるのでしょうけれども、私個人はむかしは19、20世紀以後のものばかり読んでいて、何となく袋小路というか、お先真っ暗感があったのだけれども、その後18世紀のものから古代ローマのものをちょっとかじるようになってからは、ずいぶん見通しが明るくなりました。むかしは実に愚かな直線的進歩主義的歴史観にとらわれていたのです。しかし18世紀のものやローマのものをまじめに読むと、「現代人には決してこのように書くことができない」ということがわかってきます。むかしよりも退化している、なんてことは云いませんが、その時代、その時代で、人々は脳味噌をめいっぱい使って書いているということです。むだなことに注意を惹かれないからこそ、むかしのひとの方がひとつのことに集中して書くことができたのかなという気もします。
 こういう私からすると、十歳くらいのちがいで世代の話をするなんて何と愚かなのだろう、という気がするのですね。もう、19世紀以後のものは全部新しい、でいいのではないか、という気さえします。自分の親の世代とか、子供の世代の話をするのならいいけれども、私とだいたい同い年の40歳のひとが30歳のひとのことを「ひとつ下の世代」と云うのを聞くと、どちらかと云えば「世代」の話であるよりは、肉体か精神の年齢の話、あるいはむしろ経験の話なのかなという気がするのですけれども。何もそうやって自らコミュニケイションの領域を狭めるような真似をしなくてもいいと思うんです。「世代」ということばを用いて、「きみたちとは遊んでやんない!」と云っているのかもしれません。いろいろフィクションとして差異をつくりだして楽しんでるんだろうね。それはそれでいいんだが、自分よりちょっと年下のひとが自分の「世代」とちがう考え方をすると信じることによって、その反対に自分の「世代」には共通するものがある、自分の「世代」のひととは話が通じると信じちゃったとしたら困るんじゃないかな。

 話は変わりまして、他に気になる表現の話。日本のブログ圏のなかで、「マッチョ」ということばが使われているのをときどき見るのですが、これがどういう意味で使われているのかがあまりよくわかりません。「セレブ」なんかと同じで、あえてずれた意味を用いて隠語とするというのがどうも感心できません。(まあ、そもそも隠語は「感心できない」ものなんですけど。) 感傷的、感情的な考え方を女性の側、「男らしい」行いを男性の側にすることによって、このマッチョということばの使い方そのものがマチスモのなかに戻ってしまっているような気がします。男性中心主義的で女性差別的な立ち位置の方が問題であるはずなのに、その「男らしい」行いを形容することになれば、男性中心主義に対する批判が空洞化してしまうのではないでしょうか。
 あともうひとつ、どうしても、「もてる」「もてない」ということと「恋人がいる」「恋人がいない」ということをまるで同じことであるかのようにして語るひとが多いということが気になります。全然関係ないことだと思うんですけど。関係ないということがわかっていて云っているのかな、と思ってもみるのだけれども、どうもそうではないような気もするのです。「もてないけど、すごく恋人がほしい」というのが悲愴になっちゃうというのが、気分としてはまあ理解できるが、理屈としてよくわからないのだよ。特に「けど」の逆接のあたりがね。「もてないから」だともう少しよくわかる。一度もてるようになってみたら恋人はいらなくなっちゃったというひともいるだろうし。「俺ってどうしてこんなにもてるのに恋人がいないんだろう」と悩むひともいるだろうし。「既に恋人がひとりいるのにもてちゃって困るなあ」というひともいるだろうし。異性に人気があるという漠とした状態がそんなにいいものなのかどうかもう少し考えてみたらどうなのかな。そんな漠とした状態が恋人を獲得する条件でもないだろうし。自分で「もてる」「もてない」を判断するときに問題になる他者をどのように区切っているかについても反省してみなければならないだろうし。「俺はもてないけど恋人がほしい」と思い込んでいるひとには、恋人がいるかいないかを通り越した、美女を周りにはべらせるハレム願望みたいな、きわめて非現実的な何かが根っこの部分にはあるんでしょうか。
 数年前にフランスの Courrier International に載っていた記事で読んだのだけれども、人間のなかで2%程度の人間には生まれつき同性愛の傾向があって、1%はまったく異性にも同性にもひかれない「無性愛」なんだって。「もてる」とか「もてない」とかいうばかばかしいことを、同性愛のひとや無性愛のひとも視野に入れて考え直してみたらいかがか、と私は思うのですけれども。
 恋人のいないひとは恋人のいないひとと呼べばいいのであって、それをもてないひとと呼ぶ理由がわかりません。恋人がいるひとがもてるひとだというわけでもなければ、もてるひとに恋人がいるというわけでもないのですから。何とは云えないが、ここに何か非常に愚劣なものがあるのではないかという気がするのですけれど。

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2008年6月28日土曜日

ボランティアの功罪

 何となく批判めいたことを云ってしまったけれども、私はボランティア精神そのものはいいものだと思うのです。ただあまりにボランティアのいいところばかりが強調される部分があるので、あえてその問題について触れておきたいと思います。
 私が云う「プチブルの自己満足」というのは言い方は悪いですけど、こういうことを云っています。たとえばプチブルがしている仕事は自己実現に貢献していないと考えます。生活に困らないだけのお金をこの仕事から獲得しています。それでもどうしても自己実現の面で不満が残るとします。そうすると、このひとが余暇を利用してボランティア活動に参加し、そこで自己実現を図ります。ここには何も悪いことはないように思われます。実際私もあえてプチブルという悪いことばを使ってはいますが、その精神そのものを批判しようというつもりはありません。
 それでもこれが問題である場合がありえます。それはボランティアに参加するひとの善意そのものではなく、副次的なものです。たとえば今多くの地方公共自治体などにおいて、観光ガイドがボランティアの手にまかされています。ここでだれも不満をもつものがいないのならどこが問題なのか、そもそも予算がかけられないのだから、ボランティアにやってもらうしかないし、これでいいではないか、という考え方もできます。しかし他方では、たとえ人件費が100%赤字であろうと、学芸員を雇うべきではないか、雇わないとしても、少なくともこういう仕事に対して、お客からのお礼という形ではなくて、自治体ないし何らかの団体が対価を支払うべきではないかという考え方もあります。ただここで「ここには予算はかけられないのです」ということが自明の理のように云われてしまう。しかしこれは本当に自明の理なのでしょうか。
 ボランティアは、その精神そのものにおいてとりわけ責められるべきものではないのだけれども、もしかしたら彼らの存在が「金にならない文教予算を削る」根拠を強めているのではないかという危惧を感じるのです。「ここはボランティアにおまかせして」ということになって予算が削られるということがあるのではないか。
 善良なボランティアのことを(確かに揶揄はしていますけど)特に悪く云うつもりはありません(ちょっとくどい)。それでももう少しこういう問題に関して自覚的であってもいいのではないかと思います。ただ問題は、もしボランティアがやらなかったら、ボランティアにまかされているところは回収できないという前提が既に存在しているのではないかということなのです。今やボランティアがいなくなったら放置されてそれで終わりということもありうるのではないか。最悪の場合は人件費が100%赤字になるとしても守っていかなければならないものがある、という議論を全否定する前提がもう出来上がってしまっているのではないか、というところがいちばん気になります。で、だから結局ボランティアにやってもらうしかない、ということになるかどうか、ということなんだけれどね。ここのところを考え直してみたらどうか、ということを云っているわけです。
 前の記事はたくさんアクセスがあるだろうなんてちっとも思っていなかったので、「エコエコ有閑階級」なんて云っておちゃらけててごめんです。

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2008年6月27日金曜日

奴隷ボランティア

 女優の高樹沙耶さんがカフェをつくるために藁積みと土塗りの作業をボランティアで募っています。交通費、宿泊費も自己負担なのだそうです。「昼食のみ、こちらで用意させていただきます」と書いてあります。それでこのブログが炎上しているというのですけど、「ボランティアは奴隷か」とか、何だかコメントの云っていることが理解できません。「ボランティア」とか「奴隷」ということばの意味がわからないひとが存在するのは別にいいのだけれども、それはたくさん存在するものなのでしょうか。どこをどうしたらグッドウィルの名前が出てくるのか、何だかもう脳味噌がトワイライトゾーン(マンハッタン・トランスファー)です。
 だいたい何をどのように不満をもってコメントしているのかが理解できません。「まったく、高樹沙耶は、水の結晶の話なんて信じてるなよ!」と云いたいのなら、それはボランティアの募集と関係がないだろうし。自分はぜひとも高樹沙耶さんのカフェの壁塗りに参加したかったけど、交通費も宿泊費も足りなくて行けなくて残念、というのなら、それでおしまいでしょう。奴隷なんてことばは出て来ようがない。「これからは高樹沙耶さんの例にならって、他のところでもボランティアには交通費も宿泊費も提供しなくなるかもしれない!」と恐れているのだとしたら、そもそも何の恐れなんだかよくわからないけれども、「それなら行かない」と思うひとが行かなくなるだけの話で、それでもボランティアに参加したいというひとの側にどのような隷属の問題があるのかがわかりません。
 いったいどういう理屈で「ボランティア」ということばと「奴隷」ということばが結びつくのかがわからないのですけど。だからカタカナことばはやめとけって言ったのに。ボランティアっていうのは自ら望んで、志願して奉仕を提供するひとのことでしょう。どんなことをしたって「奴隷」ということばと結びつくはずがないんだよ。交通費も宿も提供しなくてもそもそも何の問題もないでしょう。昼食を用意する義務だってそもそもないと思います。ボランティアを募集すると云っている時点で、まったく何の見返りもないからといって、そこにいったい何の問題がありうるのか、本当にこいつら何なのかな、と思います。理屈はどうでもいいんだろうなあ。このひとたちが頭のなかで「ボランティア」ということばをどういう意味で理解しているのかが知りたい。自分のカフェをつくるためにボランティアを使うな、というむりなことを云っているひともいます。ボランティアということばが人道目的(あるいは文教の分野)のものと結びついていると思っているのなら、それがまちがいなんですね。無償で参加したいという意志が必要なだけであって、目的のことはまったく問題ではない。それにエコなカフェをつくろうというのが人道目的かそうでないかなんて見方によると思いますけどね。
 Volunteer を「有志」と訳せば、これが奴隷ということばとまったく相反するものであるということがこういうひとたちにもわかるのかと思うが、「有志募集」では何となくなじみません。ここは「有志来たれ! はらからよ!」と書いたら誤解がなくなるのではないでしょうか。
 でも私は必ずしもボランティアというものに対して好意的ではありません。あえて少し短絡的な考え方をしてみるならば、喰うには困らないひとの「自分探し」が、本来なら失業者に対して有償の仕事として提供できたかもしれない労働を無償で奪っているという考え方ができるからです。
 さらにこういったボランティア作業というものは、「あそこに行けば何日かはただ飯喰えるから行っておくか」という失業者の参加によって成り立つものではありません(なかにはそういうひとが参加することがあるのかもしれないけど)。私は高樹沙耶さんのブログに不満を書きこんでいるひとがそんな失業者のことを考えて云っているのかどうかはよくわからないんですけど。もし考えたとしても、この場合この失業者は高樹沙耶さんのところには行かないんだから、奴隷状態などあるはずがない。
 私がボランティアに是々非々である理由は、ひとえに何でも無償でやろうという「エコエコ有閑階級」(階級じゃないけど、面白いから階級と呼んでおく)の存在です。こういうひとたちが存在することが問題なのであって、高樹沙耶さんがこういうひとたちを相手に募集をかけることが問題なのではない。「エコエコ有閑階級」は、交通費、宿泊費が自分もちでも喜んで馳せ参じるんだから、そんなひとたちが奴隷扱いされていると感じることはまったくありえない。(私はこういうボランティア活動に参加するひとが全員裕福で何の苦労もないと云っているのではありません。ある種の経済効率の考え方からすれば、ボランティア活動は苦労のないひとの余興であるとみなされかねないということだけを云っています。そのようなものだとみなされかねないことを理解しつつボランティアをするのなら、それでいいのです。大方においてボランティアに参加しようとするひとは善良で、その善良さは必ずしも世間知らずと形容されるべきものではないと思います。まあ、善良ならいいってもんじゃないというのも正直なところですが。どんなボランティアにも「プチブルの自己満足」の側面は見られるような気がします。) 非常に意地悪な考え方をすれば、高樹沙耶さんは喜んでただ働きするひとを利用していると考えることもできるが、何もそんなひねくれたことを云わなくてもいいでしょう。要するにブログを炎上させているひとたちは、「エコエコ有閑階級」に対する意識の水面上には現れていない「私にはそんなことはできない」という嫉妬羨望の気持ちから、どこに向かっているのか自分でも理解しようのない不満を書いているのでしょう。自分では行かないけど、行ったら奴隷だ、という何だかよくわからないことを云っている。自分でも自分の云っていることがわかっていないはずなんだけど、わかっていないということに気づいていない。望んで行ったら奴隷になるということがわかっているなら、だれも望んで行くはずがない、ということをわざわざ説明してやらなければわからないのでしょうか。ここまで頭のなかが曇っているものなのでしょうか。もしかしたらこのひとたちにとっては、「自分では行かない」のではなくて「余裕がないから行けない」のであって、この「行けない」ということばをしっかりと意識的に理解できないから、ことばにして考えたくないから奇妙な不満が噴出するのかもしれません。要するに「私にはボランティアはできない!」ということをこのひとたちは宣言しているだけなのかもしれません。それだけの話か。
 (でもこれはなかなか面白い問題です。ボランティアで参加することのなかにも何らかの強制の介在があるという発想をどうしてもせずにはいられないのだとしたら、それがなぜなのかを考えてみなければなりません。強制されて何かをするということしか理解できないひとが数多く存在するということでしょうか。何かを求めるとか、募集するとか、そういうものが既にこういうひとたちにとっては強制と結びついているのかもしれません。いや、これ面白いわ。)
 別の考え方をしてみれば、こういうひとたちは「私はボランティアに参加できない」ということに対して一種のひけめのようなものを感じていたけれど、交通費も宿泊費も出さないというボランティアの募集を女優さんのブログで見て、この「ひけめ」が一気に解放されたのかもしれません。
 私はボランティアに対してあまり好意的ではないとはいっても、このブログ炎上に見る「何にでも(物質的なものであれ精神的なものであれ)見返りがあって当然」というさもしい根性を見ると、日本人にはボランティアって向いてないのかなあ、と何だか寂しい気持ちになります。「高樹沙耶は当然この期間中自分でも無償で働くんだろうな?」みたいなことばがあったが、だからこういう発想が全然ボランティアというものの精神に反しているんだって…。「自分は自分で無償の行為をする」というのがボランティアで、他人のことなんてどうでもいいの。どうして高樹沙耶のカフェのためにそんな気持ちになれるか、というのはわからないけどさ、それなりの充実感があるんでしょう、きっと。たぶん「高樹沙耶さんもずっとそこにいてくれたらうれしいなあ」と思うのがこれに参加するひとの気持ちだろうし、そこにずっといてくれたとしたらそれは素晴らしいことだろうが、こんな条件を求めるならお前もそこにずっといろ、という言い方はやっぱりおかしい。高樹沙耶なんて全然関係なくて、ただそういう作業をするのが好きなひともいるだろうし。こういうのに参加するみんなと友達になりたいというひともいるだろうし。こういうひとたちが望まれた数だけ集まるのか、そうではないのかはわからないけれども、ともかくそれを好ましからず思うひとがいるということです。「何でお前ら自分から奴隷になることを選ぶんだ!」とこのひとたちは云いたいのだが、当の「奴隷」の方では、自分には奴隷である可能性がないのだから、まったくこんなことばは意に解しようがない。結局はここで奴隷のことを考えちゃうひとの変な発想しか残らない。
 このひとたちは「奴隷」ということばを用いながらも、たぶんどういった主人にその仕事を強制されるのかということを考えていない。きっと鞭をもった高樹沙耶さんのことを想像しているというのではないでしょう。(私の推測では、きっとこのひとたちはむしろ奴隷の主人と想定される高樹沙耶さんの現場での不在の方を前提しているのではないかと思います。) 仕事を強制する主人の存在を考えずに「奴隷」ということばを用いるひとがひとりやふたりではないというのが何やらものすごいことだと思います。主人の姿が見えずとも隷属をすすんで選ぶひとの気持ちがこんなところに出てきてしまうのが、インターネットの面白いところですね。主人の姿が見えずとも隷属をすすんで選んでしまうのなら、ボランティアなんてことが理解できるはずがない。自由なことをする人間が憎らしいのだ。Volunteer は「意志的」という意味だ。おっと、こっちでは話が理解できた!
 自発的に隷属しか選ぶことができない人間の、自発的に自分の意志を選ぶことができるひとに対する憎悪は、進展著しい日本経済のダイナミズムを担保する原動力です(うそ)。この他人の意志が立派そうな目的に使われているうちはまだ許せるとしても、エコカフェだなんて大義名分も何もないものにまで意志的な行為が求められるのを見ると、主人の姿は見えなくとも強制されたことしかできない奴隷のなけなしの寛容の精神には耐えられなくなり、堪忍袋の緒が切れてしまったのでしょう。しかし自他の峻別ができていないから、そこに行くのは自分ではないのに、奴隷の自分がそこに行ったら当然奴隷労働だ、という変な形で爆発が現れている。何だか頭のなかが混沌としているんですね。現代日本人の奴隷精神はここまで来ているのか、と考えるとなかなか感慨深いものがあります。
 ところで、英語の辞書を見ると、英語の volunteer という単語の語源はフランス語の volontaire なのだそうです。それではフランス語では日本語でいう「ボランティア」のことを volontaire というかといえば、あまりそうではない。よく使われる単語は bénévole (べネヴォル)という単語です。Volontaire は「自発的」という意味ですが、bénévole の語源的な意味は「善意」です。これからは「ボランティア」をやめて「べネヴォル」にしよう。使って、使って。

P.S. なぜかアクセスが多いのでつけくわえておきます。
 まず私は何も「奴隷」ということを書いているひとがみんな本気で云っているとは思いませ んし、自分だって大真面目で書いていると思わせるような書き方では書いていないと思います。かといってまったくいい加減なことを書いているというのではなく、だらだら書 いているうちに本質をつかむこともあるかもしれないな、くらいのつもりで書いています。思いつきが浮かぶままにそのまま書かれたものを読まされるのはかなわないというひともいるでしょうし、それがそのまま書かれているから面白いと考える奇特なひともいるでしょう。私はどちらかといえばそういう奇特なひとに向けて書いています。
 「ボランティアに交通費や宿泊費を出すのは義務ではな い」ということはやはり云えると思うんですね。ボランティアのひとがすすんで提供してくれるサーヴィスに対して、こちらでも心からサーヴィスを返す、とそ ういうことでもともとのボランティア活動は成立しているのだと思います。ここで「お礼は義務だ」と考えたら、そこにはボランティアの喜びがなくなるでしょう。人間としてお礼は義務だと考えることはできるが、それはボランティア活動そのものの義務ではないでしょう。義務で はなく、それが本質的には必要ではないから、サーヴィスを提供してくれたひとにお礼をしない、ということではない。あとは「心」がなすことだろうということが理解されるべきなのではないかと 思うのですけれど。もちろんボランティアの世界でのお礼の渡し方に関する常識はあるだろうし、その常識を否定するつもりはそもそもまったくないけれども、もともとの原則としてはサーヴィス関係の授受を義務づけるものがないというのがボランティアの特質だということで考えるのはまちがっていないと思います。ボランティアの方へのお礼はいくら、と決まっている場合が多いとはしても、それはあくまで現場でのやりとりを簡単にするための気配りで、ボランティアの本質にかかわるものではないと考えるべきではないでしょうか。
 何だか気取った言い回しだから書かなかったことを書いておきますと、気持ちのことは別としても、少なくとも経済的にはサーヴィスに対して報酬を与える義務が存在しないという非対称性がなければ、それはボランティアとは呼べないと思うのです。

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2008年6月25日水曜日

議論することは大切です

差別に対して過剰に反応する人たちが差別を助長する」 実に有害な意見です。
 私は差別用語などの自主規制を批判しています。「差別用語を解放せよ!」とも思います。それは「人権屋」という醜悪なものが嫌いだからではありません。私はそんなもののために人権ということばは使いません。何度でも繰り返しますが、私がこういうものを批判するのは、おおげさにわざと人前でふるえあがる表現者が、「差別問題にかかわる人間は怖い」というイメージをつくりだし、それによって差別を再生産しているからです。何の気なしに使ったことばが糾弾に値するのなら、問題を理解するためには糾弾を受けるくらいの心意気があってこその表現者ではないでしょうか。この心意気なくして何が表現の自由か。メディアにこの「自由」を一括して請け負ってもらっても困るのだ。私は願い下げです。
 「人権屋」とか「人権を商売にするひと」などという表現をときどき見かけます。何となく都市伝説のような気もしますが、たとえそんなものが存在したとして、そのラベルを人権運動すべてに貼りつけようというのは極めて稚拙な議論のすりかえです。多数のグループによってつくりだされた運動がある場合、その多くのグループのなかには運動の理念をよく理解していないものもあるだろうし、ちゃんとしたグループのなかにも、末端、あるいは幹部のなかにすら理解が徹底していないということが十分にありえます。これは必然的に存在するとまで私は云ってしまいそうです。ここでこの運動を批判するために、わざと「よく理解していないひとたち」の存在の方を強調するのは卑劣な行いです。云ってみれば、これは「ヤミ金」が金融業の代表だというような、ありえない議論のすりかえです。
 この記事で問題になっているのは、世界のナベアツとかいうひとの芸の話です。この芸が差別であるかどうかという議論は大いにすべきです。「面白ければいいじゃない」とか「いや、あれは全然つまらない」とかそんな議論は、芸人さん本人には悪いけど、まったく関係ないと思います。この芸人さん自身に積極的な差別をしている意識はみじんもないだろうが、だからそれでいいという話でもありません。なぜこの芸が子供の笑いを誘うのか、なぜこの芸人さんはこの芸は受けるだろうと思ったのかとか、その辺の議論をしっかりとするべきなのです。これは大切なことです。この辺の議論は決してゆるがせにしておいていいものではありません。ここでこの芸をやめろ、とか、やめるな、とかになるのは、また許しがたい議論のすりかえなのです。私は「やめるべきではない」とは云いませんが、「だったらやめろ」と言われて、あるいは「だったらやめる」と考えてやめるべきではないとは思います。それならやめてもやめなくても同じことです。(あるいはむしろ、議論を拒んでこの芸を封印した場合は、そこでまたひとつ差別が生み出されたと考えるべきかもしれません。)
 このニュース記事ですが、口ぶりはもったいをつけているけれど、結局のところは「別にいいじゃんよ、うるさいこと云うなよ」ということを云っているようです。ここにある論理は、「差別を助長するひと」に典型的なものです。
 たとえばフェミニズムとひとことでくくられるもののなかにもさまざまな運動があります。ちょっと本筋からずれているように思われないでもない運動としても、ボーヴォワールが「ブルジョワ女性のフェミニズム」と呼んだ19世紀から存在するものから、ひとむかしまえのウーマン・リブ、売春は男性に搾取された取り分を取り返す手段であると考える戦闘的フェミニズムまで無数の運動があります。しかしフェミニズムというものを認めたくない男性の側は、この複数性を無視して、「別にいいじゃんよ」という気持ちから、とりわけ「女性は男性と同じです!」という意見だけをフェミニズムを代表する意見として強調します。これは「女性の権利は男性の権利と同じである」ということをもともと云っているのですが、フェミニズムにかかわっている人間でも、末端の部分ではそれがよくわかっていないということがありえます。でも差別的な男性は、わざと議論の本質がわかっていないふりをして、「男と同じなら、子供を産んだ次の日から会社に出てきて働けばいいじゃないか」ということを云うのです。差別問題がよく理解できないひとにいちばん簡単に理解できて、なおかついちばん簡単に反論できる議論は「人類みな同じ」という意見だからでしょう。
 この記事を書いているひとの発想はこれです。「何でそんなうるさいこと云うの?」という議論封殺を望む感情から、「障害者のひとも健常者と同じなんでしょ? あんたたちがそう云ったんじゃないか。だったら何で特別扱いするんだよ」と云っている。実に愚劣なのです。たぶん本人がそれに気づいていないから、ますますこの愚劣さは醜悪なものになってゆくのです。
 世界のナベアツはたぶん心やさしいひとなのではないかと思うし、この記事を書いているひともそうなのかもしれません。このひともこのひとなりのしかたで、「差別をなくしたい」と考える気持ちは本当なのかもしれません。だったらね、「人の心から差別を取り去ることはできない」なんて弱気なこと云うなよ。

