あなたは基本的にはずっと日本に暮らしている主に日本語を話すひとだとします。あなたの知り合いにフランス人がいるとします。友人でも同僚でもいいですし、フランス語の先生でもいいです。あなたはこのフランス人に「日本についてもっとよく知ってもらいたい」と思いますか。そう思うのがしごく当たり前だと考えるひともいるかもしれません。しかし相手の方からしてみれば、長く日本に住んでいるのだから余計なお世話だ、と思うかもしれません。「俺は日本古典文学を問題なく読めるが、あんたら全然読めないくせに、日本映画の基本も何も見ていないくせに、何だよ、えらそうに」と思うフランス人もいるかもしれません。
こういうことを考えるのは、私がフランスにいた間には、フランス人の友人や日本語の生徒に「あなたにフランスのことをもっとよく知ってほしい」という態度をとられたことがなかったからです。「地元の町のこと」は別の話ですよ。「この町、この地方にはこんないいものがあるんだよ」と云われて案内されるようなことはよくあったが、「フランス文化」をもっとよく知ってくれと言われることはありませんでした。
逆に友人なんかは「いっしょにこの映画を見よう」と云って日本映画を家にもってくる。私も別に日本映画はそんなによく知りませんから、見たことのない映画をこのようにして見ることがよくありました。「へえ、こんな映画があったんだ」と思ったなかから題名をあげると、『赤い手錠(ワッパ)』という映画。題名そのものは名画座の上映リストで見たことがあったけれども、ほぼ意識したことがありませんでした。ともかく、ひとの食べるめしがものすごくまずそうな映画。繰り返して見る気はしないが、結構面白かった。他にも多岐川裕美の出ていた『聖獣学園』とかひとといっしょに見たが、「何でこんな映画がフランスでDVDで出てるの?何か意味があるの?」と思いました。実際にボーナスで多岐川由美が「何でこんな映画がフランスでDVDで出るのかわかりませんけれど」とあきれ顔で云っていました。そりゃあ本人からしたらそれが正直なところだろうねえ。フランス人の日本ものに関する趣味はよくわかりませんや。特に有料テレビ局カナル・プリュスと独仏共同文化系テレビ局アルテで日本の変な映画をよくやります。もっと普通のもの、やれないの?と思うんだけど。『盲獣』は日本で地上波に乗ることは決してないだろう。こんなもん、そもそもフランスでは見られる本数が多くない「日本映画」としてやられても、と思うことはしばしばであったが、『雷魚』なんかはちょっとした収穫ではありました。それでも「公共の電波を用いて自分の趣味を紹介できるひとの趣味」に一般の視聴者の視聴の可能性が限定されてしまうのはどういうものでしょうか。
友人が私の家に日本映画のDVDをもってきて見ることには、「ひとりで見るよりいい。日本映画なんてわけのわからないものはいっしょに見る相手がいない」「わからないところを説明してもらえる」などの理由があったが、日本語の生徒でもすることが基本的に変わらないんですね。日本の音楽のCDとかDVDを「これ見たことありますか、聞いたことありますか」と云って貸してくれる。当時は別に何とも思わなかったが、日本のフランス語の学生が、フランスの音楽や映画を先生に貸すのかと考えてみると、どうも妙な感じがするのです。よっぽど私が日本について何も知らないようにみえたんですかね。そういうことはないと思うんですが。
中学生の生徒が「ラルクアンシエル、いいですよお」と云って貸してくれたことがありました。何か困ったなあ、と思いつつ、聞いたこともないのに「こんなもの聞きません」と云って断るのも何なので、うちに帰って聞いてみました。そもそも英国ロック的な味わいの音楽は趣味ではないから自分からすすんで聞くようなものではないとしても、別に悪いことはしていないのだよねえ。ああ、こんなちゃんとしたものだったんだ、と思ったという。別の大学生の生徒は「『バトル・ロワイヤル』、見ましたか?」と聞いてきて、「いや、見ていない」と答えると「じゃあ、貸します」と云って貸してくれました。見終わって「何か、説得力のない映画でした」と感想を云って返すと、「そうですよねえ、友だちがすごくいいというからDVDを買ったんだけど、私もあまりおもしろくないと思います」と云っていました。おもしろくないと思いつつ貸してくれたということなのだが、それでも買ったDVDが役に立ってよかったね。
