鈴木孝夫先生の『日本語と外国語』(岩波新書、1990年)は、全体的には悪い本ではありませんが、ところどころ妙なことが書いてあります。日本語における漢字の使用の利点を述べ、欧米語におけるギリシア・ラテン語起源の「高級語」の意味がわかりにくいことを主張したいがあまり、こういうことを云っています。
もひとつおまけに。
もちろん漢字を用いた表記の方が、こういった欧米語の「高級語」よりもわかりやすいということは云えるでしょう。こういった「高級語」、あるいは「学者語」がクイズになるというのは本当です。日本語の「養蜂業」はクイズになりにくいでしょう。でもフランス語でなら、「蜜蜂を飼う職業は何というか」、あるいは「apiculture ってなあに?」というクイズがありえます(後者は子供向けかな。前者は「いざ聞かれると出てこない」ということがありえます)。それに「漢字を用いた表記が日本人にはわかりやすい」からといって、「それがどうしたの?」という気がしないでもありません。
日本人にとっての漢字ほどに一目瞭然でないとはいっても、初めて見た、聞いた「高級語」が欧米人にとって謎にとどまるということはありません。たとえばフランス語にはostréiculture という単語があります。初めて見ると何ものかわかりませんが、後半に -culture という要素がくっついているので、「何かを育てることだろう」と見当がつきます。それでその後に ostréi- という要素をよくにらめると、「育てる」ものを考えてゆくうちに、だいたい huître (「牡蠣」)のことではないかと想像がつきます。Iの上の山(アクサン・シルコンフレックス)はこの際 S が省略されていることを示しています。英語で「牡蠣」は oyster です。この ostréiculture という単語を一度も見たことがなくても、だいたいの見当はつきます。英語では oyster farming というそうなので、英語の方が古典語の教養から離れているということは云えますが、言語学を真剣に勉強している英語話者が ostréiculture (「カキ養殖」)というフランス語の単語を見て、まったく意味の見当がつかないということはまずありえないでしょう。岩波新書に書いてあることは信用してしまうひとがいるのだから、もう少し注意して書いてもらいたいものです。
ちょっと脱線します。「高級語」のような姿をしていても、実際にはそうではないということがありえます。フランス語の会話でよく「ミト」という音を耳にすることがあります。チャットでもさまざまなつづり(mytho, *mito, *myto)でよく見かけます。この単語は mythomane を省略したものです。見た目は古典ギリシア語起源の由緒正しい単語ですが、実はこれは由緒正しい高級語ではなくて、比較的に新しい単語です。「神話」を意味する mytho- と「…狂、マニア」を意味する -mane からなりますが、これは「神話マニア」の意味ではなくて、「うそつき」のことです(もとは「病的虚言癖があるひと」のことですが、頻繁に日常語として用いられます)。「だったらこれを mytho と省略するのはおかしいんじゃないの? 要素がふたつあって「うそつき」になるんでしょ?」というひともいらっしゃるでしょうが、まったくそのとおりです。他にも似たような例があります。「女性憎悪」は misogyne (ひと)ですが、これは「嫌い」を意味する miso- と「女」を意味する -gyne からなります。でも、mytho ほどよく聞くことばではありませんが、これを略して miso (「ミゾ」。「ミソ」ではない)ということがあります。理屈からいうと、まったく省略のしかたがおかしいんですが、これは口頭語ですから。ひとではない事象の方は misogynie です。(カタカナで「ミソジニー」(あるいは「ミゾジニー」)と書いているのを見ると「ばかかな」と思う。ちなみにこの反対の「男性憎悪」はmisandre, misandrie ですが、ほぼ用いられません。Androgyne は「オトコオンナ」ですな。)
フランスのラッパーに Doc Gynéco というひとがいますが、これは「産科の先生」の意味です(日本の産科のイメージだとわかりにくいと思うのですが、いちばんそのものずばりの「お医者さんごっこ」のエッチな名前です)。「産婦人科(医)」は gynécologie (gynécologue)です。「女性に関する学問」だとわかるでしょう。(厳密には「産科医」は obstétricien で、gynécologue は「婦人科医」です。だから「産婦人科医」は gynécologue obstétricien ですが、だいたい gynécologue ですむと思います。)
脱線しました。鈴木孝夫先生の本は、言いたいことはだいたいわかるのだが、何とも納得のいかない記述が多いのです。今の世界で英語がでかい顔をしているのは私もいやですが、勢いあまっておかしなことを云うと、下手をすれば「西洋の教養を甘く見る」ことになってしまうので、これはもう少し注意をしていただきたいものだと思います。
