2008年10月18日土曜日

本気で水を擬人化せよ

 江本勝さんが『水からの伝言』は「ポエム」であるというときに何が云われているのかを多くの人が見逃しているようです。前の記事で暗示したように、この題名は『自らの伝言』とかけられているのです。この意図せざるダブルミーニングという「ポエム性」が非常に重要なものです。
 でも「自らの伝言」とは何でしょうか。ひとは自分で自分に伝言するものでしょうか。今年の三月に茨城県の土浦市であった通り魔事件の犯人は、自分のもっている複数の携帯電話間でメールのやりとりをしていたそうです。「果たしてこの留守電は本当に機能しているのだろうか」と不安になって、自分で自分の留守電にメッセージを入れてしまった経験があるひともさほど珍しくはないのかもしれません。
 一方で、孤独なお年寄りには動物との交流がすすめられることがあります。動物は話し相手として非常にいいのだそうです。確かに動物は話を聞いているだけで、決して反論もしないし、人間がするような思いもしない反応をしたりはしません。もっとも本当に動物が話を聞いているのかどうかはよくわかりません。
 人間同士のコミュニケイションに疲れると、ひとは動植物に話しかけたくなるものかもしれません。これはまったく責められるべきことではありません。毎朝木に話しかけるひとはほほえましいものです。あるいはこのような欲求は人間にとってもっと根源的なものなのかもしれません。子供は人形やぬいぐるみに話しかけます。
 フランスの国営テレビのよい子向けアニメ番組に『かわいい仔熊』というものがありました。登場人物はみんな森の動物ですが、主人公の仔熊にはただひとり人間の女の子のエミリーという友だちがいました。非常におもしろかったのは、森の動物はみんな人間のことばを話すのに、エミリーの犬と人形だけは口を利かないのです。それでもエミリーはいつも人形に話しかけ、何も云わない人形のことばをうんうん云いながら聞くのです。たとえば仔熊に森に遊びに行こうと誘われたときに、森に行ってもいいのかを人形に聞きます。もちろん人形はエミリーの望む返事をします。町で生活するテレビの視聴者の子供にとって、夢の世界である森の動物は、決して出会うことのない真の友達であり、みんな人間のことばを話すけれども、そんな子供の身の周りにも現実に存在している人形と犬だけは口を利かないリアルなものとして存在しているのです。このアニメのなかでは、いつでも自分の望む答えを云ってくれる人形が現実の世界と夢の世界の蝶番のようなものとして作用しています。
 子供のころから人間はこのような「透明」な話し相手を求めているのではないでしょうか。人形でもぬいぐるみでも動物でも草木でもいいけれども、いつでも自分の望む反応だけをしてくれるコミュニケイションの相手を必要としているのかもしれません。人形に対して「あなたはどう思う?」と聞き、耳を澄ましてうんうんと人形の話を聞き、自分の聞きたかった答えを人形の意見として云うのです。自分から自分にメールしてしまうのも、このような幼児性の延長として考えられるでしょう。土浦の通り魔は「俺が神だ」と自分にメールしたそうです。幼児の成長の過程で暴力性が前面に出る時期がありますが、このとき子供は神のように世界を支配しようとしているのです。人形が自分の望むことしか云わない時代は、子供が世界を支配している時代につづいてやってきます。
 人間はそのうちに幼児期の初期の暴力性から脱却します。自分が世界を支配しているわけではないということがわかってくるのです。それでも自分の支配しえない他者性を本質的なものとして理解しはじめたとき、子供は人形やぬいぐるみという自分の所有物にこの支配欲を向けるのでしょう。
 エミリーが人形に質問してその答えを聞くように、自分のことばを遅延した形で自分に伝える「自らへの伝言」の相手には、このように動植物や人形、ぬいぐるみがあります。しかし犬猫は食事もすれば排泄もする、草木は滅び、人形は手足がもげます。云ってみれば、理想的なコミュニケイションの「透明」な相手としては、人形は「擬人化されすぎている」のです。動植物や人形はイメージとしてあまりに人間に近すぎるのです。