カトリックの教義問答をヴォランティアで教えているおばさんの家に行ったら、坂口安吾の『白痴』のフランス語訳をもってきて、「読みますか?」と云われたのだが、「いや、これはもう読んだし、私は何もわざわざ日本文学をフランス語訳で読む必要がありませんから」と答えると、「ああ、それはそうだよねえ、あなたは日本語で読めばいいのよねえ」とまるでそのことに気づいていなかったかのように笑っていました。日本に滞在するフランス人に、「スタンダール読みますか」と云って、野崎歓新訳の『赤と黒』を差し出したら奇妙だが、問題は、このおばさんのしたことが、はたから見て別にまぬけなことではなかったんじゃないのかな、というところ。これは普通の他者に対する働きかけではなかったのか。
むかしから何度となく聞く話なんだけれども、「海外に行って海外のひとに『日本にはこんなに素晴らしい文化があるじゃないか』と云われて、日本のよさに初めて気づいた」とか「再認識した」とか。そういうひとの話を非常によく聞きます。今考えると、「ひょっとして、これなの?」っていう。別に私はラルクアンシエルもバトル・ロワイヤルも「こんなもんか」と思っただけだが、ここで何か来ちゃうひとがいるんじゃないか。一対一のコミュニケイションがいきなり文化の問題にふくれあがってしまうという。
日本にいる外国人に「あなたの国の文化はすばらしいですね!」と働きかける日本人はいるんだろうが、どうなんだろう、自分の好きなフランス映画のDVDをもっていって、いっしょに見てわからないところを解説してもらって楽しむみたいなの、よくあるんでしょうか。私の感想なんですけどね、何だか日本では外国人に対して「日本の文化はすばらしいですよ!」と云って、わざわざ英語で日本文化の広告塔みたいなブログを書いたりしてさ、海外に行ったら行ったで「日本文化はすばらしいね!」と海外のひとに云われて、そうかと思って日本のよさに気づいてしまったりね、日本人はなぜだか日本に感心してばっかりいるんじゃないの。別に何にもそんな必要ないんじゃないかと思うんだけど。ひどいのになると日本にずっといたままで日本のよさを再発見したり、最近日本を感じたとか云っているし。ずっと同じこと云ってるくせに最近とは何だよって。
皇族のひとで名前がうけたまわりこというのかどう読むのかわからないけれど、そのひとも四年間英国に留学して帰ってきて「日本のよさに気づいた」と云っているのだそうです。別に四年も英国に滞在して思ったことがそれだけだったというわけではないんだろうし、メディアに対してそれしか云わなかったということでもないのだろうけどね、海外に行く前からおそらく日本どっぷりみたいな生活をしていて、四年間海外で暮らして、その結論が「日本のよさに気づいた」だなんて、もし皇族の使命が外交なのであれば、こういう態度は問題なんじゃないのかなあ。だれも問題だと思わないのかな。臣民は喜ぶかもしれんけどね。日本のすばらしさを海外に紹介することだけが文化外交なのか。その逆をやるひとはたくさんいるということなのかもしれんが、はやりやうわずみだけをとりいれるのではなく、他者をしっかりと理解しようとする試みはもっともっとなされるべきだと思います。自分のことを宣伝するよりも、他者を理解しようとすることの方が高貴だと思います。
私のうちにDVDをもってきていっしょに見たり、CDやDVDを貸してくれたりするのは、結局はただの個人間のコミュニケイションのしかた以上のものではないのだと思います。(「それ以上のものではない」とは云ってもこれがいちばん大切なことではあるのですが、何も文化の問題にする必要はないという意味です。) 私の場合はあまりそういうことはなかったけれども、そこに「日本はすばらしいよ!」ということばが付随することもあるのでしょう。それをあんまり本気にするのもどういうものなのかなあ、と私は思うんですよ。特に皇族のひとなんてそういうことばっかり云われるんだろうから。四年間「日本はすばらしい」と云われつづけていたのだろうけど、だからってそれを額面通りに受け取るようなものでもないでしょうって。
海外生活が長くて「私は日本のことをあまりよく知らなかったことに気づいたから、もっと日本について勉強することにしよう」と思うのはわかるが、わざわざ海外に長く住んで「日本のよさに気づく」というのはどうもよくわからない。どうしてわざわざそんなことを云ってみせなければならないのかはさらによくわからない。自分の滞在先のひとに対して失礼じゃないか? 虐げられたりでもしたんですかね。「日本には日本人に対する差別がないから日本がいちばん!」という驚愕の理屈を述べるひともいるくらいだからな。どのくらいの差別をされて云っているんだって。ちょっぴり不愉快な思いをしたくらいで差別だの何だのピーピー鳴くんじゃねえの!