題名の「変な悪夢」というのは、ハル・ウィルナープロデュースもののなかでも最高傑作ではないかと思われるミンガス作品集の題名(Weird Nightmare)です。この記事の内容とは、「猿人」の話をしたこと以外は、まったく関係ありませんが、一聴をお勧めします。
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英語のこの難しさは、何も外国人である日本人にとってだけではなく、英語を母語とする人々にとっても厄介なのだ。私は米国のある著名な大学で、日本語の漢字のしくみについての講演を行った際に、黒板に pithecanthrope と大書してその意味を聴衆に尋ねたところ、誰一人として答えられなかった。これは日本語の猿人に当る語で、pithec- の部分はギリシャ語の猿を意味する πιθηκος に由来し、-anthrope は人間を指す ανθρωπος である。ひとはわかりきったことをおおまじめに聞かれると、「このひとは本当にこんなことを聞いているのだろうか」と思って萎縮してしまいます。「結果はいつも同じ」だったのは、きっと鈴木先生の聞き方が悪かったのでしょう。特に相手が学者だと、「きっと何か専門の知識を要求しているのだろう」と思ってだれも答えないでしょう。それに、いくら何でも聴衆のなかに「そう云えばミンガスに Pithecanthropus erectus ってあるよなあ」と思ったひとがひとりもいなかったとは信じられません。Pithec- という要素が何を意味しているのかわからなかったということはあるかもしれませんが、この単語が何を意味しているのか、どこの国に行ってもだれも知らなかったということはありえません。
この集まりは文化・社会系の大学院生や教授たちが主であったこともあろうが、それでも日本で黒板に「猿人」と書いて、何十人もの一般知識人のなかに一人も理解できるひとがいない状況を想像できるだろうか。私はこの種の実験をカナダやイギリスでも何度か行ったが、結果はいつも同じであった。
さきに挙げたような高級語彙の多くは、教養ある英米人にとっても難しいのである。
もひとつおまけに。
この日本語[「蜂食性」]に対応する英語のapivorous とは、ラテン語の apis (蜂)と《食べる性質の》を表わす -vorus の組合せなのであって、その意味はまさに蜂食性なのである。この語はしかし、英語では生物学者にしか分からない専門語である。「蜂食性」をかなで書いたり(「ほうしょくせい」)ローマ字で書いたりしても(hôshokusei)意味がわからないが、漢字で書くとあら不思議、意味が手にとるようにわかりますという論旨はそのとおりなのですが、apivorous という単語が「生物学者にしかわからない」ということはありえません。(まあ、もしかしたら英語話者はフランス語話者よりもばかなのかもしれんがのお。) 鈴木先生は「蜂食性」ということばを初めて聞いても、漢字をみれば意味がわかるということを云います。私は apivorous という単語を初めて見ましたが、それでも意味を云われなくてもだいたいの想像がつきます。Apiculture は「養蜂業」(フランス語ではもっぱらこの単語を用いますが、英語では beekeeping という方が普通なのかもしれません)で、carnivorous (フランス語では carnivore)は「肉食性」ですから、字面をよおく見ると、これは「蜂を食べる」という意味だとわかります。生物学者ではなくとも、多少の古典的教養があればわかることです。
もちろん漢字を用いた表記の方が、こういった欧米語の「高級語」よりもわかりやすいということは云えるでしょう。こういった「高級語」、あるいは「学者語」がクイズになるというのは本当です。日本語の「養蜂業」はクイズになりにくいでしょう。でもフランス語でなら、「蜜蜂を飼う職業は何というか」、あるいは「apiculture ってなあに?」というクイズがありえます(後者は子供向けかな。前者は「いざ聞かれると出てこない」ということがありえます)。それに「漢字を用いた表記が日本人にはわかりやすい」からといって、「それがどうしたの?」という気がしないでもありません。
