「世に倦む日日」というブログで、一週間ばかり前に「十年前の右側の説得力」なる記事が発表されています。本当は題名には都知事慎ちゃんのフルネイムと著書の題名が前半についているのだが、省略。前半は慎ちゃんの話をしています。後半になって、十年前は右派のひとの方が社会をしっかり認識していて、「左側(岩波系)のアカデミー」は「脱構築主義の神への奉仕」に夢中だったと云われています。ばかばかしいんだけど引用します。(このひとが右か左かということに私は関心がありません。)
何だかコンプレックスのにおいがぷんぷんするんだけど、それはいいとして、こういう文章が困るのがなぜかというと、たとえば
1. ここでアカデミーと呼ばれているのが大学を中心とした知の場であるとしたら、たとえ社会科学の分野だとしても、その使命はいささかも社会参加にはないし、社会参加をしないからと云ってまったく責められるべき理由がない。
2. 最先端とされるものに飛びついて、わけもわからず、まったくその本質をとらえることもできていないのに、言辞を弄する人間がいるのは常のことであり、それは別に「脱構築」にかぎったことでもなければ、左派にかぎったことでもない。(ただしこの記事のなかで名前が挙げられている山之内靖らの学者に関しては、そもそもどこが「脱構築」なのかわからないし、まったく「思想おたく」ではないと思います。)
3. アカデミーの研究は非常に長いスパンにおいて影響を及ぼすものだろうが、ここで地道な研究をしているひとのことを世間の言説が問題にしないからといって、彼らが存在しないわけではないし、彼らの仕事に意味がないわけでもない。
からです。
シュルレアリスムの言説が及ぼす眩惑的な効果にナチスドイツが注目して、それを分析して利用したというのことが知られています。十年前の日本で一部の右派が一部の左派の流行りのわけのわからぬ言説を分析して利用したかどうかは知りませんが、大戦間の時代と同様、同じわけのわからぬことばでも、右派のわけのわからぬことばの方がひとには説得力をもって聞こえたということでしかないのではないでしょうか。右派の方が心をつかむのがうまかったからと云って、それは左派がだめだったということを意味しません。まあ、98年にはもう日本にいなかったのでわかりません、と逃げる。(この文章のなかでは「脱構築はわけがわからない」とは云っていないのかもしれませんが、これを宗教にたとえるのはそういう意味だと解釈しました。)
「左の脱構築主義と右の新自由主義はみごとに癒着した」というのは、きっとそのとおりなのだろうけれども、ここで問題になっているのは、実は脱構築というのが何の話かよくわからなかった、その倫理的な意味を消化できなかった腰の座っていない左の話でしょ? 何も左派の話をするときに覚悟のない左派のことをあげつらわなくてもいいんじゃないの? (まあ、覚悟のない左派のことをあげつらうのがこのひとの目的なのでしょうが。)
日本で脱構築の話をするときにはだれの名前が思い浮かぶのでしょうか。もしジャック・デリダだとすれば、日本におけるデリダブームは、実はアメリカ経由でやってきたものだということを忘れてはいけません。フランス人の若手著述家(38歳)のフランソワ・キュセは、90年代末にニューヨークで出版関係の仕事をしていたときに、ワインガイドやホテルガイドの著作権よりも、デリダやドゥルーズの著作権の方が人気であることに驚いたそうです。このようなフランス思想に対する心酔は米国左派独自のものであり、フランス人には実感できないものであるというのが事実です。脱構築思想として日本に渡ってきたものは、すでに米国人がわけのわからないものとして祭り上げたものの刻印を捺されています。(80年代前半にはスクリッティ・ポリッティが「ジャック・デリダ」という歌を歌っていましたが、あれは英国です。) それに英訳や日本語訳がわけがわからないからといって、それはデリダがわけのわからないことを書いていたということではありません。(そういう時期がないとは云いませんが。) デリダは(私から見ると)腰の据わった左派ですが、それをありがたがった米国人には軽薄な左派が多かったのかもしれません。だから米国の方から来た、既に倫理的な根拠を軽くされてしまった脱構築なら、そもそも新自由主義と結びつく契機を抱えていたのかもしれません。だいたいフランスでは「脱構築」なんて流行ったことがないでしょう。(ポール・ド・マンに関しては、正直なところだれも読んでないんじゃないかな、と思う。読んでないんなら功罪もないよな。ポール・ド・マンやデリダのような深いテキスト読解能力を要求する「脱構築」は本来流行りようがないものです。これがいかに社会科学に応用されているのかについては、私は知りません。[註])
