フランスで結構驚いたのは、よくメルツバウという名前を聞いたということ。「日本のミュージシャンではメルツバウが好き」なんて云うんだよ。正直な話、日本でメルツバウという名前が人間の口から出てくるのを聞いた覚えがあまりないので、「何であんたら、よりによってメルツバウなんか聴いてんの?何か特別な理由があるの?」と聞いたのだが、別にだれかが猛烈にプッシュしているということはないようでした。きっと何かの雑誌が紹介したということはあったのだろうが、秋田昌美おそるべしである。非常階段はだれも知らなかったが。
ある日友人が「ラジオ・ノヴァでおもしろい番組やってるよ。アンダーグラウンド音楽特集だって」といって家にやってきて、「さっき日本のグループでおもしろいのやってた。ルインズって知ってるか?」と云われました。それでラジオをつけると、いきなりむかしの中国のロックバンドドラゴンの「アナーキー・イン・ザ・UK」がかかっていて腰が抜けました。どこから探してくるんだろうねえ。モンペリエのFM局の曲を延々流しているだけのローカル音楽番組で、突然ソウルフラワーモノノケサミットが流れてきたときなど、かなりインパクトがありましたね。
他にもコーネリアスとか聴いているひとはいたが、こういうのは別に日本そのものには大して興味のない音楽好きの話です。日本好きになるとアニメソングとか浜崎あゆみとかXジャパンとか聴いてるわけ。俺はXったら相変わらず「ロサンジェルス」だもんな、やっぱり。
確かミュージック・マガジン(日本の雑誌の話)だと思ったが、むかし読んだジェイズム・ブラウンのインタヴューで、インタヴュアーが収録の後で「日本のいいソウルシンガーなので聴いてみてください」と云ってカセットか何かを渡そうとしたが、ジェイムズ・ブラウンに「売れているのか?」と聞かれ、「いいえ、売れていないけれど、いい歌手なんです」と答えると、「売れていないのならだめだ」と答えて受けとってもくれなかったというような話がありました。実際ジェイムズ・ブラウンがどのようなことを答えたかははっきり覚えていないのだけれども、「いい音楽は必ず人々の支持を得るものなのだから、売れていないのはその音楽がだめだという証拠である」と云うようなことを云っていたのではないかと思います。何しろむかしのことだから、私が頭のなかでそう解釈したのを記憶しているのかもしれません。
ちょっと流行りは過ぎましたが、サルコジ大統領が bling-bling ということばで頻繁に形容されて、メディアに揶揄されることがありました。これはもとはヒップホップの用語で、ラッパーが大きな宝石や金の鎖を身につけたりするような姿を形容することばです。サルコジは「チャラチャラ大統領」ということです。このことばがはやる前のことですが、フランスのテレビ番組で「どうして米国のアフリカ系ラッパーは成金の豊かさを大っぴらにひけらかすのか」ということが話題になっていました。彼らは「貧しい出身でもこのようになれるのだ」というメッセージをアフリカ系の共同体に対して発しているのだ、というのがひとつの答えでした。私はこれを聞いたときに、頭のなかで先のジェイムズ・ブラウンのことばに結びつけました。むかしはジェイムズ・ブラウンのことばに何となく感心しながら「商業的な成功と芸術的な成功はちがうだろう」という違和感をどうしてもぬぐうことができなかったのですが、今になって考え直してみると、「米国のアフリカ系アーティストの共同体は、『売れ線の音楽はよくない』という『ロック的』な価値観をもっていない」ということで理解ができるのではないかと思われます。だからこそ成金ではないハンガリーの貴族出身のサルコジにこのヒップホップの世界のことばを使うのはおかしいのではないかという議論もあったのです。