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こういうことを考えるのは、私がフランスにいた間には、フランス人の友人や日本語の生徒に「あなたにフランスのことをもっとよく知ってほしい」という態度をとられたことがなかったからです。「地元の町のこと」は別の話ですよ。「この町、この地方にはこんないいものがあるんだよ」と云われて案内されるようなことはよくあったが、「フランス文化」をもっとよく知ってくれと言われることはありませんでした。
逆に友人なんかは「いっしょにこの映画を見よう」と云って日本映画を家にもってくる。私も別に日本映画はそんなによく知りませんから、見たことのない映画をこのようにして見ることがよくありました。「へえ、こんな映画があったんだ」と思ったなかから題名をあげると、『赤い手錠(ワッパ)』という映画。題名そのものは名画座の上映リストで見たことがあったけれども、ほぼ意識したことがありませんでした。ともかく、ひとの食べるめしがものすごくまずそうな映画。繰り返して見る気はしないが、結構面白かった。他にも多岐川裕美の出ていた『聖獣学園』とかひとといっしょに見たが、「何でこんな映画がフランスでDVDで出てるの?何か意味があるの?」と思いました。実際にボーナスで多岐川由美が「何でこんな映画がフランスでDVDで出るのかわかりませんけれど」とあきれ顔で云っていました。そりゃあ本人からしたらそれが正直なところだろうねえ。フランス人の日本ものに関する趣味はよくわかりませんや。特に有料テレビ局カナル・プリュスと独仏共同文化系テレビ局アルテで日本の変な映画をよくやります。もっと普通のもの、やれないの?と思うんだけど。『盲獣』は日本で地上波に乗ることは決してないだろう。こんなもん、そもそもフランスでは見られる本数が多くない「日本映画」としてやられても、と思うことはしばしばであったが、『雷魚』なんかはちょっとした収穫ではありました。それでも「公共の電波を用いて自分の趣味を紹介できるひとの趣味」に一般の視聴者の視聴の可能性が限定されてしまうのはどういうものでしょうか。
友人が私の家に日本映画のDVDをもってきて見ることには、「ひとりで見るよりいい。日本映画なんてわけのわからないものはいっしょに見る相手がいない」「わからないところを説明してもらえる」などの理由があったが、日本語の生徒でもすることが基本的に変わらないんですね。日本の音楽のCDとかDVDを「これ見たことありますか、聞いたことありますか」と云って貸してくれる。当時は別に何とも思わなかったが、日本のフランス語の学生が、フランスの音楽や映画を先生に貸すのかと考えてみると、どうも妙な感じがするのです。よっぽど私が日本について何も知らないようにみえたんですかね。そういうことはないと思うんですが。
中学生の生徒が「ラルクアンシエル、いいですよお」と云って貸してくれたことがありました。何か困ったなあ、と思いつつ、聞いたこともないのに「こんなもの聞きません」と云って断るのも何なので、うちに帰って聞いてみました。そもそも英国ロック的な味わいの音楽は趣味ではないから自分からすすんで聞くようなものではないとしても、別に悪いことはしていないのだよねえ。ああ、こんなちゃんとしたものだったんだ、と思ったという。別の大学生の生徒は「『バトル・ロワイヤル』、見ましたか?」と聞いてきて、「いや、見ていない」と答えると「じゃあ、貸します」と云って貸してくれました。見終わって「何か、説得力のない映画でした」と感想を云って返すと、「そうですよねえ、友だちがすごくいいというからDVDを買ったんだけど、私もあまりおもしろくないと思います」と云っていました。おもしろくないと思いつつ貸してくれたということなのだが、それでも買ったDVDが役に立ってよかったね。
カトリックの教義問答をヴォランティアで教えているおばさんの家に行ったら、坂口安吾の『白痴』のフランス語訳をもってきて、「読みますか?」と云われたのだが、「いや、これはもう読んだし、私は何もわざわざ日本文学をフランス語訳で読む必要がありませんから」と答えると、「ああ、それはそうだよねえ、あなたは日本語で読めばいいのよねえ」とまるでそのことに気づいていなかったかのように笑っていました。日本に滞在するフランス人に、「スタンダール読みますか」と云って、野崎歓新訳の『赤と黒』を差し出したら奇妙だが、問題は、このおばさんのしたことが、はたから見て別にまぬけなことではなかったんじゃないのかな、というところ。これは普通の他者に対する働きかけではなかったのか。