 さらなる透明性を求める人間は、別のコミュニケイションの相手を求めます。ただ本当に鏡に対して話しかけることはためらわれます。人形にしても鏡にしても、あまりに幼児性の刻印をおされすぎていて、いいおとなのコミュニケイション相手としてはふさわしくありません。しかも鏡には「伝言」を可能にする遅延効果がありません。ここで現れるのが水です。この水は自分の思ったようには反応しない人間の不都合をもたず、必ず自分の気持ちを表現してくれるものとして機能します。水が自分の気持ちを表してくれるまでに、結晶するための時間がかかるというこの遅滞が魅惑として作用します。
 それでもおそらく「水からの伝言」信者は犬猫や人形に話しかけるようにして水に話しかけたりはしません。まさにここに問題があるのです。まったく擬人化が不可能である物質を相手にしているから、彼らはエミリーが人形に話しかけるようなしかたで、水にどうしたらいいかを相談したり、今日あったことを話したりはしません。そうではなくて、ひとつの単語に還元された非人間的な言語の機能を問題にするのです。「にせ科学にだまされるな」などということを私は云いません。しかしこのような言語の非人間な還元にだまされてはいけないということを強調したいと思います。ひとのだまされやすさを利用するのはひとつの悪ですが、その批判は他のひとにお任せします。私が許せないのは、ことばを科学実験の対象とすることによって非人間化するということと、水という弱いものに対して示される醜悪な支配欲です。自分の人形が自分のものでなくなることをエミリーには想像できないでしょう。これと同じく、「この瓶に入った水は私の所有物である」ということについては、「水の伝言」信者に疑問を感じることはできないのです。
 水を選んだのは巧妙なトリックなのです。相手が人形だったらどうなるでしょうか。「戦争」と書いた紙を自分の大切な人形に貼りつけられますか。友だちの人形を本気で「ばかやろう」と罵倒できますか。いいえ、そんなことはできません。そうしたとしてもあとで謝るでしょう。一時の怒りで人形を壊してしまったら、後で後悔します。なぜならこのとき相手は擬人化されていて、言語はまだ人間的なものとして機能しなければならないからです。しかし擬人化が不可能な水に対しては何でも云えます。「人形にだけは何でも云える」と考えるエミリーの気持ちは人間的なものです。なぜならこのときの「何でも」は、エミリーと同一化する子供にとって、たとえ今身の周りにはいないとしても、いつか森のなかの人間のことばを話す動物と話すことができることだからです。しかし「水からの伝言」信者が水に対して投げかけることばは「何でも」のレベルがちがいます。「ばかやろう」だの「死ね」だの、まったく水の気持ちになってみろ、と言わざるをえません。しかもその後で「ひどいことを云ってごめんね」と謝ったりはしないのです(たぶん)。
 「愛と感謝、水からの伝言」と題されたペイジに、小学生の実験として、「瓶にご飯をつめて、片方には『ありがとう』と書いた文字を貼り、もう一方には、『ばかやろう』という文字を貼り、学校から帰るたびに、毎日、瓶に向かって、『ありがとう』、『ばかやろう』と、大きな声で叫んだ結果」の写真が載っています。一箇月後には「ばかやろう」と云われたご飯は腐敗して真っ黒になったそうです。
 子供に人形をもたせることには情操教育の価値があります。人形を人間のように思い、人形を大切にすることを覚えるからです。それでは、ことばがわからない物質に対して、ことばがわからないのだからと、小学生に「ばかやろう」と一箇月の間叫ばせることが教育なのでしょうか。こんな「教育」からは、肌の色がちがうひとに対して、「どうせことばがわからないだろう」と日本語でいろいろ差別的なことを云ってほくそ笑むような人間が生まれるでしょう。あまりに醜悪すぎることです。何が「愛と感謝か」。ふざけるのもいい加減にしてほしいものです。
 人形に対しては「ばかやろう」と云えないのは、もしかしたら人形にはことばがわかってしまうかもしれないからです。人形のことを大切にしているからです。だから「水にもことばがわかるというのは事実だ」と云っているひとは、自分でも信じていない嘘をまるで本当に信じているかのように感じているという実に分裂症的な状態にあります。もし本当に水にもことばがわかると信じているのなら、「死ね」というラベルを瓶に貼りっぱなしにはできないからです。このひとたちは自分の主張していることと裏腹に「水には何の価値もない」という本心を明らかにしてしまっているのです。水が徹底的に侮辱されているのです。犬猫や草木や人形が人間のことばを理解するほどには、決して人間のことばは理解できないものとして、「水にはこの程度のことばしかわからないだろう」という扱いを受けているのです。