今フランスで日本の音楽が流行っているということはありませんが、日本の音楽を聴きたいという日本好きのひとは少しずつ増えているようです。そういうひとたちの気軽に手に届くところにある情報は、当然メルツバウやルインズではなく、浜崎あゆみやXジャパンやラルクアンシエルです。パリでコンサートをやったりもしているようです。もちろん「日本なんかどうでもいいが、私はおもしろい音楽が聴きたい」というフランス人は自分で情報を探して聴くのだから問題はありません。でも何となく日本の音楽が聴きたいというときに突き当たるのが上に名前を上げたような人々で、みんなそれで満足しているというのが、何となく物足りないような気がします。日本のポップス、商業音楽として聴くものがこれなんですか?という何となく不思議な感じがするのです。(私は「商業音楽」ということばに特に悪い意味を込めていません。)
数日前に書いたけれども、日本語の生徒にラルクアンシエルのCDを貸してもらって聴いて、私は「自分ですすんで聴く音楽ではないが、悪い音楽ではない」と思いました。でもこれが今の日本の音楽として説得力があるものなのでしょうか。
売れている音楽は「海外でもプロモウションしてもらっていいね」と思うが、そのプロモウションの対象がかなり趣味的なものではないのかな、と思います。いや、私がまちがっていて、きっとこれらの音楽が現在の日本の商業音楽のスタンダードなのでしょうけれどもね。ただやっぱり、「外国人に日本のポップスはこういうものだと云って聴かせるときには、ムード歌謡を聴かせるとわかりやすいのではないか」という湯浅学のことばに同意してみたい気もする私には、ラルクアンシエルやXジャパンの音楽は非常に趣味的なものに思えます。「趣味的なのが今の日本」と云ったら、それもまたそのとおりなのかもしれません。むかしのピチカートやフリッパーズが趣味的であったことと、趣味的であることの質が変わってきているのでしょう。Xジャパンの音楽も実は趣味的であったということが、今になってわかってきているのかもしれません。
フリッパーズ・ギターのひとたちは「まわりが(ボーイ)ばっかりで嫌だった」というようなことを云っていたと思います。私の感覚としては、あまりそんな気がしなくて、まわりのひとはルースターズとか聴いてたんじゃないかなと思います。それはともかく、何だか勝利したのは結局フリッパーズ・ギターじゃなくて(ボーイ)の感覚の方だったんだなあ、という気がします。タランティーノは布袋寅泰だし、パリのひとがラルクアンシエルのコンサートに行って盛り上がったなんて聞くと。「デヴィッド・ボウイはすばらしいアーティストだが、エルトン・ジョンはアーティストの名に値しない」というわけのわからないことを主張し、セリーヌ・ディオンをばかにするフランス人が、日本のロックのミュージシャンはレスペクトしちゃうんだから。「あんた、日本人だったら、これ聴いてないでしょ」と心の底で思うんだが、どことなく「俺がまちがっていて、このひとたちは日本人だったとしてもやっぱりこれを聴いているのかな」と思わないでもないんだね。非常に自分がまちがっている気がするという。でも日本好きが少数派であるかぎりにおいて、「みんなが聴いているわけではない」という事実は趣味のよさを保証するもの(内面的に)になりうるのかもしれません。
フランス人のロックファンは、クリストフ、アラン・シャンフォール、ローラン・ヴールジーかいったポップなフランス人歌手を、聴くに値しないものとしてばかにします。しかし私の耳には、ノワール・デジールやマヌ・チャオなどのロックのひとよりも、あるいはこれはまだ聴けるとしても、どうにもつまらないし、私は「これは非音楽的なんじゃないか?」とすら思ってしまうが、なぜか評価が高いルノーやジュリエットなどの良識派左派の歌手よりも、ずっとこれらの「時代遅れでくだらない歌手」の方がよく聞こえるのです。これと同じように、フランスのひとも私のような日本のひとの偏見なしで素直に日本の音楽のよさを見出しているのだという可能性は十分にあります。「だれも自らの国では預言者になれない」とことわざにも云います。
マクドナルドで働いていた友人は同僚がすべからくつまらないと主張し、「みんな何を聴いていると思う?セリーヌ・ディオンよ!」と云っていました。私はこういうマクドナルドの同僚となじめないひとの立場から書いております。つまり「私は趣味がいいけど、みんなと同じものを聴いているひとは趣味が悪い」といういやなひとの立場です。「私がフランス人だったらきっとみんなと同じくセリーヌ・ディオンを聴いていた」というようなひと、こういうひとの心をもしかしたら傷つけるかもしれないことを決して口にしてはならないという心やさしいひとには、私の云っていることがピンぼけに思えるのは当然のことです。
