フランスにいるときにちょっと疑問に感じたのは、「動物には何語で話したらいいのか」ということでした。やっぱりフランス語だろう、と思って犬猫にはフランス語で話していたのだけれども、その結果日本に帰ってきても散歩をしながらついつい通りすがりの猫にフランス語で話しかけてしまうことがあります。果たして陸奥湾沿いの野良猫がフランス語を解するかどうかはわからないけれども、ここは気持ちの問題ですからね。
一部で再燃の様相を見せているらしい『水からの伝言』問題に関しても、「どうして水に日本語がわかるのか」という言いがかりに近い反論が寄せられることがあります。しかしもちろん言語は問題ではありません。真心の問題なのです。だからフランス人は「はあ?」と思ってしまうような日本人のカタカナ発音の「メルシー」に対しても、心がこもってさえいれば、水は何の問題もなくよい反応を見せるのです。
この『水からの伝言』の話を聞いた米国人が、「これはいい話だ」と思い、水に話しかけようとしました。しかしこのひとは水に対しては日本語で話しかけなければならないと思ったのです。でも日本語の感謝のことばがどうしても思い出せません。確か「アリゲーター」だったろうか、「クロコダイル」だったろうか、と思い、両方云ってみたものの、いまひとつ確信がもてず、See you later, alligator. Mean a while, crocodile と踊りながら歌ってみたところ、このときも水はやはり美しい結晶をつくったということです。これに気をよくした米国人が今度はピアノをかき鳴らしながら「火の玉ロック」を水に対して歌うと、むかしながらのロックンロールに昂奮した水は急速に沸騰し、男は大やけどを負って病院に運ばれたということです。
このように水は結晶するだけが能ではなく、きわめて柔弱な性格を見せます。しかし我々はひとつ重要なことを見失っていないでしょうか。そう、水の人格です。私はフランスにいても日本にいても、フランス語で猫に話しかけることができますが、しかしこのとき猫の人格は無視されています。「きっと私のことばはわかってもらえるだろう」という私の真心は通じるとしても、かけがえのない猫の単独性が無視されているのです。これは猫を愛するものにあってはならない態度でしょう。(私は別に猫好きではありません。)
水だから、H2Oだからといってすべて同じ水だと考えるのはおおまちがいです。さまざまな要素を含んだ水にはそれぞれの性格があるのです。確かにエヴィアンに「ありがとう」と日本語で話しかけても気持ちは通じます。それでももしあなたが本当に水を愛するなら、フランス語を勉強して正確な発音で Merci と云うべきです。それが水の気持ちを考える、水の立場に立つということです。「水は私の気持ちをわかってくれる」と思って、水に甘えていてはいけません。あなたの側にも「水に近づく努力」が必要とされるのです。
水を愛するものは、えてして銘柄つきの水を愛する傾向があります。しかし水道水だって水です。泥水だって水です。しかしこのような水の博愛主義が水自身に通用するかどうかはまた別の問題です。自分の目の前に泥水を見せつけられた蒸留水はどのような結晶をつくるでしょうか。ここで汚い結晶をつくった蒸留水のことを、あなたには責めることができますか。あなたは水を愛しています。それはすばらしいことです。しかし水が自分の仲間を毛嫌いするからといって、あなたには責めることができるでしょうか。犬が互いに吠え合うのはしようのないことです。犬には人間の理性がないのです。では水はどうでしょうか。水がいがみ合ったからといって、驚くにはあたらないことのように思えます。
これからの時代、フランスから来た水が日本の水道水をばかにする、あるいは日本の水がフランスの水にへつらう、日本の誇り高い名山の水が自虐史観を批判するなどということが見られるかと思います。ミネラルウォーターと蒸留水の主張の間には、決して埋めることのできない隔たりがあります。このようなときに、「水のみなさん、争いごとはいけません」と云っても、そのことばは届きません。私たち人間にできることは、水それぞれの言い分を聞き、たとえ意見はちがっても、それぞれの人格を尊重する、ということだと思います。何しろ水のことですから、「天皇」という文字を見せたらうじがわいてしまうような反日日本原住民論の水に出会ったとしても、決して驚いてはいけません。
