2008年10月8日水曜日

相互性の論理を一度括弧に入れる

 以前に書いたことがありますが、フランスの国立通信教育学校の日本語の教科書の教材のなかに、「沖縄の高校生からの手紙」なるものがあって、その内容に憤慨しました。「最近海外で暮らした日本人の差別の体験を書いた本を読みました。私も差別をしない人間になろうと思います」という記述に私はかちんと来ました。しかしかなりの数の日本人はこのような相互性においてだけ差別というものを考えているのではないかという深刻な危惧を感じます。
 差別とは歴史的、社会的な背景の上に立つもので、いささかも「こういう体験をしていやだった」という個人の体液に基づいたものではありません。それなのに「自尊心が傷ついた」などというくだらないことが差別の体験だったとかんちがいする人間が非常に多いのです。前にフランス人が日本人に対して抱くイメージのひとつに「怒りっぽい」というものがあるということを書きましたが、このときに用いられる susceptible ということばは、「非常に自尊心が高い」ということを意味します。(わざわざそういう日本人がまちがってフランスに行っているのかも。)
 今はもうしませんが、フランスではよくチャットをすることがありました。私は暗いので管理人とばかり仲良くしていました。あるとき管理人にことばを削られたので、それでしばらくやりとりしました。中身はよく覚えていませんが、私が「いいよ、もう黙るよ」と云ったら、「あなたも本当に日本人ねえ ;-p」と云われました。ぶすっとして黙りこむとかそういうのが、むだに自尊心の高い日本人の怒りっぽさのイメージのひとつでしょう。
 こういった鼻高々の日本人がちょっと海外に行って不愉快な思いをしたからといって「差別の経験をした」とのたまうのは、実際に長い植民地支配を受けた諸民族のことを考えてみれば、へそが激怒でお茶を沸かします。
 だいたい「自分が差別されたらいやでしょう、だから差別なんておいたはだめよ」というお子ちゃま向けの差別理解はいったいどこに行ったら通用するというのでしょうか。フランスの白人は「外国で差別されたらいやだから差別はしないようにしよう」と思っているとでもいうのですか。このように考えるのはフランスで有色人種の側に立って人種差別と闘っているひとに対する侮辱でしかないでしょう。逆に、どこの国の名前をあげたら例としてふさわしいかわからないが、長い間植民地支配を受けたアフリカの国の現地人は、「自分たちの民族は長い間差別されていやだったから、外国人のことは差別しないようにしようね」と仏様みたいなことをみんなが思うとでもいうのでしょうか。残念なことですが、ジンバブエのような畸形的な国が生まれてしまうことの方が理解しやすいような気がします。
 多民族間の支配の形にはいろいろなものがあります。ふたつの集団だけを考えてみても、支配するA集団がB集団に比べて圧倒的に多数である場合、A集団は少数だが軍事力、警察力をもって多数であるB集団を支配している場合などが考えられます。
 わかりやすい例として、日本が太平洋戦争、大東亜戦争(たろちゃん)に勝った場合を想定してみましょう。大日本帝国は軍事力によって北米を支配しています。日本人は北米の現地人に比べて圧倒的に少数ですが、役人は日本人によって占められ、裁判も常に日本人に対して有利です。日本人の若者が北米の現地人の女性を集団レイプしても、「元気があってよろしい」と無罪放免です。こんな社会において、ある日本人が現地人の集まる酒屋で袋叩きにあい、身ぐるみはがされました。加害者たちは被害者のことを知らず、ただにっくき日本人だったからという理由で犯行に及んだのです。裁判では加害者が全員死刑の判決が下されました。「加害者は被害者が日本人だったという差別的な理由から犯行に及んだのであり、きわめて許しがたい」からです。このような理屈をうのみにすることができるでしょうか。
 抑圧されている集団は支配的な集団に属するものをリンチに処することができるなどとは云いませんが、それでもこの際まず第一に問題である人種差別は、支配者である日本民族が北米の現地人に対して加えている社会制度による差別であり、酔っ払って荒れ狂うむくつけき北米の酒場の客が、まったく心やさしいひとであるにちがいない日本人の客に対して感じた人種差別的感情は、それに比べると無視できるほどに小さいものだと主張できます。