日本人にとっての漢字ほどに一目瞭然でないとはいっても、初めて見た、聞いた「高級語」が欧米人にとって謎にとどまるということはありません。たとえばフランス語にはostréiculture という単語があります。初めて見ると何ものかわかりませんが、後半に -culture という要素がくっついているので、「何かを育てることだろう」と見当がつきます。それでその後に ostréi- という要素をよくにらめると、「育てる」ものを考えてゆくうちに、だいたい huître (「牡蠣」)のことではないかと想像がつきます。Iの上の山(アクサン・シルコンフレックス)はこの際 S が省略されていることを示しています。英語で「牡蠣」は oyster です。この ostréiculture という単語を一度も見たことがなくても、だいたいの見当はつきます。英語では oyster farming というそうなので、英語の方が古典語の教養から離れているということは云えますが、言語学を真剣に勉強している英語話者が ostréiculture (「カキ養殖」)というフランス語の単語を見て、まったく意味の見当がつかないということはまずありえないでしょう。岩波新書に書いてあることは信用してしまうひとがいるのだから、もう少し注意して書いてもらいたいものです。
ちょっと脱線します。「高級語」のような姿をしていても、実際にはそうではないということがありえます。フランス語の会話でよく「ミト」という音を耳にすることがあります。チャットでもさまざまなつづり(mytho, *mito, *myto)でよく見かけます。この単語は mythomane を省略したものです。見た目は古典ギリシア語起源の由緒正しい単語ですが、実はこれは由緒正しい高級語ではなくて、比較的に新しい単語です。「神話」を意味する mytho- と「…狂、マニア」を意味する -mane からなりますが、これは「神話マニア」の意味ではなくて、「うそつき」のことです(もとは「病的虚言癖があるひと」のことですが、頻繁に日常語として用いられます)。「だったらこれを mytho と省略するのはおかしいんじゃないの? 要素がふたつあって「うそつき」になるんでしょ?」というひともいらっしゃるでしょうが、まったくそのとおりです。他にも似たような例があります。「女性憎悪」は misogyne (ひと)ですが、これは「嫌い」を意味する miso- と「女」を意味する -gyne からなります。でも、mytho ほどよく聞くことばではありませんが、これを略して miso (「ミゾ」。「ミソ」ではない)ということがあります。理屈からいうと、まったく省略のしかたがおかしいんですが、これは口頭語ですから。ひとではない事象の方は misogynie です。(カタカナで「ミソジニー」(あるいは「ミゾジニー」)と書いているのを見ると「ばかかな」と思う。ちなみにこの反対の「男性憎悪」はmisandre, misandrie ですが、ほぼ用いられません。Androgyne は「オトコオンナ」ですな。)
フランスのラッパーに Doc Gynéco というひとがいますが、これは「産科の先生」の意味です(日本の産科のイメージだとわかりにくいと思うのですが、いちばんそのものずばりの「お医者さんごっこ」のエッチな名前です)。「産婦人科(医)」は gynécologie (gynécologue)です。「女性に関する学問」だとわかるでしょう。(厳密には「産科医」は obstétricien で、gynécologue は「婦人科医」です。だから「産婦人科医」は gynécologue obstétricien ですが、だいたい gynécologue ですむと思います。)
脱線しました。鈴木孝夫先生の本は、言いたいことはだいたいわかるのだが、何とも納得のいかない記述が多いのです。今の世界で英語がでかい顔をしているのは私もいやですが、勢いあまっておかしなことを云うと、下手をすれば「西洋の教養を甘く見る」ことになってしまうので、これはもう少し注意をしていただきたいものだと思います。
英語の場合では、耳で聴いて意味の分からない高級語彙は、たとえそれを紙に書いたものを見ても ― ということは、文字表記を与えられても―、はじめ聴いて分からなかったものは、いくら眺めても分からないのである。理解できない原因は、それが見慣れぬ古典語要素から出来ているからだ。「偉い先生が云っているのだからきっとそうなのだろう」と思ってしまうひともいるのではないかと危惧します。そんなに西洋の教養の伝統は甘くないのです。「古典語要素」を見慣れている教養人は、もちろんそれが人口の大半を占めているわけはありませんが、それでもたくさんいます。「Pithecanthrope という単語を知っているひとはだれもいない」と主張するのは滑稽です。鈴木先生は西欧人が日常生活をいかに生きているのかを理解しようとするという点で、凡百の学者とは一線を画すひとでありますが、それだからこそ残念なことだと思います。
しかし、日本語の場合はまったくちがう。
題名の「変な悪夢」というのは、ハル・ウィルナープロデュースもののなかでも最高傑作ではないかと思われるミンガス作品集の題名(Weird Nightmare)です。この記事の内容とは、「猿人」の話をしたこと以外は、まったく関係ありませんが、一聴をお勧めします。
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