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2008年6月24日火曜日

ナオミズム

 谷崎の『痴人の愛』の主人公はナオミという名前です。漢字で書くと奈緒美であると冒頭に書いてあります。
そんな子供をもうその時は二十八にもなっていた私が何で眼をつけたかと云うと、それは自分でもはっきりとは分りませんが、たぶん最初は、その児の名前が気に入ったからなのでしょう。彼女はみんなから「直ちゃん」と呼ばれていましたけれど、あるとき私が聞いてみると、本名は奈緒美と云うのでした。この「奈緒美」という名前が、大変私の好奇心に投じました。「奈緒美」は素敵だ、NAOMIと書くとまるで西洋人のようだ、と、そう思ったのが始まりで、それから次第に彼女に注意し出したのです。
 気になりますよね。
 だって「直ちゃん」は「ナホちゃん」じゃありませんか。「奈緒美」は「ナヲミ」じゃないですか。それなのに、ローマ字で書くと NAOMI か?
 谷崎がこういったことに無頓着だったとは思えません。だいたい「名前が気に入った」と云ってはじまる小説の女主人公の名前が「名を見」なのです。これは意図的なものです。(やまいだれのなかに「疑う」が入っている旧字体と「知る」が入っている新字体のちがいによって、題名のニュアンスもかなり変わってきます。やはり「疑う」が入っていてほしい気がします。)
 「ナオミズム」ということばの意味のひとつは「女性への拝跪」の思想だとされますが、私はそうではなくてこれは「名前を見る」ことだと思うのです。ナオミという名前を見て気に入った、ということです。美しい女性の前でひざまずいているのではない。西洋風の名前に対してひざまずいているのです。
 この小説のなかでナオミは現代の日本人とまったく同じようなブランド志向を明らかにします。大切なのは名前です。ナオミズムとはきわめて醜悪なブランド買いです。最初は洋ものがいい、と洋ものの名前に夢中になり、それに飽きると今度は日本の料理屋がいい、着物がいい、と日本の名前に夢中になる。今の日本人も同じ「愚」を懲りずに繰り返しています。
 主人公の河合譲治くんはそれでも最初は自分が奈緒美を誘惑したのだと思っていました。しかし結末でそれが譲治くんのかんちがいであったことに読者は気づきます。最後も名前の話で終わります。
そうして彼女は、ときどき私を西洋流に「ジョージ」と呼びます。
 ナオミはまったく最初から譲治くんに誘惑されてなどいなかったのです。譲治の方ではナオミという名前が気に入ったように、ナオミの方でもただ「ジョージ」という西洋風の名前だけが気に入っていたのです。どっちもどっちなのです。
 秋葉原殺人鬼の加藤くんがしょせん人間顔だけ、というのもナオミズムのひとつのヴァリエイションです。「女は『ナヲミ』だ」と云いつつ、自分も「ナヲミ」の世界観にどっぷりとつかっているということがよくわかっていないのです。そんなくだらない価値観は捨てればいいだけの話です。しかしこれがなかなか捨てられない。『痴人の愛』の最後の一文は、この「ナオミズム」は終わりを告げないということを云っているかのようです。
ナオミは今年二十三で私は三十六になります。
 あきもせずに愚かな「ナオミズム」を繰り返す日本人のことを谷崎は墓のなかでやさしくせせら笑っていることでしょう。

P.S. 「ナオミズム」ってそれとも軽薄な女性の方だったのかしら。消え去ってしまった流行語の意味はなかなかわかりません。

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あなたには貫地谷しほりちゃんのことをばか扱いできるか

 平沼赳夫というひとと関岡英之というひと(知らないけど)の対談について書かれた匿名の記事について私が記事を書いたら、その匿名氏からコメントが届きました。ありがとうございます。この匿名氏は平沼というひとを揶揄したいのだとはわかっていても、どうしても別のことが気になってしょうがないんですね。この方が引用しているところですが、
 われわれは言語で思考するわけですから、言葉が乱れているということは、思考が乱れている、精神が乱れているということにほかなりません。精神を正すためには、国語も正しい伝統に回帰すべきです。たとえば50音の「ゐ」や「ゑ」は廃止されていますが、本来それに当てはまる音があった。それが忘れられ、発音できなくなってしまったんです。
 たとえば「50音」とか「書き方はこれでいいの?」と思うのだけど、この対談がどのようにネット上で書かれているかはおそらく平沼というひとの関知しないところでしょう。(「発音できなくなってしまった」のあたりが私は好きです。むずかしい発音だったのでしょう。)
 とても気になるのは、確かに「ゐ」や「ゑ」は今の五十音図にはないけれど、結構今の日本語は平沼というひとの望んでいる方向に行っているのではないか、ということなのです。
 さすがに平沼というひとは「今日」を「ケ・フ」、「学校」を「ガ・ク・カ・ウ」と発音するのが正調の日本語だということを云いたいのではないだろうが、ここで云っていることを見れば、「を」を wo と発音するのは大歓迎、これぞ正しい伝統ということになるのでしょう。これは盟友の額賀くんなんかが率先してやっていますし、今やNHKのアナウンサーが wo と発音するのも珍しくありません。むかしはありえなかったことだと思いますが、今ではNHKでも問題なく許容されているようです。
 それに貫地谷しほりちゃんなんかは、相手に「シオリ」と発音されても直さないようだけど、自己紹介するときには自分の名前を「シ・ホ・リ」ですと云ってますね。『ちりとてちん』で「ものぐるホしけれ」と発音したのは、自分の名前が「シ・ホ・リ」であるがゆえの演出か、と私は勘ぐったのだが、どうなのでしょう。親が「しほり」と書いて「シホリ」と読む名前をつけているのだろうから、それを「シ・ホ・リ」と読んでいる本人のことをばかにすることは決してできないんだろうと思います。何か変だなあとは思うけど。世のなか、平沼くんに対して追い風か?
 ほかにも菜穂子と書いている名前のひとが「ナ・ホ・コ」と紹介されたりしています。これも親がそう読むものとしてつけているのでしょう。いや、いいんですよ、日本国は自由の国ですから。そのうち堀辰雄が書いたのも「ナ・ホ・コ」になっちゃうのかしら。むかしは小比類巻かほるが出てきたときに青森のアナウンサーが「カ・ホ・ル」と発音すると「何で?」と思ったものだが、今やもう当然「かほる」って書いてあるんだから「カ・ホ・ル」だろうということになりそうな気もします。
 小椋桂なんかは自分で「ナントカたち」という変な日本語を多用するんだから、「シクラメンのかほり」が「シクラメンのカ・ホ・リ」と発音されたって全然オッケーだろうし。ちゅうか、もともとこれって「カ・ホ・リ」と読んでたのか? 何だか自信がなくなってきました。こういう風に語中のハ行を発音するのは平沼というひとにとっては「正しい伝統への回帰」なのでしょうか。そうじゃなかったらおかしい気がします。それとも「そうじゃなくてカフォリだ!」とか云うのかな。「フォ」のあたりむずかしそうで、私のような現代人には発音できなくなってしまっているのかもしれません。「カポリ」ならかえって簡単かな。
 外国人の日本語の独学初心者とか「ワタシハ」とか「ハ」を発音しがちだけど、これもそうすると正しい伝統になっちゃうのかなあ。平沼というひとは大喜びしちゃうかなあ。ううむ、外人なのに、きみの方が今どきの日本のわこうどより正しい日本語を話している、とか云って。ここは「ワ」と発音しなさい、と直しちゃいけないのか。
 それでも「われわれは言語で思考するわけですから、言葉が乱れているということは、思考が乱れている、精神が乱れているということにほかなりません」とはなかなかいいことを云うものです。たぶん平沼というひとは『バベル17』を読んだのでしょう。漫画ファンの麻生くんのお仲間なのか、こっちはSFファン?
 それはともかく「世界最古、古今無双の皇統こそ日本独自のもので、それは日本の歴史そのものです」というのは、懲りないというか、ものすごいですな。これが日本独自のイデオロギーであることに異論はないが、さすがに日本の歴史そのものではないですよ。それにたとえ世界がうらやむような日本の素晴らしい伝統なんてものがあったとしても、それは別に新井白石がつくった宮家の子孫じゃないと思うし。「能」「お茶」「俳句」は云うだろうけど、「天皇家」とか云わないだろうなあ。(「俺なんか自分の国では極右のひとでなし扱いされてさげすまれるけど、もし日本人だったら俺も実力政治家になれたかもしれない」と考えて日本の政治の伝統をうらやむ「世界」もあるかもしれません。) 保守イコール国体維持、とはすごいよな、云ってることが。頭おかしいんじゃないか。
 それにフランスにはメロヴィンガ朝、カロリンガ朝、カペー朝、ヴァロワ朝、ブルボン朝、オルレアン朝などがあったが、日本にはひとつの皇統しかないというのは、歴史の視点によっていくらでも変わる、ただのことばのあやですから。フランスにも王朝はひとつしかなかったと云いたかったら云えるでしょう。そんなことは云わないだけの話で。確かに「日本の皇室は世界最古だ」というイデオロギーは日本独自のものとして存在しますよ。それを否定してもはじまらない。(たぶんたとえばフランスと比べてみても王朝の断絶がはっきりしている中国のことを意識したからこんなおかしなイデオロギーが出てきたのかもしれません。) こんなそもそも海を越えられないようなばかばかしいものをこれだけ世界中に宣伝できたんだから、「もう十分頑張った」ということにしておいて、ここはこういうひとたちはみんな隠居でもしたらどうかな。

P.S. 私は別に「しほり」は「シオリ」と読むべきだと主張しているのではありませんよ。親や家族にはこの名前にそれなりの思い入れがあったのだろうし。ただついこの前までなら「しほり」と書いてあったら多くのひとが反射的に「シオリ」と読んでいただろうが、それが変わってきているという話です。それで平沼くんは「千万人といえども吾往かん」なんて威勢のいいことを云っているけど、実は意識しないで時代の流れに乗っているのかもしれないな、と。

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2008年6月23日月曜日

他人の気持ちなんてわかるのか

 「現代の日本はコミュニケイションが稀薄になっていて、他人の気持ちがわからなくなっている」、という常套句をよく耳にしますね。何を云ってるのかなあ、と思います。だって他人の気持ちなんてわかるんですか。わからないじゃないですか。「私はわかっていると思う」とか「私はわかったつもりでいます」という最低限の謙虚さがこういう意見のなかに感じられないと思うのは私のかんちがいなのでしょうか。
 だいたい「他人の気持ちがわかる」ということを一般論として云えるというのはどういう「気持ち」なのでしょうか。私にはわかりませんよ。だいたいどうしてこういうことを云うひとたちには「他人の気持ちがわからないひとの気持ち」が無視できるのかがよくわかりません。「他人の気持ちがわからないようなひとの気持ちなど無視してもいい」からでしょうか。それではこの場合「他人」というのはだれのことなのでしょうか。「他人の気持ちがわからないひと」は「他人」のなかには入っていないんですか。「他人」になる権利がないんですか。
 もしここで「他人の気持ちがわかるだなんてテレパスか!」と云ったとしたら、「テレパスは他人の考えることがわかるのであって、気持ちではない」と答えるひともいるのかもしれません。私はテレパスというのは他人の気持ちがわかるものだと思いますが(だって「パス」の部分の語源のパトス pathos は情動、感じることであって、思考ではないし、同じ語源をもつ「シンパシー」は「共感」であって同じことを考えることではありませんからね)、とりあえずこういう反論を認めてみたとして、じゃあ特別な能力がなくてもわかる他人の気持ちって何なのよ、と思わずにはいられません。そんなものに価値があるんですか。
 だいたいそれに他人に簡単に感情移入してしまうような人間がここで求められているのでしょうか。感情移入に関して自制がきかない人間は、むしろ立派な人間ではないはずです。非常に自己中心的な話をしてみれば、「他人の気持ちがわかるような人間になってほしい」「痛みがわかるようになりなさい」というのは、「他人」に対して云えることで、自分では他人の痛みがわかるなんてまっぴらごめんではないでしょうか。他人の気持ちがこんなにわかっていいかしら、おもしろくってしょうがない、というひとがいるのなら、ぜひともお目にかかってみたいものです。
 それに他人の気持ちがわかるひとは、一年365日、一日24時間他人の気持ちがわかっているのでしょうか。急に発作的に他人の気持ちがわからなくなったひとが何か悪いことをしでかしたときに、こういうひとは「他人」によって「他人の気持ちがわからないひと」として扱われるのでしょうか。
 要するにいつでも自分と同じように感じるひとがこの際問題になっている「他人」なのだとしたら、この感情移入の能力には何のありがたみもないでしょう。ありがたみのない無価値なものであるからこそ、このようにして「私には他人の気持ちがわかっている」と主張することができるひとは、感情移入というもののもつ破壊的な力に対してまったく無自覚なのだということなのでしょう。
 だれにでもわかる他人の気持ちなんてわかったって自慢できないでしょう。おもしろくありません。それがおもしろいことであれば、わざわざ労力を使ってこのひとの気持ちをわかってやろうという気持ちもわきます。そうでもなければわざわざ他人の気持ちをわかろうなんて思いません。
 もしわざわざわかろうとしなくてもわかる程度の他人の気持ちのことが問題になっているのなら、そもそも「他人の気持ちがわかるようになりなさい」と口に出して云う必要もないのではないかと思うんですけど。この場合はさらにのっぺりとした「他人」のなかにとりこまれるようなひとを数多くつくりだしてゆこうと主張するよりは、そこから抜け落ちていってしまうひとのことを優先して考えるべきでしょう。だってこのレベルの「他人の気持ちがわかるひと」ならたぶん何の努力もしなくてもなんぼでも湧いてでてくるよ。そういう漠然としたものではなくて、本当に他人の気持ちがわかるというのなら、そこには価値があるかもしれないが、価値があるものはそれだけむずかしいものです。
 古いけどクローネンバーグの『スキャナーズ』なんて頭が爆発しちゃいますからね。あれぞ感情移入の力です。他人の気持ちなんて、それがわかりたいと思う具体的な「他人」を除いては、わかりたくないものなんです。いいですか。
 私は必要がないかぎり他人の気持ちを理解するなんてまっぴらごめんだと思います。他人のことを自分のことのように感じてしまう過度な感情移入能力は死活問題にかかわることです。こういういい方が大げさだとはしても、感情移入しすぎるひとは人間関係がうまくいきません。(ブログ記事を読んで「泣いた」と書いているひとは、たとえじゃなくて本当に泣いているんだとしたらいろんな意味ですごいなあ、と思う。たいていはブログ記事そのものよりも、「泣いた」ということばの方がすごいと思う。もっともそれが感情移入能力を証明するものなのかどうかはよくわからない。)
 そして私が恐れるのは、「他人の気持ちがわかるのは当然だ」と何の心的葛藤もなく口にするひとなのです。それが嘘であることがわかっていながら、のっぺりとした善意に満ちた他人を前提するひとが恐ろしいのです。こんな空っぽなことばが問題の解決につながると信じているのが怖いのです。
 少しでも頭を使って考えてみれば、他人の痛みがわからないサディストは存在しえないことがわかるはずです。もし他人の痛みがわからないとしたら、他人を苦しめることに何の喜びがあるでしょうか。他人の痛みがわかるからこそ、「こんなに苦しんでいるんだな」と手にとるようにわかってしまうからこそ、残虐な犯罪に手を染める人間だっているはずです。確かにサディストと呼ばれるひとは他人のことを自分のことのように感じてはいません。それでも私には他人の痛みを自分の痛みのように感じろなんていうことは云えませんね。
 ひょっとしたら他人の痛みが自分のことのようにわかるからこそ、他人を殺すことによって自分のことを死刑にしてもらおうという間接的自殺が心理的に可能なのかもしれません。もしこういう殺人者が他者を殺すことによって自分のことを殺していると信じているのだとしたら、自他を峻別しない感情的な論理の方がこれからは批判されるべきだということになるのかもしれません。他人の気持ちなんてわかるはずもないものがわかるということがあたかも自明なようなものとして語られると、「私には他人の気持ちがわからない」とまったくもって当たり前のことを考えているひとが、「自分は異常なのか」と悩んでしまうということもありうるかもしれません。
 具体的に予算を増やして教育の充実をはかることが大切なのに(30人学級とか)、そんな「コミュニケイションが稀薄だ」とか「他人の気持ちが…」とかわけのわからない「教育的意見」を云うことでお茶を濁してばかりいるだなんて、もう本当にいい加減にしてほしいと思います。
 経済産業省が教育に口を出すなんてまったくお話になりません。許しておいていいんですか。それにいったいいつから日本人は他人のお金もうけは最大限尊重するようになってしまったの? いくら漱石が千円札だからって、拝金主義批判の精神が骨抜きになってしまったなんて云わないでよね。ひとの金もうけなんてもうちょっとくさせよ、まったく。
 「他人」とは値札がついた人間のことなのかもしれません。クロソフスキーの『生ける貨幣』ってのはすごい文章だよ。

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2008年6月22日日曜日

邦夫くんの気持ち

 「素粒子」の死に神扱いに激怒する邦夫くんを見て、「ああ、このひと、実は隠れ死刑反対論者だったのか」と思いました。ちがうかもしれないけど、後藤田(正晴)なんかといっしょなのじゃないかという気がします。あのひとも死刑廃止論議を活性化させるために死刑を執行するという愚挙を犯しましたが、邦夫くんはさらにそれを体系的にやっている、ということなのではないでしょうか。いっときますけど、まったく弁護するためにこんなことを云っているのではないですからね。邦夫くんは私の敵です。後藤田(正晴)なんかも大嫌いだったし。それでも邦夫くんは、慎ちゃんだの徹くんだのとはちがうかな。という結論に朝日さんのせいでなっちゃった。
 保坂展人とか右翼の女教師の書いていることを読んでも、どうも邦夫くんの云いたいことをちゃんと理解していないんじゃないのかなあという気がするんですね。あえてわからないふりをしているのか、それとも本当に邦夫くんの気持ちがわからないのか。
 邦夫くんが「死に神」に激怒しているのは、「死刑は日本国という近代法治国家の法制度であり、前近代的な因果応報ではない」からでしょうね。頭のいい政治家なんだからそう云えばいいんだけど、どういうものかことばが足りないんだなあ。でも私はそういうことを云っているものだと理解しました。それと同時に、このひとはきっと悪に対する復讐の気持ちから死刑制度維持を主張するひとのことは本当はいやなんじゃないかなあと思いました。邦夫くんが怒っているのは、まるで「復讐」とか「因果応報」のような形で死刑のことを理解しているかのようなことばが、自称死刑廃止論者(らしいひと)の口から出てくることが許せない、とそういうことなのでしょう。「私に対する侮辱はいくらでもかまわない」「私の政治行動や政治判断はどんなに批判してもかまいません」というのは、私は邦夫くん本気で云ってると思いますけどね。
 「あなたたちはこれらの死刑囚は因果応報によって命を失ったとでも云いたいのか」とでも云っていたら、言いたいことがわかったと思うんですけど。
 でももし私の想像が正しくて、邦夫くんが本当は隠れ死刑制度廃止論者だったとしても、私が後藤田(正晴)に関していちばん許しがたいと思ったのは、まさにその「死刑廃止論議を活性化するために死刑を執行した」というところなのだから、邦夫くんは憎むべきだという意見はまったく変わらないのですけれど。
 まあ、全然外れてるかもしれませんけどね。

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古代ローマ人はチョコレイトを食べたか

 (それなら)フランス人はラテン語を話せ(とでもいうのか)とか変なことを書いている記事があって、別に相手にする必要はないのだが、こんな風にかんちがいしているひともかなりいるのかなと思って、老婆心ながら書いておきます。
 「フランス語の綴りが音とかけ離れているのはラテン語を引きずっているから」ということを書いているのだけれども、これはまちがいです。中世フランス語のつづりはある部分では現代のフランス語の正書法と比べると発音に対して忠実な書き方をしていたところがあると云えないでもありません。これは現代の人間が考えるところの正書法の規則がまったく確立されていなかったということから理解されるべきことです。たとえば今であれば qui と書く単語を中世には ki と書くことがよくありました。しかしルネサンス期にギリシアローマ文化が再発見されると(というかギリシアローマ文化の再発見によってルネサンスの到来が告げられてから)、人文主義者がこぞって、むかしの書きものにさかのぼってギリシア語風、ラテン語風のつづりを復活させたのです。ゲルマン人の大移動の後に千年にわたる大きな断絶(大きすぎ)があるのだから、口頭で使われていた語彙はまだしも、つづりのことを云うならば、決してフランス語はラテン語を引きずっているとは云えません。これはあとから学者がラテン語風につくりあげたものです。
 中世の教養あるひとはずっとラテン語でものを書いていました。古フランス語で書かれていたものは大ざっぱに云って民衆文学だと考えられます。しかし書きことばに使われていたラテン語は中世にすでに死語でした。ルネサンスの学者は語源研究によって、「実は我々が話していることばも下等なものではなくて、ラテン語から来ているんだよ!」ということを云ったわけです。書きことばのラテン語が「文化」として偉そうな顔をしていたということを考えてみても、このようにして話しことばに書きことばの権利を与える仕事に「ラテン語を引きずったもの」という評価を与えることはできません。
 あとこの記事の筆者は gâteau au chocolat という例をあげています。これをつづりどおり「ガテアウ・アウ・ショコラット」と読むと云うんですけどね、まず、フランス人は普通カタカナ読めないんだからカタカナ読みはしないだろうということは置いておくとしても、たとえば(このひとはラテン語の話をしているのだから)ラテン語で ch はシュー音なのかということ。あと gâteau の A の上にくっついてる山は何なんだということもね、気になりますよね、やっぱり。この記号はここではむかしはあった(そんなおおむかしではない)S が省略されているということを示しています。どうせこういうことをいうなら「ガステアウ」くらいのことは書いてほしかった。私はこの au とか eau とかがむかしどう発音されていたかを勉強したことがありますが、忘れました。ラテン語の発音は、ラテン語がラテン文字で書かれる言語の大本なのだから、必然的に非常に日本語のローマ字つづりの発音に近いけれど、フランス語のつづりをローマ字風発音で考えるというのは、それこそラテン語にまでさかのぼらなければ云えないことなわけで…、論理が循環してよくわからなくなりました。
 フランス語の語彙のなかには、口頭で伝わってきた「民衆語」、ルネサンスの人文主義者がギリシアローマの文献から借用した「学者語」、民衆語が学者語の影響によって変形した「半学者語」などあるのですけれども、gâteau はラテン語じゃなくてガロロマン語起源(俗ラテン語の gastel, wastel)、大移動してきたゲルマン人のことばの方が起源の民衆語ですね。Chocolat なんてアステカ起源の外来語よ(スペイン語経由でフランス語に導入)。それならどうしてこの例をあげて「だったらフランス人はラテン語を話せとでもいうのか」ということになるのか、この記事を書いているひとは「わかります」と云っているが私にはわからない。チョコレイトは16世紀にアメリカ大陸から来たんじゃないかな、程度のことは考えなかったのかな。というわけで「ショコラ」は俗ラテン語起源ですらない。あと「俗ラテン語」と「標準語たるラテン語」(「標準語」って云うのかなあ)は、字面を見ただけでわかる別のものです。これを流れでいっしょにされてもなあ。
 これは知らなんだが、もとは「食べもの」の意味の gâteau は、もとは「だめにする」意味からきた gâter (「甘やかす」)とか gâteux (「ぼけ老人」)とかとは語源的には無縁だったのでした。どうです、いらないものの相手をして新しい知識が得られるじゃないですか。(「そんなこともう知ってたよ…」というひとはさすがになかなかいないんじゃないかなあ、と私は思うんですが。まあ、そういうひとも日本にはいがちか。みんなマニアだから。)
 それでも日本人が「旧仮名遣い」と呼ぶものが割りと新しく学者によって完成されたものだ、という見地から、フランス語のつづりは「言ってみれば旧仮名遣い」というのはありかもしれない。フランス語の正書法はあくまでフランス語の正書法として成立したものであって、ラテン語の書き方と本質的には関係がないと考えなければいけないと思うけど。
 それに悪いけど17、18世紀あたりまでの文章はだいたいそれこそ「いってみればフランス風の現代仮名遣い」に改めて現在は出版されているのであって、ルネサンス期に今の正書法が完成したということですらないのですが。19世紀のものでもときどき現代のつづりとちがうものがあります。アカデミー・フランセーズは結構フランス語を時代に合わせるために仕事してるんですよ。
 まあ、別にどうでもいいんですが。本当に別にどうでもいいんですよ、このひとは雰囲気で書いてるんだから。別にめくじらをたてているというのではないんです。私だってしょっちゅう雰囲気でいい加減なこと書いてますから。暇なんでしょう、きっと。