日本にいると見ることがない番組ですが、日本語の生徒さんといっしょに「NHK歌謡コンサート」を見ることがありました。出演者が思い出の一曲を歌うという特集だったのですが、みんなそこそこ有名な歌を歌うなかで、八代亜紀が題名を聞いたこともない藤本卓也の歌を歌い、あまりのものすごさに私は腰が抜けましたよ(よく腰が抜けるな)。やっぱり日本の歌手はへなちょこな音楽しかやらないフランス人とはちがうわい、なんて実に「日本人的」なことを思っちゃった。あるいは「お前は八代亜紀の歌が素直にいいと思えるほど感覚が日本人でなくなってしまったのだ」と正反対のことを云われてもまったく問題がないような気がするところがまた、いいじゃないですか。「ラルクアンシエルの音楽が許せるとは、お前の感覚は既にフランス人だ!」とか。もう、何だかわけがわかりません。確かに「フランスの大方のロックバンドよりはいい」のだから、フランス人が聴くことには何の問題もない、のかもしれん。日本語の生徒さんに「日本のロックはモダンでいいね、(ビーズ)とかああいうのは、フランスにはないよ」と云われると、(ビーズ)がいいかどうかは別として、確かにフランスのロックは一般的につまらんなあとは思う。
何はともあれ、問題は結局、今フランスの日本好きが好んで聴いているXジャパンやラルクアンシエルは、ジェイムズ・ブラウンやセリーヌ・ディオンではないということなのだと思います。もしそういうものだとしたら俺も納得しているだろう、と思うのだが、だったらだれなら納得するのか、八代亜紀なら納得するのかと云われても、それもよくわからない。本当にプロモウションの問題だけなんじゃないかなあという気がする点がね、いやなの。そうじゃなくて音楽の力だというのなら、それでいいのよ。
「まわりがみんな(ボーイ)なのがいやだった」というような感覚は、当時の私の個人的な実感ではなかったが、それでも当時の時代の雰囲気としてよくわかるし、海外で日本マニアが広がるにつれてますますこのいやな気持ちがよくわかってくるのが困ったものです。日本でおもしろいことをしているひとは、金もうけに走る必要はないけど、もうちょっとお金をもらえるようにしましょうよ。そうじゃないと広がらないもの。
最近インターネット上で知り合ったフランス人が、みんな同じような日本の音楽を聴いているので、ああ、何だか、こっちの方が勝っちゃったんだなあ、と、そういう複雑な感覚から書きました。でも結局「みんなに届かなかったらしょうがない」ということなんだよね、ジェイムズ・ブラウン。
P.S. 書き方がいつも文章が長いわりに舌足らずですね。申しわけありません。むかしリヴィング・カラーが「黒人ならロックをやるな」とか「ロックをやるならもっとファンクっぽくなくやれ」とかいろいろ云われたということを思い出しました。私は米国のアフリカ系のひとは売れ線の音楽だけをやっていると云っているのではありません。ブラック・ロック・コアリションはまだやってるらしいんだが、あまり新しいひとがいない(イマーニ・コッポラはメンバーらしいが、これもそんな新しくないな)。米国のアフリカ系ミュージシャンがレコード会社に「こういう音楽をやれ」と言われるという制約、本人が金のためにやるというよりは、金になるような音楽をつくるように要求されるという部分を除いても、それでもアメリカのアフリカ系アーティストはお金に関して「ロック的」な価値観をもっていないということは云えるのではないかとは思うのだけれども、私がそういうことを云うのはむしろそのようなロック的な価値観の偽善をふまえた上のことで、自分のつもりでは否定的なものいいではありません。それにもちろんまったくロック的な価値観をいいものとする米国のアフリカ系ミュージシャンだっているでしょ。例が何だけどブロック・パーティとかいるし…と書こうとしたら、例が何だけど以前にイギリスなんでしょ。困ったな。いや、まさかこんな文章のアクセス数が多くなるとは予想しないで書いたので、無責任です。(予想したら責任ある書き方になるというわけでもないだろうけどさ。) 「あんたがむかしながらのロック的な価値観にどっぷりつかってるんだろ」と云われたら何とも反論のしようがありません。