このような寛容はむずかしいものです。もう何年も前のことになりますが、フランスの発泡水バドワのテレビコマーシャルで、制服を着たにこりともしない日本人がザッザッと列を組んで行進してレストランに入っていくが、バドワを飲んだ途端みんな楽しく大騒ぎというものがありました。このことから考えると、もしかしたらバドワは、日本人がまじめに「ありがとう」の文字を見せても、おちゃらけた結晶をつくるかもしれません。このときに「何だ!お前は日本人をばかにしているのか!」と怒ってはいけません。あなたは人間、相手はフランスから来たとはいっても、たかが水です。あなたの思ったとおりの反応をしなかったからと云って、水を責めないでください。
水の理解能力を過信するのも問題でしょう。たとえばあなたは水に対して「戦争のない平和な世界」と云います。書いてあれば問題ないのでしょうが、なかには格好をつけようとして、「戦争」と聞いた途端に汚い結晶をつくってしまうおっちょこちょいな水もいるかもしれません。フランスの水に対して「愛」と云った場合は、この水は間投詞の aïe 「いてててて」を思ってちょっとびっくりした結晶をつくってしまうかもしれないし、あるいは正反対の「憎む」haïr の過去分詞を思ってしまうかもしれません。果たしてどこまで水に対して真心が通じるのか、むずかしいところだと思います。
サド侯爵の『ジュリエットの話』のなかで、登場人物のデルベーヌ夫人は、「私たちは死者といっしょに食べものや飲みものを埋める民族の素朴さを笑いますが、私たちがよく考えるように、死者が喜ぶだろう、悲しむだろうと信じることは、未開の民族のひとが死者も飲み食いするだろうと考えることとどこかちがうのでしょうか」と云います。『水からの伝言』を批判するひとのなかにも、「じっちゃんのため!」と叫ぶ金田一秀穂少年のことは笑えないひとがかなり多いのではないでしょうか。
ちょっと思ったのですけれど、『みずからの伝言』という題名は自分で自分に話すというナルシス的なものではないのでしょうか。「ありがとう」ということばが自らに向けられているという、そんな感じではないかと思うのですが。この江本さんというひとは『自分を愛するということ』という本も書いているようですし。何てきみは美しいんだ、と水に話しかける人々。エコーが繰り返すのはお約束。
関係ないけど、荒川洋治が「松浦久輝の散文詩は一言で云うと『水の向こうからあなたが手を振る』だ」と云っていたな。松浦久輝ってむかしは詩人から小説家になったポール・オースターのことを安易な道に走ったと批判していたなあ、そういえば。
前の記事 コーベとかネモについて
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一部で再燃の様相を見せているらしい『水からの伝言』問題に関しても、「どうして水に日本語がわかるのか」という言いがかりに近い反論が寄せられることがあります。しかしもちろん言語は問題ではありません。真心の問題なのです。だからフランス人は「はあ?」と思ってしまうような日本人のカタカナ発音の「メルシー」に対しても、心がこもってさえいれば、水は何の問題もなくよい反応を見せるのです。
この『水からの伝言』の話を聞いた米国人が、「これはいい話だ」と思い、水に話しかけようとしました。しかしこのひとは水に対しては日本語で話しかけなければならないと思ったのです。でも日本語の感謝のことばがどうしても思い出せません。確か「アリゲーター」だったろうか、「クロコダイル」だったろうか、と思い、両方云ってみたものの、いまひとつ確信がもてず、See you later, alligator. Mean a while, crocodile と踊りながら歌ってみたところ、このときも水はやはり美しい結晶をつくったということです。これに気をよくした米国人が今度はピアノをかき鳴らしながら「火の玉ロック」を水に対して歌うと、むかしながらのロックンロールに昂奮した水は急速に沸騰し、男は大やけどを負って病院に運ばれたということです。
このように水は結晶するだけが能ではなく、きわめて柔弱な性格を見せます。しかし我々はひとつ重要なことを見失っていないでしょうか。そう、水の人格です。私はフランスにいても日本にいても、フランス語で猫に話しかけることができますが、しかしこのとき猫の人格は無視されています。「きっと私のことばはわかってもらえるだろう」という私の真心は通じるとしても、かけがえのない猫の単独性が無視されているのです。これは猫を愛するものにあってはならない態度でしょう。(私は別に猫好きではありません。)
水だから、H2Oだからといってすべて同じ水だと考えるのはおおまちがいです。さまざまな要素を含んだ水にはそれぞれの性格があるのです。確かにエヴィアンに「ありがとう」と日本語で話しかけても気持ちは通じます。それでももしあなたが本当に水を愛するなら、フランス語を勉強して正確な発音で Merci と云うべきです。それが水の気持ちを考える、水の立場に立つということです。「水は私の気持ちをわかってくれる」と思って、水に甘えていてはいけません。あなたの側にも「水に近づく努力」が必要とされるのです。
