「知らない英単語を辞書を引かずに読む方法」という不思議な記事があります。いろいろと不思議なことがあるのだけれども、考え方はひとさまざまですから、とお茶を濁して、とりあえず気になった箇所をまずひとつ。
ラテン文字を用いた西洋言語が母語である外国人が、日本語を熱心に勉強しているとします。このひとの頭のなかには日本語には母音が何個、子音が何個あるという情報が収まっています。さて、このひとが日本人に「日本語には何個の音がありますか」と日本人に聞きます。この日本人が「五十音って云うんだから50でしょう」と思って「50個」と答えた際に、この外国人に「もちろん間違っている」なんて頭ごなしに断定されても困ると思いますよ。それと同じで、言語学を真剣に勉強していない大方の欧米人(つまりほとんどの欧米人)にとっては、自分の言語のなかに存在する母音の数と子音の数を足したらたいてい26個程度になるのです。母音は五、六個程度という考え方はまったく「まちがっている」と云われる筋合いのものではありません。
相手が母音を表す字母の数を母音の数として語った際に、「母音の話をするときにあなたが字母の話をするのなら、日本語の表記体系から五個の母音を抽出することのなかには何の正当性もないという考え方もできるのではないか」と反論するというのなら、わからないでもありません。
もうひとつ気になったところです。
ところでバスケットボールの選手にコーベ・ブライアントというひとがいますけど、このひとの名前はよくコービーと書かれています。名前が神戸から来ているんだったら、「コーベ」とか「コウベ」とか書けばよさそうなものだが、理由はわかりませんが「コービー」です。「理由はわからないって、アメリカ人はこう発音するんですっ!」って云うんだろうが、だってこの名前は神戸にちなんでるんでしょ? 日本人にもちゃんとわかるようにカタカナを書いた方が親だって本人だって喜ぶんじゃないかなあ。ちなみにこの固有名詞の英語での発音は辞書サイトによって異なっていて、hyperdic.net というところでは kow'bey という比較的に「コウベ」に近い発音を紹介しています。他にメリアム・ウェブスターでは \ˈkō-bē, -ˌbā\、Dictionary.com では/ˈkoʊbi; ˈkɔˈbi/ [koh-bee; kaw-bee] ということになっております。ここ、「コーバーでもいいのか」と思うところではないんですが、まあ、そう考えたいひとはそう考えたらいいんじゃないの。「これが絶対に正しいの!」と額に青筋を立てるよりはずっとましです。
ずっと日本にいなかったもので知らなかったのですが、この前テレビでかかっていて(題名に)驚いたのが『ファインディング・ニモ』なるもの。「ニモ」って何じゃい、これからは「ニモ船長」で行くのか。「アメリカ人はこう発音するんですっ!」ってんだろうが、こうなってくるとこのかたくなさは何かの病なのかなと思えてきます。アメリカ人はそういう風に発音するのかもしれないが、コーベは神戸にちなんだ名前で、ネモはネモ船長にちなんだ名前でしょ?ちがうの? アメリカ人はこう発音するというのならだよ、いつまでも慣習にならって「ファインディング」の「グ」をつけているのはどういうものかと俺は思うよ。どうして「ネモ船長」の慣習の方は無視して、そっちの旧習は守るんだ。『ネモくんの大冒険』にでもしときゃいいじゃん、悪いことは云わないから。『新・地底旅行』じゃなくて『センター・オブ・ジ・アース』だなんて、孫を連れて喜んで映画館に行くおじいさんおばあさんの存在なんてはなから考えられてないよな、敬老の国日本が。どうせならカタカナにしなきゃいいじゃん。
ニーコ・ケイス(Neko Case)というのも謎なんだが、これはちがうんですかね。
この前たまたま小林克也が司会をしているNHK教育の英語の番組を見ました。むかしは「確かに発音はいいが、英語の会話能力はあやしい」と云われていた小林克也ですが、今聞くとずいぶん発音も悪いですねえ。それはともかくこの番組のなかのコーナーで、英語を話すひとが What's your favorite word? と繰り返して云い、それを子供らがカタカナで書きとり、その後でこの子供らが別の英語を話すひとのところにおもむき、そのカタカナで書いた文を読んで、理解されるかどうかを試すという、いったいどういう教育的意味があるのか私のようなものには皆目見当のつかないことをしていたが、それなりにおもしろかった。私は残念なことにメモしなかったが、子供たちはだいたい「ワッチョーヘーリッワー」というようなことを書いていました。閉音節の最後の子音はだれにも聞きとれていませんでした。あと favorite は辞書を引くと一応三音節ということになっているけれども、実際にはVとRの間の母音はほぼ発音されないので、この辺は子供たちには何を発音しているのかまったくわからなかったようです。教育的な意味としては、「英語をカタカナで書くのはむだ」ということを云いたかったのかどうかはよくわかりませんでした。