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カルラ・ブルーニ・サルコジは本当はどういうことを云ったか

 カルラ・ブルーニ・サルコジが日刊紙「リベラシオン」のインタヴューに答えました。実はカルラがリベラシオンの一日編集長をつとめるという話があったのだが、この新聞がもとは左派の新聞なので、いろいろと抵抗があって計画は立ち消えになっていたのです。というわけで独占インタヴューであります。
 まずは新作CDの包装ヴィニールに貼られているスッカーが「カルラのことを好きになるのに夫のことまで好きになる必要はない」だというのに私は大笑い。カルラさんはこれに関して「プライヴェイトな核の部分を守るためには、もうひとつの人格をつくらなければならない」というようなことを云っております。
 このインタヴューの話をする朝日の記事はなぜか見出しがカルラさん「フランス国籍まだなし」で、ここで「フランス国籍をまだ取得していないことを明らかにした」となっているのだけれども、不思議な読み方をするものですなあ。だいたいお役所とフランス国粋主義者以外のだれがそんなことを気にするんだという気がするし、カルラ・ブルーニが云っているのは「私はもう三箇月前からイタリア人ではありません」ということです。朝日の云ってることと反対じゃん。全然明らかにしてないよ。だれにとっても手続きには長い時間がかかるが、私は三箇月前から象徴的にフランス人です、とカルラさんは云っている。もしこれがカルラさんが大統朝と結婚したからといってあっという間に帰化申請が認められたら、そっちの方が問題になるって、朝日さん。
 あと朝日ではカルラさんが自分の政治的傾向を「左派寄り」としたと云うんだけど、これも云ってません。むしろ反対です。
 私は皮膚感覚的には左派としての反応をします。これはイデオロギーでも思想体系でもありません。私は闘士ではないし、そうだったこともありません。完全に右か左かでなければならないひとは脳味噌の一部しか使っていないという感じがします。
 ほら、云ってないでしょ? 「皮膚感覚」って云ってるんだから。自民党の議員にだってこういうひとはいると思います。この辺は「私は左派寄りだ」と云ったということでは全然なくて、「お前、左派のくせにサルコジなんかと結婚して…」と批判するひとを揶揄しているところです。朝日さんには読めていないのか、あえて読んでいないのか、よくわかりません。
 それでカルラさんはこういう「皮膚感覚的な反応」をした最近の例を聞かれて、移民に課せられるDNA検査の例をあげて答えています。これはフランス滞在が許可されたひとには自国から家族を呼び寄せることが容易なので、本当に家族なのかどうかを調べるためにDNA検査を義務づけるというものです。これはサルコジ政権が「移民に厳しい」からカルラさんがそれに対して批判的だというよりも、単純に人権感覚の問題ですなあ。
  しかもサルコジの対立候補であった社会党のセゴレーヌ・ロワイヤルが嫌いな理由は、彼女の声だというおばかな答えをしております。しかも移民相のブリス・オルトフー(サルコジの古くからの盟友)の方は人間として大好きだとおっしゃってます。
 移民問題に関しては、一言申したいところだけれども、夫に迷惑をかけるからというよりも、自分にその問題について語る能力がないからここは控えておくということを云っています。
 最後にリベラシオンは「そこまで妻は夫の政治と一体をなさなければならないものでしょうか」という質問をします。カルラさんのことをどうしても「左派寄り」にしておきたいのか、朝日はどうもこの辺のリベラシオンの調子をあえて読んでいないような気もします。これに対してカルラさんはこう答えています。
 一体をなすですって? 政治だろうと夫だろうと一体をなす義務なんてだれにもありません! そうしたければそうすればいいのよ。
 私はそんなに夫の政治と一体をなしてはいません。そうなの? そう思うんですか? 私は自分の世界を夫にもたらし、夫は自分の世界を私にもたらしたのです。一体をなすというのは夫が考えることすべてに同意するということです。夫婦生活はそんなものではありません! たとえ私は政治にはあまり関与してこなかった女だとしても、私は常に同じ信念をもっているのです。(私の訳は何だか下手ですね。特に「もたらす」のあたりが。)
 いや、いいんじゃないでしょうか。私はサルコジのことは嫌いだけど、別に悪だとは思っていないし、何でも単純化して考えたがる意見に抗してカルラさんはなかなかいいことを云っていると思います。結婚したからって、たとえその相手が一国の大統領であったとしても、相手の政治に関する意見全部に同意しているわけがないじゃないのよ、ばあか、というきわめてまっとうなことを云っているわけです。
 朝日の記事はごく短いものなのだから、十分に意味をくみとっていないのはしょうがないことだとは云っても、短い記事のなかに正確な内容をしっかりとまとめるのが新聞記者の仕事なのではないかと私は思うのですが。

P.S. 「皮膚感覚的」épidermique というカルラさんの用いたことばがおもしろいので、各紙サイトの見出しに使われています。Épiderme は「表皮」です。この形容詞は辞書的には「上っ面だけ」という意味ですが、ここでは「皮膚感覚的」ということを云いたいのだと思います。さすがに「私は上っ面だけは左」というひとの神経をさかなでするようなことを云うつもりはないのだと思います。「辞書に載っていない意味を訳に使うなよ!」というこわーい先生方もいらっしゃるかとは思いますが、別にフランス語を話すひとの頭のなかに辞書が入ってるわけじゃありませんから。ここでは「表皮」の形容詞として理解されるだろういろいろな意味のひとつで使われているということでいいと私は思います。もちろんここで「お前、上っ面だけかよ!」と辞書の定義を用いてカルラさんのことを批判したり揶揄したりすることは可能です。
 フランスのいろいろなサイトで、単純に「左寄り」と書いているところはあるのかな、と見てみたのだけれど、やはり「反応(反射)」ということばは無視されていません。「反射的には左だ」ということばは、やっぱり「私は左寄りだ」ということよりもむしろそうではない、カテゴライズしないでほしいということを云っているでしょう。
 私はリベラシオンのサイトに載ったインタヴューを参考にしましたが、印刷された紙面の方に載っているのは非常に長いそうです(8ペイジ?!)。しかしこれがやはり左派のままでいるリベラシオンの読者にはやたらと不評だったらしく、八割方の読者は「サルコジの奥さんの独占インタヴューなんかを乗せる新聞はもう読んでやらない」とか云って激怒しているようです。そりゃそうだよ、という気がします。朝日さん以外はほぼだれも「私は左寄りだ」というメッセージは理解しなかったらしく、「別に政治なんて関心ないもん」というおばかな意見の方を読んでしまったようです。

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2008年6月20日金曜日

復誦は楽しい

 復誦って楽しいですよね。
 指差確認とかして、「バルブよーし」「バルブよーし!」とかいうの。楽しいですよ。うきうきしちゃいます。
 復誦をするときって、何となく主従関係がうやむやになるような感じがありますよね。「今日はお前やってみろ」とか云われたりしてさ。もう何か、楽しいんだ。張り切っちゃったりなんかして。「バルブよーし!」って。うんうん、いいよ、って感じがするんですよ。たとえ今日だけでも責任をもたされたひとが「よし」って云ってるんだから、後にぞろぞろついていっているひとは「よし」と繰り返す以外にないですしね。復誦するのはまさに至福の瞬間です。
 きのう書いた、テレビ中継の(アナウンサー)「進化してますか?」(解説)「進化してますねえ」というやりとりにもそういううれしさが感じられます。その場にいると楽しいんだろう けどねえ。いろんな例があると思うんですよ。「これはリテラシーないんじゃないですか?」「リテラシーないですねえ」 「コンプライアンスはしっかりしてほしいですね」「そのとおりです。コンプライアンスはしっかりしてほしいです」 何かこう、とっても楽しい感じが伝わってきます。「仲間じゃないか!」という気がするんですよ。主従関係は蔭にあれど、とりあえずここではもちつもたれつ、なんて感じ。「バルブよーし!」と繰り返すのといっしょで、できれば「待ってました!」と声をかけたいくらいの気持ちで復誦してしまいます。
 これがもし「進化してますか?」と聞かれて、「進化ですか…。ここは進歩とか前進とか云った方がいいんじゃないんですかね」とか答えた日にゃあもう「絶交!もう遊んでやらない!」と云われちゃいます。「あのひと、クビ。今度から解説は別のひとにして」なんて会議で云われちゃったりして。こういうところに前はみえていないふりをしていた主従関係が顔を出してしまうんだなあ。「これはリテラシーないんじゃないですかね」「え?日本は識字率高いですよ」とか、これもよろしくない。「コンプライアンスが…」「何ですか、そのことば。よく聞くんだけど意味がわかりません」とか。こういうのはどうもよろしくありません。気持ちはわかるんだが、社会人としてはなってませんね。だって意味なんかどうでもいいんですから。「それは意味がちがうんじゃないか」「どういう意味かなあ」と思っても考えずに繰り返さなくちゃ。責任をもたされたひとがもう「バルブよーし」と云ってるんだから、それに唱和しないのは日本人失格です。なりすましです。これが社会のルールなんですから。せっかく楽しもうと云ってるのにどうしてそれをだいなしにするんだ。少しは大人になれとかちょっとは空気読めとかさんざんです。
 この復誦は直接前のことばにつづけてしなくても十分楽しいのです。要するに楽しいのは仲間感覚を共有することですから。私が日本に帰ってきて「これは何?」と思ったのはたとえば「セレブ」です。このことばを「お金持ち」の意味で使うのはおかしいとわかってはいるけれど、わかっているからこそその意味で使いたい。復誦するのがうれしいからです。仲間だからです。「仲間に入れてね!」と下から来てくれなくちゃ困るわけです。「進化し続ける大学」という私立大学のコピーにも「大学人は世間知らずなんて云わないで、仲間に入れてよおん」というすりすり感覚満載です。
 「進化」や「セレブ」は変な意味で使うということをだれか責任をもたされたひと(必ずしもえらいひとではない)が云ってしまったような気がする。だからもう後はそれを無際限に繰り返すのが楽しいのです。「ヤーレンソーラン」とか「エンヤートット」のような感覚です。『蟹工船』です(イメージよ、イメージ)。俺たちはここにいるんだあ!というような感じですね。コミュニケイションの場を、同じ時代を共有しているという感覚が、もううれしくてしょうがない。
 「リテラシーよーし」と云われたら「リテラシーよーし!」と繰り返す。もうこっちはこのことばの使用に関して責任を免れているわけです。繰り返してるだけなんですから。ほとんど宗教的な communion と云いますか、俺はいま他者と一致している!という感覚がたまらないんですね。だいたいそんなもんだと思いますよ。「リテラシーということばの意味がわかりません」と云ったら、「あんた仲間はずれ」ってただそれだけの話ですから。意味が合ってるもへったくれもあったもんじゃないって。徒弟制みたいなもんよ。師匠の芸を盗め!という感じ?
 でももしここで「トリアージって何かおかしいらしいよ」という話になったら、「トリアージよーし」と最初に云ったひとにさかのぼって、「お前がトリアージよしと云っただろう!」となじって、「でも本当は○○さんの日なのに、『今日はお前が指差し確認やってみろ』と云ったんじゃないですかあ」なんて言いわけしようものなら、「そんな言いわけなんか聞きたくない!」と云われて更迭されちゃったりして、いやあ、世のなかきびしいです。

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2008年6月19日木曜日

進化する日本語

 十年日本を留守にしていて戻ってきて驚いたことのなかには、加藤浩次が妙に流行ってるとか、戸田恵子が有名女優になってるとか、内田樹が有名人になってるとかさまざまあるが、「進化」ということばの意味が変わっているのにも驚いた。今やなみいる有名私立大学すら進化するご時世だ。まあ、教授連の意向とはまったく関係なく、広報が勝手に進化しているのだろうが、それにしてもこの「進化」ということばはどうにかならないのか。
 我が家にある辞書はちょっと古いが、定義を見てみる。
「生物が形態や機能の分化・変異の過程を積み重ねながら、より環境に適した状態になること。」(新明解国語辞典)
 あまり進化するミラクルマオとかそういう恥ずかしいものには関係がなさそうだ。
「①〔生〕生物が次第に異種のものに変化し、さらにもとの種との差異を増大して異属・異目などを生じていくこと。長い進化の過程では体制は概して複雑化し、また種類が増す。 ②〔社〕生物における進化の観念を社会に適用した発展の観念。社会は同質のものから異質のものへ、未分化のものから分化したものへ進むものとする。スペンサーを初め主張者が多い。社会進化。」(広辞苑)
 「体制」というのがよくわからないが、この定義のなかの「枝分かれ」感が好きだ。
「①〔evolution〕生物は不変のものではなく、長大な年月の間に次第に変化して現生の複雑で多様な生物が生じた、という考えに基づく歴史的変化の過程。種類の多様化と、環境への適応による形態・機能・行動などの変化がみられる。この変化は、必ずしも進歩とは限らない。また、生物だけを対象とするにとどまらず、社会的進歩感を背景に社会進化論が生まれ、さらに全宇宙・全物質を歴史的変化のなかでとらえる概念にまで拡大される。②物事が次第に発達していくこと。」(大辞林)
 「環境への適応」とか「必ずしも進歩とは限らない」とかのあたりが今の日本の空気な空気に接合される「進化」のニュアンスを表しているか。きっと本当は自分の商品やら何やらが進歩してなくて横道にそれてるだけだから、みんな進化と云ってるんじゃないか、と変な邪推(変だから邪推というのかな)。②の方は今のみなさんの用法でもよさそう?
「①事物が、段階を追って、よりよい、あるいはより高度な形態へと変化していくこと。②生物の形態や機能が長い年月の間に変化し、次第に異なる種へと分岐していくこと。一般に、体制の複雑化、適応の高度化ならびに種類の増加を伴う。」(日本国語大辞典)
 うぅ、ここでも「体制」と云われている。英語の system のことかなあ。私なんか頭悪いから「体制」と云われると反射的に「討つべし!」なんて云っちゃうよ(うそ)。ここでは①の方が案外に今の用法に合っているようでもあるが、実はこの①の意味の用例に出ているのはちゃんと evolution の訳語としての日本語の用例だけなのである。
 と、いくつかの辞書を見てはっきりしたけど、「進化」は定義上枝分かれするものらしいよ、みなさん。
 数年前にフランスのテレビの M6 でやっていた Evolution はつまらない米仏合作のアニメだったが、Men in Black みたいな面妖な生きものがたくさん出てきていました。「進化」という単語は évolution の訳語としてしか私には理解できません。どちらかと云えば前進するというよりも向きが変わっている。こんな私はどうしてもこのことばからミュータントとかエイリアンとか思い浮かべてしまいます。だから「進化を続ける大学」だなんて非常に醜悪だと思うんですけど。バフィー(あれは高校だったか)とかX‐MENとか、そんなのが徘徊する大学という気がします。こんなハリウッドチューインガム的なコピーで宣伝しなければならないなんて、「羞恥心を失った大学」の方がよっぽどふさわしくないか? 進化をつづけたって進歩しないんだったらしょうがないよな。
 おおむかしにマツダの宣伝か何かで「この『進化』って使い方がおかしくないか?」と思ったような気もするが、その辺の記憶は定かではありません。マツダじゃなかったかもしれないけど、どっちみち意味をずらされた「進化」ということばの用法は何かのCMのコピーの記憶でしかないでしょ? スポーツ中継でアナウンサーが解説さんに「進化してますか?」と聞くと「進化してますねえ」と答えるというのを聞いたことがあるが、「何かこれ、暗号か?」という仲間はずれ感を感じました。やっぱりこういう内輪で盛り上がってるような隠語的なことばの使い方は恥ずかしいですね。「進化」ということばの立場にたってみると、「どうして僕が使っちゃいけない恥ずかしいことばにならなくちゃならないんだ」と泣くに泣けないような気がしているにちがいないという気がするが、ここは心を鬼にしてブラックリスト入り。
 待てよ、「進化」ということばは意味をずらされたということは、もしかして意味が進化した?

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遺族の気持ち

 「犯人をかばうひとは遺族の気持ちを考えたことがないのでは?」
 「報道ステーション」への視聴者からのメイルだそうです。何となくわかるようで実はよくわからないことばです。
 まずこういうひとはどのようなひとのどのような行動を「犯人をかばう」ものだと考えているのでしょうか。今のタイミングからすると、死刑制度に反対することが犯人をかばうことであるのか。それとも犯人の心理を理解しようとすること、一種の感情移入が犯人をかばうことなのか。あるいはそうではなくて、精神病者には刑事責任はないとする議論が、このひとにとっては犯人をかばうことなのか。どうなのでしょう。
 「この犯人は社会の犠牲者である」という議論は何だか犯人をかばうものであるような気がしますね。世のなか鬱憤がたまってしょうがないから殺人くらい犯して当然だ、という意見はある意味で犯人をかばうことなのかもしれないけれども、こういう意見を犯人をかばう意見だと理解するひとは少ないでしょう。「この犯人は悪くないよ!」と云って兇悪殺人犯をかばう意見はなかなか耳にしません。
 では「この犯人は社会の犠牲者である」というものが犯人をかばうもののように感じられたとしても、それは遺族にとって腹立たしいものなのでしょうか。不条理な死を理解する助けになる意見と感じることはないのでしょうか。
 それにどうして殺人の被害者の遺族はみんな同じように感じなければならないのかもよくわかりません。恨みや憎しみを乗り越えよう、その死が不条理なものであったと感じられればそれだけ、不幸にも殺された家族は実はあの世でその死を恨みに思っているのではなくて、「もう気にしないで」とほほえみかけているだろう、と必死で信じようとしている遺族のひとだって珍しくはないのではないでしょうか。そういうひとにとってみたら、こういう風に勝手に気持ちを代弁されるのは本当にやるせないのではないかという気がするのですけれども。
 「遺族の気持ちを考えたことがない」といういいかたも、よく考えてみると気になります。「遺族の気持ちがわからない」の方がいいのではないか。「考えたことがない」といういいかただと、まるでその遺族ならだれでももつべき感情は、考えてみればすぐさまわかることだと云われているかのようです。こう考えると、まったくこのひとは人間の心理の複雑さを理解しないひとなのではないかと思われてきます。何だか愚劣なものいいのような気がしてきました。
 あと云ってしまえば、犯人(とその家族)よりも遺族の肩をもってしかるべきということも無条件に云えることではないと思うのですけれど、そんなことを云っても理解されないでしょう。
 私は無神論者で霊魂の存在も死後の生の存在もまったく信じませんから、私にとっては残されているもののことだけが問題で、残されたものの間で何をするかだけが問題なのだと云っておきます。

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2008年6月18日水曜日

「理念だけなの?」とせせら笑うひとにだまされるな

 死刑反対論者がこういうことを云うのを聞くとどうにもいたたまれないのです。「日本では特にいつだれが死刑執行されるのがわからないのが問題だ」とか。そんな議論は「死刑判決が出ているのだから、いつか死刑が執行されることはもうわかっているはずではないか」という「正論」を前にして何の力ももたないでしょう。こういう「各論」にかかずらうのは、みごとに死刑制度存置論者の罠にかかっているのではないでしょうか。「こういうことを云わないと聞いてもらえない」と信じ込んでいるのかもしれないけれども、そっちの方に行っても袋小路ですよ。今現在監獄のなかで死刑を待っている死刑囚のことをどうするかという問題は一方にある。でも死刑反対論はそこから切り離して理念だけでやった方がいいんじゃないかなあ。
 あと無期懲役に変わる終身刑をつくればそれでいいんじゃないか、という議論もどうにも乱暴な気がするんですね。まず理念として、私はひとには必ず更生の可能性があると考えたいわけですよ。こういう私にとっては「あなたはもう二度と監獄から出てこられません」というこの終身刑は、どちらかといえば死刑存置論者を説得するための付け焼刃的な議論です。しかもテレビなどで聞いていると、この説明がどうにも曖昧です。「日本には真の終身刑がない」というのは事実なのでしょうが、これを「海外」と比べるときの「海外」がのっぺりしすぎで、説得力をもちえません。
 たとえばフランスでは1981年に死刑を廃止しました。(これが国民の大半の意見に反したものだったことを忘れてはなりません。間接民主制は衆愚制ではないのです。ときには政治が率先して輿論をつくりあげていかなければならないのです。) 死刑を廃止している国としては、まずフランスのことが頭に浮かぶのではないでしょうか。それではフランスでは終身刑はどういう事情になっているのでしょう。まず用語として、日本語で「無期懲役」とされるものは(正式な用語では普通の犯罪者と政治犯がちがったりするので単純化して云います)perpétuité で、「終身刑」にあたるものは perpétuité réelle となります。つまり、フランス語の発想をわかりやすくすると、前からある「無期」と、1994年にできた「真の無期」ということになります。それでは「真の無期」はどういう犯罪に適用されるかというと、「強姦あるいは拷問のともなう児童の殺害」です。適用の範囲はきわめてせまいのです。それでは、現在フランスに「真の無期」が適用されている犯罪者はどのくらいいるのでしょうか。ピエール・ボダン、ミシェル・フールニレ。ふたりです。このうちミシェル・フールニレに関しては、判決が出たのは先月5月28日です。しかし制度上では、この「真の無期」においても30年後、このフールニレに関してはこれまでに監獄で過ごした8年間を引いた22年後に、健康上の理由などで釈放される可能性があります。つまり、「死刑を廃止して、無期懲役に変わる終身刑をつくればいい」と云われるところの「終身刑」はフランスには実質上存在しません。それでフランス人はみんな満足か、といえばそんなことはなくて、このフールニレ裁判のときに「本当の真の終身刑を!」という議論が盛り上がっていたのです。死刑復活論者だってなんぼでもいます。
 つまりフランスは死刑制度廃止後に、この廃止にともなったリスクとともに生きています。こういったリスクをすすんで背負ってゆこう、というのが死刑制度廃止論者の主張でなければならないと思います。(もちろん死刑制度廃止論者自身が背負うのではなくて、社会全体でということにならざるをえないのだが。) これはむずかしいことです。でもむずかしいことだからこそやる気がでるのではないか。将来的には一般的な教育レベルを上げて、重大な犯罪を犯したひとでもしばらく牢獄に入ったら更生して出てこられるようなバックボーンができている社会のことを考えたら、モチヴェイションが上がるではないですか。(上がらない?) 終身刑に関しては、「どうしてこんな犯罪者を税金で一生喰わせてやんなくちゃなんないのよ」というひとが必ず出てきます。こういう意見に耳を貸しましょう。そのとおりだと思います。だから殺してしまえというのではない。「こんな人間には更生の可能性がない」と断じることはいかに傲慢なことであることか。こういうのが傲慢だということを教育によって理解させる。そうすると、死刑も終身刑も必要なくなります。
 サド侯爵は「悪徳の道を平らにして、美徳の道に茨をまけば、その困難ゆえに若者は(ゲイム感覚で)すすんで美徳の道を選ぶようになるだろう」と云いました。そのとおりなのだと思います。道は長いからこそやる気がでるのだと思います。いいひとであることがつまらないから悪いことをする、という心理的な要因が、特に「哲学的」な犯罪者のなかにはあるという事実はおおむかしから変わりません。だったらいいひとであることをおもしろくすればいいのです。救いようのないような犯罪者にみえていたひとも、「いいひとであることがこんなにおもしろいことだったんだ」と思うときが来るかもしれません。いうまでもないでしょうが、私はここでユートピア論者として話しています。非現実的なのは承知の上です。それでも結局どの辺が非現実的なのかのちがいでしかないと思うんですけど。今目の前に見えている現実に対して現実的であることが、必ずしも現実的であるとは思わない。こういうことを云わないと、その高さを宣伝しないと、死刑廃止論は魅力あるものにならないでしょう。死刑廃止にともなうリスクを背負おうとしないひとがつまらないからこそ、そのリスクを社会が背負うということのおもしろさ、もとい高さを強調しなければならないでしょう。別に死刑廃止論がひとつのものである必要はないし、サドの名前を出してこんなことを云う私は珍しいのでしょうが、私の云ってる変なことは置いといて、ともかく各論に陥らない理念の高さをもっと声高に主張してもらいたい。
 「神が存在するのなら、なぜ世のなかに悪は存在するのか」という問いに対して、神学者は「それは神が悪の存在を許すほどに寛大だからだ」と答えます。これは悪を選択する人間の自由意志を基礎づけるものです。このような「自由意志」の信奉者の側からすると、「『こんな人間には更生の可能性がない』と断じるひとは傲慢だから、こういうひとがこんなことを思わないように条件づける」という思想は、ある種の全体主義の姿をとったものとしてみえてしまうのかもしれません。私は無神論者サド侯爵がキリスト教のなかでもっとも憎んだものはこの自由意志という思想だったのだと思います。それゆえに彼はいかに人間は自由意志のありえない条件づけのなかで生きているかを、まるで宿命論者であるかのように(そうではなかったけれど)語りました。自由意志は宗教思想によるおしつけであると考えるか、そう考えないかによって、この辺の考え方は変わってくるのだと思います。私は自由意志の旗のもとで野蛮に帰ることを拒絶します。よりよい社会のための条件づけというのは、私は悪いことだと思いません。
 (しばらく前にパリ市長のドラノエ(社会党)が「私はリベラルだ」と云って物議をかもしました。なぜならフランスの左派にとっては普通「リベラル」というのは資本主義を基礎づける悪だからです。批判に対してドラノエは、「アメリカではリベラルは悪いことばではなく、私はその意味で云った」と云いました。私があまり「リベラル」ではないのは、フランス風の考え方によるものです。)
 「結局ひとはそれほど自由ではない」というところから考えはじめると、「犯罪者は“強い心をもって”自由に犯罪を犯している」のではなくて、むしろ弱さから罪を犯しているのだということがわかってくるでしょう。この地点にいたると、理念でものを語っているのは、実は死刑反対論者ではなくて、個人の自由意志という思想にしがみついているのは犯罪者に対する厳罰を求めるひとの方だということになるのかもしれません。

