前からときどきのぞくことのあった I Like Your Style というブログ(フランス語)にも、今どきのオバマブームを反映したアンケートがあります。ちょっとおもしろいので訳してみましょうかね。
このブログで十年前のボードリヤールの文章が紹介されています(1997年にリベラシオン紙に発表されたもの)。本文の記事は一部を引用したものですが、あるコメントが全文を再録しています。ボードリヤールなんて趣味じゃないですけど、ちょっと訳してみましょう。この記事の内容はオバマのアンケートとはまったく(直接的には)関係ありません。
ばかものどもの悪魔祓い
危機的で解決不能の状況がふたつある。現代美術のだめさ加減と、ルペンに対する政治の不能である。このふたつは取り替えられ、入れ替えによって解決される。ルペンの政治にはまったく対抗できないという不能が、文化と文化神聖同盟の方面へと移動するのである。現代美術を疑問に付すことについては、これは反動的、非理性的、ひいてはファシズム的な思想からしか生じないものだ…。このばかものどものうやうやしい悪魔祓いに対して何を対抗させることができるだろうか。不幸なことに、この知性の堕落のメカニズムは、芸術の袋小路と同じく、国民戦線(FN)に対する闘争の袋小路も解決できない我らが「民主主義者」のエリートのうしろめたさと不能に想を得たものなのだから、何ものにもこれを正すことができない。もっとも単純な解決方法は、このふたつの問題を混同して、道徳をたれる詰問口調を用いることである。真の問題はこのとき次のようなものになる。どんなしかたでも、いかなるものであっても、突飛なこと、無礼なこと、異端のこと、逆説的なことを云ったら、自動的に極右になってしまうことなしに、もはや口を開くことができないのだろうか(はっきり云わなければならないが、これは極右に対する讃辞になってしまう)。すべての道徳的なもの、順応的なもの、日和見主義的なものは、伝統的に右派のものだったのに、どうしてこれが左派のものになってしまったのだろうか。見直してみると茫然とすることになる。右派が道徳的な価値を背負い、左派はその反対に、ある種の歴史と政治の拮抗する要請を背負っていたというのに、今日では、左派にはまったく政治的なエネルギーがなくなり、単なる道徳の権限、普遍的な価値の担い手、美徳の支配のリーダー、博物館入りするような真と善の価値の所持者、全員に説明を求めて、だれにもお返しに説明を与えない権限になりさがってしまったのである。野党にあって20年の間冷凍保存されていた左派の政治的な幻想は、権力を手にしたときに、歴史の意味を保持するものではなくて、ある歴史の道徳を抱えたものだとわかったのである。この幻想はある真実と権利と良識の道徳を抱えている。これは政治的なるものの水準地点であり、おそらく道徳の系譜の最低地点ですらある。この価値の道徳化は、左派(と思想)の歴史的な敗北なのだ。現実ですら、現実原則も、信仰箇条なのである。ためしに戦争の現実を問題にしてみなさい。すぐさまあなたは道徳の掟を裏切るものであるという判断を下されるのだ。右派と同じく左派も政治的な生命力を失ってしまった。いったい政治はどこに行ってしまったのだろう。何とまあ、極右の方に行ってしまったのだ。ブリュノ・ラトゥールがルモンド紙上でうまいことを云ったとおり、今日フランスにおける唯一の政治的な言説は、ルペンの言説なのだ。他の政治家の言説はみんな道徳的、教育的言説、教師、説教者、管理人、計画者の言説だ。悪と不道徳の烙印を捺されて、ルペンは政治の問題をすべてかっさらい、善と啓蒙の政治が置き去りにしたもの、あるいはまったく抑圧されているものを決算する。ルペンに反対する連盟が苛烈なものになるにつれて(これが政治的不能のしるしだ)、ますます彼は不道徳であること、ひとりだけ悪の側にあることの政治的な利益を引き出すことになる。右派が道徳的な価値と既成秩序の側に行ったとき、むかしの左派は政治的な価値の名において、この道徳的な価値そのものに挑みかかるのをためらうことがなかった。今日では、左派は同じ地滑り、同じ訴えの取り下げの犠牲になっている。道徳秩序を与えられた左派は、抑圧された政治的エネルギーが他のところで結晶化し、自らがそれに対抗して結晶化するのを見るしかない。美徳の支配、同時にこの上なく大きな偽善の支配を担うことによって、左派は悪に養分を与えることしかできない。