題名は冗談ですから、信濃のひと、怒らないでください。
全国水平社からの一定の評価を得た島崎藤村の処女小説『破戒』は、初版より三十数 年の後、十数年の絶版の期間の後に、藤村自身による改訂を経て、1939(昭和14)年に再刊されることになります。ここで藤村は物議を醸 していた小説をどのようにして修正したのでしょうか。ほぼ七十年前のこの改訂の作業が、現在愚かものたちがしていることとほぼ同じものであることに私たちは驚かされるこ とになります(註)。
『破戒』の初版本を読んでいると、「不必要なまでに『穢多』ということばが頻繁に用いられているのではないか」という印象 をもちます。藤村は改訂版でこの語と明治以来の呼称「新平民」を「部落」「部落のもの」に書き換えます。「そういう生れのもの」「不思議な星の下に生れた 人の子」などとも書き換えられています。「穢多」という語源がはっきりしない語の漢字は差別意識が強かった僧侶による宛字だとされているので、わざわざ漢字で書く必要はないで しょうが、1922(大正11)年の水平社宣言では「吾々がヱタである事を誇り得る時が来たのだ」と云われていることを考えると、これをかなに書き直すと いう選択肢もあったのではないかと思われます。
藤村はまた「問題箇所」を削除してもいます。なかにはさすがに問題があると思われるところもあ り、そういった箇所の削除に関しては藤村の改訂を理解すべきでしょう。たとえば初版本では「屠手」についてこういう表現がありました。これが地の文である からこそ、藤村はここで差別意識を見せていると言われても反論のしようのないところです。「ことに卑賤(いや)しい手合と見えて、特色のある皮膚の色が明 白と目につく。(…) 中には下層の新平民に克くある愚鈍な目付を為ながら」 もしこういった箇所が自らの差別意識を露呈した個所だと藤村が判断したのだとしたら、ここは当然削除 すべきところだと言えるでしょう。後半は「中にはけげんな顔を為ながら」と書き換えられています。
しかし主人公丑松の敵対者である人物の町会議 員が差別意識を見せる個所を削除すべきなのかどうか。たとえばこの議員が丑松の噂話をして「指を四本」見せるという箇所があります。しかしこれが改訂版で は「親指」に変わっています。こういった下品な噂話のなかから「穢多は『よつあし』という」というこの議員の口からの表現を削除することは、かえって差別の隠蔽だ と非難されて当然でしょう。この登場人物の愚劣さを証明するところがカットされたことになるからです。
特に問題になると思われる書き換えが二箇 所あります。ひとつは丑松の尊敬する被差別部落出身の思想家猪子蓮太郎の著作に関することです。その書物『懺悔録』は「我は穢多なり」と書き起こしてあっ たと初版にはあるのに、改訂版ではこの巻頭を飾る態度表明がカットされているのです。この改悪は先ほど引いた水平社宣言のまったく逆をゆくものです。百歩 後退と云われてもしようのないことでしょう。ここには自らのうちにあるのかもしれない差別意識を反省するというよりも、いささか見当ちがいなしかたで糾弾 からの護身をはかる藤村の姿がみえます。
さらにこれはどうでしょうか。もうひとつの「これはないだろう」という改悪は、教員の丑松が自分の身分 を隠していたことを生徒の前で打ち明けるクライマックスの場面にあります。この箇所こそ良識派を完全に突き放すような、その理解しがたさにおいて文学の真 骨頂と考えられるべき場面です。初版では、ここで丑松はあろうことか「私は穢多です、調里です、不浄な人間です」と云ってしまうのである。ここにこそ社会 参加ではない文学、いささかも社会の不正義の告発などではない文学の「悪」が気持ちの悪い顔を出していると言えるのです。しかしこの告白を1939年の藤 村は「私は皆さんを欺いていたのです」に書き換えるのです。確かに差別用語はなくなりました。しかしこれでいいのでしょうか。
ゾラのようなフラ ンス自然主義文学の社会意識を共有したものであるかのように云われもした『破戒』ですが、この猪子蓮太郎の書物の題名『懺悔録』が韻を踏んでいるように、この小説は実 際にはルソーのように書き手の内面を告白したものの性格が強いと考えられるでしょう。抑圧された被差別部落出身の教師瀬川丑松は、『破戒』がそうしたてあげられた社会派小説の主人公である以前に、鬱屈した内面を抱えた青年藤村の分身なのです。こう考えたとき、この「私は皆さんを欺いていたのです」という書き換え はあたかも藤村の意識しないやましさを暴いているかのようにみえないでしょうか。
さて、1954(昭和29)年、水平社の解放運動を受け継いだ部落解放全国委員会はこの改訂をこう批判しています。
