本当にどうでもいいことですが。
はてな匿名ダイアリーというものに「嫌いなコンビニ店員」という記事があり、それに対していろいろと反応があるようです。いったい何が受けているのかなあと思いつつ、しっかりブックマークのコメントや「このエントリーを含む日記」までチェックしてしまったよ。客に対して敬語を使わないコンビニ店員のことを怒る記事の何がそんなに心に触れるんですかね。われながらよくわかりません。
それで通りがかったブログに、「ベルギーでチョコレートひとつ使うのに200ユーロ札しかなかったときに『ほんとに?』と云う顔をされたり、イタリアのスーパーで一言もしゃべらないでレジで会計されたりすると、敬語を使えないコンビニ店員は許容範囲に思えてくる」ということが書いてあって、「これはまた」と思ったのです。「これはまた」というのは別に批判ではなくて、私もおぼえのあることですからね。
ひとはたとえ海外に行くことがあっても、数日間滞在するだけの場合が多くて、長期間海外に滞在するひとは結局それほど多くないでしょう。前にも言及したことがあるけれども、モンティ・パイソンのジョン・クリーズがかかりつけの精神科医と対談した本(邦訳なし。私はフランス語訳で読みました)に日本人社会のことが結構書いてあるのだが、そのなかに「日本人は海外でひとりで暮らしている場合にはその社会に対するすぐれた適応能力を見せるけれど、数人集まったとたんに突然閉鎖的になる」ということが書いてありました。実際パリあたりだと、何十年も滞在していながら日本に住んでいるのとまったく感覚が変わらない日本人もいます。こういうひとはお店で不愉快な思いをしても、日本人同士の会話でそれを解消して、同じ感覚をもちつづけるのでしょう。これが解消できないひとは周りに合わせて自分の感覚の方が変わってくるということがあるのでしょうか。
ベルギーやイタリアのことはよく知らないので、フランスのことしか書きません。だからといってフランスもベルギーもイタリアもいっしょだと云うつもりはまったくありませんよ。
フランの時代ですが、私もフランスで小さなものを買うときに高額の紙幣を差し出してけげんな顔をされたことがあります。私は何でもまず「自分が悪いのか」と思うたちですから、けげんな顔をされたからといってとりわけそれが不愉快だとは思わなかったのですけど、そういう風に思うひともいるんですね。その程度のことで不愉快だと思うのかな、と不思議には感じますが。
前に「日本人は怒りっぽい」というイメージがフランスにはあるということを書きました。いま私も、こういうことを書くとなぜか怒りだすひとがいるんだよなあ、と思いつつ書くのですが、フランスのスーパーのレジで東洋人の客が来るといきなりぶすっとする店員がいるのは、あれは東洋人の客が挨拶しないからじゃないのかなあと思うことがあるのです。フランスのスーパーのレジのひとの立場にたってみれば、自分が挨拶してるのに相手は「こっちはお客でござい」という感じで挨拶し返さなかったら、客も挨拶し返すのが当然だと思っているレジ係のひとは、見た感じでは挨拶し返さないようなひとにはそのうちに挨拶したくなくなるんじゃないの。見た目で対応を変えている、ということでは人種差別的な態度にはちがいないが、そんな声を荒げて批判するようなものでもない。
という発想に立つと、自分の方からレジのひとに対して柔らかく当たろう、という気にはなりませんか。100ユーロ札とか出すようなところじゃなかったら、「ごめんなさい、大きなお札しかないんですけど」と云って出せばいいのだと思います。それでぶすっとした対応をされることはなくなって万事OKとはいきませんが、それでも相手の愛想が悪いんだったら、悪いのは相手で、自分じゃないんだから、別にいいんじゃないの。自分の気持ちはまったく傷つかないよね。レジのひとに何も云われないのがいやだったら、自分から挨拶すればいいじゃない。それでも答えないかもしれないけど、別にいいよね、それは。
旅行ガイドはやったことがないけれども、日本からフランスに来たひとに通訳として同伴をすることはときどきありました。店員さんが「いくらです」と云えば、私は金額を訳すけれども、お金を払うときに私を介することはないので、お客さんはその場でお財布からお金を出して店員さんに渡しますね。それが場違いな金額の紙幣だと、私はわきから「ごめんなさいね、大きなお札で」と店員に云うこともありました。何だよ、この通訳、大きなお世話だ、ばか野郎、と思うひとがいるかもしれないけど。そんなもん、こっちの勝手ですよ。こっちは国際交流を円滑にしようとしてるんだ(大げさ)。