どちらにしろ、わかっていないひとがわかっていないままで書いているものを読んで「脱構築とはこういうものか」と思うのは筋違いでしょう。衒学的な言説の罠にはまっているものは醜悪であるというのはいつの時代だって変わらないことだろうし、そういうものが目についたからといって、それをアカデミーの代表として考えるのはまちがっているでしょう。そもそも20世紀(と21世紀)の現存の著述家の思想に飛びつくのは、「アカデミー」としてはまったくの邪道ですよ。(「方法論」に関してはこういう軽薄さが存在することは否めないかもしれません。だから社会科学の分野で、どういうものかはわからないけれども、脱構築の方法論が流行ったということはあるのかもしれません。) デリダはすぐれた哲学者だが、すぐれた哲学者をアカデミーがすぐにもてはやす必要があるかといえば、それはまったくありません。むしろ現存の著述家をもてはやすことに何の疑問も感じないひとが、知の資本主義化に加担しているのです。アカデミーの目的は集積された知の伝達であり、本を売ることではありません。このブログの書き手には「日本のアカデミーは脱構築がはやったら脱構築一色に染まるほどに軽薄なものではない」ということがみえていないということが、読者にはわからないということがありうるでしょう。読者がそれに気づけばいいのだけれども、納得してしまう読者もいるだろうと考えると、困ったものだと云わざるをえません。
フランスの流行の哲学者にミシェル・オンフレーというひとがいますが、このひとの『無神学概論』という本が2005年にベストセラーになりました。私はこれ、ぱらぱらと見ただけで書いてあることにげんなりして読んでいないのだが、この時期に「こんなもん読むくらいなら、こういうものがあるんでっせ」とごくごく一部の気むずかしいひとの間で話題になったのが、2000年に出ていたミシェル・ゲランの『慈悲心・無神論によるキリスト教の弁護』という本。これはなかなかおもしろい本だったんだけど、ミシェル・ゲランなんて一般人はだれも知らないし、彼の書いている本は世のなかに何の波及力をもちません。しかし私のようなまじめな無神論者からすれば「何云ってるの?」というようなオンフレーの無神論が世のなかではもてはやされるのです。でももてはやされないからといってゲランのことを責めるひとはどこにもいないでしょうね。そもそもゲランは大学で教えているけれども、オンフレーは在野です。アカデミーの世界に属するひとの方が世間では知られていないのですが、ここには何も驚くべきことはないでしょう。
しかしこの「世に倦む日日」というブログの書き手なのですけれども、「ジェンダーとマイノリティと言っていれば、それで日本社会の問題は全てかたづいた」とお書きなのですが、まじめな学者が本当にそんな風に考えているものだと思っているのでしょうか。こういう人間不信のようなものはあまり高貴なものだとは思えません。学者のなかには確かに「私はこんなに物知りだ」と云っているだけのひともいるでしょうが(そういうひとの研究だって決してむだなものではありません)、もっとまじめに倫理的な目的をもって研究しているひとだっていくらでもいるでしょう。もっと人間を信じてみたらいかが、と思うのだけれども、まあ、本当に世に倦んでいるのなら云ってもむだか。
これはどことなくひとをだまそうとしている文章なのではないかという気がしました。「困った意見」なのか、それとももっとひどいものなのか、どちらでしょうか。「脱構築」コンプレックスがあるから、何でも「脱構築」と呼んでみたのかな。
註 ポール・ド・マンはラフォンテーヌの『寓話』のなかに「聞いた話だが」というようなことばが頻発することに注目して、ラフォンテーヌは、この距離化によって、この作品のなかには自分の意見を書いていないということを云います。私からすれば(というよりはむしろ、ひとが「脱構築の方法論」と呼ぶらしいもので私に理解できるのは)、脱構築の方法論とは、この例や、デリダの『拍車』における「ニーチェの全作品が『私は傘を忘れた』と同じレベルのことばだったらどうなるか」という議論に典型的に見られるものなので、これが社会科学にどう応用されるのかがよくわかりません。
P.S. ファイアーフォックスの zotero というアドオンの機能紹介ヴィデオを見ると、米国人のデリダに対する心酔の程度がわかります。私は結構笑った。フランスではまずありえません。
全然関係ないんだが、レジデンツのベスト盤(笑)『ペッティング・ズー』のCDケイスの裏には、「このCDをテーブルの上に置いておくと、あなたは趣味の広い知的な人間だと思われます」と書いてあります。きっと米国の一部では、本棚にデリダを並べると知的だということがあるのでしょう。レジデンツはむかしのはあまりピンとこないんだが、『ウォームウッド』以来結構ファンなのよ。ロックって感じがする。