ルペンはいい思いつきだ。この男が我々自身の呪わしい部分、我々のうちにある最悪の部分の真髄を解放してくれるのだ。この点において、この男を糾弾しなければならない。でももしルペンがいなくなったら、哀れなことに、我々は人種差別的、性差別的、国粋主義的(我々みんなの定めだ)なウィルス、あるいはまったく単純に社会的存在の殺人的な否定性の犠牲になってしまうだろう。このことのために、ルペンは政治家階級の鏡であり、我々が社会の機能に内在する腐敗を政治家階級のうちに追い払うのと同じように、政治家階級は自らの悪をルペンのなかに追い払うのである。ここには同じ腐敗の機能があり、同じ浄化の機能がある。これを根こぎにしようとすること、社会を純化して、公共生活を道徳化し、悪の代替物を清算しようとすることは、悪のメカニズムをまったく理解していないということを示すものであり、それは政治的なるものの形態そのものを理解していないということを示すのである。反ルペン主義者は、一方的な告発を弄し、この悪の可逆性をまったく知ることなく、このことによってルペンに独占を許し、ルペンの方は、自らが排斥されていることによって、難攻不落の立場をものにするのである。政治家階級は、美徳の名においてルペンに烙印を捺すことによって、ルペンにこの上なく居心地のいい立場を保証し、ここでルペンは、敵が正当性と大義を要求することによって、まるで買収されたかのように、自らルペンのために生み出す曖昧さと、悪の否認と、偽善の象徴的な負荷をすべてかっさらう以外のことはもはや何もするには及ばないのだ。ルペンのエネルギーは、ルペンの過ちを急いでルペンの利益にしようとする敵自身から生まれているのである。常に目の覚めるような仕返しをする悪を切り捨てることからは、決して善が帰結することはなく、そうではなくて、悪によって悪をうまく扱うことによってそうしなければならないのだということを、ルペンの敵は決して理解しなかった。これは、もしルペンがばかさ加減とだめさ加減を体現するものであるとしても(これはそのとおりだ)、それと同時に他のみんなのばかさ加減を示しているのであり、このとんでもない椅子とりゲイムがまったく理解できず、明晰性のまったくの欠如のなかで、この自らの亡霊、自らの二重否定に栄養を与えながら、ルペンと正面から闘うことのなかにあるばからしさと同時に、ルペンを告発することによって、自らの不能とばかさ加減も告発しているということなのである。左派が告発に凝り固まり、ルペンが発言の独占をするようなこの逆転した効果は何ものが与えているものなのだろうか。一方は罪のあらゆる利益を引き出し、一方は非難することからあらゆる否定的な効果を引き出しているのである。男は悪のなかで輝き、左派は犠牲者であることの罠にかかっているのだ。真実はまったく単純なことだ。ルペンをゲットーに閉じこめることによって、民主主義の左派が自ら閉じこもり、自らを差別的な権力として指し示し、自分の妄想のなかに自らを追放しているのだ。このときルペンが共和国における合法性を自分のために引き合いに出すのはまずいことではなく、さらにとりわけ、糾弾されるものの、不法で、想像的で、それと同時にとても深い特権のなかに身を置くのがまずいことではない。このようにして彼は同時に合法性と不法性の利益を享受できるのだ。この陶片追放から、彼は自由な言語、左派が自ら禁じるぶしつけな判断を引き出している。これは今日政治思想の代わりをするあの魔術的思想の一例だ。ルペンは移民を切り捨て排斥すると非難される。しかしこれはあらゆるレベルで行われている社会的排除の過程のなかでは一滴の水であるにしか過ぎない。そうしてこの共同体の責任の複雑で解き明かしがたい過程については、我々は全員共犯であり被害者である。よって我々の社会的かつ技術的な「進歩」に従って回折するこのウィルスを払いのけ、既にあらゆるところで転移がはじまっているというのに、唾棄すべき人間、制度、グループなどなどを、切除手術をすればすむような癌とみなすという、この排斥の呪いとそれを目の前にした我々の不能の悪魔祓いをするのは、典型的に魔術的な行いである。国民戦線(FN)は、腫瘍が切除されたと信じられても、組織全体に芽が発生しているからこそ、転移によって開かれた道をさらに大手を振って歩むことしかしていない。