額が大きかろうがお金はお金なんだ、迷惑そうな顔をされるおぼえはない、と考えるひとがいるんだろうけど、その考えがどこでも通用するということはないのです。でもフランスに商用で来ている日本人がフランスの常識を知っているはずはありません。その常識の欠如をカヴァーするのは、通訳かどうかは別として、現地生活の長いひとの役目でしょ? 同国人だからこそ必要なことじゃないの、それは。世界中どこに行っても決してこの私が常識の欠如した状態になることなどありえない(と心の底から信じ込んでいる)スーパー日本人もたくさんいらっしゃるのかもしれませんけどね。
さて、話は変わります。最初の匿名日記の話ですが、この日記作者の青年はこの「嫌いなコンビニ店員」に対して何らかのすきを感じたからこそ「お客に対して敬語も使えないのか」と説教をする一方で、同時に相手は「自分のことをなじみの客だと思っているのかもしれない」という感想ももっているのでしょう。このすきは別に親しみに転化するようなものではないだろうけれども、そもそもすきがなかったら、「この店員がいや」と思ってこのコンビニを使うのをやめているでしょう。もしかしたらそのすきは女性差別的な観点から見出されたのものなのかもしれませんが、ともかくすきはすきです。このすきに対してどう対処するかという問題ですよね。何も説教することはないんじゃないかという。
でもこの日記に対するコメントで、たばこを買うときに番号は何番か毎回聞かれるのがいやだったら(陳列棚に番号がついているということなのでしょうか)、最初から番号を云えという意見が結構多いのだけれども、どうもここにはコミュニケイションの量を最低限にとどめておこうという発想が見られませんか。いや、私は何も、こういう店員の態度が気に喰わないのだったら、今度は自分から「今日はいい天気ですねえ」とか云って会話を試みよ、なんてことを云っているのではないですよ。でも「敬語を使えと説教する」とか「聞き返されないように最初から番号を云う」とかすることの前に、「僕がいつも買うマルボロは78番なのでこれからは覚えておいてくださいね」と愛想よくやんわりと云ったらどうなのでしょうか。
何となく「この店員は僕のことをなじみと思っているのかどうか、そこがはっきりわからないのが実は、いっちばん困るんだよなあ」という感覚が背景にあるんじゃないかという気がするんですね。だからこそこのような形で「私のことをなじみとして覚えておいてくれないかな」という、よく考えてみれば自然なものであるかに思われるような働きかけができないし、実は自分がなじみとして認識されているということをはっきりと理解するのが怖いし、自分をわざわざなじみとして積極的に認識させる行為に及ぶなどもってのほかだから、それを思いつくこともできないのではないかという。
「覚えておいてくださいね」と云っても覚えなかったら、「何だ、俺はなじみではなかったのか」という結論が出るわけですが、それはそれでいいんじゃないですかね。俺は何も傷つかないという感じではないですか。「この店員は果たして俺のことをなじみとして認識しているのか?どうなんだ?」が、よくわからないというのがいちばん大きな問題ではないのかと想像するのですが。 敬語が使われないことに対する反感はこの疑問に付随するものなのではないのかな。
敬語の使い方なんてことを云ったら、「文部科学副大臣」の松浪健四郎が尊敬と謙譲をちゃんぽんにしたよくわからない敬語をテレビで堂々と使っていることの方がよほど気になって、コンビニの店員のことなんてどうでもいいですなあ。
最後にしばらく前にちょっと面白いなと思ったことを書いておきます。Last.fm でエラー画面が出たことがあったのだけれども、英語やフランス語では「お茶でも飲んでまたアクセスしてください」と書いてありました。イタリア語とポルトガル語では「コーヒー」なのが面白いなあと思ったのです。しかし日本語のエラーメッセージは、まるで当然のことのように、お茶もコーヒーも出てこない匿名的なものなのね。「お茶でも飲んで、じゃねえよ!ふざけんな!お前らはサーヴィスを提供するのが仕事だろう!」と怒りだす日本人っているんだろうか、と思ったんだが、実際にいるってことなのかしらねえ。
本当にどうでもいいことでした。
P.S. 今思い出したんだけれども、チョコレイトどころか数人分の食事代の会計に200ユーロ札を出して断られたことがあるのを思い出しました。そもそもフランス人には200ユーロ札なんて見たことがないひとも多いし、偽札だと損害も大きいですからね。200ユーロ札なんて使わないで銀行に預けるのがフランスでは「常識」です。