 「ばかやろう」「死ね」ということばがひとを傷つけることができるのは、それが何の文脈もなく投げつけられるからです。この「水からの伝言」信者は、ことばは生命を奪われた文脈のないものであるとして、人間の最大の財産である言語を非人間化しているのです。「ばかやろう」ということばに愛をこめて使うことができるというのが人間の事実です。この人間性を否定することを目的とする、あるいはこれが否定されてしまった世界を生きている「水からの伝言」の信者は、記号化されて機械化され、非人間的なものとなってしまったコミュニケイションの犠牲者であるとも云えるでしょう。
 人形が自分の唯一の友人だと大人になっても思いつづけるとしたら、これは狂気とみなされるでしょう。しかしこの狂気にはあまり害がありません。しかしその一方で、目の前にいる人間がものであるかのような扱いをしても、それは狂気であるとはみなされないのかもしれません。たとえ一般にはそうだとしても、私はこちらの方がよほど重大な狂気だと思います。もしかしたらことばがわかるかもしれない草木を擬人化して「今日も元気かい」と云い、「草木の気持ちを傷つけないように」話しかけることの方が、「どうせことばがわからない」水やお米に対して「ばかやろう」と叫んでことばから人間性を抜き去る卑劣な行いよりも何万倍もましです。
 しかし彼らは水を愛しているのだと主張します。水は真実を知っているのだと。いいでしょう。ではなぜ水に真実を聞きに行くのですか。それは人間に対する愛ゆえですか。いいえ、彼らは人間に対する深い不信にとりつかれているのです。人間よりも無生物に信を置くとする彼らの主張は、他の多くの中小宗教と同じく、人間に対する深い憎悪に土台を置いているのです。しかもここには何の罪もない水の反応を完全に制御しようとする醜い支配欲があります。水という弱いものなら自分の思いどおりに反応するはずだ、という考え方のなかには、人間の形をした人形の他者性にすら対処できなかった原初的な幼児性が顔をのぞかせています。「悪いことば」を見せて醜い結晶をつくらせる、これは想像的なサディズムです。実に邪悪なものを感じます。
 「水からの伝言」は「自らへの伝言」です。自分のことばを録音しておいて後で聞いているだけです。遅れてくる鏡なのです。自分の前を通りかかった見知らぬ人間との距離感がとれない通り魔と、「水に対する距離感」がもてないこのひとたちは、案外共通するものを抱えているのかもしれません。「ありがとう」や「ばかやろう」ということばが記号としてしか理解できない人間には、生きている他者が本当の意味では存在していないのです。まずは水を本当に擬人化することからはじめて、ふたたび情操を育てるように努力してみたらいかがでしょうか。その後で、子供の頃に大切だった人形のような、自分の自由になる所有物ではないものとして、水を水として見ることを学んでください。そのときには平気で水に対して「ばかやろう」と言っていた自分のことが恥ずかしく思えることでしょう。

P.S. 知っているひとにとっては何をいまさらという有名な話でしょうが、『狩人の夜』という映画では、邪悪な宣教師ロバート・ミッチャムが両手の指に LOVE と HATE という刺青をし、善悪の闘いによるマニ教的な説教で人々を魅了します。しかしこの男の魔の手から子供たちを護るリリアン・ギッシュだけはだまされません。私はこの映画のなかのリリアン・ギッシュのような正しいキリスト教徒ではありませんが、善悪の対立の図式によって道徳を語るひとを信用してはならないということを知っています。

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1 コメント:

匿名 さんのコメント...

水はやはり実験対象で(だけど認めず)
実験対象にも愛情を注ぎぶっている
あと言葉じゃなくて〈気〉を送っているから
何語でもOKということ

なのでしょうか。
愚かなコメントを投稿してしまうほど
膝をうってしまいました。