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2008年6月17日火曜日

女ソムリエ

 以前「野菜ソムリエ」という日本の女性の職業名(なのかな?)が「ソムリエール」(sommelière)というフランス語の名詞の女性形をカタカナで書いたものではないのは、要するに理恵さんが韻をふむためなのかという疑いを書きました。しかしそれと同時に、cuisinier (料理人)のように、「料理をするひと」の意味では女性形の cuisinière を用いるけれども、職業名としては本来女性に対しても男性形を用いるのが正しいとされているものもあり、もしかしたら sommelier もそうなのではないかという一抹の疑いが残るということを書きました。このことに関しておもしろい記事をふたつ見つけました(両方ともフランス語)。
 まずはジャンマリー・ヴォドーズさんという「フランス語の擁護」協会(スイス)の会長さんによるPDF文書
 この文章の趣旨は、最近フランス語ではやたらと職業名の女性形を新しくつくるが、何も単語の形(語尾)を変えなくても冠詞だけを変えればいい、というものです。この趣旨にはなるほどと思ったけれど、ここではそこから少しずれた話の方をとりあげます。
 この文章のなかで報告されている事例に面白いものがあります。たとえば元水泳選手のモニック・ベルリウーさんは、IOC の何かの局長だったけれども、女性形の directrice は用いずに、男性形で directeur を名乗っていたのだそうです。理由を聞くと、「もし私が directrice を名乗ったら、すぐに directeur を名乗る男の上司をおしつけられるからだ」と答えたそうです。
 フランス語では、職業名の女性形は、その女性がその職業、あるいは役職についているということを必ずしも意味しません。たとえば présidente と云えば、その女性が議長や大統領などの要職についているのではなくて、夫が président だということを頻繁に意味します。YouTube でも DailyMotion でもなぜか検索しても出てこないが、Ferrero Rocher の有名なコマーシャルでは、女性の外交官が ambassadrice と女性形で云うといまだに驚かれる、Madame l'Ambassadeur と「マダム・プラス・男性形」で呼ばれたりする、と云っていたと思います。たとえば大学教授は、フランス語には女性形がないので、Madame le Professeur と、Madame l'Ambassadeur と同じしかたで呼ばれます。ベルリウーさんが自分の役職の名前に男性形を用いたのは、役職の女性形には、こういう事情で、それにともなうべき敬意が必ずしもともなっていないからです。
 ヴォドーズさんが報告するところでは、80年代のパリの航空会社は、スチュワーデスのことをもう hôtesse de l'air と女性形では呼ばずに、hôte de l'air と男性形で呼ぶことにしようと決めたことがあるのだそうです。しかしこういった取り決めは滑稽だと感じられて、serveuse (ウェイトレス)あるいは sommelière (ソムリエール)のような「いくばくか隷属的な例」にならって、ふたたび「スチュワーデス」にあたる女性形の使用が正当化されることになった、と云っています。つまり「ソムリエール」という単語の使用は少しばかり隷属的だと感じるひとがいるということでしょう。
 次にマリアンヌ・ドゥロムさんという女ソムリエを紹介した記事。このひとは自分の職業を女性形の「ソムリエール」(sommelière)ではなくて、「ソムリエ」(sommelier)と男性形で定義しています。インタヴュアーがその理由を聞いています。
 これに対してドゥロムさんは「まず第一にこれはひとつの職業だからです。この領域において男性と女性を差別化するような議論のなかに入りたくはありません。私にとっては、ワインの探求と評価は、そのひとの性別ではなくて、単純に嗜好と知覚に結びついているのです」と答えています。
 このように、多くの女性のソムリエは女性形で sommelière と自称しているようだが、なかにはそれを嫌って男性形を用いるひともいるということのようです。
 私にはとっても面白い話ですが、何が面白いのかわからないとちんぷんかんぷんでしょうね。フランス語の職業名には男性形と女性形があるものが多いが、それがないものもある、という文法的事実の先に行かなくても、フランス語の運用能力としては、実質上まったく困ることはありません。でもさらにその先に文法ではとらえきれない文化的、あるいは個人的な要因による用法のちがいがあるということが、私にはとても楽しいことなのです。
 「要するに女は sommelier と sommelière のどっちが正しいの?」という方には、やっぱり大勢から云って sommelière かなあ、とお答えしておきます。Cuisinier だって、「女でも男性形を用いるのが文法的に正しい」と主張するのは、「兎は一羽、二羽と数えなさい」と云うのと同じレベルなのかな、という気がしないでもありません。でも「兎は一羽、二羽と数えなさい」とは、まったくそのとおりだ、っていうひとだっているでしょ? 兎の「正しい」数え方を知らないフランス人の日本語の先生は非難に値しないだろうけど、同じように、cuisinier は女でも男性形を用いるということを聞いたことがない日本人のフランス語の先生も、非難にはあたらないのではないでしょうか。
 ひとつ最後につけくわえておきたいのは、「フェミニストは何でも女性形を好む」というやっかみは事実をうつしてはいないということがこういう話からもわかるということです。むしろその逆に、このふたつの例は、他の女性よりも性差別に対して自覚的な女性が男性形をあえて用いているというもので、それがとても面白いと思います。
 「野菜ソムリエ」さんは全然関係なかったですね、はい。

P.S. たぶん世のなかには「女なんだからあなたのフランス語での職業名はキュイジニエじゃなくてキュイジニエールだ!」ということを絶対的に正しいフランス語の知識として主張するひともいると思うんだね。そういうのが心苦しいという。何もそういう風に高圧的に云わなかったら、決してそれがまちがったことだとは云えないのだから、許されることなのに。「これが絶対に正しい!」と主張する時点からおかしくなっちゃう。「本来はそうじゃないんだよ」とこっちが云わなくちゃならなくなっちゃう。

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2008年6月16日月曜日

意味の詰まったことばを使おう

 海外のジャーナリストなりの分析が面白いものである可能性がある文化についての記事や政治経済についての記事はともかく、日本の三面記事に対する海外からの反応を語ることには意味がないと思います。
 秋葉原の殺傷事件がどのようにフランスの新聞のインターネットサイトで伝えられているかを少し見たのですが、まずは Courrier International 「国際通信」という週刊紙のサイトに日本人がちょっと不自然なフランス語で書いたものがすぐに出て(この週刊紙の日本語版の「クーリエ・ジャポン」というものがあるらしいが、そっちの方は私はよく知らない)、それが書きなおされて親会社の「ル・モンド」紙のサイトに載っていました。つまりそこにはまったく「ル・モンド」紙の記者の分析はなく、内容は日本人の記者が云っていることほぼそのままでした。英語の記事でも多かれ少なかれ似たようなものではないのかなと推測します。「海外でも日本のことを話してくれているぞ!」という素朴な喜びが問題なんでしょうかね。
 「安全なことで知られている東京」とか、「犯人は漫画やテレビゲイムが好きだった」という、日本人がフランス人読者に喜ばれると思って書いた紋切型が、「ル・モンド」のサイトの記事にはそのまま転写されています。この「ル・モンド」紙の記事ではないけれど、他のサイトからのだいたい似たような記事をブログに転載している日本好きのフランス人の女の子は、「この記事、云ってることがばかだよね。『犯人は漫画やテレビゲイムが好きだった』っていうけど、日本人はみんな好きじゃないのよ」と云っていました。背伸びしてものを書く日本人が、「おたくは精神異常者」というニュアンスがフランス人にも当然理解されると思っても、まったくそうはいかないんですね。

 わかりやすく意味の詰まったことばを使おう、というのは多くのひとがかなり前から繰り返してきている主張です。それなのにその気運がなかなか盛り上がりません。
 私は子供のころからテレビで聞く「無言の帰宅」という表現が嫌いでした。「ばかにしてるのか?」と思っていました。今もその感想が変わりません。それなのにいまだにニュースではそれです。私よりもずっと若いようなひとが見たところでは何の疑問もなくこんな醜悪な表現を使っています。むかしだれかが気に入って使ったのでしょうが、それを紋切型として使いつづける義理などどこにもないでしょう。この表現そのものが本来もっていたのかもしれない思いやりのある意味合いが、今やほぼまったく感じられません。表現は陳腐化するということをいい加減に理解してほしいものです。
 IQ高官の話を探して『荒川洋治詩集』のペイジをめくっていたら、こんな「紋切型」に関する話が出てきました。
 私は、この手の、口にするだけでもカビの生えそうな成句がいやでいやで仕方がなかったのだが、私自身のちからではこれに代わる一句を探し出せないのだから、譲るしかない。いつもこれを借用するハメになった。
 非常によくわかる感覚です。どうしても紋切型を使ってしまうはめに陥りがちなのだけれども、それでも紋切型ではない表現を探そうとする努力は必要だと思うのです。同じことを繰り返さないのが人間だからです。
 「ご冥福をお祈りします」という表現に腹はたちません。腹はたたないのだけれども、「だれがこのことばに意味を込めて云っていて、だれが空虚な紋切型として用いているのか」という疑問を感じずにはいられません。やはり紋切型は本来の意味、意味合いを失っているのです。
 荒川洋治が前述の文章で問題にしている紋切型は、「春の色豊かな本日…」というもので、彼は「雨が降っても嵐でも『春の色豊かな本日…』。なんとゆうちょうなことだろう」と書いています。「罪のないひとが犠牲になるのは許せない」という紋切型についても、私は同じような「悠長さ」を感じます。だったら通り魔の犠牲になったひとのなかに、極悪指名手配犯が含まれていたら、「加藤、よくやった!」ということにでもなるのか。もしかしたら、殺されたひと全員が前科者だったということもありうるかもしれない。その場合はこの通り魔の罪深さが軽減されるとでもいうのか。ひとの罪深さ、罪のなさにはいろいろと細かい段階があるだろうに、それを無視して人間を犯罪者と罪なきものに二分する発想は、法律の専門家にはぎりぎりのところでは求められてしまうものなのかもしれないけれども、それは形式的なものにとどまるべきもので、この二分法は人間の考え方として不健全です。もっとも「罪のないひと」ということばを用いているひとはそこまで考えていない、というひとも当然いるでしょう。なるほど、語のもっている意味は無視して、言表行為の機能だけを重視するのが「おとな」だ、という見方もあるのでしょう。でもそれは「おとな」観がまちがっているだけです。このまちがった「おとな」観は、理屈である「からごころ」を排除して、「まごころ」の意味に再解釈された「やまとだましひ」を押し出す国学の発想に端を発するのかもしれません。

 ところで荒川洋治はむかしこんなことを書いていました。
 IQを下げて、少しろどんになればよいのにね。IQが高いのだから、努力すれば、できるはずである。

 変な発想が正しいユーモアを生む。これもIQをかなぐり棄てた成果である。

 IQをどんどん下げて、終生はいずりまわって、書いていただきたい。
 中野重治と荒川洋治に共通するものは福井県という地域性なのかしら。実にいいことを云っています。頭がいいひとが「これでいいですか」と上目づかいでどこかむりをして書いているような文章は耐えられません。努力をする方向がまちがっているのでしょう。荒川洋治はIQが高い詩人が「詩を書くことを怖がっているようす」を揶揄したが、みなさん怖がらないで自由にことばづかいなんか気にせずにブログを書きましょうね。ブログをよそゆきのことばで書く必要なんてないのです。(「ブログはこう書け」みたいなことを書いているひとって、どうしてそんな余計なお世話なことを云いたくなるのか気持ちがわからないんだけど、何だかたくさんいますね。そういうことばが役に立つと思うブロガーのひともいるのでしょう。) ことばの空疎化を狙って、「これからはブロガーも糾弾されるぞ!」と脅しにかかっているひともいますが。本気にしないように。自信をもって自分のことばを使っているひとならば、そんなことを恐れる必要はありません。
 私はひとさまのブログを巡廻したりはほとんどしませんが、それでも「意味の詰まったことばを使おう」という思想のお仲間(政治的な右左は問いません)はかなりの数いるように思われます。実に頼もしいことだと思います。

P.S. よしておこうかなあ、と思いつつ、はてなブックマークのコメントを見てしまいます。わざわざ読んでくんださる方がいるのは本当にありがたいことだと思います。「論旨とは関係ないけど」と断って「荒川洋治のIQ高官は意味が詰まってない」ということを書いている方がいて、云われてみればそうだ(笑)。頭に浮かぶことを漫然と書いているものをちゃんと読んでくださる方がいるのは、何となく恥ずかしいというか、どことなくこそばゆいというか。いや、本当にありがたいことだと思います。ちなみにこのブログは、もともと病的なまでにことば遊びが好きで、まじめな話をすると話をはぐらかしてばかりいる「揚げ足とりの王様」が自戒をこめて更生のために書いておりますので、「自分で云うほど理屈が通ってないじゃないかよ!」と感じることも多々あるでしょうが、その辺は大目に見てやっておくんなまし。

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2008年6月15日日曜日

リシャール・デュルヌのことを思い出した

 6年前のことになりますが、パリ西部郊外のオー・ド・セーヌ県の町ナンテールで、33歳のリシャール・デュルヌという男が、市議会の閉会直後に立ち上がり、ベストの下に隠していた銃をとりだして、共産党の議員を中心とする8人の議員を殺し、19人にけがを負わせたという事件がありました。とりおさえられるとすぐに彼は「殺してくれ!」と叫びました。翌日彼は取り調べ中に警察署の窓から飛び降りて自殺しました。彼からの遺書のような手紙が、前の恋人のところに、殺戮の当日に届いていました。この手紙のなかでデュルヌは「僕は自分の意志だけによって生ける屍になっていたのだから、ずっと憎悪していたこの町のシンボル、リーダー、決定権をもつものである地域のエリートの一群を殺すことによってそれにけりをつけることに決めた」と云っています。”自殺するか殺されるかする前に、市長を殺し、それからできるだけ多くのひとを殺したい。僕は狂乱してひとを殺すシリアルキラーになるのだ。なぜか。なぜなら欲求不満の僕はひとりでは死にたくないし、僕の人生は糞のようなものだから、一度だけでも自分には力があり自由であると感じたいのだ。” このようなことを彼は書いていました。
 デュルヌは政治経済の修士号と歴史の学士号をもっていました。まずは社会党員で、それから緑の党員になり、人権運動家でもありました。親の祖国の旧ユーゴスラヴィアのための人道活動にも参加していました。市議会の傍聴の常連でもありました。それでも、親元で暮らす彼は本当の意味では一度も働いたことがありませんでした。
 これはフランス語版のウィキペディアからの情報ですが、確か彼は「このままではホームレスになってしまう」という不安も語っていたはずです。
 秋葉原の事件と似ているような感じもするのですが、いくつか重要なちがいがあります。
 まずリシャール・デュルヌは学位をもっていたし、政治活動、人道活動などをして、社会のなかにひとつの場所を占めるためにそれなりの努力はしていたということでしょう。さらに犠牲者の選択もちがいます。「この嫌いな町のシンボルとしての地域のエリートを殺す」と彼は云っています。対象を選んでいない秋葉原の事件とはちがいます。「ひとりでは死にたくないから、一度だけでも自分には力があり自由だと感じたい。」 ここにも明確な意味があります。
 それでも、日本で欲求不満を抱いているようなひとは、加藤くんみたいな意味のない行いの方に何となく共感のようなものを感じてしまうのではないでしょうか。そんな気がします。「俺は仕事もない底辺の人間だから、地域のエリートを殺す」なんて高邁すぎて煙たいんじゃないか。加藤くんに対して「ひとを巻き込むな」ということばは聞こえてくるけど、加藤くん自身はおそらくリシャール・デュルヌのように積極的に「巻き込んでやる!」ということは云わなかっただろう。
 去年日本に帰ってきて、驚いたというのでもないけど、「これが日本だなあ」と思ったのが、あのパフュームとかいうのの「ポリリズム」というののエコのCM。画面はエコロジーのイメージなんだろうけど、歌詞が「繰り返すこのポリリズム」って何も云ってないじゃないって。この画面で歌詞がエコロジーと何の関係もないというのはなかなかフランス人には理解ができないと思います。
 前にも書いた気がするが、フランスでひとのうちで日本のアニメを見ていたときに云われたことで印象に残っているのが、次のようなこと。「日本のアニメはいいんだけど、最初と最後に変なださださな歌がついているのはどういうものかと思う。音楽はひどいけど、わざわざこういうものがくっついているからには、きっと歌詞は物語を理解するのに大切なことを云っているんだよね?」 そこで私は「いやあ、『愛してる』とか何とかそんなばかなことしか云ってないよ」と答えると、非常に意外そうで、「だったらどうして話と何の関係もない歌がついてるの?」とさらに聞かれました。私は「日本人は無意味が好きなんだよ」というようなことを考えてお茶を濁しました。
 もしかしたらシュルレアリスムの影響で、フランス人はわけがわからないのが好きというまさに現実と正反対のまちがったイメージをもっているひともいるのかもしれないが、フランス人は意味が詰まっていないとだめです。「意味がないと不安」だと思うんですね。私もそうなので、フランスに行って初めて「ああ、人間とことばが通じるものなんだ」と思いました。そんなの母国語がどうのなんてまったく関係ありませんよ。日本人と話すのはむずかしいが(絶対に云ってることを聞かないし、云ってないことを聞いちゃうから)、フランス人とは問題なくちゃんとコミュニケイションができる。ちなみに「意味が詰まっている」というのが中野重治のいうところの「素撲ということ」です。フランス人は素撲なんです。
 加藤くんは、本人が無意味のなかに溺れていて、自覚はなかったと思うのだけれども、このひとが云う「人間、顔がすべてだ」ということばのもっている意味はなかなか面白いと思います。つまり今の日本には言語による意味の詰まったコミュニケイションがあまり存在していないということを彼は感知していたということでしょう。言語のなかにあるはずの意味をそこに見出さなくても、多くのひとがまったく不安を感じない。ウィトゲンシュタインが苦労に苦労を重ねてたどりついた言語観に、日本人は最初から到達してしまっている。最初から、というか、対話者に対して働きかける言語の機能だけが残って、本来ならばそのことばのなかにあるはずの意味、あってほしい意味の方を忘れてしまっている。
 「だれかにとめてほしかった」ということばもこのような意味において理解するべきなのだと思います。つまり加藤くんは、おそらくまったく自覚はしていなかったけれども、日本では言語が意味をもったものとして機能しないという事実にうちひしがれていた(「そんな高尚なもんじゃねえよ」と云わないで、まあ半分に受け取っておいて)。”僕が「殺す」ということばは本当に「殺す」という意味なんだ。僕はひととはちがって顔でしかひとを判断しない人間ではないから、人間のコミュニケイションの道具であることばの意味がそこにあると信じていたいのだ。だから、この「殺す」ということばは「殺す」という意味なのだ。それが理解してもらえなかったら、本当に殺してしまうかもしれない。” しかし彼は最初に「殺す」ということを書いたときに、自分ではそこに本当の意味をこめていなかったからこそ、「この『殺す』ということばのなかにだれも意味を認めてくれない」ということがわかった途端に、自分自身で自分の論理の瑕疵の犠牲になってしまったのではないか。この「殺す」ということばには本当に意味があったということを後から証明するために、「僕はうそつきではない」と云うために、自分でも実行したくなかったことを実行せざるをえなかったのではないか。リシャール・デュルヌの方は、殺人によって何とか自分自身の無意味な人生を意味あるものにしようとしたのだけれども、加藤くんの方は、名無しの「日本の無意味」に立ち向かってミイラとりがミイラになっちゃったのかな。
 (今、パリで出ている日本語新聞のOVNIというのの当時のナンテールの事件の記事を見てみたら、「33歳にして母親と暮らす無職のデュルヌは、重なる挫折と恋人もいない孤独に苛まれていく」と何だか「和」な感じの記事になっているんだけど、どうしてかしら。いくつか見たけど、フランス語の記事には別に「恋人もいない孤独」なんて書いてないんだよな。日本のこの手の言説はどうしてここまで性的なもの(しかもアプリオリにヘテロ)にとりつかれているのか、というのが不思議なんだけど。)