私はばかだから、「アメリカ人はこう発音する」ということと、日本語であるカタカナの表記をどうするべきかという問題にどういう関係があるのかがはっきりとはわかりません。何度も云いますけど、アメリカ人は英語をカタカナでは発音しませんからね。カタカナは日本語なのだから、字面を見て何となくでも意味がわかるということが大切だと思うのですが。「ソン」ではなくて「ソング」、「ライ」ではなく「ライト」と書くのはこういう配慮によるもので、カタカナ表記はこういう配慮によるものだとするならば、絶対に何も意味しない「ニモ」ではなく、わかるひとにはわかる「ネモ」と書くべきでしょう。じゃなかったら「ワッチョーヘーリッワー」で行きなさいよ。「米人のこの英語の発音は日本人の耳にはこう聞こえるカタカナ」の嘘を暴くという意味でこの番組はおもしろかったです。(そういう意図ではないのか。) いっそのこと、子供は「戦争をやめよう」とか真実を云うから、子供に「これはどうやってカタカナで書いたらいいの?」と聞くのはどうか。「ファインディング・ニモ」は「ハイニーニーモー」、「コービー・ブライアント」は「コーベーバーヤン」という感じ。
しかしこのカタカナで書いた文「ワッチョー…」を目の前でおずおずと読む子供たちのことばを聞いて、「オオ・マイ・ゴッド!」なんて云ってあきれて苦笑している米人(たぶんね、たぶん)の姿を見ると、何となくNHK教育の英語番組は英語を勉強しようという気にさせるよりは「米帝粉砕!」という気分にさせるように思われるのですが、これは私の気のせいでしょうか。それが日本在住の外国人のあなたの日本の子供に対する態度かって。(苦笑は子供たちではなくて番組のコンセプトに向けられたものだろうが、そうは問屋が卸さないのが日本のテレビの演出。) 取引の相手に「エイヤカ」と呼ばれて「エイヤカとは私のことかと綾子云い」と心のなかでぐっとこらえる綾子さんの態度とこれは裏表ですね。ああ、それで日本を代表する「おしん」のひとの名前なんだ。
Mizu is Miu.
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大学生の頃、日本語を勉強している米国人の同級生が、「日本語も英語も母音は5つなので同じだ」と話してくれた。もちろん間違っているのだが、なぜそう思うのかと問い返したところ、英語でも母音は「AIUEO」だけだと答えた。何が気になるかといえば、「もちろん間違っているのだが」というところです。どうもこのひとは「Yが入っていないのはおかしいではないか」ということを云いたいのではなさそうです。このひとが云いたいのは、音声として英語には母音が五つしかないというのは「もちろん間違っている」ということなのでしょうけれども、母音ということばを聞いて母音を示す「字母」の数を考えるこの米国人の考え方は「もちろん間違っている」と簡単に断定できるものではないでしょう。
ラテン文字を用いた西洋言語が母語である外国人が、日本語を熱心に勉強しているとします。このひとの頭のなかには日本語には母音が何個、子音が何個あるという情報が収まっています。さて、このひとが日本人に「日本語には何個の音がありますか」と日本人に聞きます。この日本人が「五十音って云うんだから50でしょう」と思って「50個」と答えた際に、この外国人に「もちろん間違っている」なんて頭ごなしに断定されても困ると思いますよ。それと同じで、言語学を真剣に勉強していない大方の欧米人(つまりほとんどの欧米人)にとっては、自分の言語のなかに存在する母音の数と子音の数を足したらたいてい26個程度になるのです。母音は五、六個程度という考え方はまったく「まちがっている」と云われる筋合いのものではありません。
相手が母音を表す字母の数を母音の数として語った際に、「母音の話をするときにあなたが字母の話をするのなら、日本語の表記体系から五個の母音を抽出することのなかには何の正当性もないという考え方もできるのではないか」と反論するというのなら、わからないでもありません。
もうひとつ気になったところです。
「綾子」の"ayako"は、"a+ya+ko"に区切られると「エイヤカ」、"ay+a+ko"だと「エイアカ」になる。「アヤーコウ(ウヤーコウ)」みたいな感じになることがかなり多そうな気がするんだけどねえ、ちがうんですか。まあ、英語圏のひとが自分の名前のローマ字表記をどう読むかなんて、まったくもって余計なお世話以外の何ものでもないですが。ひょっとしたら米豪だけが相手の「国際ビジネスの基本」としてはそうなのかもしれんが(英語を話すフランス人が英単語でもない Ayako を突然英語風に発音したら驚く)、「私の名前は『アヤコ』と読みます」ということをしっかり伝えて、相手に繰り返させて「よくできました」と云ってみるのが「国際交流の基本」じゃないかな。
日本人は自分の名前のローマ字表記した場合、こうしたルールから英語圏の人からどう読まれやすいか心得ておくのも国際ビジネスの基本になる。
