2008年11月4日火曜日

第二次南北戦争?

 残念ながらランディ・ニューマンの新作はまだ聴いていないのですが、ランディ・ニューマンは後回しということではなく、最近CDをまったく買っていないのです。
 1972年のランディ・ニューマンの歌「政治学」の歌詞です。おまけブログの前の記事とだぶるけど、まあ問題ないでしょう。

政治学

俺たちはみんなに嫌われる。どうしてなんだろう。
俺たちも完全ではないだろうけど、俺たちが努力していることは神様が知っている。
なのに世界中でむかしからの友だちにさえこきおろされる。
ドカーンと一発落としてやったらどうなることかな。

奴らにお金はやった。でも奴らは感謝しているのか。
いいや、奴らは意地が悪くて憎たらしい。
俺たちのことを尊敬していない。だったらびっくりさせてやろう。
ドカーンと一発落として、粉々にしてやろう。

アジアはひとが多すぎで、ヨーロッパは古すぎ。
アフリカは暑すぎで
カナダは寒すぎ。
ラテンアメリカは俺たちの名前を盗んだ。
ドカーンと一発落とせば
もう俺たちのことを責めるやつはいなくなる。

オーストラリアはとっておこう。
カンガルーを傷つけたくはないからな。
全米アミューズメントパークをつくって
サーフィンで楽しませてやろう。

ロンドン、ドカーン、パリ、ドカーン。
きみと俺の居場所がもっと増える。
世界中のあらゆる町が
アメリカの町になる。
ああ、何と平和な世界になるだろう。
みんなを自由にしてやるのだ。
きみは日本の着物を着て、
俺にはイタリアの靴が用意されている。

でも結局奴らは俺たちのことが嫌いなのだ。
だからドカーンと一発落としてやろう。
ドカーンと一発落としてやろう。

 1972年の歌なのにブッシュの心情を言い当てるとは、ランディ・ニューマンは予言者か、と思ってしまいますね。全然ちがうのに、なぜかランディ・ニューマンと比べられることの多かったウォーレン・ジヴォン(合掌)の「使節を送れ」という歌も、1982年の歌なのに21世紀の世界情勢を歌っています(あきれるほどに時代が変わっていないだけの話か)。
 1974年のランディ・ニューマンの歌には「どん百姓」というものがあります。

どん百姓

ゆうべテレビでレスター・マドックスを見た
何だか皮肉っぽいニューヨークのユダ公も出ていた
ユダ公はレスター・マドックスのことを笑い
観客もレスター・マドックスのことを笑った
確かに彼は道化なのかもしれないが、私たちの道化なのだ
このひとたちが自分は彼よりもいい人間だと思っているのならそれはまちがいだ
それで私は紙をもって公園に行き
そこでこの歌をつくりました

ここでは俺たちゃしゃべくってりゃ楽しいし、飲みすぎででかい声で話す
俺たちは頭が悪すぎて、北部の町ではこんなことはできないな
それに俺たちは黒んぼのことを踏みつけにしつづけているのだ

テキサスの首がないガソリンスタンドの男
テネシーの気さくなあんちゃん
ルイジアナ州立大学の学生
入学したときはばかだったが卒業してもばかだった
アトランタあたりでワニ革の靴で騒いで
週末はいつもバーベキューで酔っぱらい
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
ケツの穴と地面に掘った穴の区別もつきやしない
俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

北部の方では今やニガーはニグロなんだそうで
尊厳を獲得したらしい
ここでは俺たちゃあんまり無知なもので
北部じゃ黒んぼが自由になったということも知らなんだよ

そう、ニューヨークのハーレムでは
黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにシカゴのサウス・サイドでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
ウェスト・サイドでもそうらしい
それにクリーヴランドのハフでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それに東セントルイスでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにサンフランシスコのフィルモアでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
それにボストンのロクスベリーでは黒んぼは牢屋にぶち込まれるのが自由だ
何マイルも離れたところで黒んぼを集めて
やつらは黒んぼを踏みつけにしつづけているのだ

俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
ケツの穴と地面に掘った穴の区別もつきやしない
俺たちゃどん百姓、どん百姓だ
それでもって黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ
黒んぼは踏みつけにしつづけているのだ