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ある日友人が「ラジオ・ノヴァでおもしろい番組やってるよ。アンダーグラウンド音楽特集だって」といって家にやってきて、「さっき日本のグループでおもしろいのやってた。ルインズって知ってるか?」と云われました。それでラジオをつけると、いきなりむかしの中国のロックバンドドラゴンの「アナーキー・イン・ザ・UK」がかかっていて腰が抜けました。どこから探してくるんだろうねえ。モンペリエのFM局の曲を延々流しているだけのローカル音楽番組で、突然ソウルフラワーモノノケサミットが流れてきたときなど、かなりインパクトがありましたね。
他にもコーネリアスとか聴いているひとはいたが、こういうのは別に日本そのものには大して興味のない音楽好きの話です。日本好きになるとアニメソングとか浜崎あゆみとかXジャパンとか聴いてるわけ。俺はXったら相変わらず「ロサンジェルス」だもんな、やっぱり。
確かミュージック・マガジン(日本の雑誌の話)だと思ったが、むかし読んだジェイズム・ブラウンのインタヴューで、インタヴュアーが収録の後で「日本のいいソウルシンガーなので聴いてみてください」と云ってカセットか何かを渡そうとしたが、ジェイムズ・ブラウンに「売れているのか?」と聞かれ、「いいえ、売れていないけれど、いい歌手なんです」と答えると、「売れていないのならだめだ」と答えて受けとってもくれなかったというような話がありました。実際ジェイムズ・ブラウンがどのようなことを答えたかははっきり覚えていないのだけれども、「いい音楽は必ず人々の支持を得るものなのだから、売れていないのはその音楽がだめだという証拠である」と云うようなことを云っていたのではないかと思います。何しろむかしのことだから、私が頭のなかでそう解釈したのを記憶しているのかもしれません。
ちょっと流行りは過ぎましたが、サルコジ大統領が bling-bling ということばで頻繁に形容されて、メディアに揶揄されることがありました。これはもとはヒップホップの用語で、ラッパーが大きな宝石や金の鎖を身につけたりするような姿を形容することばです。サルコジは「チャラチャラ大統領」ということです。このことばがはやる前のことですが、フランスのテレビ番組で「どうして米国のアフリカ系ラッパーは成金の豊かさを大っぴらにひけらかすのか」ということが話題になっていました。彼らは「貧しい出身でもこのようになれるのだ」というメッセージをアフリカ系の共同体に対して発しているのだ、というのがひとつの答えでした。私はこれを聞いたときに、頭のなかで先のジェイムズ・ブラウンのことばに結びつけました。むかしはジェイムズ・ブラウンのことばに何となく感心しながら「商業的な成功と芸術的な成功はちがうだろう」という違和感をどうしてもぬぐうことができなかったのですが、今になって考え直してみると、「米国のアフリカ系アーティストの共同体は、『売れ線の音楽はよくない』という『ロック的』な価値観をもっていない」ということで理解ができるのではないかと思われます。だからこそ成金ではないハンガリーの貴族出身のサルコジにこのヒップホップの世界のことばを使うのはおかしいのではないかという議論もあったのです。
今フランスで日本の音楽が流行っているということはありませんが、日本の音楽を聴きたいという日本好きのひとは少しずつ増えているようです。そういうひとたちの気軽に手に届くところにある情報は、当然メルツバウやルインズではなく、浜崎あゆみやXジャパンやラルクアンシエルです。パリでコンサートをやったりもしているようです。もちろん「日本なんかどうでもいいが、私はおもしろい音楽が聴きたい」というフランス人は自分で情報を探して聴くのだから問題はありません。でも何となく日本の音楽が聴きたいというときに突き当たるのが上に名前を上げたような人々で、みんなそれで満足しているというのが、何となく物足りないような気がします。日本のポップス、商業音楽として聴くものがこれなんですか?という何となく不思議な感じがするのです。(私は「商業音楽」ということばに特に悪い意味を込めていません。)