水を愛するものは、えてして銘柄つきの水を愛する傾向があります。しかし水道水だって水です。泥水だって水です。しかしこのような水の博愛主義が水自身に通用するかどうかはまた別の問題です。自分の目の前に泥水を見せつけられた蒸留水はどのような結晶をつくるでしょうか。ここで汚い結晶をつくった蒸留水のことを、あなたには責めることができますか。あなたは水を愛しています。それはすばらしいことです。しかし水が自分の仲間を毛嫌いするからといって、あなたには責めることができるでしょうか。犬が互いに吠え合うのはしようのないことです。犬には人間の理性がないのです。では水はどうでしょうか。水がいがみ合ったからといって、驚くにはあたらないことのように思えます。
これからの時代、フランスから来た水が日本の水道水をばかにする、あるいは日本の水がフランスの水にへつらう、日本の誇り高い名山の水が自虐史観を批判するなどということが見られるかと思います。ミネラルウォーターと蒸留水の主張の間には、決して埋めることのできない隔たりがあります。このようなときに、「水のみなさん、争いごとはいけません」と云っても、そのことばは届きません。私たち人間にできることは、水それぞれの言い分を聞き、たとえ意見はちがっても、それぞれの人格を尊重する、ということだと思います。何しろ水のことですから、「天皇」という文字を見せたらうじがわいてしまうような反日日本原住民論の水に出会ったとしても、決して驚いてはいけません。
このような寛容はむずかしいものです。もう何年も前のことになりますが、フランスの発泡水バドワのテレビコマーシャルで、制服を着たにこりともしない日本人がザッザッと列を組んで行進してレストランに入っていくが、バドワを飲んだ途端みんな楽しく大騒ぎというものがありました。このことから考えると、もしかしたらバドワは、日本人がまじめに「ありがとう」の文字を見せても、おちゃらけた結晶をつくるかもしれません。このときに「何だ!お前は日本人をばかにしているのか!」と怒ってはいけません。あなたは人間、相手はフランスから来たとはいっても、たかが水です。あなたの思ったとおりの反応をしなかったからと云って、水を責めないでください。
水の理解能力を過信するのも問題でしょう。たとえばあなたは水に対して「戦争のない平和な世界」と云います。書いてあれば問題ないのでしょうが、なかには格好をつけようとして、「戦争」と聞いた途端に汚い結晶をつくってしまうおっちょこちょいな水もいるかもしれません。フランスの水に対して「愛」と云った場合は、この水は間投詞の aïe 「いてててて」を思ってちょっとびっくりした結晶をつくってしまうかもしれないし、あるいは正反対の「憎む」haïr の過去分詞を思ってしまうかもしれません。果たしてどこまで水に対して真心が通じるのか、むずかしいところだと思います。
サド侯爵の『ジュリエットの話』のなかで、登場人物のデルベーヌ夫人は、「私たちは死者といっしょに食べものや飲みものを埋める民族の素朴さを笑いますが、私たちがよく考えるように、死者が喜ぶだろう、悲しむだろうと信じることは、未開の民族のひとが死者も飲み食いするだろうと考えることとどこかちがうのでしょうか」と云います。『水からの伝言』を批判するひとのなかにも、「じっちゃんのため!」と叫ぶ金田一秀穂少年のことは笑えないひとがかなり多いのではないでしょうか。
ちょっと思ったのですけれど、『みずからの伝言』という題名は自分で自分に話すというナルシス的なものではないのでしょうか。「ありがとう」ということばが自らに向けられているという、そんな感じではないかと思うのですが。この江本さんというひとは『自分を愛するということ』という本も書いているようですし。何てきみは美しいんだ、と水に話しかける人々。エコーが繰り返すのはお約束。
関係ないけど、荒川洋治が「松浦久輝の散文詩は一言で云うと『水の向こうからあなたが手を振る』だ」と云っていたな。松浦久輝ってむかしは詩人から小説家になったポール・オースターのことを安易な道に走ったと批判していたなあ、そういえば。
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1 コメント:
オンディーヌを罵倒するときは、何語で罵倒すればよいのでしょうか。
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