「昭和14年に藤村が一部の改訂を行ったのは、当面、改訂によって『差別』を抹殺しようとしたからにほかならない。(中略) しかし部落に対する呼称をど のように変えようとも、それでもって差別が消え去るものではない。藤村はその改訂によって、自己を欺瞞し同時に部落民を瞞着しようとしたといえるのであ る」
特に「自己を欺瞞」という指摘が適確です。善意を見せようとして、自らがその罠にはまってしまったのです。
もしかしたら部落解放運動にたずさわる人々はことば尻をとらえてゆすりたかりを働くような怖いひとだと本気で思いこんでいるひともなかにはいるのかもしれませんが、そこには悪意のある風説によってもたらされたものがかなりあると考えなければなりません。
前に読んだ森達也というひとの『放送禁止歌』という本は、あまりいい本ではありませんが、そのなかに、森達也に対して「きみたちはあの時代の糾弾の恐ろし さを知らない」というテレビ局のひとが出てきます。でも結局これは糾弾されても「ああ、怖かった」で終わってしまった、まったく反省のないひとの意見ではないのだろ うか。糾弾されたその場では部落解放運動家に問題を理解させられて、泣きながら非を悔いたが、そこから出るともうそれを主体的に忘れてしまって、むりやり 自分の非を認めさせられたことが悔しくなってしまったのではないのか。もしそうだとしたら、いったいどうして世の中でことばを公表するひとは、こういった 愚劣のきわみの、差別の反省もろくにできない人間の言うことを聞いて「差別用語」をカットしなければならないのか。部落解放運動家のなかにも、実際にこと ば尻をとらえるようなひともいるのかもしれないが、それは部落解放運動だけの問題ではなく、どんな運動、どんなグループのなかにも必ずその運動の趣旨をよ く理解していない愚かものはいるのである。そういうひとにはちゃんとそう言って反論すればいい。それが人間と人間の間のコミュニケーションなのである。
なぜ『放送禁止歌』がいい本ではないかといえば、まずこの森達也というひとが岡林信康の「手紙」を電波に乗せたいというすけべ心が何よりも強いものとしてつく られた本だということがまずひとつある。でもこの曲は1980年にNHK-FMの「サウンド・ストリート」で森永博志がかけている。私はエアチェックもし たので本当である。ほかにこの本について特に気になるのは、こ の森達也というひとがあまり音楽が好きではないということ。音楽が好きじゃないひとがこういう歌に関する本を書くのは何だかいや。それでも確かにこれは素 人が自分で頭をひねって素人考えを書いている、という例なので、前言は翻さずその点は好感がもてると言っておこう。でも「『びっこ』という言葉はよほど詩 情をそそるのか」という無意識なんだかどうなんだかよくわからない「不適切な表現」が見られるのも気になる。特に高田渡とのインタヴューのくだりは「嘘」 だと私は踏んでいる。ちがったらごめんなさい。
岩波文庫が『破戒』の改訂版を再出版した、というのもなかなか「らしい」ことで、どういったことが解説で書かれているのか確認してみなければなりませんね。
結論を言いますと、今の日本のメディアやマスコミは、この藤村の護身行為の態度をそのまま受け継いでいるのではないかということなのです。重要なのは差別 の被害者である人間のことではなく、自分に害が及ばないということなのだ。もしメディアが本当に部落差別に反対なら、当然メディアが率先して部落差別主義 者であるらしい麻生太郎を糾弾しているだろう。しかし何だかまるでこんなひとに首相になってほしいみたいだったね。私はジャーナリズムというのは民衆を啓 蒙し、啓発の先導をするものだと素直に信じているのだが、日本のメディアは自ら先んじて民衆を迷妄に導いているような気がします。ところで「コンシエル ジュ」というのももとは漫画らしいのだが、漫画で情報をえるとはさすがに麻生太郎が首相になりかねない国だなあ、と思うよ。私は別に反漫画派ではありませ んが。
さあ、
sexy geek は HotForWords のマリナちゃんに投票しましょう。

註 「愚かものたち」も「たち」がいらないのでいやだが、「驚かされる」もいやだ。これは中学英語教育で、英語の受動表現を生徒に理解させるために be surprised の訳語としてあてられた「驚かされる」の記憶なのだろうか。英語教育者のアイディアとしては、受動態がどういうものかを日本語にうまく移したまことに結構 なものだが、日本語としては不自然なのだから、何もいいおとなが使うべき表現ではないだろう。「驚く」でまったく十分だろう。「驚かされる」はこれから中 高生限定ということで、よろしくお願いします。
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はかい