数日前に書いたけれども、日本語の生徒にラルクアンシエルのCDを貸してもらって聴いて、私は「自分ですすんで聴く音楽ではないが、悪い音楽ではない」と思いました。でもこれが今の日本の音楽として説得力があるものなのでしょうか。
売れている音楽は「海外でもプロモウションしてもらっていいね」と思うが、そのプロモウションの対象がかなり趣味的なものではないのかな、と思います。いや、私がまちがっていて、きっとこれらの音楽が現在の日本の商業音楽のスタンダードなのでしょうけれどもね。ただやっぱり、「外国人に日本のポップスはこういうものだと云って聴かせるときには、ムード歌謡を聴かせるとわかりやすいのではないか」という湯浅学のことばに同意してみたい気もする私には、ラルクアンシエルやXジャパンの音楽は非常に趣味的なものに思えます。「趣味的なのが今の日本」と云ったら、それもまたそのとおりなのかもしれません。むかしのピチカートやフリッパーズが趣味的であったことと、趣味的であることの質が変わってきているのでしょう。Xジャパンの音楽も実は趣味的であったということが、今になってわかってきているのかもしれません。
フリッパーズ・ギターのひとたちは「まわりが(ボーイ)ばっかりで嫌だった」というようなことを云っていたと思います。私の感覚としては、あまりそんな気がしなくて、まわりのひとはルースターズとか聴いてたんじゃないかなと思います。それはともかく、何だか勝利したのは結局フリッパーズ・ギターじゃなくて(ボーイ)の感覚の方だったんだなあ、という気がします。タランティーノは布袋寅泰だし、パリのひとがラルクアンシエルのコンサートに行って盛り上がったなんて聞くと。「デヴィッド・ボウイはすばらしいアーティストだが、エルトン・ジョンはアーティストの名に値しない」というわけのわからないことを主張し、セリーヌ・ディオンをばかにするフランス人が、日本のロックのミュージシャンはレスペクトしちゃうんだから。「あんた、日本人だったら、これ聴いてないでしょ」と心の底で思うんだが、どことなく「俺がまちがっていて、このひとたちは日本人だったとしてもやっぱりこれを聴いているのかな」と思わないでもないんだね。非常に自分がまちがっている気がするという。でも日本好きが少数派であるかぎりにおいて、「みんなが聴いているわけではない」という事実は趣味のよさを保証するもの(内面的に)になりうるのかもしれません。
フランス人のロックファンは、クリストフ、アラン・シャンフォール、ローラン・ヴールジーかいったポップなフランス人歌手を、聴くに値しないものとしてばかにします。しかし私の耳には、ノワール・デジールやマヌ・チャオなどのロックのひとよりも、あるいはこれはまだ聴けるとしても、どうにもつまらないし、私は「これは非音楽的なんじゃないか?」とすら思ってしまうが、なぜか評価が高いルノーやジュリエットなどの良識派左派の歌手よりも、ずっとこれらの「時代遅れでくだらない歌手」の方がよく聞こえるのです。これと同じように、フランスのひとも私のような日本のひとの偏見なしで素直に日本の音楽のよさを見出しているのだという可能性は十分にあります。「だれも自らの国では預言者になれない」とことわざにも云います。
マクドナルドで働いていた友人は同僚がすべからくつまらないと主張し、「みんな何を聴いていると思う?セリーヌ・ディオンよ!」と云っていました。私はこういうマクドナルドの同僚となじめないひとの立場から書いております。つまり「私は趣味がいいけど、みんなと同じものを聴いているひとは趣味が悪い」といういやなひとの立場です。「私がフランス人だったらきっとみんなと同じくセリーヌ・ディオンを聴いていた」というようなひと、こういうひとの心をもしかしたら傷つけるかもしれないことを決して口にしてはならないという心やさしいひとには、私の云っていることがピンぼけに思えるのは当然のことです。