このFNに対する魔術的な転移は、FNが移民に対して転移を行うのとまったく同じしかたで行われるのだと考えるまでもない。単なる悪の透明性によって、肯定的なものが否定的なウィルスに変化し、自由の要請が「民衆的専制」に変わるようにするこの狡猾な伝染を警戒すべきである。ここには常にあの可逆性、理性的な知性が疑いをもつことがないあの巧妙な悪の渦巻きがある(現代の病理学は、肉体についてはこれほどに多くのことを教えてくれるのに、社会についてはそれを考慮することがない)。我々の民主主義社会は静止状態だ。ルペンは転移だ。社会全体は無気力と免疫不全で死にかけている。ルペンはこのウィルスの状態の目に見える転写であり、みごとな転移である。まるで夢と同じだ。ルペンはこの潜在的な状態、同等な量の強制的融合と体系的な排除でできた音のない無気力状態の滑稽な幻覚性の形象化である。この社会においては、社会の不平等を還元するという希望は(ほぼ)決定的に退けられたのだから、その恨みが人種間の不平等の方に移動するのを見ても驚いてはならない。社会的なものの失敗が、人種的なもの(とその他のあらゆる最終的な戦略)の勝利をなすのである。この意味において、ルペンのみがこの社会の野蛮な分析者だ。彼が極右であることは、左派にも極左にももうずいぶん前から分析者が存在しないことの悲しい結果である。確かに審判官ではなく、知識人でもないけれども、正反対の位置にいる移民だけが分析者の立場にあるのかもしれないが、ある種の良識が彼らのことを大幅に回収した。ルペンだけが右と左の区別の根本的な還元を行う。確かにこれは初期設定の還元だが、60年代以来、そして68年になされた決定的な批判は不幸なことに政治の世界から消えてしまった。このようにしてルペンは政治家階級が直面することを拒む状況(選挙のときにこれを消し去ろうとあらゆることをしさえする)を実際に回収するが、いつかこの状況から極端な結果を引き出さないわけにはいかないだろう。もしいつか政治的想像力、政治的要請と意志が復活することができるとしたら、無化されたうえに、これ自身が数十年の間自らを否認してきたこの化石的な区別、腐敗のなかでの共犯性によってしかもはや存在しえない区別の根本的な廃止のうえに立つものであるほかはない。事実のなかに消え去った区別だが、癒しがたい修正主義によって、ひとは執拗にこれを復活させるのであり、このようにしてルペンのことを唯一の新しい政治の世界を生み出す人間にするのである。これはあたかもみんなが民主主義の残存物を沈没させる共犯者になっているかのようだが、これはおそらく民主主義は確かに存在したという懐古的な幻想を抱かせるためのことなのだろう。ルペンという幻覚性の媒介を通して以外、つまりあらゆるエネルギーが尽きてしまう魔術的な悪魔祓い以外の方法で、この極端な(しかし根源的な)状況から結果を引き出す可能性が存在するだろうか。道徳秩序と民主主義の修正主義を越えて、ルペンとFNがある意味で我々から奪ったこの野蛮な分析のことをふたたび考慮するのでなければ、我々自身のうちの悪魔のウィルス的な増加にいかにして屈しないでいることができようか。
これはもちろん10年も前の話で、2002年のルペンショックの5年も前の記事です。ルペンは引退を表明し、FNは内紛が多く、ジャンマリーの引退の後に娘のマリーヌが同じ影響力をもちつづけることはまずありえません。かといって、受け皿のFNが無力になっても極右の問題が解決されるというわけではありません。
道徳的な政治家階級とジャーナリストが躍起になってルペンを攻撃したフランスと、みんながみんなえこひいき大作戦たもちゃんの論文のことを「政府の見解と異なる」と云って大歓迎している日本はまさに地球の裏表、ボードリヤールによると「民主主義がかつてあった国」と「民主主義がいまだあったためしのない国」のちがいでしょうか。日本はせいぜいたもちゃんにみんな生卵をぶつける国であってほしいものです。(それは民主主義の話ではないだろう、と云われればそうかもしれないが、それでも民主主義的感性の話はできると思う。) ボードリヤールがルペンに悪の烙印を捺す人々について警鐘を鳴らす世界だなんて夢のまた夢ですなあ。
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オバマが選出されたことについてどう思いますか。二番目の選択肢が、米国のことなのにまるで自分の国のことであるかのように考えるひとのことをばかにした感じでいいですね。