むかしから何度となく聞く話なんだけれども、「海外に行って海外のひとに『日本にはこんなに素晴らしい文化があるじゃないか』と云われて、日本のよさに初めて気づいた」とか「再認識した」とか。そういうひとの話を非常によく聞きます。今考えると、「ひょっとして、これなの?」っていう。別に私はラルクアンシエルもバトル・ロワイヤルも「こんなもんか」と思っただけだが、ここで何か来ちゃうひとがいるんじゃないか。一対一のコミュニケイションがいきなり文化の問題にふくれあがってしまうという。
日本にいる外国人に「あなたの国の文化はすばらしいですね!」と働きかける日本人はいるんだろうが、どうなんだろう、自分の好きなフランス映画のDVDをもっていって、いっしょに見てわからないところを解説してもらって楽しむみたいなの、よくあるんでしょうか。私の感想なんですけどね、何だか日本では外国人に対して「日本の文化はすばらしいですよ!」と云って、わざわざ英語で日本文化の広告塔みたいなブログを書いたりしてさ、海外に行ったら行ったで「日本文化はすばらしいね!」と海外のひとに云われて、そうかと思って日本のよさに気づいてしまったりね、日本人はなぜだか日本に感心してばっかりいるんじゃないの。別に何にもそんな必要ないんじゃないかと思うんだけど。ひどいのになると日本にずっといたままで日本のよさを再発見したり、最近日本を感じたとか云っているし。ずっと同じこと云ってるくせに最近とは何だよって。
皇族のひとで名前がうけたまわりこというのかどう読むのかわからないけれど、そのひとも四年間英国に留学して帰ってきて「日本のよさに気づいた」と云っているのだそうです。別に四年も英国に滞在して思ったことがそれだけだったというわけではないんだろうし、メディアに対してそれしか云わなかったということでもないのだろうけどね、海外に行く前からおそらく日本どっぷりみたいな生活をしていて、四年間海外で暮らして、その結論が「日本のよさに気づいた」だなんて、もし皇族の使命が外交なのであれば、こういう態度は問題なんじゃないのかなあ。だれも問題だと思わないのかな。臣民は喜ぶかもしれんけどね。日本のすばらしさを海外に紹介することだけが文化外交なのか。その逆をやるひとはたくさんいるということなのかもしれんが、はやりやうわずみだけをとりいれるのではなく、他者をしっかりと理解しようとする試みはもっともっとなされるべきだと思います。自分のことを宣伝するよりも、他者を理解しようとすることの方が高貴だと思います。
私のうちにDVDをもってきていっしょに見たり、CDやDVDを貸してくれたりするのは、結局はただの個人間のコミュニケイションのしかた以上のものではないのだと思います。(「それ以上のものではない」とは云ってもこれがいちばん大切なことではあるのですが、何も文化の問題にする必要はないという意味です。) 私の場合はあまりそういうことはなかったけれども、そこに「日本はすばらしいよ!」ということばが付随することもあるのでしょう。それをあんまり本気にするのもどういうものなのかなあ、と私は思うんですよ。特に皇族のひとなんてそういうことばっかり云われるんだろうから。四年間「日本はすばらしい」と云われつづけていたのだろうけど、だからってそれを額面通りに受け取るようなものでもないでしょうって。
海外生活が長くて「私は日本のことをあまりよく知らなかったことに気づいたから、もっと日本について勉強することにしよう」と思うのはわかるが、わざわざ海外に長く住んで「日本のよさに気づく」というのはどうもよくわからない。どうしてわざわざそんなことを云ってみせなければならないのかはさらによくわからない。自分の滞在先のひとに対して失礼じゃないか? 虐げられたりでもしたんですかね。「日本には日本人に対する差別がないから日本がいちばん!」という驚愕の理屈を述べるひともいるくらいだからな。どのくらいの差別をされて云っているんだって。ちょっぴり不愉快な思いをしたくらいで差別だの何だのピーピー鳴くんじゃねえの!
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