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それで通りがかったブログに、「ベルギーでチョコレートひとつ使うのに200ユーロ札しかなかったときに『ほんとに?』と云う顔をされたり、イタリアのスーパーで一言もしゃべらないでレジで会計されたりすると、敬語を使えないコンビニ店員は許容範囲に思えてくる」ということが書いてあって、「これはまた」と思ったのです。「これはまた」というのは別に批判ではなくて、私もおぼえのあることですからね。
ひとはたとえ海外に行くことがあっても、数日間滞在するだけの場合が多くて、長期間海外に滞在するひとは結局それほど多くないでしょう。前にも言及したことがあるけれども、モンティ・パイソンのジョン・クリーズがかかりつけの精神科医と対談した本(邦訳なし。私はフランス語訳で読みました)に日本人社会のことが結構書いてあるのだが、そのなかに「日本人は海外でひとりで暮らしている場合にはその社会に対するすぐれた適応能力を見せるけれど、数人集まったとたんに突然閉鎖的になる」ということが書いてありました。実際パリあたりだと、何十年も滞在していながら日本に住んでいるのとまったく感覚が変わらない日本人もいます。こういうひとはお店で不愉快な思いをしても、日本人同士の会話でそれを解消して、同じ感覚をもちつづけるのでしょう。これが解消できないひとは周りに合わせて自分の感覚の方が変わってくるということがあるのでしょうか。
ベルギーやイタリアのことはよく知らないので、フランスのことしか書きません。だからといってフランスもベルギーもイタリアもいっしょだと云うつもりはまったくありませんよ。
フランの時代ですが、私もフランスで小さなものを買うときに高額の紙幣を差し出してけげんな顔をされたことがあります。私は何でもまず「自分が悪いのか」と思うたちですから、けげんな顔をされたからといってとりわけそれが不愉快だとは思わなかったのですけど、そういう風に思うひともいるんですね。その程度のことで不愉快だと思うのかな、と不思議には感じますが。
前に「日本人は怒りっぽい」というイメージがフランスにはあるということを書きました。いま私も、こういうことを書くとなぜか怒りだすひとがいるんだよなあ、と思いつつ書くのですが、フランスのスーパーのレジで東洋人の客が来るといきなりぶすっとする店員がいるのは、あれは東洋人の客が挨拶しないからじゃないのかなあと思うことがあるのです。フランスのスーパーのレジのひとの立場にたってみれば、自分が挨拶してるのに相手は「こっちはお客でござい」という感じで挨拶し返さなかったら、客も挨拶し返すのが当然だと思っているレジ係のひとは、見た感じでは挨拶し返さないようなひとにはそのうちに挨拶したくなくなるんじゃないの。見た目で対応を変えている、ということでは人種差別的な態度にはちがいないが、そんな声を荒げて批判するようなものでもない。
という発想に立つと、自分の方からレジのひとに対して柔らかく当たろう、という気にはなりませんか。100ユーロ札とか出すようなところじゃなかったら、「ごめんなさい、大きなお札しかないんですけど」と云って出せばいいのだと思います。それでぶすっとした対応をされることはなくなって万事OKとはいきませんが、それでも相手の愛想が悪いんだったら、悪いのは相手で、自分じゃないんだから、別にいいんじゃないの。自分の気持ちはまったく傷つかないよね。レジのひとに何も云われないのがいやだったら、自分から挨拶すればいいじゃない。それでも答えないかもしれないけど、別にいいよね、それは。
旅行ガイドはやったことがないけれども、日本からフランスに来たひとに通訳として同伴をすることはときどきありました。店員さんが「いくらです」と云えば、私は金額を訳すけれども、お金を払うときに私を介することはないので、お客さんはその場でお財布からお金を出して店員さんに渡しますね。それが場違いな金額の紙幣だと、私はわきから「ごめんなさいね、大きなお札で」と店員に云うこともありました。何だよ、この通訳、大きなお世話だ、ばか野郎、と思うひとがいるかもしれないけど。そんなもん、こっちの勝手ですよ。こっちは国際交流を円滑にしようとしてるんだ(大げさ)。