- 関係ない。大して変わらないことはもうわかっている。
- ロシアかセルビアにでも移住してしまおうかという気になる。
- むかつく。次回は女か小人にしたらどうか。
- うれしい。自分の業績しか示すものがないひとを相手にして選挙に勝つとはすばらしいことだ。
このブログで十年前のボードリヤールの文章が紹介されています(1997年にリベラシオン紙に発表されたもの)。本文の記事は一部を引用したものですが、あるコメントが全文を再録しています。ボードリヤールなんて趣味じゃないですけど、ちょっと訳してみましょう。この記事の内容はオバマのアンケートとはまったく(直接的には)関係ありません。
ばかものどもの悪魔祓い
危機的で解決不能の状況がふたつある。現代美術のだめさ加減と、ルペンに対する政治の不能である。このふたつは取り替えられ、入れ替えによって解決される。ルペンの政治にはまったく対抗できないという不能が、文化と文化神聖同盟の方面へと移動するのである。現代美術を疑問に付すことについては、これは反動的、非理性的、ひいてはファシズム的な思想からしか生じないものだ…。このばかものどものうやうやしい悪魔祓いに対して何を対抗させることができるだろうか。不幸なことに、この知性の堕落のメカニズムは、芸術の袋小路と同じく、国民戦線(FN)に対する闘争の袋小路も解決できない我らが「民主主義者」のエリートのうしろめたさと不能に想を得たものなのだから、何ものにもこれを正すことができない。もっとも単純な解決方法は、このふたつの問題を混同して、道徳をたれる詰問口調を用いることである。真の問題はこのとき次のようなものになる。どんなしかたでも、いかなるものであっても、突飛なこと、無礼なこと、異端のこと、逆説的なことを云ったら、自動的に極右になってしまうことなしに、もはや口を開くことができないのだろうか(はっきり云わなければならないが、これは極右に対する讃辞になってしまう)。すべての道徳的なもの、順応的なもの、日和見主義的なものは、伝統的に右派のものだったのに、どうしてこれが左派のものになってしまったのだろうか。見直してみると茫然とすることになる。右派が道徳的な価値を背負い、左派はその反対に、ある種の歴史と政治の拮抗する要請を背負っていたというのに、今日では、左派にはまったく政治的なエネルギーがなくなり、単なる道徳の権限、普遍的な価値の担い手、美徳の支配のリーダー、博物館入りするような真と善の価値の所持者、全員に説明を求めて、だれにもお返しに説明を与えない権限になりさがってしまったのである。野党にあって20年の間冷凍保存されていた左派の政治的な幻想は、権力を手にしたときに、歴史の意味を保持するものではなくて、ある歴史の道徳を抱えたものだとわかったのである。この幻想はある真実と権利と良識の道徳を抱えている。これは政治的なるものの水準地点であり、おそらく道徳の系譜の最低地点ですらある。この価値の道徳化は、左派(と思想)の歴史的な敗北なのだ。現実ですら、現実原則も、信仰箇条なのである。ためしに戦争の現実を問題にしてみなさい。すぐさまあなたは道徳の掟を裏切るものであるという判断を下されるのだ。右派と同じく左派も政治的な生命力を失ってしまった。いったい政治はどこに行ってしまったのだろう。何とまあ、極右の方に行ってしまったのだ。ブリュノ・ラトゥールがルモンド紙上でうまいことを云ったとおり、今日フランスにおける唯一の政治的な言説は、ルペンの言説なのだ。他の政治家の言説はみんな道徳的、教育的言説、教師、説教者、管理人、計画者の言説だ。悪と不道徳の烙印を捺されて、ルペンは政治の問題をすべてかっさらい、善と啓蒙の政治が置き去りにしたもの、あるいはまったく抑圧されているものを決算する。ルペンに反対する連盟が苛烈なものになるにつれて(これが政治的不能のしるしだ)、ますます彼は不道徳であること、ひとりだけ悪の側にあることの政治的な利益を引き出すことになる。右派が道徳的な価値と既成秩序の側に行ったとき、むかしの左派は政治的な価値の名において、この道徳的な価値そのものに挑みかかるのをためらうことがなかった。今日では、左派は同じ地滑り、同じ訴えの取り下げの犠牲になっている。道徳秩序を与えられた左派は、抑圧された政治的エネルギーが他のところで結晶化し、自らがそれに対抗して結晶化するのを見るしかない。