 しかしもしここで支配する日本民族が公平な裁判を心がけることにして、日本人に暴力をふるったものはみな死刑、という乱暴な法律を廃止し、役人の試験も現地人に開かれた公平なものにしたら、そのときには身ぐるみはがされた日本人の主張に耳を傾けることができるかもしれません。
 素朴かつ単純な考え方をすると、支配者は決して自分に不利な法律はつくらないと想像してしまうかもしれませんが、実際には支配者は自らの権限を制限して、被支配者にとって司法上の不公平がないようにする法律をつくるのです。人種差別を禁止する法律はこのようにしてつくられます。「差別されたらいやだから、差別しないことにする」というような相互性が終わったところから具体的な差別対策ははじまるのです。相互性にとどまっているかぎりは、「この国では差別を及ぼしているのはまず第一に自分である」ということが自覚できないから、それを制限しようという発想も浮かびません。
 政治家が「日本は単一民族である」と発言することがどうして問題なのかよくわかっていないひとが多いと思いますが、この問題はここから理解されるべきです。つまり「日本国は日本民族が支配している」ということに対して無自覚なのが問題なのです。上にあげた例は支配するA集団が支配されるB集団に比べてきわめて小さい集団である例ですが、今の日本の実情は支配するA集団が支配されるB集団にくらべて圧倒的に大きな集団であるという状況にあります。ここにおける力関係は、「私もあなたも差別し差別されている」という夢のように平和な相互性(しかしこのように考えたがるひとが目につきます)によって理解できるものではありません。小さな集団が大きな集団を支配する場合に必要とされる被支配集団を尊重する法律がこの場合にも必要だということが、「単一民族」の意識からは決して自覚されることがありません。このような状況で、「差別を禁止する法律」など生まれようがないのです。自分ではまったく他者を支配してなどいないつもりだから、差別しているつもりもないのです。ないものにどうやって対策をつくれるでしょうか。
 個々の間の相互的な関係ではない集団の間の力関係は存在しないものとして無視する言説が今の日本にははびこっています。すべてが「私があなたの立場なら」という気分的、体液的なものとして理解されるのです。「空気」もそういったものでしょう。「あなたの立場」には決してなれない超越的な懸隔がどこにも想定されていないのです。与党と野党の間の論戦ですら、政権をもっているものと在野のものとの非対称な対立としては理解されず、まったくもって相互的な、気分的ないがみ合いなのです。
 もっと小さな言論の場においても同じことです。インターネット上において、政治家、権力者を批判するが、その批判の根拠を「自分は名もなきものである」というところに置くひとがいます。この立場は尊重されるべきものです。「自分で他人のことを批判しておいて、自分では『名もなきもの』であると云って逃げるのはおかしくないか」という相互性の論理によって、こういった立場を無化することはできません。地位と権力をもっているものと名もなきものの間にある明白な差異を「同じ人間」の相互性によってすりかえることはできません。この種の主張を「私なら」というところから考えてしまうからおかしなことになるのです。「私なら、自分ではひとを批判しておいて、自分では批判から身をかわすことはしないだろう」と思う、というところからすべてを発想する必要はないのです。力関係がある集団の間ばかりでなく、個人と個人の間にも、さまざまなものによってつくられた、越えられない懸隔があるという事実を見据えるべきなのです。インターネット上でことばを発するものはみな平等、などという他愛もない夢物語を信じるのはやめましょう。「私なら」というところから発する主観的な相互性の論理を一度括弧に入れて、行動を理解する対象である他者ではない、ただそこに存在する他者の存在を見たときに、初めて真の寛容が生まれます。この真の寛容とは、寄ってたかってひとを身ぐるみはがす酔っ払いの集団の心情に対する理解ではありません。このような人間がそこに存在するということを理解することです。私ではない人間がそこに存在するということを理解するところからすべてがはじまるのです。これは必ずしも簡単なことではありません。

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