日本にいると見ることがない番組ですが、日本語の生徒さんといっしょに「NHK歌謡コンサート」を見ることがありました。出演者が思い出の一曲を歌うという特集だったのですが、みんなそこそこ有名な歌を歌うなかで、八代亜紀が題名を聞いたこともない藤本卓也の歌を歌い、あまりのものすごさに私は腰が抜けましたよ(よく腰が抜けるな)。やっぱり日本の歌手はへなちょこな音楽しかやらないフランス人とはちがうわい、なんて実に「日本人的」なことを思っちゃった。あるいは「お前は八代亜紀の歌が素直にいいと思えるほど感覚が日本人でなくなってしまったのだ」と正反対のことを云われてもまったく問題がないような気がするところがまた、いいじゃないですか。「ラルクアンシエルの音楽が許せるとは、お前の感覚は既にフランス人だ!」とか。もう、何だかわけがわかりません。確かに「フランスの大方のロックバンドよりはいい」のだから、フランス人が聴くことには何の問題もない、のかもしれん。日本語の生徒さんに「日本のロックはモダンでいいね、(ビーズ)とかああいうのは、フランスにはないよ」と云われると、(ビーズ)がいいかどうかは別として、確かにフランスのロックは一般的につまらんなあとは思う。
何はともあれ、問題は結局、今フランスの日本好きが好んで聴いているXジャパンやラルクアンシエルは、ジェイムズ・ブラウンやセリーヌ・ディオンではないということなのだと思います。もしそういうものだとしたら俺も納得しているだろう、と思うのだが、だったらだれなら納得するのか、八代亜紀なら納得するのかと云われても、それもよくわからない。本当にプロモウションの問題だけなんじゃないかなあという気がする点がね、いやなの。そうじゃなくて音楽の力だというのなら、それでいいのよ。
「まわりがみんな(ボーイ)なのがいやだった」というような感覚は、当時の私の個人的な実感ではなかったが、それでも当時の時代の雰囲気としてよくわかるし、海外で日本マニアが広がるにつれてますますこのいやな気持ちがよくわかってくるのが困ったものです。日本でおもしろいことをしているひとは、金もうけに走る必要はないけど、もうちょっとお金をもらえるようにしましょうよ。そうじゃないと広がらないもの。
最近インターネット上で知り合ったフランス人が、みんな同じような日本の音楽を聴いているので、ああ、何だか、こっちの方が勝っちゃったんだなあ、と、そういう複雑な感覚から書きました。でも結局「みんなに届かなかったらしょうがない」ということなんだよね、ジェイムズ・ブラウン。
P.S. 書き方がいつも文章が長いわりに舌足らずですね。申しわけありません。むかしリヴィング・カラーが「黒人ならロックをやるな」とか「ロックをやるならもっとファンクっぽくなくやれ」とかいろいろ云われたということを思い出しました。私は米国のアフリカ系のひとは売れ線の音楽だけをやっていると云っているのではありません。ブラック・ロック・コアリションはまだやってるらしいんだが、あまり新しいひとがいない(イマーニ・コッポラはメンバーらしいが、これもそんな新しくないな)。米国のアフリカ系ミュージシャンがレコード会社に「こういう音楽をやれ」と言われるという制約、本人が金のためにやるというよりは、金になるような音楽をつくるように要求されるという部分を除いても、それでもアメリカのアフリカ系アーティストはお金に関して「ロック的」な価値観をもっていないということは云えるのではないかとは思うのだけれども、私がそういうことを云うのはむしろそのようなロック的な価値観の偽善をふまえた上のことで、自分のつもりでは否定的なものいいではありません。それにもちろんまったくロック的な価値観をいいものとする米国のアフリカ系ミュージシャンだっているでしょ。例が何だけどブロック・パーティとかいるし…と書こうとしたら、例が何だけど以前にイギリスなんでしょ。困ったな。いや、まさかこんな文章のアクセス数が多くなるとは予想しないで書いたので、無責任です。(予想したら責任ある書き方になるというわけでもないだろうけどさ。) 「あんたがむかしながらのロック的な価値観にどっぷりつかってるんだろ」と云われたら何とも反論のしようがありません。
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