美徳の支配、同時にこの上なく大きな偽善の支配を担うことによって、左派は悪に養分を与えることしかできない。ルペンはいい思いつきだ。この男が我々自身の呪わしい部分、我々のうちにある最悪の部分の真髄を解放してくれるのだ。この点において、この男を糾弾しなければならない。でももしルペンがいなくなったら、哀れなことに、我々は人種差別的、性差別的、国粋主義的(我々みんなの定めだ)なウィルス、あるいはまったく単純に社会的存在の殺人的な否定性の犠牲になってしまうだろう。このことのために、ルペンは政治家階級の鏡であり、我々が社会の機能に内在する腐敗を政治家階級のうちに追い払うのと同じように、政治家階級は自らの悪をルペンのなかに追い払うのである。ここには同じ腐敗の機能があり、同じ浄化の機能がある。これを根こぎにしようとすること、社会を純化して、公共生活を道徳化し、悪の代替物を清算しようとすることは、悪のメカニズムをまったく理解していないということを示すものであり、それは政治的なるものの形態そのものを理解していないということを示すのである。反ルペン主義者は、一方的な告発を弄し、この悪の可逆性をまったく知ることなく、このことによってルペンに独占を許し、ルペンの方は、自らが排斥されていることによって、難攻不落の立場をものにするのである。政治家階級は、美徳の名においてルペンに烙印を捺すことによって、ルペンにこの上なく居心地のいい立場を保証し、ここでルペンは、敵が正当性と大義を要求することによって、まるで買収されたかのように、自らルペンのために生み出す曖昧さと、悪の否認と、偽善の象徴的な負荷をすべてかっさらう以外のことはもはや何もするには及ばないのだ。ルペンのエネルギーは、ルペンの過ちを急いでルペンの利益にしようとする敵自身から生まれているのである。常に目の覚めるような仕返しをする悪を切り捨てることからは、決して善が帰結することはなく、そうではなくて、悪によって悪をうまく扱うことによってそうしなければならないのだということを、ルペンの敵は決して理解しなかった。これは、もしルペンがばかさ加減とだめさ加減を体現するものであるとしても(これはそのとおりだ)、それと同時に他のみんなのばかさ加減を示しているのであり、このとんでもない椅子とりゲイムがまったく理解できず、明晰性のまったくの欠如のなかで、この自らの亡霊、自らの二重否定に栄養を与えながら、ルペンと正面から闘うことのなかにあるばからしさと同時に、ルペンを告発することによって、自らの不能とばかさ加減も告発しているということなのである。左派が告発に凝り固まり、ルペンが発言の独占をするようなこの逆転した効果は何ものが与えているものなのだろうか。一方は罪のあらゆる利益を引き出し、一方は非難することからあらゆる否定的な効果を引き出しているのである。男は悪のなかで輝き、左派は犠牲者であることの罠にかかっているのだ。真実はまったく単純なことだ。ルペンをゲットーに閉じこめることによって、民主主義の左派が自ら閉じこもり、自らを差別的な権力として指し示し、自分の妄想のなかに自らを追放しているのだ。このときルペンが共和国における合法性を自分のために引き合いに出すのはまずいことではなく、さらにとりわけ、糾弾されるものの、不法で、想像的で、それと同時にとても深い特権のなかに身を置くのがまずいことではない。このようにして彼は同時に合法性と不法性の利益を享受できるのだ。この陶片追放から、彼は自由な言語、左派が自ら禁じるぶしつけな判断を引き出している。これは今日政治思想の代わりをするあの魔術的思想の一例だ。ルペンは移民を切り捨て排斥すると非難される。しかしこれはあらゆるレベルで行われている社会的排除の過程のなかでは一滴の水であるにしか過ぎない。そうしてこの共同体の責任の複雑で解き明かしがたい過程については、我々は全員共犯であり被害者である。よって我々の社会的かつ技術的な「進歩」に従って回折するこのウィルスを払いのけ、既にあらゆるところで転移がはじまっているというのに、唾棄すべき人間、制度、グループなどなどを、切除手術をすればすむような癌とみなすという、この排斥の呪いとそれを目の前にした我々の不能の悪魔祓いをするのは、典型的に魔術的な行いである。国民戦線(FN)は、腫瘍が切除されたと信じられても、組織全体に芽が発生しているからこそ、転移によって開かれた道をさらに大手を振って歩むことしかしていない。