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私も変なカタカナ表記を考えてみる

 朝日新聞のようにフランス語の DOU をカタカナで「ドュ」とか書くのは、まず読めないし、(もし「ドュ」が拗音だとしたら)まったく拗音になるような要素がないし、しかも「おいおい、俺、日本人が今まで決して聞いたことがなかったフランス語の音を発見してしまったよ!」という素直な喜びが何ともこっぱずかしい。意味も根拠もありやしない。(DU を「ドュ」と書くのならまだわかる。「デュ」でいいものを何を奇をてらっているんだとは思うが。)
 フランス語の CA とか GA を「キャ」「ギャ」と書くのには、賛同はしないが、理由はないでもないと思います。日本語のカ行やガ行よりも、調音点が前の方にあるからです。英語のカタカナ表記の「キャット」や「ギャップ」と似たようなものだと考えられるでしょう。ひとむかし前のスケイト選手の Candeloro のことを「キャンデロロ」と書くのは、いかにもどこから聞いてきた浅薄な知識をカタカナ表記に適用したお笑いだが、サッカーの「ギャラス」程度は(俺はガラスでいいと思うけど)別にいいんじゃないの。
 (キャンデロロがお笑いであるのは、CA が「キャ」に「聞こえる」のは A が口むろ母音のときなのに、この場合はあの有名な「日本人の耳にはオンと聞こえます!」の「ア」の鼻母音なので、どんなことをしたって「キャンデロロ」には聞こえないからだ。せいぜい「コンデロロ」だ。こっちもお笑いだけど。「カンデロロ」でまったく十分だ。しばしばローマ字読み風のカタカナでそのままよかったりするところをひとはいろいろいじくりまわしているわけだ。もっとも「キャンデロロは英語風に読んでみたのです」ということなのだとしたら、どうしてフランス人の名前を英語風に読むのか意味はわかんないが、まあいいのかも。)
 それでも、フランス語のカタカナ表記のなかでどうしても気持ち悪くてしょうがないのがあるのです。それは EU (あるいは OEU)というつづりに相当する発音です。発音のしかたは「オ」の口の形をして「エ」を発音するという風に説明されます。発音記号では、[ø] とか [œ] という風に書かれます。このふたつのちがいは、口の開き方の狭さと広さのちがいですが、あまり気にする必要はありません。これがカタカナでは「ウ」で転写されます。これが気持ち悪いんですね。この方式によると、peur(「恐怖」)は「プール」、sœur(「妹」)は「スール」、cœur(「心」)は「クール」になります。どうです、気持ち悪いでしょう(そうでもない?)。私なんかは鳥肌が立つくらい気持ち悪いと思います。
 他方で、pour(「…のために」)、sourd(「つんぼ」)、cours(「流れ」)もやはりカタカナでは同じ風に書かれますが、こちらの OU は前にも云った日本人にはとてもむずかしい発音で、「ウ」と書かれるけれども、「オ」と聞きちがえることがあります。こちらを「ウ」と書くことには文句がありません。でも peur が「プール」というのはどうにも許しがたい。そこで僭越ながら新しいカタカナ表記を考えてみたいと思います。
 これは音声学的には「オ」と「エ」の中間であるとされます。それでは peur を「ポェル」と書いてみたらどうでしょうか。ふうむ、やっぱり気持ち悪いですね。「エ」と「オ」を逆にしてみると、「ペォル」。やはり変です。それでは「プール」の「プ」をいただいて、「プェル」と書いたらどうか。「スェル」「クェル」。ううん、どうもピンときません。
 特に、県名の Eure を考えてみるとこの「ウ」プラス小さい「エ」というやり方はだめだということがわかります。今までの書き方だと「ウール県」になっていたものが「ウェル県」になってしまうからです。これでは「オ」と「エ」の中間の音だとは絶対に思われず、WE の音だと考えられてしまいます。
 と、ここまで「この母音は『オ』と『エ』の中間である」という音声中心主義によって考えてきたのですが、ここで発想を転換してみましょう。EU と書いてあるんだから、カタカナでも「エウ」と書けばいいのではないのか。すると「ペゥル」「セゥル」「ケゥル」になります。Eure 県は「エゥル県」です。何だかこれがいちばんしっくりくる気がします。
 あるいはこれ、「ギョエテ」の G の後の母音と実質上同じ発音なので、「ピョエル」とか「キョエル」と書いてもいいかもしれません。「スョエル」とか。冗談ですけどね。万葉仮名には「オ」と「エ」の間の母音があったようだから、万葉仮名に戻ろう!と云って向こう側の世界に旅立ってしまったひともあとをたたないと聞きます(うそ)。
 「長い時間をかけてはぐくんできたカタカナ表記の方法を尊重していればいいではないか。なぜ変なカタカナを発明するんだ」とだけ云うとしたら、まるで私は新しいものを否定する保守主義者であるかのようにみえてしまうでしょう。でもそうではないのです。要するに、新しいカタカナ表記を考えるひとは、深く考えて袋小路に入り込むことをしていない、思いつき程度のことをまったく頭のなかで反芻することなく(そうするだけの胃袋がないのならしょうがないのか)印刷させメディアで云わせている、ということが云いたかったのであります。本当にいいアイディアがあれば、どんどん表記にとりいれてゆくべきだと思います。しかしそういうものに出会うことは残念ながらほとんどない。「シュルレアリスム」を「スュルレアリスム」と書くのはかなりいいアイディアだが、やはりなじまない。私が考えてみたもののなかでも、「ペゥル」は悪くないと自分では思うんだが、やっぱりこれを見せられても読めませんね。ふむ。
 当然 cœur を「ケゥル」と書くような書き方は既にされているだろうと思って検索してみたら、ありました。フランス語の歌詞にカタカナをふっているんだけど、だめだめ。というかむちゃくちゃ。雰囲気だけでかなを振っているところにめくじらをたてるのもどういうものかとは思うが、わざわざ「ケゥル」とかいう書き方をするのなら、ある程度の表記の統一性があってもいいんじゃないのかなあ。

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2008年6月14日土曜日

フランス滞在という魔法

 まあ、別に池田っていうひとが書いている文章だから。(ばかくさいからリンクははりません。)
 舛添くんについて「彼はフランスに滞在して、欧州の労働事情も知っているはずだ」とおっしゃっておられます。認識がものすごいですよねえ。
 だいたい舛添くんがフランスに滞在したのっていつなのよ、と思ってウィキペディアを見たら1970年代のことなのだそうです。たとえば1970年代に日本に滞在したフランス人が、「お前、日本にいたんだから、日本の労働事情はわかるだろう」と云われたとしても困るだろう。その間にバブルがやってきて通り過ぎちゃってるもんなあ。その辺のおっちゃんが云うことじゃないの、これは。舛添くんは情報網をもった政治家で、フランスに詳しいから、と云うのならわかるが、「フランスに滞在したから」と云うのはあまりに舌足らずじゃないか。それに「フランスのことがわかれば欧州の労働事情がわかる」と本気に信じているのだとしたら、ものすごい問題です。フランス=欧州かよって。特に労働や雇用に関しては、完全に内政の問題なのだから、ヨーロッパの各国がそれぞれちがう問題を抱えているなんて云わなくてもわかるでしょうが。
 それに滞在なんてことを云ったら、30年もパリに住んでて、時間がアラン・ドロンで止まってる日本人のおばちゃんなんてごろごろしてるわけよ。フランスにいたってフランスのこと何も知らないよ、このひとたち。本人は知ってるつもりかもしれないけどさ。しかも日本のこともよく知らないし。こういうひとたちがフランス人に対して植えつける日本に関するまちがったイメージがものすごいんだな。この前ネット上で知り合ったフランス人に俺が今安定した仕事を探しているということを云ったら、「親の履歴書が必要なのか」と聞いてくる。何だよ、その親の履歴書ってのは?と聞き返したら、俺より若い30代の日本人女性でフランス人と結婚しているひとが、「日本ではいい会社に就職するには、親の履歴書が必要だ」とのたまっているのだそうだ。どういう世界観してるんだろ。日本って民主主義の国じゃないの? 何だか、どうやらものすごいお嬢さんらしいけど、だからってねえ。お嬢さんは民主主義というものについて知識がないのか。お嬢さんはばかなのか、それじゃあ。(もしかしたらこれが「一理ある」ような社会が日本には存在するのかもしれないが、日本にあこがれているフランス人の青年に日本の社会の特質として云うことではありませんわな。) まあ、もともと日本人と仲良くしたがるフランス人にはばかブルジョワがかなり多いから(事実、こういうことを俺に聞いてきたひとはそんなばかなことを信じているわけだから)、それで釣り合いがとれてるのかもしれない。それが最近変わってきているのが漫画のおかげだとしたら(だとしたら、ね)、漫画さまさまですよ。
 きのう紹介した中野重治の文章のなかにはこういう一節があります。
 (おかしなことが)諸国ののど自慢、民謡コンクールといったものにもずいぶん出てきます。松前追分、江差追分、どこやらの長持唄、どこやらの牛追い唄といったのが出てきますが、それが元のものでなくなってしまっています。(…) 見ていますと、その人たちのなり恰好からして変っている。男までが、右半分と左半分と模様のちがった着物なんかを着て舞台に出てきます。あんなところから追分が生まれたはずはない。けれども、木曾節もどこかの馬子唄もこんな服装で、都会地での商売の世界の模写として、都市から山奥へ逆輸入されたものが標準型としてコンクールにあらわれます。統一的ないい日本語、昔からつづいてきて新しい時代に適応しようという日本語と、不当に滅ぼされつつあるいわゆる方言との関係がここにほんとに情けない姿で出ていると私は思います。
 日本の国内ですらこの通り、「うちではこうだよ」ということばがコンプレックス、あこがれ、商売っ気、あるいはスタンダードに対する媚などによってデフォルメされて醜悪なものになってゆくのです。日本とフランスの間での相互理解をむずかしくしているのは、フランスに一定期間の間滞在したからと云って、あるいは自分が生粋のフランス人だからと云って、自分でもそれに気づかずに、しばしば対話者に対する媚によって、デフォルメされた話を伝える人間です。フランス人とコミュニケイションする日本人の側では、問題なのはこの都会のひとがもつイメージに媚びる田舎のひとのような態度です。もし個々のコミュニケイションの事例を数えあげてゆくことができるとしたら、別にこういうものが特に多いということにはならないのだろうけれども、聞き手の側がうべなっていればすむ情報は、わかりやすいから伝播力が強いのです。
 舛添くんに関しては、いちいち「フランスでは…」とか云わない分まだましだと、私は思っております。池田っていうひとのおかげで、これは長所なんじゃないかという気がしてきます。単純に舛添くんは「この問題に関して考えるときに、フランスの労働事情のことは思ってもみなかった」だけの話なんだろうけど。そもそもフランスのことを考える筋合いも文脈もありません。それにこのブログの出だしだけど、「厚労省が最低の役所であることは国民の広く認めるところ」(そうなんだ)ということから、その長である大臣も最低だということが論理的に引き出される、ということを云っているのかしら。私は舛添くんの弁護をするつもりはまったくないんですが。
 と考えると、要するにこの池田というひとの「舛添くんはフランスに滞在したのに…」ということばは(舛添くん本人に対する?)自分自身のコンプレックスから出ているということになるのでしょう。でも残念ながら、フランスに滞在したからといってフランスのことがよくわかるようになるような魔法は存在しないのです。日本にずっと住んでいても今の日本のことがよくわからないのが普通なのですから。「後期高齢者制度は内容ばかりでなくその社会的な影響もよくわからない」と日本人が今考えているのに、70年代にフランスに滞在していた日本人が、その滞在だけを理由として、今のフランスの労働事情のことがわかったら驚きです。たとえわかったとしても、もしフランスの労働事情がヨーロッパの労働事情だったとしたらますます驚きです。
 日本の政府が「欧米並み、欧米並み」と呪文を唱えるのが醜悪なのは(むかしほどそんなことは云わなくなったな)、「欧米並み」(だいたい欧米のどことどこの国がきわめて似たような政治政策を実行しているのかをはっきりさせてもらいたい)の政治政策を日本でしても、日本で同じ結果が出るわけがないのは当然のことだからです。労働政策に関してもそれはまったく同じことでょう。「フランスの失業問題」の話をするのはいいけれど、それを日本と並行したものとして語り出そうとするやいなや、そこから教訓を引き出そうとすると、いろいろピーチクパーチクデフォルメされたことばが湧いて出てくるのです。
 フランスのことを云うならば、ここ数年の「労働事情」において問題なのは、「雇用規制を強めるほど失業率が上がる」ことではなく、数字から考えると論理的に雇用が創出されるはずの「週35時間制」を社会党政府がつくって徹底させたのに、期待に反してまったく雇用が創出されなかったということなのです。サルコジが大統領になったらこれを廃止するのではないかと考えられていたのに、残業時間を算出する基準としても35時間制をつづけることをついこの前サルコジは宣言しました。フランスの労働事情を知っているのは当然だ、という口調のこの記事にその話が出てきません。せいぜいこの35時間制の発想の話をしてもいいんじゃないか。このブログは滅多に読まないから、たぶん前にその話はしたことがあるんだろうけど、それでもこの記事だけを読むと、「フランスの失業問題の原因は雇用規制を強めることにある」と読めます。私はこの池田っていうひとは本当に無知なのかそれとも意識的にだまくらかそうとしているのかどっちなのかよくわからないんですけど。

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2008年6月13日金曜日

国語と方言

 中野重治の「国語と方言」(昭和43年)という文章のお話をします。
 「かわいらしい娘さん」が、テレビのクイズ番組で、「どの方面におつとめですか」と聞かれて、「金融関係です」と答えるのを聞いて、中野重治は違和感を感じます。「銀行の受付にいます」と云えばいいものを、そう云わないのは、邪推をすれば、自分の職業に対して誇りを失っているからなのか、という風に彼は考えます。「こういう言い方が、標準語をよそおっていろんな場面で跳梁しています」と中野重治は云います。
 私は決して方言主義者ではありません。それははじめに言いました。また保守主義者でもありません。自分ではその反対だと考えています。私は、統一的な日本語がますます伸びて行くのを待ち望んでいます。力づよい日本語、美しい日本語、明瞭、明晰な、意味のあいまいでない日本語、みずみずしく豊かな日本語、それを私は求めている。しかし今おこなわれているいろんなやり方を見ていると、わざわざ醜い日本語、かさかさにひからびた日本語、ひょろついて力のない日本語、しかも意味のあいまいな日本語にわざわざ仕立てて行くような傾向が随所に見られると思います。これでは、日本語の詩、日本語の文学は衰弱して行くほかはない。詩が滅びたところでそれが何だという人がいるかも知れませんが、私はそう思いません。詩とか文学というものは人間そのものの表現なのですから、これの滅びるのは人間そのものの滅びる道につながります。「私は金融関係で働いています。」 ― ああいうことばで、「私は運輸関係で働いています。」(註 中野重治によるとトラックの運転手が用いる表現)という青年に結婚申し込みの手紙が行くのかと思うとぞっとします。そんなところに人間の愛情が成り立つのだろうか。そしてそれが新しい標準語なのだろうか。私はこうなるのを防ぐにはほんとに今のうちだと思います。あと五十年このままで進んでからでは遅すぎるでしょう。今すぐここで、いわゆる方言 ― やたらに「方言」としてレッテルを貼られて不当に排斥されている正統な日本語を顧る必要がある。滅ぼされてしまってからでは手のつけようがありません。赤ん坊が息を引きとってから薬を買ってきても間に合いません。
 変な云い方にはなりますが、まるで自分で書いた文章のような気がします(美しい日本語なんてどうでもいいけど)。私はフランスの地方都市で長い時間を過ごしたので、いかに日本の地方政策がなっていないかを思い知りました。でもかんちがいしないでください。フランスは西欧の国のなかでもっとも醜悪な中央集権主義の進んだ国なのです。そのような国においてすら、まだ地方に対する愛がある。地方が生き生きとしている。
 私にはいわゆる郷土愛なんてものはまったくありません。ひとかけらだってありません。ただむかしフリクションのレックが云った、「まわりが面白くないと思ったら自分で面白くすることだ」ということばを信じているから、今自分がいる青森のことをもちあげてみているだけです。そうすることによって何かにたどりつくかもしれないではないですか。
 これもまた想像なのだけれども、加藤くんというひとはきっといやみなほどに自分の訛りを消していたのではないかと思います。青森の外に出ると、私が自分でそうですから。みなさんこの事件に関してコンプレックス、コンプレックスと云うけれど、地方出身のひとのコンプレックスを云わない。(また嘘つきジャーナリストの愚劣な自主規制かな。) ナイフを買いに行ったときに、わざわざ青森の出身であると店員さんに云うということは、誇りなのかもしれないし、妙な屈折なのかもしれない。まあ、誇りもコンプレックスも似たようなものです。私は出自なんてどうでもいいと云っているのであり、それなのに出自にこだわりつづける日本人は絶望的だということを云っている。コンプレックスは必要ないし、誇りも必要ない。地方の経済的、文化的貧困をただせばそれでいいのです。文化的貧困ということばに抵抗を感じるひともいるかもしれませんが、もっているだけの誇りは貧困と同じものです。それを具体的に活用して何かを生み出していかないのなら意味がありません。(いや、みんな頑張っているのだと思いますよ。でもほどよいところでとどめているのではないでしょうか。もうちょっと頑張ろうよね。)
 まるで地方の特性がないかのようなのっぺりとした日本という嘘をただすことが必要なのではないでしょうか。そのためには地方人のコンプレックスを生産する道具である標準語の暴虐と闘うことも必要でしょう。
 極端な方言、極端な訛りが笑われるというのならわかるけれども、正真正銘の標準語で働いていてそれが笑われる。何となく蔑まれたりする。何のために軽蔑されるのか、何のせいでからかわれるのか、本人に理解することができない。こういう場合の、年のごく若い少年のノイローゼ気味ほど辛いものはないと思います。どこに訴えようもない。まったく残忍なものといわなければなりません。ですから、つい近年になっても、東京でそのために自殺した少年なんかがいます。
 中野重治は地方における標準語教育が実を結んでいることを喜んでいます。私もまったく同感です。それでも標準語と同時に方言も義務教育で教えることを義務づけることが、このような悲劇の再発を防ぐための方策であると彼は信じています。東京でも方言を通して統一日本語を教えていくようにすればいいと云うのです。子供のころからこういうことを教えれば、上のような地方出身者を苦しめる東京人のいわれのない優越感もなくなるかもしれません。
 これはもう40年前の提言です。「そもそも日本では日本語を教える時間が学校で非常に少ない。進歩した大国とか何とか言ってはいますが、他の普通の国に比べて国語教育の時間はずっとずっと少なくなっています」と中野重治は云っているのですが、悲しいことに何も変わっていません。日本語教育を充実させるどころか、中野重治の云うところの「わざわざ醜い日本語」をみなさま嬉々として仕立て上げているではありませんか。
 この国がいかに教育をないがしろにするかはまったくもって理解の埒外です。少子化という好機を活用しようとすらせず、経費を削減するために再び40人学級に戻すという信じられない愚挙を犯すところすらあるのです。まさに狂気の沙汰です。もう「何もしない」日本人の美徳を守りつづけるのはやめましょうよ。何かをするというのはそれほどにむずかしいことなのでしょうか。必要なのは経費削減ではなく、今こそ投資をして何かを生み出してゆくことでしょう。(マルセル・デュシャンが云ったように、同じことを繰り返さないこと、新しいものを生み出すことが、人間の本質です。私が「何もしない」と云っているのは、新しいものを生み出すことを何もしないということを云っているのです。何もしないで過労死するという悲劇も存在するのです。)

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読んでいてよかったと思うもの

 聖書。最初から聖書なんてうんざりしますね。「西欧文明を理解するためには読んでおかなければならない必須の教養」なんて云われるとさらにうんざりします。何の義理があって西欧文明を理解しなくちゃならないんだよ、と西側諸国の一員たる我々は思ってしまいますね。キップリングが「東は東、西は西。両者決して出会うまじ」と云っただろうがよ、と思います。それでもどうして聖書が西欧文明を理解するために必要なのでしょう。聖書はパレスチナ文学じゃないのよ。(若いひとのために云っておきますが、「聖書はパレスチナ文学だ」というのは何の政治的な意図もない正確な記述です。「李白や杜甫はシナ語で詩を書いた」といっしょです。)
 パレスチナ文学でもどこの文学でもいいのですが、やはり聖書は一級の文学作品であると云わなければならないでしょう。特に読者を置き去りにした何のサーヴィス精神もないごりごりした記述にはほれぼれとします。「レヴィ記」あたりがこういう文学性の真骨頂でしょう。「私にはかかわりのないことでござんす」というようなことが拷問のように延々と書き連ねられているのです。これを読むことが、稀有の文学体験です。
 私は特に「トビト記」が好きです。聖書のなかでは珍しく、「トビト記」には悪い意味をもった比喩としてではなく、犬が出てくることで有名です。そこで西欧の犬好きの画家は、トビトの絵を描くときに必ず忘れずに犬を描きました。だからどうした、という気がするでしょう。でも私は、「文学とは何ぞや」という問いに対して、「それはトビト記の犬である」と答えます。(モデルはシュルレアリスムのゲイムです。)

 サド侯爵。特に『新しきジュスティーヌ、美徳が呼び寄せる不幸の数々、およびその姉ジュリエットの話』。この小説を読んでいて私は何度か精神的危機のようなものを感じました。このままこんな本を読んでいていいのだろうか、という問いを越えて、「これをつづけて読んだら呪われるんじゃないか」と思ってまったくつづきを読めなくなってしまったことが少なくとも二度はありました。このような経験をさせてくれる書物はなかなかありません。うんこのことを想像しただけで吐き気がしてしまうほどに感受性が豊かな私にはまったく堪えられないほどにうんこがたくさん出てきます。たとえなんだかたとえじゃないんだか我ながらよくわかりません。ピエール・ギヨタの『エデン、エデン、エデン』を読むことも感受性に対する挑戦としてはなかなかものすごいものがあるが、それでも『新しきジュスティーヌとジュリエット』とはまったく比べものになりません。サド侯爵は、聖書と同様、読書というものの意味を本質から変えてしまいます。フランス語をマスターしてから原語で読みましょう。私は聖書もフランス語訳で読みました。

 宮沢賢治。このひとについてみんな「雨ニモ負ケズ」というのは、あいもかわらずただ俊太郎くんの御父君の意見を踏襲しているにしか過ぎません。確か中村稔(まちがってたらごめん)の「雨ニモ負ケズ」論は、この詩のことを宮沢賢治の詩のなかではつまらないものと断じたもので、私はまったく同意します。しかしこの詩論を書いてから長い時間を置いて書いた「ふたたび『雨ニモ負ケズ』について」のなかでは、この詩は宮沢賢治の詩のなかで特に悪いものではない、と意見を変えたということに、私は感銘を受けました。大勢に合わせて意見を変えたからといって感銘を受けるわけもありません。「雨ニモ負ケズ」よりもこの文章の方がよかっただけの話です。15年ばかり前の現代詩手帖に載っていました。探せば出てくるんだが、面倒くさい。俊太郎くんは『世間知らず』はいい。確か「ふたたび『雨ニモ負けず』について」が載っているのは『世間知らず』特集号だったと思います。

 島尾敏雄の特攻隊連作。武田泰淳の『富士』。梅崎春夫の『幻化』。
 島尾敏雄は『死の棘』が最高傑作ということに異論はないが、先に「出孤島記」「出発は遂に訪れず」などを読んでおかないと、三浦雅士いうところの『死の棘』のユーモア小説としての性格を見落とすことになるでしょう。私は『死の棘』は反ロマン主義の小説だと思うのだが、これをロマンチックに理解するひとが多いようです。非常に誤解を受けることが多いという意味で、私はこの小説は日本の『ボヴァリー夫人』だと思います。
 武田泰淳はなぜ最初に『ひかりごけ』の題名が出てくるのかがよくわかりません。好みとしては島尾敏雄だが、日本戦後最大の作家は?と聞かれたら私は武田泰淳の名前をあげるでしょう。どうしてこのひとの評価がそれほど盛り上がらないのかがよくわかりません。わけわからなすぎだからでしょうか。「『ゴジラ』の来る夜」とかのへたれ加減がこのひとの真骨頂かもしれません。「『愛』のかたち」の「登場人物」Qも謎めいています。『富士』も、目次を見ただけで、何だか笑います。読者の理解を越えたスケイルの大きさがたまりません。
 梅崎春夫についてまず『桜島』の名前をあげるのは、ユーモアを一段低く見るしかつめらしい文学観によるものでしょう。それでもこの小説のなかの将校に対する憎悪と島尾敏雄の将校としての経験を比較対照してみるのは面白いとは思います。『幻化』はきわめて感動的な小説ですが、梅崎春夫は、いったい何を書いているのかわからないものを見せられて「一筆書きです」と云われているかのような妙なユーモア小説がいいと思います。

 坂口安吾。中野重治。深沢七郎。この三人の名前を並べることのなかには、「あまり深入りしなかったがひっかかっている」という個人的な理由しかありません。どうして中野重治?と思うかもしれないが、ただ「歌」と「素撲ということ」という文章のせいです。とはいえ、『むらぎも』のなかでいきなり「スターリンのスタイル」をたたえる一節の「何これ?」というような感じこそ、まさに私の考える文学であるとも云えるでしょう。前にも云ったが、深沢七郎は「秘儀」という短編が好き。安吾は「文学のふるさと」でしょうか。
 今『蟹工船』が流行っているという話を聞くと、「なにゆえに『蟹工船』?」と不思議なのだが、「部落といえば『破戒』」といっしょで、プロレタリア文学といえば他を知らないだけなのではないかと推測しています。ブログの副題に「馬鹿か利口かけじめのつかないようなブログ」とつけてみたのは、小熊秀雄の「中野重治へ」のもじりです。「釣銭のくるやうな/利口ぶりを見せないで/馬鹿か利口か、/けじめのつかないやうな/作品を書き給へ」 小熊秀雄は、むかし読んだときは「うへえ」と思いました。こういうのはいったいだれがいいと思うのだろうと感じたものです。でも今はこういう青臭さでも堪えられるかなという気が何となくします。歳とともに青臭くなるというのもいいかなあ、と思って。
 既にこういったブログの副題をつけているひともいるだろうと思って検索してみたら、案外だれもいなくて、その反対になぜか長淵剛がこれをパクっているという妙な事実を発見。なにゆえに長淵剛が小熊秀雄? でも右側かぶれのひとがプロレタリア詩をパクるというのはありそうな話かも。長淵ファンにかんちがいされたらいやだなあ、と思わないでもないんだが、「馬鹿か利口かけじめのつかない」って云ってんだから、そのままにする。