額が大きかろうがお金はお金なんだ、迷惑そうな顔をされるおぼえはない、と考えるひとがいるんだろうけど、その考えがどこでも通用するということはないのです。でもフランスに商用で来ている日本人がフランスの常識を知っているはずはありません。その常識の欠如をカヴァーするのは、通訳かどうかは別として、現地生活の長いひとの役目でしょ? 同国人だからこそ必要なことじゃないの、それは。世界中どこに行っても決してこの私が常識の欠如した状態になることなどありえない(と心の底から信じ込んでいる)スーパー日本人もたくさんいらっしゃるのかもしれませんけどね。
さて、話は変わります。最初の匿名日記の話ですが、この日記作者の青年はこの「嫌いなコンビニ店員」に対して何らかのすきを感じたからこそ「お客に対して敬語も使えないのか」と説教をする一方で、同時に相手は「自分のことをなじみの客だと思っているのかもしれない」という感想ももっているのでしょう。このすきは別に親しみに転化するようなものではないだろうけれども、そもそもすきがなかったら、「この店員がいや」と思ってこのコンビニを使うのをやめているでしょう。もしかしたらそのすきは女性差別的な観点から見出されたのものなのかもしれませんが、ともかくすきはすきです。このすきに対してどう対処するかという問題ですよね。何も説教することはないんじゃないかという。
でもこの日記に対するコメントで、たばこを買うときに番号は何番か毎回聞かれるのがいやだったら(陳列棚に番号がついているということなのでしょうか)、最初から番号を云えという意見が結構多いのだけれども、どうもここにはコミュニケイションの量を最低限にとどめておこうという発想が見られませんか。いや、私は何も、こういう店員の態度が気に喰わないのだったら、今度は自分から「今日はいい天気ですねえ」とか云って会話を試みよ、なんてことを云っているのではないですよ。でも「敬語を使えと説教する」とか「聞き返されないように最初から番号を云う」とかすることの前に、「僕がいつも買うマルボロは78番なのでこれからは覚えておいてくださいね」と愛想よくやんわりと云ったらどうなのでしょうか。
何となく「この店員は僕のことをなじみと思っているのかどうか、そこがはっきりわからないのが実は、いっちばん困るんだよなあ」という感覚が背景にあるんじゃないかという気がするんですね。だからこそこのような形で「私のことをなじみとして覚えておいてくれないかな」という、よく考えてみれば自然なものであるかに思われるような働きかけができないし、実は自分がなじみとして認識されているということをはっきりと理解するのが怖いし、自分をわざわざなじみとして積極的に認識させる行為に及ぶなどもってのほかだから、それを思いつくこともできないのではないかという。
「覚えておいてくださいね」と云っても覚えなかったら、「何だ、俺はなじみではなかったのか」という結論が出るわけですが、それはそれでいいんじゃないですかね。俺は何も傷つかないという感じではないですか。「この店員は果たして俺のことをなじみとして認識しているのか?どうなんだ?」が、よくわからないというのがいちばん大きな問題ではないのかと想像するのですが。 敬語が使われないことに対する反感はこの疑問に付随するものなのではないのかな。
敬語の使い方なんてことを云ったら、「文部科学副大臣」の松浪健四郎が尊敬と謙譲をちゃんぽんにしたよくわからない敬語をテレビで堂々と使っていることの方がよほど気になって、コンビニの店員のことなんてどうでもいいですなあ。
最後にしばらく前にちょっと面白いなと思ったことを書いておきます。Last.fm でエラー画面が出たことがあったのだけれども、英語やフランス語では「お茶でも飲んでまたアクセスしてください」と書いてありました。イタリア語とポルトガル語では「コーヒー」なのが面白いなあと思ったのです。しかし日本語のエラーメッセージは、まるで当然のことのように、お茶もコーヒーも出てこない匿名的なものなのね。「お茶でも飲んで、じゃねえよ!ふざけんな!お前らはサーヴィスを提供するのが仕事だろう!」と怒りだす日本人っているんだろうか、と思ったんだが、実際にいるってことなのかしらねえ。
本当にどうでもいいことでした。
P.S. 今思い出したんだけれども、チョコレイトどころか数人分の食事代の会計に200ユーロ札を出して断られたことがあるのを思い出しました。そもそもフランス人には200ユーロ札なんて見たことがないひとも多いし、偽札だと損害も大きいですからね。200ユーロ札なんて使わないで銀行に預けるのがフランスでは「常識」です。
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