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彼らの関心は一にも二にも脱構築であり、アカデミーを脱構築教の神殿にして浄めることであり、「近代知の解体脱構築」のために血道を上げ、だから、米国資本による侵略や新自由主義の跳梁には何の痛痒も感じることはなかったのだ。ジェンダーとマイノリティと言っていれば、それで日本社会の問題は全てかたづいた。国民大衆が左側のアカデミーの言論能力を疑い、左側の社会科学の説得力を疑ったのは無理もない。左側は経済や国民の生活に関心が無かった。「左翼は社会に無関心だった」「脱構築アカデミーの罪は本当に大きい」のだそうです。ジェンダーとマイノリティと脱構築とどういう関係があるのか、私にはよくわからないなあ。
何だかコンプレックスのにおいがぷんぷんするんだけど、それはいいとして、こういう文章が困るのがなぜかというと、たとえば
1. ここでアカデミーと呼ばれているのが大学を中心とした知の場であるとしたら、たとえ社会科学の分野だとしても、その使命はいささかも社会参加にはないし、社会参加をしないからと云ってまったく責められるべき理由がない。
2. 最先端とされるものに飛びついて、わけもわからず、まったくその本質をとらえることもできていないのに、言辞を弄する人間がいるのは常のことであり、それは別に「脱構築」にかぎったことでもなければ、左派にかぎったことでもない。(ただしこの記事のなかで名前が挙げられている山之内靖らの学者に関しては、そもそもどこが「脱構築」なのかわからないし、まったく「思想おたく」ではないと思います。)
3. アカデミーの研究は非常に長いスパンにおいて影響を及ぼすものだろうが、ここで地道な研究をしているひとのことを世間の言説が問題にしないからといって、彼らが存在しないわけではないし、彼らの仕事に意味がないわけでもない。
からです。
シュルレアリスムの言説が及ぼす眩惑的な効果にナチスドイツが注目して、それを分析して利用したというのことが知られています。十年前の日本で一部の右派が一部の左派の流行りのわけのわからぬ言説を分析して利用したかどうかは知りませんが、大戦間の時代と同様、同じわけのわからぬことばでも、右派のわけのわからぬことばの方がひとには説得力をもって聞こえたということでしかないのではないでしょうか。右派の方が心をつかむのがうまかったからと云って、それは左派がだめだったということを意味しません。まあ、98年にはもう日本にいなかったのでわかりません、と逃げる。(この文章のなかでは「脱構築はわけがわからない」とは云っていないのかもしれませんが、これを宗教にたとえるのはそういう意味だと解釈しました。)
「左の脱構築主義と右の新自由主義はみごとに癒着した」というのは、きっとそのとおりなのだろうけれども、ここで問題になっているのは、実は脱構築というのが何の話かよくわからなかった、その倫理的な意味を消化できなかった腰の座っていない左の話でしょ? 何も左派の話をするときに覚悟のない左派のことをあげつらわなくてもいいんじゃないの? (まあ、覚悟のない左派のことをあげつらうのがこのひとの目的なのでしょうが。)
日本で脱構築の話をするときにはだれの名前が思い浮かぶのでしょうか。もしジャック・デリダだとすれば、日本におけるデリダブームは、実はアメリカ経由でやってきたものだということを忘れてはいけません。フランス人の若手著述家(38歳)のフランソワ・キュセは、90年代末にニューヨークで出版関係の仕事をしていたときに、ワインガイドやホテルガイドの著作権よりも、デリダやドゥルーズの著作権の方が人気であることに驚いたそうです。このようなフランス思想に対する心酔は米国左派独自のものであり、フランス人には実感できないものであるというのが事実です。脱構築思想として日本に渡ってきたものは、すでに米国人がわけのわからないものとして祭り上げたものの刻印を捺されています。(80年代前半にはスクリッティ・ポリッティが「ジャック・デリダ」という歌を歌っていましたが、あれは英国です。) それに英訳や日本語訳がわけがわからないからといって、それはデリダがわけのわからないことを書いていたということではありません。(そういう時期がないとは云いませんが。) デリダは(私から見ると)腰の据わった左派ですが、それをありがたがった米国人には軽薄な左派が多かったのかもしれません。だから米国の方から来た、既に倫理的な根拠を軽くされてしまった脱構築なら、そもそも新自由主義と結びつく契機を抱えていたのかもしれません。だいたいフランスでは「脱構築」なんて流行ったことがないでしょう。(ポール・ド・マンに関しては、正直なところだれも読んでないんじゃないかな、と思う。読んでないんなら功罪もないよな。ポール・ド・マンやデリダのような深いテキスト読解能力を要求する「脱構築」は本来流行りようがないものです。これがいかに社会科学に応用されているのかについては、私は知りません。[註])