 尾崎翠の『第七官界彷徨』。今考えると弱いなあとは思うのだが。
 中島敦と梶井基次郎。これも弱い。もっと成熟したときにどういうものを書いていただろうか、と妄想する。「若死に好き」とは「成熟した姿を見ないですむ」ことをうれしいと感じる人々なのだろう。ボルヘスなんか崇拝するなら中島敦を読めば、と思う。まったくフランス人はどうしてこういうのを訳さないかね。最近『サラダ記念日』とか出てんだ、フランス語訳で。訳すのは楽だろうけどね。
 芥川は高校のときに全部読んだから、自分の基盤とは云える。でも弱い。太宰は芥川や中島敦と同じカテゴリーの作家だと思うが、長編はつまらないと思う。やっぱり弱い。娘だからといって比べるのも変だが、津島佑子の『火の河のほとりで』の方が太宰よりもずっと好き。

 マノン・レスコー。18世紀前半のフランスの経済と社会の背景を映したものとして非常に面白い。
 ディックは私の基本だが、一冊だけあげると『あなたを合成します』か。

 荒川洋治。伊藤比呂美。私は伊藤比呂美がコヨーテと云っているのはジョニ・ミッチェルなのだろうと勝手にひとり合点していたのだが、この前『コヨーテ・ソング』を読んだら、そうでもなかったようだ。
 フランス人で生きている作家なら、パスカル・キニャールとシャルル・ジュリエ。

 逆にいまだに「何これ?」と思っているのは、フランスならジャンジャック・ルソー。『新しきエロイーズ』以上に読みながら「否」と云いつづけた本はありません。しかし読了したら「これでいいのかな」と思ったから不思議なものです。何だかんだいって「読んでいてよかった」というカテゴリーのなかには入ります。
 「何でこんなこと書いたの?わからない」というのは私にとってはだいたい良い文学のしるしです。でもルソーのように悪い意味でわからないひとと云えば、日本では啄木です。えのきどいちろうが啄木を「お笑い」として読むことを提案したことがあったが、そういうのがそぐわしいような感じがします。「我等の一団と彼」とか非常に嫌な文章です。それでは「時代閉塞の現状」を読み直してみましょうか。
 あまり本を読まないフランス人と比べてみると、本好きの日本人はどうもたくさん読めばいいと思い込んでいる場合が多いようです。でも私はたくさんの本を読むよりも、一冊の本を時間をかけてゆっくり読んだ方がいいのだと思います。情報を得るなどつまらないことです。ペン先にどのようにことばが浮かんできたかを想像しながら、その文章を書いたひとのものを描くリズムにゆっくり身を任せた方がいいと思います。読書もまた人間への接近の試みだと思います。

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2008年6月12日木曜日

孤独は日本の国策か

1.サド侯爵が「不幸の学校」と呼んだものは、政治権力と結びついた宗教権力が「不幸ながらも清く正しく生きるもの」の美しい物語を民衆に教え込むことによって、貧しいものが強者によって奪われた財産を自ら奪いかえして豊かになろうと望むことがないようにするためにつくりだしたものです。

2.たとえば左翼や左派の闘争が内部抗争によって壊滅していったのは、大方においては自壊だったのでしょうが、それでも運動を分断するために権力が破壊分子を内部に送り込んだといういささかパラノイアックな物語に思いをなすこともできます。私は今でも社会党の哀れな自壊は、党内部に送り込まれた自民党の分子によって惹き起こされたものだと信じています。

3.そのようなパラノイアックな物語に頼らずとも、世の常として政治経済の権力は弱者が団結することを望まないということは云えるのだと思います。今現在の日本において、政治経済の権力は、まったく雇用を創出しようとも、国民の消費購買能力を増大させようともしていません。この点においてフランスは少なくとも号令をかけているだけましだと云えるのかもしれません。

4.政治経済の権力にはまったく雇用を創出する気がないからといって、それは彼らが雇用に関する既得権を手放したという意味ではありません。創出はしないけれども、コントロールは手にしたままなのです。

5.赤木智弘のような醜悪な人間のことが語られるのはなぜか。

6.直訴的発想から脱出することが必要なのです。上を見なければいいのです。彼らにはまったく雇用を創出するつもりはありません。おかみに訴えたってだめです。横つながりのネットワークだけで十分に何かがつくりだしてゆけるだけの力が我々にはあるのです。ともかく権力はそこに決して目を向けさせようとしていないとだけは、パラノイアに陥ることなく、まちがいなく云えるでしょう。気づきさえすればいいことに気づかないように彼らは仕向けているのです。彼らは「私たちに頼らなければ、あなた方には何もできない」と思い込ませています。他の手段はないと思いこませているのです。

7.国民が絶望しようが暴力化しようが、彼らにとってはまったく何ともないことなのです。

8.徹くんなんか見ていてもわかりますが、地方においてすら、今の日本の政治には、雇用を創出する、購買能力を増大させるどころか、投資をして長期的に育ててゆくことすらせず、ただ予算をカットすることしか思いつきません。問題があったら何かをやめること以外の発想がでてきません。

9.性的エネルギーを称揚するのが天皇制のイデオロギーであるということをどこかで読んだことがあります。加藤くんも天皇制の被害者なのかもしれません。彼のような人間に、彼の目には定められた道であるとみえるもの以外の可能性をみえなくさせている力は何か。他の可能性はいくらでもあるのです。

10.敬語をやめたらいいかもしれません。「あなたはどうされます?」とか「何々あそばす」という表現のなかに、敬意を受ける人間は自分からは何もしないという発想が見られます。やんごとなきかたは何もしないのです。だからおえらい日本人は大方において何もしません。何のことはない、何もしないというのが戦後の日本の経済発展の秘密でした。何もしないというのが現在の日本の衰退の理由です。何もしないのと、何かをするのとどちらを選ぶかといえば、何かをする方を選ぶのがいいでしょう。何かをする場をつくればいいのです。それは手はじめにインターネットの空間なのかもしれません。

11.現在の日本人の孤独は人民を無力化して支配しやすくするために政治経済権力が与えた条件です。

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2008年6月11日水曜日

加藤くんに関する雑感

 秋葉原の路上で殺傷事件を起こした加藤智大くんに関して、「こんな男にも『容疑者』とつけなければいけないのか」とほざいている自称ジャーナリストがいるのだそうである。こういう人間のことをどうしたらいいのだろうか。つけたくないのだったら「こんな男の名前に俺はわざわざ『容疑者』とつけない」と云えばいいじゃないか。「俺はこんな男に『容疑者』とつけないから、みんなも俺にならえ」と云いたいのなら、そう云えばいいじゃないか。おまえはおまえの責任とおまえの大切な表現の自由をもってものを書いて発表しているのだろう。だれかにそれを規制されているかのようなことをほのめかすんじゃないの! もしそれが規制されているのだとしたら、それはおまえらの自主規制で、おまえもジャーナリストならおまえ自身がその自主規定に加担している。俺は別に自主規制なるものがすべて悪いものだとは云わない。でもおまえも加担している自主規制であればおまえにはそれを勝手にやめる権利があるのだ。「容疑者」とつける慣習が自分の意志を越えた外部からの圧力によるものであるかのような云い方をするな。
 どうして「俺はこんな男に『容疑者』とつけないから、みんなそうしようぜ」と云わないのか、とこのひとに聞いてみると、きっと「人権団体から抗議が来るから」と答えるのだろう。では「抗議が来る」と云うのは「これらの団体に表現の自由を規制されている」ということなのか。そんなわけがないだろう。自分でよかれと思ってした表現に異議があるのならそのむね抗議をしてもらえばいいのである。しかし「みんなで加藤は呼び捨てにしようぜ!」ということをこのひとは云わない。なぜかと云えば、そんなことをしたら、「人権団体なる変なものに俺たちは表現の自由を規制されている」という自分の幻想が崩れるからである。人権団体が表現の自由を規制するわけなどあるはずがないのだが、こいつらはそう信じたいのだ。自分でそう信じたいものだから、それを既成事実にするために、卑劣にも大衆にそう信じさせるのだ。マスのことばを牛耳っているのは当然人権団体ではなくこいつらだ。こいつら、日本の自称ジャーナリストたちが、日本の民度の低さを率先して維持し再生産している。ジャーナリストとしてするべきことの正反対のことをしているのだ。(「意識すらない」というあまりに悲劇的なことは私は思いたくない。)
 私はと云えば、こういう立場にあるものには全員「容疑者」とつけるということにこの業界で決定したというのなら、そうしていればいいのだと思う。全員つけない形に戻すのならそうすればいい。特に加藤くんだけにつけないという理由は見当たらない。しかし「俺はこんなやつには『容疑者』とつけない」と信念をもって云えるのなら、そう主張し、それを実践すればいいじゃないか。まるで表現を規制する圧力があるかのようなことをほのめかす必要はないじゃないか。どうしてこんな人間がジャーナリストなんだ? いちばんジャーナリストになってはいけないような人間、人権団体を言論の敵としてけむたく思うような人間がジャーナリストになっているんじゃないか。本当にこういうのを攻撃しない人権団体のひとってひとがいいよなあ。(ジャーナリストの全員がこのひとと同じレベルだと云っているわけではない。ちゃんと志の高いジャーナリストも当然たくさんいるでしょう。でもこういうひとたちもまたひとがいいんでしょう。)

 私の父は自分の子供が全員青森高校に入って卒業したことにとても満足で、自分の孫を四代目として青高に入れるのが夢だった。青森ではこんなことを聞いたこともある。「あんな青高を出ていばっている男が、遺産目当てでもなかったら、中卒のばかな女と結婚するわけがないじゃないか。」 これを聞いたときに、「青高を出たらいばれるの?」と私はずいぶん不思議な思いをしたものだが、しかしそういう世界というのも青森市内にはあるのである。いや、むしろ「あった」のである。それがもう存在しないということが加藤くんの鬱屈につながっていると思う。たぶん加藤くんの父親も青高卒で、それを誇りに思っている人間なのではないかと推測する。そんな小さなことを誇りに思えるということに私は驚くのだが、自分の父がそういう人間だったので、まあ、悪くは云うまい。
 私が想像するに、加藤くんは厳しい教育のなかで、小さな悪いこともできないよい子として育ったのではないか。そうすると、まわりの人間が自分がしないような小さな悪いこと(に加藤くんにはみえること)をしつつ、かえってそのためにうまく世のなかでふるまうのを目にすることになる。しかしだからといってそんな小さな悪いことをしないということを自分で決めてしまう。よい子であることが自分のアイデンティティだからだ。それで自分がうだつが上がらないということがだんだんわかってくると、「でもここまでこれでちゃんとやってきたのだから」と思い、ますます小さな悪いこと(自分で悪いことだと思っていること)ができないということに対するブレーキが強くかかってしまう。
 サド侯爵の「ジュスティーヌ」は、宗教の教えを厳格に守って、何があろうと決して悪には手を染めようとしない女が、ただそのことのために、社会のなかでは、殺人犯、大盗賊、贋金づくりとみなされてしまうという物語だ。読者はその物語を読んでいるから、ジュスティーヌの不幸が理解できる。しかし忘れてはならないのは、この小説の世界では、世間の目からすると、ジュスティーヌはだれの目からしても唾棄すべきただの極悪人でしかないということだ。確かにジュスティーヌは融通が利かないのである。いかなるときにも小さな悪にすら手を染めようとしない融通の利かなさを前にして、親切に「ちょっと融通聞かせろよ」とすすめることばが、この手の人間には悪魔のささやきのようなものに聞こえてしまう。
 ジュスティーヌの場合は、信じられないくらいに強情に美徳を守りつづけて、最後にはまるで神に罰せられたかのように、雷に打たれて死んでしまう。決して報われることがなくとも信念を貫くジュスティーヌは非常に強いのである。加藤くんはそこまで強くなかったということなのだろう。小さな悪いことが決してできなかったからこそ、こういうことをしでかしてしまったのだろう。あくまで私の妄想でしかないけど。
 ジュスティーヌの殺人は、ジュスティーヌが犯したものではなく、他の極悪人に着せられた罪だ。加藤くんは実際にひとを殺してしまったが、ジュスティーヌとは逆にその不幸を描いた物語の方が存在していない。ヒステリーを起こさないでほしいのだが、殺人者を殺人にみちびくものは「不幸」である。何も感じずに機械的にひとを殺させるものも、絶望の底でひとを殺させるものも、その意味はちがっていてもやはり不幸である。加藤くんはとりわけ不幸だったろうからこのような罪を起こしたのもいたしかたないなんてことはまったく云っていない。私はまったくロマンチックな形で不幸を語っていないので、そこをかんちがいしないでほしいと思う。
 美徳を守りつづけることには信念と強さが必要だが、その強さをもちえないひとにも一般にそういう生き方がすすめられることがまちがっているというのがサド侯爵の小説から結論されることである。「いい加減にやることはできない」というまちがったことを教え込まされたのが、加藤くんの不幸だったのではないか。もう少しリラックスすることさえ知っていれば、それだけで悲劇は避けられたのではないか。

P.S. セクトが宗教の敵であるように、人権団体を名乗る団体で人権の敵であるものもあるのかもしれない。もしそういったものがあるのなら、それを告発するのがジャーナリズムのつとめだろう。もしそういったエセ人権団体によってジャーナリズムが左右されているのだとしたら、それはジャーナリズムによる人権思想に対する侮辱である。(こんなことを書くとばか右翼がかんちがいして喜ぶかな。まあいいよ、ばか右翼は、喜んでも、喜ばなくても、どっちでも。)

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不幸の学校

サド侯爵の傑作小説『アリーヌとヴァルクール』の脚註のひとつ。
 もしここで不幸の学校について考えるひとがいるとしたら、それは愚かものが考えるほどいいものではないと云わねばならない。不幸であればあるほど、乗組員はさらに残酷になると思うとクック船長はその報告のなかで伝えている。そんなときに彼らはまったく何の理由もなく殺人に手を染めたと彼は云う。不幸に圧しつぶされていると思われるとさらに、心は感受性を失い、気持ちは荒んでいったのだ。不幸が人間の心に及ぼす影響は、心をかたくなにするということである。こういうわけで下層の人民はよい教育を受けた人々よりも常に残酷なのだ。こう考えてみると、不幸は何の役にも立たないということを我々は疑ってはならないということになる。不幸は魂を傷つけ、感受性の火を消し、犯罪にみちびくことしかしないからだ。人間は幸福なときに、自分に近づくものすべてを幸福にしたいと思うのである。苦境に陥ったらどうなるだろうか。むら気、うらみ、悲しみが魂を腐らせ、かたくなにし、休みなくおぞましい行為へと導くのである。
 この「不幸の学校」、不幸なものは美しい魂をもち、けなげに明るく不幸を堪えつづけるという神話は、貧乏人が自らすすんで貧乏なままでいることを選ぶために、強者が発明して弱者に呑みこませた毒であると無神論者は考えます。この毒の名前は宗教であり、「宗教は民衆の阿片である」というマルクスのことばもこのように解釈されるべきだと思います。この「不幸の学校」の神話は美しいものであり、正直なところ私も大好きなものです(「小公女セーラ」とか)。それだけ甘美なものだからこそ、自分の心に逆らってこの美しい神話を否定しなければならないのです。
 「本来ならば私はこの逆境においても美しい魂をもちつづけるべきであるはずだ」と頭では考えながら、どんどん心が荒んでゆく自分を観察するのはどういう気持ちでしょうか。なかなか耐えられないものだと思います。ここにおいて心がぽきりと折れることもあるでしょう。
 「不幸の学校」の校旗を高々と掲げるひとにはことかくことがありません。あなたの身近な隣人に旗手は必ずいます。「お前はその不幸を美しい心で堪え忍べ」と言い、自殺が美しいものと考える日本においては「もし堪えられないならひとりで美しく散れ」というひともいます。
 しかし実際に必要なのは、不幸のなかに甘んじることではなく、積極的に闘って幸福を手に入れようとすることなのです。このとき不幸な弱者にとっては、幸福な強者との闘いが当然必要になります。「私はたしかに豊かでみんなにちやほやされるけど、実は心が満たされることがなく不幸なのです」と云うひとがいたら、そんなひとの云うことは信じないようにしましょう。こういうひとはひとをだまくらかすためにそういうことを云っているのです。
 マルクスの思想をヒューマニズムとして考えようとするとすぐさま壁にぶちあたることになります。なぜなら財産の均等な分配によって人間の幸福が保証されるわけがないからです。しかしこれは耐えられないほどの人民の貧困を目の前にした哲学者が、少なくともあらゆる人間の動物的欲求が満たされる状態を創出するような体系を考えだしたとしたという、むしろ非人間的で機械的な思想だと考えなければならないのでしょう。だからこそこれは空想的な社会主義に対して科学的社会主義と呼ばれるのです。
 私は別に社会主義者ではありません。政治的にはせいぜい中道左派で、無神論者なのにヨーロッパの政治潮流ではむしろキリスト教民主主義と立場が近いのです(日本だとよくわからん)。ひとには「そんな美しい魂など捨ててしまえ、成り上がりになれ」と言いつつ、自分ではあいもかわらず美しい魂をもって生きつづけるつもりなのです。困ったものです。困ったものではあるけれど、魂を腐らせることなく逆境に堪えてゆくことができるという自信をもっているひとには、そのまま生きてゆくことをすすめます。こんな私は、革命で社会を転覆することが必要だとは思わず、個人が幸福をかちとることの喜びの方を重視しますが、それでもそのための連帯は必要であるとは思います。
 サドの小説を読んでいると、堕落したフランスのアンシアンレジーム下の社会と現在の日本の社会はとてもよく似ていると思うのです。性根まで腐りきっている人間が美徳の表面だけをとりつくろって隆盛を誇り、教育されたとおりに美しい魂をもってちっともごまかすことなく社会の慣習や道徳を尊重して生きる人間が不幸に甘んじています。だからと云ってその社会のしくみをよく知っていたサド侯爵は勝利者の側には行けませんでした。むしろ歴史上最大の敗北者になってしまったのです。
 伝えられている数々の奇行、その監獄で過ごした人生にも関わらず、サド侯爵の小説を読んでいて胸を打つのは、表面をとりつくろってひとにとりいろうとは決してしないまっすぐな心、今までの作家は人間の悪い側面をありのままに書かなかったから、「すべてを書こう」という自分の企てに対して徹底して忠実であったということなのです。しかもまちがいなく彼はこういう企てがひとに理解されると信じていたのです。小説のなかで悪徳を罰するのではなく、悪徳がありのままの姿で描かれているのを読むと、むしろその記述にうんざりしたひとは美しい心の方に向かうという、よっぽどのユートピア主義者でもなければ考えないようなことを彼は心の底から信じていたのです。私はこの作家のことを理解します。
 いかにそれが美しいものであろうと、悪徳に対して闘うには弱すぎるものになってしまったら、美徳はありうるかぎり最低の選択であるということ、我々が生きているような完全に堕落した世紀においては、いちばん確実なのは他のみんなのようにすることだと、彼らは少し正しそうに見せかけて云うのではないだろうか。
 心がまっすぐでなければこんなことは書けません。しかもたぶんまっすぐすぎて曲がることができない自分に対して、サド侯爵自身うんざりしていたのでしょう。(心がまっすぐならひとと同じようにするべきだと信じるひとから見れば、このまっすぐさはひねくれいるようにみえるのでしょうけれども。)
 不幸のどん底にあってもよい教育を受けたものとしての感受性を捨てることを拒んだ(それとも捨てることができなかったのか)サド侯爵の読者である私は、美徳を捨ててみんなと同じようにすることなどまっぴらごめんだと思います。フランス語では「美徳」(vertu)の語源的な意味は「力」で、「悪徳」(vice)の方は「欠陥」です。自分の力を捨てて受け身で流れに身を任せることはしないということです。
 軍隊をもたないはずの自分の国の軍事費が世界五位であるというとんでもない事実よりも、中国の軍事費が世界三位になったことの方を強調して報道して無知な大衆に媚び、まるでそこに何の疑問も感じないような報道機関が平然として存在しているという反吐の出るような社会と闘わないでいられるわけがないでしょう。俺はいくらでも美徳のなかにとどまるという「最低の選択」をしてやるぜ。

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2008年6月10日火曜日

堀田貢得の云いたかったこと

さっきの記事のつづきです。
 差別表現問題に取り組んできた堀田貢得さんが「ブログの発展がいちばん恐い」と語ることの意味を今一度よく考えてみましょう。このひとはブロガーが「人権感覚」をもって、差別表現に注意することを望んでいます。自ら人権を語るものが「ブロガーたるもの、一般に差別主義者である」という、「電話をするとコレラにかかる」と信じたむかしのひとレベルの原始的な差別意識をもっていると考えることはできません。それなら堀田さんは何を云いたいのでしょうか。どうしてブロガーが怖いのでしょうか。してみるとこの方はこのようなことを言っていると考えるしかないでしょう。つまり「我々メディアや出版の世界で生きてきたわけでもないのに公的な空間に言説を発表するブロガーは我々の差別用語に関する規則を知る由もないから怖い」。この場合はこの「ブロガーが怖い」ということばは差別的なものにはなりません。しかし問題はあります。その問題はこの「怖さ」はまったく堀田さんが問題にしているつもりの人権の話にかかわらないということです。ただのつまらぬ縄張り意識でしかありません。
 この堀田さんの目からすると自明の前提のせい、ジャーナリストの常識のせいで、私は何となく藤村の『破戒』を引き合いに出す堀田さんが実はこの小説を読んでいないのではないかという奇妙な感覚をもったのではないでしょうか。私は堀田さんはまちがいなく『破戒』もその解説も読んだと思います。しかし残念なことに、読むという行為が何ものももたらさないということはかなり頻繁にあります。読んでいるつもりでも結局は知っていることを確認しかしていないというのはよくあることです。もし堀田さんの発想が自分たちの業界の「我々のルール」をアプリオリに基盤にしたものであるのなら、島崎藤村はジャーナリスト堀田さんの業界の「我々のルール」からするとアプリオリに近代日本文学を代表する大作家であり、たとえ差別用語が全ペイジに出てきても、『破戒』はアプリオリに差別用語の使用に関する模範だということになるのでしょう。これぞ私の理解するところの「ジャーナリスト感覚」というやつです(理解がまちがってる?へへへ)。というわけで堀田さんはこの小説をちゃんと読んだけれども、その読書体験からおそらくほぼ何も得ていない。そんな堀田さんの結論は「差別用語を使うなら藤村のような大作家になれ」ということです。それが「我々のルール」だということです。これはやはり生きているうちはむりだということです。差別用語に満ち満ちてはいても『破戒』はすぐれた小説だ、とこの文脈において主張することは、「差別用語を使うこと自体が悪いわけではないが…」と云って結局それは悪いことだと主張したいひとの巧妙なトリックだと考えられるでしょう。こう考えると、まさに自ら勝手に自己検閲をして被差別部落のひとの団体に非難された藤村がモデルであるということの意味がよくわかるような気がします。だからこその模範なのでしょう。確かに複雑な出版の経緯をもつ『破戒』はこういった非論理的な二枚舌(「差別用語を用いること自体が常に悪いというわけではないが、事実上悪い」)を可能にする唯一の小説なのでしょうから。藤村は糾弾を恐れて勝手に自己検閲するひとの模範なのです。一方では、自己検閲して改訂版を出してみたら被差別部落民の団体からそれは隠蔽だという批判を受けて初版を復活させたのだから、当然『破戒』の初版は差別用語を用いていても差別的ではないと保証されている例なのです。それがために堀田さんはその題名を引用しないわけにはいかないのでしょう。でもこれは単純に糾弾の経緯を見たら、『破戒』の初版は少なくとも用語を適切にした改訂版よりもよかったと云えるというだけの話であって、『破戒』の初版の人権意識が高いということをまったく意味しません。もし堀田さんが『破戒』から何らかの教訓を得たとしたら、差別用語を用いても何の問題もなくすぐれた文章を書くことができるということであるよりはむしろ、自己検閲もやりすぎはよくない、ということなのではないでしょうか。
 それでも私は少し批判を軽減します。なぜならこの記事において、堀田さんは「差別表現問題」に取り組んできたひととして紹介されているのであって、「差別問題」の専門家としては紹介されていないからです。私は「このひとの差別問題に対する認識はおかしいのではないか」と考えるのですが、このひとは業界のなかの「用語」の技術的な専門家らしいので、そういった批判は的外れなのかもしれません。いかにそうではないよと主張してことばをならべても、結局のところはジャーナリズムの世界でどのようにことばを用いるかという話以外のことはこのひとにとっては問題ではないのでしょう。このように考えてみると、堀田さんというひとのもっとも許しがたいところは、このひとの目からするとジャーナリズムに類似したものを無料で提供しているらしいブログの世界のことを放っておけないという狭い了見だということになります。結局はただそれだけのことなのだと思います。実に平凡なことです。