ところでバスケットボールの選手にコーベ・ブライアントというひとがいますけど、このひとの名前はよくコービーと書かれています。名前が神戸から来ているんだったら、「コーベ」とか「コウベ」とか書けばよさそうなものだが、理由はわかりませんが「コービー」です。「理由はわからないって、アメリカ人はこう発音するんですっ!」って云うんだろうが、だってこの名前は神戸にちなんでるんでしょ? 日本人にもちゃんとわかるようにカタカナを書いた方が親だって本人だって喜ぶんじゃないかなあ。ちなみにこの固有名詞の英語での発音は辞書サイトによって異なっていて、hyperdic.net というところでは kow'bey という比較的に「コウベ」に近い発音を紹介しています。他にメリアム・ウェブスターでは \ˈkō-bē, -ˌbā\、Dictionary.com では/ˈkoʊbi; ˈkɔˈbi/ [koh-bee; kaw-bee] ということになっております。ここ、「コーバーでもいいのか」と思うところではないんですが、まあ、そう考えたいひとはそう考えたらいいんじゃないの。「これが絶対に正しいの!」と額に青筋を立てるよりはずっとましです。
ずっと日本にいなかったもので知らなかったのですが、この前テレビでかかっていて(題名に)驚いたのが『ファインディング・ニモ』なるもの。「ニモ」って何じゃい、これからは「ニモ船長」で行くのか。「アメリカ人はこう発音するんですっ!」ってんだろうが、こうなってくるとこのかたくなさは何かの病なのかなと思えてきます。アメリカ人はそういう風に発音するのかもしれないが、コーベは神戸にちなんだ名前で、ネモはネモ船長にちなんだ名前でしょ?ちがうの? アメリカ人はこう発音するというのならだよ、いつまでも慣習にならって「ファインディング」の「グ」をつけているのはどういうものかと俺は思うよ。どうして「ネモ船長」の慣習の方は無視して、そっちの旧習は守るんだ。『ネモくんの大冒険』にでもしときゃいいじゃん、悪いことは云わないから。『新・地底旅行』じゃなくて『センター・オブ・ジ・アース』だなんて、孫を連れて喜んで映画館に行くおじいさんおばあさんの存在なんてはなから考えられてないよな、敬老の国日本が。どうせならカタカナにしなきゃいいじゃん。
ニーコ・ケイス(Neko Case)というのも謎なんだが、これはちがうんですかね。
この前たまたま小林克也が司会をしているNHK教育の英語の番組を見ました。むかしは「確かに発音はいいが、英語の会話能力はあやしい」と云われていた小林克也ですが、今聞くとずいぶん発音も悪いですねえ。それはともかくこの番組のなかのコーナーで、英語を話すひとが What's your favorite word? と繰り返して云い、それを子供らがカタカナで書きとり、その後でこの子供らが別の英語を話すひとのところにおもむき、そのカタカナで書いた文を読んで、理解されるかどうかを試すという、いったいどういう教育的意味があるのか私のようなものには皆目見当のつかないことをしていたが、それなりにおもしろかった。私は残念なことにメモしなかったが、子供たちはだいたい「ワッチョーヘーリッワー」というようなことを書いていました。閉音節の最後の子音はだれにも聞きとれていませんでした。あと favorite は辞書を引くと一応三音節ということになっているけれども、実際にはVとRの間の母音はほぼ発音されないので、この辺は子供たちには何を発音しているのかまったくわからなかったようです。教育的な意味としては、「英語をカタカナで書くのはむだ」ということを云いたかったのかどうかはよくわかりませんでした。
私はばかだから、「アメリカ人はこう発音する」ということと、日本語であるカタカナの表記をどうするべきかという問題にどういう関係があるのかがはっきりとはわかりません。何度も云いますけど、アメリカ人は英語をカタカナでは発音しませんからね。カタカナは日本語なのだから、字面を見て何となくでも意味がわかるということが大切だと思うのですが。「ソン」ではなくて「ソング」、「ライ」ではなく「ライト」と書くのはこういう配慮によるもので、カタカナ表記はこういう配慮によるものだとするならば、絶対に何も意味しない「ニモ」ではなく、わかるひとにはわかる「ネモ」と書くべきでしょう。じゃなかったら「ワッチョーヘーリッワー」で行きなさいよ。「米人のこの英語の発音は日本人の耳にはこう聞こえるカタカナ」の嘘を暴くという意味でこの番組はおもしろかったです。(そういう意図ではないのか。) いっそのこと、子供は「戦争をやめよう」とか真実を云うから、子供に「これはどうやってカタカナで書いたらいいの?」と聞くのはどうか。「ファインディング・ニモ」は「ハイニーニーモー」、「コービー・ブライアント」は「コーベーバーヤン」という感じ。
しかしこのカタカナで書いた文「ワッチョー…」を目の前でおずおずと読む子供たちのことばを聞いて、「オオ・マイ・ゴッド!」なんて云ってあきれて苦笑している米人(たぶんね、たぶん)の姿を見ると、何となくNHK教育の英語番組は英語を勉強しようという気にさせるよりは「米帝粉砕!」という気分にさせるように思われるのですが、これは私の気のせいでしょうか。それが日本在住の外国人のあなたの日本の子供に対する態度かって。(苦笑は子供たちではなくて番組のコンセプトに向けられたものだろうが、そうは問屋が卸さないのが日本のテレビの演出。) 取引の相手に「エイヤカ」と呼ばれて「エイヤカとは私のことかと綾子云い」と心のなかでぐっとこらえる綾子さんの態度とこれは裏表ですね。ああ、それで日本を代表する「おしん」のひとの名前なんだ。
Mizu is Miu.
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