 レスター・マドックスは60年代末の人種隔離政策のジョージア州知事で、「皮肉っぽいユダ公」は『ベン・ハー』の脚本で有名なゴア・ヴィダルです。ゴア・ヴィダルは米国の良識を絵に描いたようなひとだと云えるでしょう。74年にして、偽善を感じさせる「良識派」に対する反感と、「無教養な田舎もの」に対する、皮肉でありながらもやさしさを示していたこの歌はまったく例外的なものです。(今では考えられないことですが、当時はこんな歌詞の歌なのにシングルまで出ています。)
 私はマケインとオバマの闘いが人種の闘いであるとはまったく思いませんが、この「オバマニア」を見ていると、フランスの「サルコマニア」のことを思い出します。つまり「頭がいいひとにはサルコジのよさがわかる」というような雰囲気が大統領選前のフランスにはあったのです。そのまんま「裸の王様」ですが、このようなサルコマニアを正面切ってばかにしていたのは、「社会的に適切とされる表現」をあえて避けようとする傍流メディアばかりでした。
 オバマにたいする心酔にも似たような空気が感じとられます。何だかわからないけれども、まじめに社会のことを考えている頭のいい人間ならば、オバマのよさがわかってしかるべきなのです。その一方で、場末の酒場で安酒を飲んで酔っ払っている、保守的で貧乏な、気のいい下品なあんちゃんは、オバマとオバマニアに相手にされていないような気がします。
 Causeur.fr にフランス語訳が載っていた記事に、フィリス・チェスラーというひとの書いた「選挙前の心身症的ヒステリア」(リンクは英語のオリジナルの方ですが、私はフランス語訳の方しか読んでいません)というものがあります。この記事によると、イスラム学者のフワッド・アジャーミさんは、エリアス・カネッティを引き合いに出しながら、米国のオバマ支持者は、ますますアラブ世界の群衆のように行動していると考えています。すなわち指導者に対する熱烈な情熱と盲信をもって行動しているのです。落ち着きと良識を失って、神秘的な脱自の状態にある陶酔したセクト信者のように行動する何百万人もの米国人に対して、チェスラーさんは不安を抱いています。
 チェスラーさんの友人も例外ではありません。彼女の友人であるエリカ・ジョング(『飛ぶのが怖い』でおなじみ、といっても今やだれも読みませんかね)は、もしオバマが当選しなかったら、第二次南北戦争が起こるのではないか、と思って、怖くて夜も眠れないのだそうです。ジェイン・フォンダも同じように、「共和党が卑劣な選挙妨害をして、第二次南北戦争が起こる」という不安で、一晩中泣いてばかりいたのだそうです。エリカ・ジョングは、ブッシュがイラクから兵を呼び戻したのは、オバマが落選したことに抗議する人々の鎮圧のためなのではないか、ということも云ったのだそうです。
 オバマもマケインも熱心に支持していない冷静なチェスラーさんは、こういう意見から距離を置いて、この記事のなかで、「19世紀の三流小説から出てきた哀れなヒステリー女のようなふるまい」をしないように友人をなだめています。
 エリカ・ジョングのようなインテリ層はオバマを支持していますが、そのインテリ層がオバマが負けたことを想定したときには、「不正に行われた選挙に対して平和的なデモをする都会的なオバマ支持者」を「すぐに袖をまくりあげる無教養な田舎のむくつけき男の親玉であるブッシュ&チェニーとその軍隊」が弾圧することが想像されてしまうのです。実際に第二次南北戦争が起こることはまずありえないでしょうが、「良識派の群衆」と「無教養な群衆」の対立は、現代の社会において実に典型的な対立です。それでも「良識派の群衆」は、「無教養な群衆」と同じように群衆として行動するのですが。
 だいたいチェスラーさんもマケイン支持者の側には、まるでメシアをまつりあげているかのようなオバマ支持者のような熱狂はないと云っています。「無教養な群衆に支えられた共和党は、国民に対する軍事弾圧も辞さない」というエリカ・ジョングのようなひとの「想像力」こそが、この場合は有害なものだと云えるのではないでしょうか。インテリ層がそこに見たいと思う「けんかっぱやい無教養な群衆」と、マケイン候補とその支持者のイメージは、いかに遠いことでしょうか。

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