P.S. 「むかし『破戒』を読んだことが私が差別に関する問題意識をもつきっかけだった」というようなことばは何度か読んだことがあります。しかしこれは「思い出話」とするべきことであって、この本を今さら「良書」としてすすめるということはありえない話だと思います。どちらかといえば既に差別の問題について何らかの考えをもっているひとが参考として読む本でしょう。

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『破戒』で人権感覚が醸成できるのか

 「差別表現 ブロガーも問われる責任と人権感覚」というニュース記事があります。差別表現問題に取り組んできたジャーナリストの堀田貢得さんの『改訂版 実例・差別表現』という本が紹介されています。堀田さんは「ブログの発展がいちばん恐い」と危ぐ(危惧と漢字で書けばいいのに)しているそうです。私はといえばブロガーとしてときどきジャーナリストの人権感覚を問うているのですが、どうもこの記事を読んで首をひねってしまいました。(その疑問の源が堀田さん自身なのか IT media News の管理者なのかはわかりません。)
 漫画で「ホームレス」に対する差別表現があったケイスについての話です。
 問題を最小限にとどめるには、メールで指摘が来た場合でも、直接会って話すことが大切という。この週刊誌の場合は、メール対応の後、ホームレスを支援するNPOなどの連名で抗議文が届き、担当編集者、漫画家、編集長を交えて何度か協議。雑誌とWebサイトに謝罪文を出すことなどで決着したという。
 わからないのは「問題を最小限にとどめる」という表現です。何となくそのホームレスと呼ばれる人々に近づいてその主張を理解するというよりも、出版社側の自衛が問題になっているような表現ですね。「ブロガー個人が糾弾の対象になる可能性は、決してないとは言えない」ともあります。私はいつも言っているのだが、「糾弾が怖い」というのが現在の日本においていちばん深刻な差別表現です。このような書き方では、「糾弾が怖いから差別用語には気をつけた方がいい」という話になり、さらにひとの心のなかにもぐりこんだ差別をつくりだすことにしかなりません。それだからこそ、この記事のなかでそれにつづくことばは「どうすれば差別表現のないブログを書くことができるだろうか」という愚かな疑問になっているのでしょう。
 あまりに当たり前のことで、わざわざ言うのがばかばかしいのだけれども、「差別をしない」ことが重要なのであって、「差別表現のない」ブログを書く必要などまったくないのです。この前もテレビのニュース番組のナレイションで「女性なのに三十歳で会社をつくった」というような表現を聞きました。確かにここでは「女だてらに」という「差別表現」は使っていないけれども、愚劣のきわみの女性差別はしています。「差別用語を使っていないからいいだろう」というひとをばかにした態度がさらに差別を悪化させています。「差別用語を避けて通る」ことで差別を回避できるかのような感覚のもつ問題がもし意識のレベルにすら上がってこないのだとしたら、このひとの差別意識はさらに深刻なものだと云えます。もしブログには「差別用語」の使用がしばしば見られるが既存のメディアは「差別用語フリー」であるということが、「ブログが怖い」理由なのであれば、責任と人権感覚が問われるのはブロガーであるよりもむしろ既存のメディアや出版業界の方であるということが理由をもって云えます。これは「俺たちはこんなに頑張って差別用語を駆逐しているのにまったくお前らは…」というような、自ら首を絞めて喜ぶこの手のマゾヒストに特有の、人権感覚とはまったく無縁の嫉妬に近い感覚なのでしょうか。
 この記事のなかでとても気になったのはここです。
 単なる言葉の言い換えで満足するのはなく、差別とは何かを理解・整理し、差別による不幸を認識し、人権感覚を醸成する必要があると堀田さんは指摘。そのための良書として、島崎藤村「破戒」を推奨する。
 破戒は、被差別部落出身の若者を主人公にした小説。発表と同時に差別文書として水平社から批判を受けたが、歴史的事実と差別問題に関する詳細な解説を入れて出版するという妥協点を見い出した。解説と併せて読むことで、差別問題を根本から学ぶことができるという。
 どうもこれには困ってしまいます。この記事を書いたひとは堀田さん自身ではなく、どのような意味合いでこういうことばが云われているかがわからないから一概には云えないのだけれども、それでもやはりたとえば「妥協点」ということばに「部落は怖い」という発想が見え隠れしていると云えるのではないでしょうか。
 このことばを読んですぐ「この堀田さんというひとは『破戒』を読んでいないのではないか」という疑問が頭をかすめたのだけれども、さすがにそういうことはないのでしょう。読んでいないのはきっとこの記事を書いたひとなのではないでしょうか。ともかく『破戒』という本はこういう形で読書がすすめられるような小説ではないと思います。
 この小説の核心というかクライマックスの部分で被差別部落出身の主人公の教師、瀬川丑松は生徒の前でこう云います。(新潮文庫版から)
 「(…)まあ、穢多というものは、それほど卑賤(いや)しい階級としてあるのです。もしその穢多がこの教室へやってきて、皆さんに国語や地理を教えるとしましたら、その時皆さんはどう思いますか、皆さんの父親(おとっ)さんや母親(おっか)さんはどう思いましょうか ― 実は、私はその卑賤しい穢多のひとりです」(…)

 こう言って、生徒の机のところへ手を突いて、詫入るように頭を下げた。
 「皆さんが御家(おうち)へ御帰りに成りましたら、何卒(どうか)父親さんや母親さんに私のことを話して下さい ― 今まで隠蔽(かく)していたのは全く済まなかった、と言って、皆さんの前に手を突いて、こうして告白(うちあ)けたことを話してください ― まったく、私は穢多です、調理です、不浄な人間です」
 とこう添加(つけた)して言った。
 丑松はまだ詫び足りないと思ったか、二歩三歩(ふたあしみあし)退却(あとずさり)して、「許してください」を言いながら板敷の上へ跪(ひざまず)いた。
 この「結末」は「これじゃあだいなしじゃない」と思わせるたぐいのもので、そこにいたるまでの小説全体が必ずしも差別意識に満ちていると云うわけにはいかないものだと云えるのかもしれないし(全国水平社は昭和12年の大会で、露骨な描写や表現があっても「進歩的啓発の効果をあげ得る」書きものの例として『破戒』の例をあげている)、「妥協点」たる新潮文庫の解説はしっかりしたものです。しかしこの小説が現在「差別用語」というものに満ちた状態で出版されているのは、まず第一にこの小説の歴史的な価値によるもので、決して差別用語に満ちていても高い人権意識をもった小説だからではないのです。むしろ人権意識ということで云ったらきわめて心許ないものです。それでもこの小説が許されるとしたら、そこに身にしみこんだ差別的な態度をいくらか中和する人間愛がないわけではないからだとは云えるのでしょう。しかし人権思想と人間愛をとりちがえるやからというのは困ったものなのです。
 この小説の差別用語の用い方を模範として語ることは、まったく「高い人権意識をもて」というすすめではなく、「時代背景にかんがみて差別用語もそのままにしてもらえる歴史的な作家になれ」というどだいむりなことを云うことにしかならないと思います。
 しかも、たとえ現在各種文庫で出版されているのが初版に沿ったものだとしても、藤村自身が改訂版で勝手に「穢多」を「部落」に書き換えるなどの自己検閲をして痛烈な批判を浴びたという経緯がここからはわかりません。
 部落解放全国委員会は昭和29年にこう批判しています。
 昭和14年に藤村が一部の改定を行ったのは、当面、改訂によって「差別」を抹殺しようとしたからにほかならない。(中略)しかし部落に対する呼称をどのようにかえようとも、それでもって差別が消え去るものではない。藤村はその改訂によって、自己を欺瞞し同時に部落民を瞞着しようとしたといえるのである。
 この改訂版批判の経緯を無視して、「単なる言葉の言い換えで満足するのはなく、差別とは何かを理解・整理し、差別による不幸を認識し、人権感覚を醸成する」ための「良書」として『破戒』の初版を読むことを勧めるのは、楽観的なのか脳天気なのかばかなのか、(それとも実は邪悪なのか)、どうなんでしょうか。解説に経緯が説明してあるからいいのか。だったら『破戒』は本文はだめだけど「解説」を読みなさいと云った方がずっと親切な気がしますね。時間が節約できます。
 堀田さんというひとがどういうひとかも、その本がどういうものなのかも知りません。それでもこの記事を読んだかぎりでは、差別用語の問題を「そのことばがひとを傷つけるかどうか」という歴史的、社会的な背景を無視した実に浅薄なレベルで理解し、しかも差別問題の理解が出版や言論を円滑にするためだけに必要であると思っているかのような、この問題にかかわるものとしてはあまりに嘆かわしい態度が見られると云わざるをえないでしょう。

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2008年6月9日月曜日

反日ラップ

 数日前に竹田賢一の A-Musik の「自殺について」という曲について書きました。まさかこの曲が収録されているLP 「エクイロジュ」のCDなどあるわけがないだろうなあと思ってネットで検索したら、全曲のストリームとダウンロウドを提供しているサイトがありました。ヴィニール盤からひろった音で、しかもあまり音質がよくないですが、とりあえず音源がだれにでもアクセス可能な形で提供されていることを喜びましょう。「エクイロジュ」はこちらです。こちらはたぶん未発売のアルバムだと思いますが、「生きてるうちに見られなかった夢を」というアルバムも聴けます(緊張感では「エクイロジュ」に劣りますがなかなかいいと思います)。ちょっとペイジのレイアウトは不親切ですが、ぜいたくは云いません。ソールフラワー・ユニオンがやっていた「ロンドンデリー」の「元ヴァージョン」(日本語カヴァーとしての原型)もあるし、中川敬がリードヴォーカルをつとめる曲も一曲あります。
 あとおそらく A-Musik のいちばん古い録音でポーランドの抵抗歌「今日は会えない」というものがあるのだが、なぜかこのメロディーを私は知っていました。なぜかどころか、「今日は帰れない、森へゆくんだ」と口ずさんでしまいました。いったいだれが歌っていたのだろうと思って「今日は帰れない」を検索してみると、この歌は加藤登紀子のレパートリーだそうです。それにしてもどうして出だしの歌詞を覚えていたのかは我ながら不明。加藤登紀子が歌ったのを聞いたという可能性は十分にあるけれど。
 「エクイロジュ」からおすすめの曲を三曲ばかり RealPlayer のストリーム用のリンクを張っておきます。ダウンロウドのリンクもありますが、クリックしたらいきなりダウンロウドがはじまるのがいやなひともいるでしょうから。ダウンロウドしたい方は直接上記のサイトの方に行ってください。この「エクイロジュ」というアルバムの音楽のかなめは工藤冬里と石渡明廣だと思いますが、一曲だけむかし左翼だった坂本龍一がむかしのよしみで参加しています。
  「不屈の民」は熱のこもった感動的な演奏です。とまりそうなリズムの「自殺について」は歌よりも後半のインプロヴィゼイションがいいです。ロバート・ワイアットのサードに入っている数曲のインスト曲のリズム感覚を思わせる演奏ですが、ロバート・ワイアットは「ドラムは時間に対する挑戦である」と云っていました。
 むかし非常によく聴いていたのが「反日ラップ」です。「エクイロジュ」全体に云えることですが、二十年以上たった今でも同じテンションで聴けます。この曲は三菱重工ビルに爆弾を仕掛けて八人の死者を出したテロリストグループとして知られる東アジア反日武装戦線による「ワレらが旅立ち」という詩をラップに仕立てた、というよりは朗読しています。高揚感のある演奏が素晴らしいと思います。(テロの実行犯とこの詩との関係はライナーノウトからは明らかではありません。)
 「西欧はキリスト教だ、日本は仏教と神道だ、しかし中国人には宗教的道徳がないから倫理なき経済拡張をする」なんて愚劣な言説をものする人間がこれからさらにうじ虫のようにわいて出てくる可能性もあるので、「お前ら自身がついこの前までエコノミック・アニマルと呼ばれていたんだろ?」ということをこんななんちゃって健忘症の人々のひとに思い出させてあげるために「反日ラップ」の歌詞を転載します。自分の次に出てくる成り上がりをつぶしにかかる元成り上がりなんて奴は俺は心の底から憎むのである。

さらば日本
呪わしき日本よ
オレはオマエとオレとを結びつけている
太いヘソの緒断ち切って
オマエへの精神的隷属を拒絶し
オマエへの文化的同化を返上し
オマエの思想的磁場から脱出し
オマエの民族的呪縛を喰い破り
オマエへの国家的帰属を否定し
階級的しがらみをも脱ぎ捨てて
オレは友を募りて旅に出る

さらば日本
おごれる日本よ
オマエは世界の富を奪うため
世界じゅうを駆け巡り
収奪・搾取の手足をのばす
誇るがいい
奇蹟の復興・高度成長とやらを
自惚れるがいい
世界に冠たる権力機構とやらを
オマエには聞こえまい
虐げられたものたちの叫びが
オマエには聞こえまい
奪われたものたちの叫びが
オマエには聞こえまい
飢えたるものたちの叫びが
オマエには聞こえまい
なぶり殺されたものたちの叫びが
オマエには聞こえまい
さまよう怨霊たちの叫びが
オマエには聞こえまい
引き裂かれた大地の叫びが

さらば日本
滅びゆけ日本よ
被征服原住民の血の海の中に
被征服原住民の肉と骨とで建国された
征夷天皇日本よ
オレは友を募りて旅に出る
オマエを撃ち滅ぼすための
オマエを地上から永久に消し去るための
世界革命の長途へと
手には怒りの武器をもち
心は詞華で武装して
ワレらは勝利の旅に出る
いざつどえ
ともがらよ
ワレらが反日の旅立ちへ

 たぶんこの詩そのものはまったく真摯なものとは云えないのだろうが(何だかうそくさい)、A-Musik の演奏はその欠陥を補ってあまりあると思います。この詩に反感をもつか共感するかと聞かれたら、時代はずいぶん変わったけれども、それでも私はある種の距離をもちつつむしろ共感すると答えます(たとえそれが「心は詞華で武装して」という一言のためであったとしても)。しかし私は共闘するよりも内部抗争をすることが目的だったかにみえる極左の人々とはまったく無縁でした。今でもあまりそういう意見は変わりません。それでもこの A-Musik の演奏には、陳腐な言い方になるけれども、音楽の力があります。だれもひろいあげないものをあえてひろいあげた竹田賢一の感覚にこそ敬意を表するべきなのでしょう。この「エクイロジュ」や篠田昌己の「コンポステラ」(「同志はたおれぬ」が特にいい)は日本の音楽の宝だと思います。「コンポステラ」の方は、私はCDをもっているからいいけど、今普通に聴けるのかしら。
 A-Musik もレパートリーとしているらしい名曲 Amber and Amberines で、ロバート・ワイアットは「ひとりで闘うものは決して勝利しない」と歌っています。話は変わりますが、もしかしたらよりよき未来をつくりあげてゆくための闘いの闘士たりえたかもしれない人間による、理念がなければ目的すらない「ひとりテロル」はただの三面記事として処理するべき悲劇ではないのでしょう。これは三菱重工ビルを爆破したテロリストグループ、東アジア反日武装戦線が残した「詩」のように、だれもあえてひろいあげようとしないものです。それをまつりあげてアンチヒーローとすることはまったく必要ではなく、そんなことには心底うんざりするだけです。そうではなくて、だれもひろいあげない何ものかをひろいあげてゆくことが大切なのではないでしょうか。奇妙なことに、「もしかしたらここに突破口があるのではないか」という何とも形容しがたい感覚は、無神経にして無感覚なメディアや野次馬の側ではなく、被害者の側でもなく、意味もなく通行人を殺すこの「ひとりテロリスト」の側にあるのではないかとどうしても私には思われてならないのです。ここから先に行くと、「殺人者の傾性を反転した善用」というコリン・ウィルソンみたいなつまらない結論になりそうなのでやめておきます。
 もしかしたら今こそ教条主義とも内部抗争とも無縁な、人間的な連帯や闘争が可能なのかもしれないという気はします。ただそれに気づきさえすればいいのです。ひょっとしたらそれを気づかせる契機になりうるのかもしれないという特性が、隣人の女の死体を砕いてトイレに流す男がまったくもたず、この絶望した通り魔殺人鬼がもっているものなのではないでしょうか。(このひと、俺と同じ高校出てる)

P.S. 私が云う「突破口」というのは、こういう事件のことを見聞きして、社会に不満をもつ孤独な人間の連帯が今こそ急務だと考えるひとのことを云っている。たぶんそういうひとは、「自分がこの犯人と同じことをしていたかもしれない」と思うからこそそれが急務だと考えるのだろう。そういった考えにこの犯人自身が共感することもあるだろう。正直なことを云うとこのひとはどういうひとなのかということにあまり興味はないのだが、たぶんこの犯人自身はつまらないひとなのだろうと想像する。それでも突出したことをするつまらないひとは平凡なつまらないひととはたぶんちがうだろう。前にも云ったけれども、「社会の先入見を打破してひとを殺すような偉大な人間のことを死刑に処してはならない」とサド侯爵は書いている。これはブラックユーモアだが、このブラックユーモアのなかには、決して万人に通用する真理ではない何ものかがある。よく生成中の思考を「すすめ」とかんちがいするひとがいるので、私は思想をもったテロルもこんな思想なき「ひとりテロル」もまったく支持していないということははっきり云っておきます。

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2008年6月7日土曜日

日本国籍をもたないものの価値

 東京学芸大学のフランス語教師の求人なのですが。
1)フランス語を母語とし、日本国籍を持たない者。(2)フランス語ならびにフランス文化について初級から大学院レヴェルまでの授業を担当できる者。(3)日常会話程度の日本語能力のある者。
 「待遇」としては「本学外国人教師の待遇」となっています。
 法律的なこととかこの大学の「外国人教師の待遇」がどういうものになっているのかとかは知らないのですが、人権思想の立場からすると、この「日本国籍を持たない者」という条件はどういうものかと首をかしげざるをえません。
 「外国人教師の待遇」が日本国籍をもつものに対する待遇よりもいいのか悪いのか、それとも同じなのかにかかわらず、やはり問題はあります。いったいこの大学はフランス語の授業が担当できるひとがほしいのか、それとも「日本国籍を持たない者」がほしいのか。
 なかにはフランス語圏の国や地域で生まれ育ったけれども、何らかの事情(両親か片親が日本国籍とか)で日本国籍を選んでいて、日本でフランス語を教えることを夢に一所懸命勉強しているひともいるかもしれない。あるいは逆に、日本国籍はなく、親はフランス語を話すが、自分はまったくフランス語を話さない地域で育って、学位はもっているけれどもフランス語運用に関しては不正確さあるいは不自然さが残る人間が、この公募を見て「じゃあ、日本にでも行ってみるかね」なんて思うかもしれない。後者の方は採用しなければいいのだけれども、前者については最初から応募する可能性が排除されているわけでしょう。
 「フランス語を母語とする」という表現も曖昧です。この「母語」はフランス語の langue maternelle の翻訳と理解されるべき語なのでしょうか。これはプティ・ロベールによると「子供が最初に習得する言語、一般的には母親の言語」ということになります。すると「父親がフランス人で母親が日本人」だと学芸大の基準には合わないということでしょうか。
 あるひとにとっては、母語は「母国のことば」のことだと理解されるべきだということになるらしいのですが、これもどうなのでしょう。広辞苑第三版には「幼時に母親などから自然に習得する言語。(母国語というと国家意識が加わる)」とあります。大辞林には「ある人が幼児期に周囲の大人たち(特に母親)が話すのを聞いて最初に自然に身につけた言語」とあります。一方で日本国語大辞典は「幼児期に最初に習得した言語。母国語」と云っています。いったい親がフランス語を話す(親の母国語がフランス語?)ということが条件なのか、それとも母国語がフランス語であるような国で生まれ育ったことが条件なのか、どうもはっきりしません。
 そもそも母国語とは何なのでしょう。たしかにフランス共和国の憲法には「共和国の言語はフランス語である」(第五共和制憲法第二条)と規定されていますが、憲法にこの国の「国語」はフランス語であると明記されているフランス語圏の国というのはどのくらいあるのでしょうか。おそらくこのフランス共和国憲法第二条のような形で規定している国は他にはないでしょう。私は父親がロシア人で母親がモロッコ人の、フランスで育ったフランス語の学生(ロシアとモロッコの二重国籍)を知っていたけれども、こういうのは学芸大の条件に当てはまっているのでしょうか。教えてやったら喜んで応募するかもしれないけど。(あ、日本語全然できないか。) この求人の条件のなかではマイナスの形で日本国籍が問題になっているのだけれども、本音は「フランス国籍をもっているもの」と反転させた形で理解されるべきものなのでしょうか。いや、そんなことはないだろう、本音は「フランス国籍、ベルギー国籍、スイス国籍をもっているもの(カナダはだめ、フランス語がなまってるから)」でしょうね。
 それにしても日本人は帰属を公式に証明するものが好きです。それなしではやっていけないのでしょう。それがこの条件ではたまたまマイナスの形で表現されているだけです。人間よりも紙切れを重視するこういった考え方が人権思想に反するものだということに対する理解がまったくなっていないのです。お役所仕事のレベルでは日本もフランスも大差ないかもしれませんが、私はそれに関する一般の言説の話をしています。
 それでも、一度こういう形で公募を出してしまったら、たてまえを尊重しないわけにはいかないから、中国系フランス人で中国国籍をもっているものを採用する気はありませんとは(もしそう云いたかったとしても)云わないでしょう。だとしたらなおさらどうして、日本人の両親から生まれてたとえばカナダのケベック州あたりで育って「両親の国、国籍はもっているけれども行ったことのない自分の祖国でフランス語を教えてみたい」というひと(そういうひともいるでしょう)を排除するようなまねをするのでしょうか。
 いずれにせよ、この条件は応募者本人の資質ではなくその出自を問うもので、明らかに人権上の問題があります。いやしくも国立大学たるものがこういった問題に対して無自覚であることはゆゆしきことです。まったくもって嘆かわしい。大学人ですら「ネイティヴ信仰」という日本の土着の信仰にとらわれているということなのでしょうか。実際にはきわめて単純に「外国人教師の待遇」の条件が「日本国籍を持たない者」なのだということなのでしょうが、それで許してやるというわけにはいかないのです。
 フランス滞在時、コートディヴォワール、セネガル、ガボンなどからきた留学生と話すと、お約束のように「それにしてもフランス人ってフランス語できないよね。大学生でもろくすっぽ動詞の活用もできないし」という話になりました。どうせ「日本国籍をもたないもの」をフランス語教師として募集するなら、こういうブラックアフリカの勤勉なひとを採用して大学人の心意気を見せてほしいものです。日本の学生の話すフランス語がアフリカなまりになったらとっても素敵です。少なくともケベックなまりよりはいいよ。

おまけ 1958年10月4日公布のフランス共和国憲法第二条
共和国の言語はフランス語である。
国の象徴は、青、白、赤の三色旗である。
国歌は「ラ・マルセイエーズ」である。
共和国の標語は自由、平等、博愛である。
共和国の原則は、人民の人民による人民のための政府である。
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2008年6月6日金曜日