どちらにしろ、わかっていないひとがわかっていないままで書いているものを読んで「脱構築とはこういうものか」と思うのは筋違いでしょう。衒学的な言説の罠にはまっているものは醜悪であるというのはいつの時代だって変わらないことだろうし、そういうものが目についたからといって、それをアカデミーの代表として考えるのはまちがっているでしょう。そもそも20世紀(と21世紀)の現存の著述家の思想に飛びつくのは、「アカデミー」としてはまったくの邪道ですよ。(「方法論」に関してはこういう軽薄さが存在することは否めないかもしれません。だから社会科学の分野で、どういうものかはわからないけれども、脱構築の方法論が流行ったということはあるのかもしれません。) デリダはすぐれた哲学者だが、すぐれた哲学者をアカデミーがすぐにもてはやす必要があるかといえば、それはまったくありません。むしろ現存の著述家をもてはやすことに何の疑問も感じないひとが、知の資本主義化に加担しているのです。アカデミーの目的は集積された知の伝達であり、本を売ることではありません。このブログの書き手には「日本のアカデミーは脱構築がはやったら脱構築一色に染まるほどに軽薄なものではない」ということがみえていないということが、読者にはわからないということがありうるでしょう。読者がそれに気づけばいいのだけれども、納得してしまう読者もいるだろうと考えると、困ったものだと云わざるをえません。
フランスの流行の哲学者にミシェル・オンフレーというひとがいますが、このひとの『無神学概論』という本が2005年にベストセラーになりました。私はこれ、ぱらぱらと見ただけで書いてあることにげんなりして読んでいないのだが、この時期に「こんなもん読むくらいなら、こういうものがあるんでっせ」とごくごく一部の気むずかしいひとの間で話題になったのが、2000年に出ていたミシェル・ゲランの『慈悲心・無神論によるキリスト教の弁護』という本。これはなかなかおもしろい本だったんだけど、ミシェル・ゲランなんて一般人はだれも知らないし、彼の書いている本は世のなかに何の波及力をもちません。しかし私のようなまじめな無神論者からすれば「何云ってるの?」というようなオンフレーの無神論が世のなかではもてはやされるのです。でももてはやされないからといってゲランのことを責めるひとはどこにもいないでしょうね。そもそもゲランは大学で教えているけれども、オンフレーは在野です。アカデミーの世界に属するひとの方が世間では知られていないのですが、ここには何も驚くべきことはないでしょう。
しかしこの「世に倦む日日」というブログの書き手なのですけれども、「ジェンダーとマイノリティと言っていれば、それで日本社会の問題は全てかたづいた」とお書きなのですが、まじめな学者が本当にそんな風に考えているものだと思っているのでしょうか。こういう人間不信のようなものはあまり高貴なものだとは思えません。学者のなかには確かに「私はこんなに物知りだ」と云っているだけのひともいるでしょうが(そういうひとの研究だって決してむだなものではありません)、もっとまじめに倫理的な目的をもって研究しているひとだっていくらでもいるでしょう。もっと人間を信じてみたらいかが、と思うのだけれども、まあ、本当に世に倦んでいるのなら云ってもむだか。
これはどことなくひとをだまそうとしている文章なのではないかという気がしました。「困った意見」なのか、それとももっとひどいものなのか、どちらでしょうか。「脱構築」コンプレックスがあるから、何でも「脱構築」と呼んでみたのかな。
註 ポール・ド・マンはラフォンテーヌの『寓話』のなかに「聞いた話だが」というようなことばが頻発することに注目して、ラフォンテーヌは、この距離化によって、この作品のなかには自分の意見を書いていないということを云います。私からすれば(というよりはむしろ、ひとが「脱構築の方法論」と呼ぶらしいもので私に理解できるのは)、脱構築の方法論とは、この例や、デリダの『拍車』における「ニーチェの全作品が『私は傘を忘れた』と同じレベルのことばだったらどうなるか」という議論に典型的に見られるものなので、これが社会科学にどう応用されるのかがよくわかりません。
P.S. ファイアーフォックスの zotero というアドオンの機能紹介ヴィデオを見ると、米国人のデリダに対する心酔の程度がわかります。私は結構笑った。フランスではまずありえません。
全然関係ないんだが、レジデンツのベスト盤(笑)『ペッティング・ズー』のCDケイスの裏には、「このCDをテーブルの上に置いておくと、あなたは趣味の広い知的な人間だと思われます」と書いてあります。きっと米国の一部では、本棚にデリダを並べると知的だということがあるのでしょう。レジデンツはむかしのはあまりピンとこないんだが、『ウォームウッド』以来結構ファンなのよ。ロックって感じがする。
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