このFNに対する魔術的な転移は、FNが移民に対して転移を行うのとまったく同じしかたで行われるのだと考えるまでもない。単なる悪の透明性によって、肯定的なものが否定的なウィルスに変化し、自由の要請が「民衆的専制」に変わるようにするこの狡猾な伝染を警戒すべきである。ここには常にあの可逆性、理性的な知性が疑いをもつことがないあの巧妙な悪の渦巻きがある(現代の病理学は、肉体についてはこれほどに多くのことを教えてくれるのに、社会についてはそれを考慮することがない)。我々の民主主義社会は静止状態だ。ルペンは転移だ。社会全体は無気力と免疫不全で死にかけている。ルペンはこのウィルスの状態の目に見える転写であり、みごとな転移である。まるで夢と同じだ。ルペンはこの潜在的な状態、同等な量の強制的融合と体系的な排除でできた音のない無気力状態の滑稽な幻覚性の形象化である。この社会においては、社会の不平等を還元するという希望は(ほぼ)決定的に退けられたのだから、その恨みが人種間の不平等の方に移動するのを見ても驚いてはならない。社会的なものの失敗が、人種的なもの(とその他のあらゆる最終的な戦略)の勝利をなすのである。この意味において、ルペンのみがこの社会の野蛮な分析者だ。彼が極右であることは、左派にも極左にももうずいぶん前から分析者が存在しないことの悲しい結果である。確かに審判官ではなく、知識人でもないけれども、正反対の位置にいる移民だけが分析者の立場にあるのかもしれないが、ある種の良識が彼らのことを大幅に回収した。ルペンだけが右と左の区別の根本的な還元を行う。確かにこれは初期設定の還元だが、60年代以来、そして68年になされた決定的な批判は不幸なことに政治の世界から消えてしまった。このようにしてルペンは政治家階級が直面することを拒む状況(選挙のときにこれを消し去ろうとあらゆることをしさえする)を実際に回収するが、いつかこの状況から極端な結果を引き出さないわけにはいかないだろう。もしいつか政治的想像力、政治的要請と意志が復活することができるとしたら、無化されたうえに、これ自身が数十年の間自らを否認してきたこの化石的な区別、腐敗のなかでの共犯性によってしかもはや存在しえない区別の根本的な廃止のうえに立つものであるほかはない。事実のなかに消え去った区別だが、癒しがたい修正主義によって、ひとは執拗にこれを復活させるのであり、このようにしてルペンのことを唯一の新しい政治の世界を生み出す人間にするのである。これはあたかもみんなが民主主義の残存物を沈没させる共犯者になっているかのようだが、これはおそらく民主主義は確かに存在したという懐古的な幻想を抱かせるためのことなのだろう。ルペンという幻覚性の媒介を通して以外、つまりあらゆるエネルギーが尽きてしまう魔術的な悪魔祓い以外の方法で、この極端な(しかし根源的な)状況から結果を引き出す可能性が存在するだろうか。道徳秩序と民主主義の修正主義を越えて、ルペンとFNがある意味で我々から奪ったこの野蛮な分析のことをふたたび考慮するのでなければ、我々自身のうちの悪魔のウィルス的な増加にいかにして屈しないでいることができようか。
これはもちろん10年も前の話で、2002年のルペンショックの5年も前の記事です。ルペンは引退を表明し、FNは内紛が多く、ジャンマリーの引退の後に娘のマリーヌが同じ影響力をもちつづけることはまずありえません。かといって、受け皿のFNが無力になっても極右の問題が解決されるというわけではありません。
道徳的な政治家階級とジャーナリストが躍起になってルペンを攻撃したフランスと、みんながみんなえこひいき大作戦たもちゃんの論文のことを「政府の見解と異なる」と云って大歓迎している日本はまさに地球の裏表、ボードリヤールによると「民主主義がかつてあった国」と「民主主義がいまだあったためしのない国」のちがいでしょうか。日本はせいぜいたもちゃんにみんな生卵をぶつける国であってほしいものです。(それは民主主義の話ではないだろう、と云われればそうかもしれないが、それでも民主主義的感性の話はできると思う。) ボードリヤールがルペンに悪の烙印を捺す人々について警鐘を鳴らす世界だなんて夢のまた夢ですなあ。
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