ガールとはこれいかに

 また朝日新聞です。もっともこれは「ドュ」のような朝日独自の記事ではなくて、一般的に云って非常に問題の多いスポーツ選手の名前のカタカナ表記の話(ロール・マノドゥーが何の理由もないのにどういうわけかマナドゥーになっている)なので、日本のスポーツジャーナリズム(そんなものあるのか)全体のことなのかもしれません。ちなみにこれは「日本の音楽ジャーナリズム(そんなものあるのか)」と書いた中川敬の真似です。ちがいは私にはスポーツに対する何の思い入れもないということですかね。
 フランスの男子テニスのホープにガエル・モンフィスというひとがいます。名前は Gaël Monfils と書きます。E の上にある点々はトレマ(分離記号)と云って、「この母音は別々に発音してね」という意味です。モンフィスという苗字は「私の息子」というような意味で何だかおかしいです。
 でもこの「ガエル」という名前を、何を考えたか朝日新聞では「ガール」と書いているんですね。男の子なのに。しかも「ガエル」という名前は珍しいものですらない。女の子だと Gaëlle になりますが、読み方は「ガエル」のままです。今は割と若い世代に多い名前だという印象があります。名前の流行りにはサイクルがあって、しばらく前には古臭いと思われたような名前がまた流行ったりします。ガエルもその一例でしょう。
 もしトレマがなければ、AE の並びの発音はむずかしいというのは事実です。だいたいは「エ」でしょうが、「ア」の場合もあります。たとえば Laetitia は「レティシア」です。セルジュ・ゲーンズブールは L A E (dans l'A) T I T I A と歌っていますが、この「E は A のなか」というのは、A と E がくっついた形です。このようにふたつの文字がくっついて印刷される場合は必ず「エ」でしょう。それでもテレビの司会者の Faustine Bollaert (かわいいけど、画像を検索してみると、妙に胸を強調した写真が多いよ)の苗字は「ボレール」ではなくて「ボラール」のようです。それでも大勢は「ア」よりも「エ」でしょう。
 というわけで、Gaël は、まずよくある名前であるということ、それにトレマがついていて「ふたつの母音を切り離して発音せえ!」と親切に表記されていることのために、ほぼ何も考えなくても「ガエル」とカタカナで書いていて当然なのだが、それをさらに無視してまちがうとしたら、「ゲール」とまちがう方がまだ理解できるのです。(フランス語ができない英語話者なら、女の子の名前の Gale 風に「ゲイル」みたいに発音するんじゃないか。) それなのに、男の子なのに、わざわざ「ガール」とまちがえるというまちがい方には、妙にかたくななものがあります。だって、わからなくてもそのままつづりを読めば「ガエル」になるところをどうしてこんな変なしかたでまちがえなければならないのかがわかりません。この奇妙なかたくなさは、何を考えたかだれにも読めない表記「ドュ」を発明してしまうけったいなかたくなさにも共通します。
 でっちあげの神代文字で有名な天津偽文書をこてんぱんに批判するときに、狩野亨吉はこの理解しがたい「頑強性」を指摘しています。
 (…)天皇に「スミラミコト」と振仮名を附けてゐるが、普通スメラミコトと云ふところを、わざとメをミに改めた理由は判らない。併し前にモをムと為した(註・「モト」を「ムト」と書いている)と同じ原因に由るものとすれば例の頑強性の何者か働いてゐることが察せられる。
 「坊さんの読経と同じく分らんのが尊厳を増す所以とでも考えての所為か」とこの文章のなかで狩野亨吉はあきれているのですが、今の世になっても、わざと変な方へ、変な方へと行けば、それがゆえに自分の云っていることが逆説的に信用に値するつもりになってしまう愚劣な輩は絶滅していないということなのでしょうねえ。マノドゥーはだれがどう読んでも聞いてもマノドゥーなのにどうしてマナドゥーになるの?というのが私にはとても不思議なのですが、案外その理由はただの「頑強性」なのかもしれません。

P.S. ところで私、「まちがう」と「まちがえる」のちがいがよくわからないのですが、「期待するのがまちがっている」を「まちがえている」とは云えませんね。「まちがえる」が「とりちがえる」の意味で、「まちがう」は「あやまちをおかす」ことなのでしょうか。新明解には、「まちがう」は「まがう」と「ちがう」の混合だと書いてあります。ふうん。

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2008年6月4日水曜日

しつこくトリアージ

 「トリアージ」というカタカナの表記について「フランス語風ならトリアージュだけど英語風ならトリアージ」と書いているひとが結構います。嘘はやめましょうね。なぜか意味が医療用語になっているのは、それはまちがいなく英語経由だからなのだろうが、triage という単語のGの発音にはかかわらないでしょう。
 私は英米人に triage という単語を読んでみな、と発音させてみたことはありませんが、だいたい想像はつきます。Rは変な巻き舌になって、Iはイなんだかエなんだかわからないみたいな気持ち悪い音になるだろうけれども、「アージュ」はおかしなくらいにみごとにフランス語風の発音を真似するでしょう。もちろんこれはそれを発音するひとがこの単語がフランス語起源だと知っている、あるいはだいたい見当をつけてフランス語風に発音するときの話です。日本語のカタカナで「バッジ」とか「エッジ」の[DG]の音になるような発音(「ヂ」)をする場合があるとしたら、これを読むひとにこの単語がフランス語起源だとわかっていないときの話ですが、その場合には「何だこれ、この単語知らないなあ」と思いつつ、きっと「トライッジ(トライッヂ)」あるいは「トリイッジ(トリイッヂ)」という風に発音するでしょう。しかしそうではない場合は、「トリアー」まで行ったら、「ヂ」ではなくて、普通に「ジュ」という発音をするでしょう。それは英語には pleasure や treasure のように、このフランス語のG(J)の音とほぼ同じ「ジュ」の音を含む単語があるからです。きっと日本人で英語を話すひとが英語の会話のなかでこの単語を発音したら、思いっきり「トリアージ」と云いつつ[DG]の音を発音する(「トリアーヂ」)でしょうが、そういう発音が英語の発音の基準なんですか。(「そうだよ」と云われたら私は黙って引き下がるしかないけど。)

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ドュ?

 いったいどうしたらいいんだろう。
 朝日新聞のフランス語のカタカナ表記がおかしい、というかそもそもお話にならないというのはいつも云っていることだが、今回は「ドュ」です。そもそも私にはこのカタカナをどのように発音すべきかがわかりません。
 今日の朝刊に載っているフランス人の「囲碁のプレーヤー」の話なのだが、名前が「ピエール・オードュアル」と書いてあります。カタカナからフランス語のつづりを推測するのは困難なことだし、こんな見たこともないカタカナ表記から探すのははさらに難しいだろうが、今はインターネットという便利なものがあるので、それを活用してみましょう。
 だいたい見当をつけて入力してみると、出てきました。Pierre Audouard. だったらどうして「ドュ」? DOU というつづりはフランス語のカタカナ転写の慣例上は「ドゥ」、あるいは「ドゥ」という表記を依然として認めない頑固なひと(いや、ひとつの見識です)なら「ド」と書くでしょう。でも「ドュ」だと、新奇というか、珍妙なだけです。そもそも発音できないじゃないですか、これじゃ。DU という音の方は「デュ」とカタカナで書かれることが多く、きっとこれだと思ったのに予想がはずれました。
 当然何も変なカタカナ表記を発明する必要はなく、今までのカタカナ表記のルールにのっとって、「ピエール・オドゥアール」と書けばいいでしょう。これと「オードゥアール」「オドゥワール」「オードゥワール」の四つのうち、どれがいちばんいいというものでもありません。私は最初の「オドゥアール」を選びます。それは「これがいちばんフランス語の発音に近いから」ではなく、私の目からするとカタカナ表記として自然だからです。「オドアール」「オードアール」「オドワール」「オードワール」という書き方も十分ありえます。ここの母音はカタカナで「マドモワぜル」「ポワロ」と書かれる発音と同じ発音になります。この「オードュアル」式を適用してみると、「マドモュアゼル」「ポュアロ」になります。書いててばかばかしくなるけど。
 「母音がふたつ以上目に見えるところには長音符号をつける」が私の原則だが、原則はあくまで原則ですから。この原則によると、「オードゥアール」あるいは「オードゥワール」の方がいいということになるが、こうすると何となく「オドゥアール」よりも間延びするような感があります。それでも私は「ボヴォワール」(Beauvoir)とか「フロベール」(Flaubert)とは書かずに、自分の原則通り「ボーヴォワール」「フローベール」と書くのだから、「オードゥワール」と書くべきのような気がしますが、この辺はもう自分のカタカナの美的感覚の問題、と云って逃げるしかありませんな。「ル」の前に長音符号が入るのは、ここに入れておかないと、原語では後ろに母音がついていない「ル」が強く読まれてしまうからです。(「ル」が強く読まれるようなカタカナ表記になっていると、カタカナから原語のつづりを推測するときの手間がひとつ増えるから。「ひょっとしたら最後に OU という母音がついているのか」と考えなければならないのです。)
 このフランス語の OU という母音は日本人にはきわめてむずかしいものです。フランス語の母音の発音のなかでは、ある意味でもっともむずかしいものなのかもしれません。(口から音を出す技術はたぶんこの母音がいちばん日本人にとってむずかしいけれども、実際上は日本人がフランス語を話すときにしばしば意識せずに脱落させてしまう I の方がむずかしいと云えるかもしれません。) この母音の発音を練習するときは、口をまるくして「オー」と発音しながら、のどの奥の方をそのままにしたままでどんどん唇だけすぼめてゆきます。そうすると「オ」と「ウ」の中間に聞こえるような音になります。カタカナ表記のルールとしては、これは「ウ」段の音で書かれますが、「私の耳には『オ』に聞こえる」というひとはかなり多いでしょう。
 「聞こえる音至上主義者」にはわからないだろうけれども、このひとたちが全幅の信頼を置いているらしい感覚は、実際には目に見えるカタカナの書き方に縛られていて、SOU, POU, COU などは「ス」「プ」「ク」よりも「ソ」「ポ」「コ」に「聞こえる」ことがあっても、FOU はまず絶対に「フォ」には聞こえないで「フ」に聞こえるのです。それは「フォ」という書き方がまだカタカナ表記として定着していないということを耳が覚えているからです。だからこそ DOU は、書き方の定着の度合いとしては「フォ」と似たようなものである「ドゥ」よりも、むしろ「ド」に聞こえるということがありうるのです。DOU が「ドュ」に聞こえるというのはどういう耳なのかは私にはわかりません。私は聞こえる主義者じゃないし、頑固でもないし、どちらかといえば理論派なので、DOU は「ドゥ」と書きます。それにしても DOU という発音のなかには、拗音になりそうな要素が一切ないよ。cry
 まさかこの音が「ドュ」(これ、拗音なんでしょ?)に聞こえるはずがないよなあ、と云ってはみるものの、そもそも「ドュ」がどういう風に耳に聞こえる音なのだかわからないのだから、困り果ててしまいます。英語だと Do you know? を「ドュ・ノウ?」とカタカナで書くと、「何か、雰囲気」という気がしないでもないが、フランス語だもんね。わざわざこんなことを考えてやる私が親切だ。
 いい加減にしてよ、朝日新聞。

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2008年6月3日火曜日

結婚の取り消し続報

 最初は「相手が処女でなかったために結婚を取り消す」裁定に一定の理解を示していた法務大臣ラシダ・ダティですが、もはや問題が当事者だけのものではなくなってしまい、国民全体にかかわるものになったと判断し、再審を命じました。これで「法的解釈としては伝統にのっとったもの」であった司法判断を支持する人間はだれもいなくなりました。当然のことだと思います。
 非常に問題であると思われるのは、判決の文言のなかに「女性の配偶者の本質的な特質に関する過失」ということばが含まれているということです。ここにはやはり「終わりよければすべてよし」という法曹の実利主義によって看過するわけにはいかないものがあります。
 このような判決のせいで処女膜再生手術をする女性が増えるとしたら、それは迷妄への回帰でしかないと産婦人科医国立学校の校長ジャック・ランサックは云います。処女膜再生手術は、ある種の社会の圧力によってなされるもので、それは女性の自由な判断によるものではないのだから、これは他の美容整形手術と同じものではありえないと彼は主張します。ここにおける迷妄への回帰とは、女性が自分自身の肉体を自分の所有物として考えることができない時代への回帰を意味します。
 首相のフランソワ・フィヨンは、この判事自身の判断は理解すると云いながらも、この判決が判例となることがないようにと要求しました。
 厚生大臣のロズリーヌ・バシュロは、このようなことが二度と起こらないように国会で法を投票させることを要求しました。
 全般的に云って、これはイスラム教徒の女性を萎縮させる、許すべからざる司法の後退であると考えられています。
 他方で日本の「記事の書き方も痛いがとりわけコメントが痛いニュース」には、見るも恐ろしいコメントが並んでいます。(記事にはラシダ・ダティのことも何も書いていない。) なぜかこのひとたちは、「この男性は個人的に処女が好きなのであり、その男に対して処女ではないのにそう偽った女が悪い」と信じているようです。こういうひとたちは無知をよそおっているのでしょうか、それとも本当に無知なのでしょうか。イスラム教(というよりもむしろかなりの数のイスラム教徒がそれがイスラムの戒律であると信じているもの)の圧力によって、実際には血のついたシーツを求める家族、身の周りの人間などに対する世間体によって、この男性はまるでひとに強いられているかのように裁判所に訴えるという行動をとったのであって、それはまったく個人の好みと関係がないということを本当に知らないとでもいうのでしょうか。相手の女性が自分が処女であると主張したのも、彼女の自由意志によるものとは云えません。もちろん嘘をつく義務はありません。しかし自由意志をまげてしまうほどの「世間」の圧力を知らないとでもいうのでしょうか。こういう判決は当然だという大勢(まあ、「特にコメントが痛いニュース」という名前のサイトですから)に対して反対の意見を述べるひとですら、処女が好きかどうかの話をしている。本当に頭おかしいよな、こいつら。まあ、俺が読まなきゃいいんだけどね。イスラム教徒のフランス人のサイトを見たって、よっぽどひどいものでも、この問題に関するコメントがみんな気ちがいということはまずないだろう。
 前にアルジェリア人やモロッコ人と話していたときに、「イスラム教徒は結婚前の処女を大切にするから、結婚前の女はアナルセックスをすると聞いたけど、冗談だよね」と聞いたら、「冗談だけど、でも半分は本当」と答えるので、「ええ嘘だあ、俺のことをひっかけようとしてるんじゃない?」と云ったら、みんなで「でも半分は本当だよねえ」「本当、本当」と云っていました。まあ、ともかく、まずマグレブ諸国出身のひとが全員イスラム教の信者だというわけではないし、イスラム教徒のなかにも信仰のレベルがさまざまありますから。

P.S. 女性の方がこのような判決に同意したのは、もしこの主張を認めなければ裁判を最後までもってゆくと男性の方が脅し、女性の方では長期にわたる裁判を争うよりもすぐに離別に同意した方がよかったということなのだそうです。ラシダ・ダティが意見を変えたことによって、この女性はふたたびこの問題を争わなければならなくなり非常に大きなショックを受けているらしいのですが、当事者が望まぬことでも理念のために争わせなければならないこともあるのでしょう。

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海を越えて日仏間に共通する雰囲気(2)

 今年のカンヌ映画祭でパルムドールをとったのは、ローラン・カンテ監督の『塀のなか』で、フランス映画がカンヌで最高の賞をとったのは21年ぶりのことでした。よってフランス人は大方においてこの受賞を好意的に迎えているようですが、ひとつ例外的に批判的な意見が見られたのでそれをご紹介します。それでもローラン・カンテは実力のあるいい映画監督であるということはだれもが認めることでもあり、これは映画をまだ見ていないひとの意見なので、実際には映画というよりもその原作者に対する批判です。
 『塀のなか』はフランソワ・ベゴドーという作家が書いた同じ題名の小説に基づいたもので、パリの「郊外」(実際にはパリの市内だけれども「教育強化地域」ですから)の中学校を舞台としています。ベゴドー自身が実際に教師で、この映画に教師役で出演し、映画は半分ドキュメンタリー、半分フィクションのような形になっているようです。パリの郊外は、場所によるとはいっても、移民が多く、これを犯罪の温床と考える右翼のひともいます。当然良心的な左翼はそれと反対の考え方をするのですが、だからと云って、パリの郊外の学校は暴力が多くいから怖くて働きたくないと考える教師も少なからず存在するという事実を無視して、これを理想化することは許されないと考えることができるでしょう。しかしベゴドーはこのような郊外の学校の生徒から多くを学んだと主張し、危険な地域とされているところの学校で働くのは素晴らしいことだというまちがったイメージを与えようとしている、とこの私が読んだ記事では批判されています。ベゴドーはよくテレビでもちやほやされている作家らしいです。
 今までつまらない小説からいい映画をつくった例はあるのだから、もしかしたら映画の方はいいのかもしれないと断りながら、ジャンポール・ブリゲリという批評家はこう云います。「ベゴドーはもう二年前から教職を休んでいるはずだ。このパルムドールで十分な金を稼げば、もう教育の世界に戻ってこないだろう。私からすれば、これが唯一のいいところである」 ブリゲリはこの小説家のことを、まったくありえない非現実的な世界を現実のものとして提出することによって、読者に媚びる作家であると考えています。このブリゲリの意見を紹介する記事(フランス語)では、ベゴドーは「あらゆる正書法(つづり方)のまちがいは創造性のあかしである」という意見を醜悪なまでに体現している」と云われています。この記事はベゴドーのこんなことばを引用しています。
 ストリートで暮らす人間が車を焼き打ちするのは、ある意味で潜在的な力の証明であり、一種のエネルギーを要求しているのである。この行いは何ものでもないとは云えない。
 もし若者が地域の学校を標的にしてもベゴドーは同じことを云うのだろうか、と記者は皮肉に記事を締めくくっています。この記事の題名は「ベゴドーは本を読むよりも映画で見た方がいい」です。
 このまえ精神科医の和田秀樹が「ごくせん」というテレビドラマ(見たことないけど)に同工の批判をぶつけていたので、この偶然の時期の一致を面白く感じました。
 個人的には、こういう意見を読んでも、ローラン・カンテの新作なら見たいなあと思います。そもそもこういう移民の子供がたくさん出てくる映画がカンヌの受賞作として公開されたら、たぶん一般の日本人のフランスに対するおばかな(そもそも許しがたい)イメージが少しは変わるだろうし。それとも変わんないのかな。
 あとエピソードとしては、この映画に生徒役で出ていた子供のマリ人のお母さんについて、映画祭の直後にすばやく不法滞在の問題が解決されたという。おととしゴンクール賞をとったアメリカ人作家のジョナサン・リテルは、受賞前にフランス帰化を申請したら却下されて、受賞後に再申請したらすんなり認められていました。まったくみなさん賞に弱いのね。

P.S. エリザベート・レヴィがフランソワ・ベゴドーについてかなりきびしいことを書いています。「社会主義リアリズムあるいはリアリティシネマ」(フランス語)

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2008年6月2日月曜日

海を越えて日仏間に共通する雰囲気(1)

 インターネット上でフランスの情報を見ていると、奇妙なことに日本での社会問題と同じ雰囲気を共有しているような話題にぶつかることがあります。思想と映画のことについてお伝えしましょう。
 まず思想の世界では、法学者のマルセラ・ヤクブ(Marcela Iacub)が出版した『鍵穴から ―羞恥心の歴史―』という本が話題になっています。この本のなかでマルセラ・ヤクブは、刑法上、いかに性の概念が羞恥心の概念にとってかわったかを解説し、しかもだからと云ってそれによって市民は性の自由を獲得したわけではないということを云います。それどころか、公的な空間が性的なものとなっているのに対して、今以上に性が抑圧されている時代はなかったと彼女は云います。性犯罪のクッションとなっていた家庭や学校が弱体化し、個人と国家が直接対立する図式のなかでこの抑圧が行われているのです。国家が性的なイデオロギーを個人に課そうとし、介入すべきではないところにまで国家が介入している、とマルセラ・ヤクブは指摘します。たとえばイスラム教徒の女性のつけるヴェールの問題がそれにあたります。これは国家が法律をつくるべきことではなく、家庭や地域社会で解決するべき問題だと考えられます。
 この変化のなかで、社会のなかで「性」が魂の場所にとってかわったと彼女は考えます。そのために性犯罪が厳しく罰せられるのです。彼女は家族問題担当閣外大臣ナディーヌ・モラノ(サルコジの腹心のひとり)のインターネット狩りについても触れます。ナディーヌ・モラノはインターネットを児童ポルノの温床ととらえています。マルセラ・ヤクブは、本来であれば家族がコントロールすべきインターネットの問題に国家が介入するのはどうしたことかと疑問を投げかけます。
 彼女は売春の自由化を求める法学者で、その思想はかなり極端なようですが、なかなか興味を惹かれます。「ポルノ映画を見た中学生がそこで見たものを再現しようとして同級生を強姦した事件についてどう思うか」という質問に対して「ポルノ映画鑑賞と犯罪の因果関係はまだ証明されていない」と答えるのは、どことなく「逃げ」のような気もしますが、その主張は拝聴に値すると私は判断しました。こちらのペイジで一時間半のロングインタヴュー(フランス語)が見られます。私が高く評価するジャーナリストのエリザベート・レヴィがむしろマルセラ・ヤクブに喰ってかかるような感じなのが印象深いです。「せっかくいいことを言っているのに、すべてを国家と個人の対立の図式に還元してしまって、その他のものがないかのように語るのが残念だ」ということをエリザベート・レヴィは云っています。
 これは日本での児童ポルノ規制の話と共振するばかりでなく、社会はエロだが個人の性生活の方は抑圧されているという日本でも見られる状況をとりあげたなかなか面白い話だと思います。ぜひとも本を読んでみたいですね。

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2008年6月1日日曜日

相手が処女ではなかったので結婚は無効と認める判決

 フランス北部の町リールの裁判所は、あるイスラム教徒の男性が、相手が自分は処女であると主張しているから結婚したのに、結婚してみるとそれが嘘であると判明したのでこの結婚は無効であると申し立てていたのを受けて、今回その申し立てを認めました。フランスではこの決定が物議を醸しています。共産党系の「反人種差別人民友好運動」(MRAP)は、この前近代的な女性差別を助長するかのような裁定に抗議しています。これに抗議したり、不快感を表明しているのはMRAPのような左派のグループだけではありません。与党のUMPの政治家も一様にこの決定に対して疑問を呈しています。
 ここで注目されるのが法務大臣のラシダ・ダティの反応です。この裁定に対して理解を示しているのは、ただひとりラシダ・ダティだけなのです。たとえ他の全員が批判しようとも、法務大臣だけは法曹の判断を弁護することのなかには驚くべきものはないとも云えます。しかしいかなる理由によってラシダ・ダティはこの判断を弁護しているのでしょうか。これは偽善に満ちた無根拠な「文化の差異の尊重」なのでしょうか。
 しかしラシダ・ダティが云っていることはまったくそのようなことではありません。まず第一に、離婚の手続きを踏むよりも、結婚を取り消した方が手続きが簡便であるというのがその理由です。そうしてさらに、こうして結婚を取り消すことは当事者を保護することになるともラシダ・ダティは云っています。それは、もしここですぐに夫の申し立てを受け入れておかなければ、妻が暴力にさらされる可能性もあると彼女は考えるからです。
 このような司法判断をいかに考えるかというのは難しい問題です。耳に入ってくる話は、人権の国フランス共和国の裁判所がイスラム教徒の社会の男優位の「因習」のようなものに屈してしまったかのような物語になってしまっています。もちろん「夫が求めたように結婚を取り消す」以外の判断もありえたのではないかと思わずにはいられないのですが、ただひとり理解を示しているラシダ・ダティのことばに耳を傾けてみると、それでも当事者の事情をよく知っている裁判所はそれなりの判断を下したと考えられるのかもしれません。
 このラシダ・ダティの理性ある弁護はあまり反発を生んではいないようです。しかし「ラシダ・ダティの云っていることはともかく」と考えるひとたちからのこの裁定に対する抗議はやむことがありません。法曹の側では「終わりよければすべてよし」と考えたいのでしょうが、人権の理念を重視する立場からすれば、それは認められないということになるでしょう。

P.S. 題名はフランスのジャーナリストが伝えるものにならっていますが、当然「処女だったから」ではなくて「嘘をついたから」が結婚の取り消しの判断の理由です。

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