2008年9月17日水曜日

一見充溢とみえるものもまた欠陥を抱えている

 いつも前に書いたことと似たようなことしか書いていなくて申しわけありませんが。
 1945年までつづいた戦争に関して、日本政府の近隣諸国に対する謝罪の有無や、南京大虐殺、慰安婦の強制が存在したかどうかということがよく日本国内で問題になるのだけれども、こういった議論についてかねがね疑問に思っていることがあります。
 日本の国家と軍がこの時期にしたこと、さらにそれからさかのぼって帝国の成立、それを準備したものに対してきちんと向き合わないことによって、だれがいちばん被害を受けているのでしょうか。20世紀の半ばのことについてさえ「そんなむかしのこと、いいじゃん」と云って目をふさごうとする態度で、だれがいちばん損をしているのか。中国や韓国のひとが日本が戦時中の蛮行について謝罪したかどうか、南京大虐殺や慰安婦の強制があったことを日本政府が認めるかどうかは、本質的には中国人や韓国人の存続にかかわる問題ではありません。しかしこれはこんなにも日本の国を愛していらっしゃる「日本人」のみなさまの存続にかかわる問題なのです。無知のなかに閉じ込められていること、あるいは自らすすんで無知のなかにとどまろうとする、日本独自の一種の原理主義である「迷妄主義」(フランス語の obscurantisme の訳語として私は用いています)によって、「日本人」がいかに被害をこうむっているのかを考えるべきなのであり、彼らの迷妄主義を攻撃、非難するひとも、日本の近隣諸国に対する道徳的、人道的な義務を高く掲げるのではなく、このような態度によって何よりも最初に損害をこうむっているのは現在の日本人であるということをもっともっと主張するべきなのではないでしょうか。
 このような「日本的なものは説明できない」→「私は説明しないことによって日本人性を確証する」という日本の原理主義としての「迷妄主義」に対して、南京大虐殺の存在あるいはホームレスの人権の「自明性」を対置するのは、残念なことながら、相手と同じレベルに身を置く知的怠惰、少なくとも稚拙な議論であるという非難を免れないでしょう。
 18世紀フランスの自由思想家(libertins)にとって、唯一の自明のものは身体の快不快でした。このような自由思想は同時代の徹底的な懐疑主義と並行したものです。懐疑主義に対して突きつけられる自明の事実が存在するとしたら、それは私のからだが気持ちいいか、気持ち悪いかということでしかありません。こういった思想は人間を動物のレベルに引き下げるものであるとする反論に対して、自由思想家は「それでは人間の魂は何か説明できないものであると云えば、人間が高められたことになるのか」と答えました。「それは説明できない」という議論のなかには、常に人間のもつ「精神的なもの」を高めようとする動機があるということをかぎとるべきだと私は思います。それはしばしば精神的なものは神秘的なものであると信じられるからです。
 このような思想の文脈のなかに自らの身を置いたサド侯爵の小説の自由思想家の登場人物ノワルスイユは、「私の原則は常に自分の身体にとっていちばん気持ちのよい行動に身を任せるということだ。美徳のもたらす快は悪徳のもたらす快よりも弱いものであるから、私は常に悪徳に身を任せなければならない」と主張します。サド侯爵が作品を書く際の倫理については何度も繰り返しました。芸術の目的は作品のなかで判断を下すことではなく、自ら判断を下さなくても読者が心のなかで判断を下すことができるのが芸術の神髄であるとサド侯爵は云っていました。ノワルスイユが云っているのは、「私にとっては悪徳のもたらす快が美徳のもたらす快よりも大きい」ということでしかないと読者は理解しなければなりません。
 ノワルスイユはまたこう云います。「どんな美徳の行いのなかにも必ず利己的な動機がある。お返しをしてもらいたいと思っているか、あるいは自分の評判を気にしているのだ。ともかく美徳を行うひとの心持ちが完全に無私であるということはありえない。つまり美徳もまた悪徳なのだ」 日本語で「美徳もまた悪徳である」ということばを聞いて理解されることは、サド侯爵が理解させようとしたこととは多少離れています。少なくともここに含まれたニュアンスが日本語では理解されません。「美徳」(vertu)は「力」という意味で、「悪徳」(vice)はそれに対して「欠陥」ということです。「美徳」とはつまり惜しみなくふりまく充溢した力です。だからこそこの「美徳」は語源的に云って見返りを求めないものです。「悪徳」は欠陥であるからこそ、必ず自分の方も満たされることを求めます。「美徳は悪徳である」ということばは、「一見充溢であるとみえるものもまた欠陥を抱えているのだ」ということを含意していると考えるべきでしょう。充溢した溢れ出る神の存在を否定するサド侯爵の無神論がこの背景にあります。
 ノワルスイユの議論から、自明のものとしてではなく、論理的なものとして帰結することは、美徳を行うものもまた自分の利己的な動機を自覚しろ、ということです。美徳を行うひとは、それがひとのためだから美徳を行うのではなく、自分がそれをするのが気持ちいいからそのような行動をしているのだということを自覚しなければなりません。さてこの場合に、自分が「美徳」と呼ばれる行為、慈善事業、福祉、ヴォランティアなどに捧げる行為から、自分が「悪徳」と呼ばれる行為に身を任せたときに感じる快よりも多くの快を受けとる人間のことを考えてみましょう。このひとはどうするでしょうか。何の問題もなく、自らの利己主義を自覚しながら、喜んで美徳に身を捧げるでしょう。
 ホームレスを支援するのは、それが義務であり、自明のことであるからだ、とする溢れ出す充溢の論理は、ノワルスイユのような自由思想家にとっては欺瞞でしかありません。そのような行為によって、あるいはそれを呼びかけることによって、自分の欠陥が埋められるのだということを自覚することです。よく考えてみれば、それによって何も失うことはありません。説明できない自明のものとして想定される「精神的な高さ」、何の見返りも求めないものの高さがそもそも何ものにも基づいていないからです。
 歴史修正主義と闘うような議論に自らの身を投じる人間は、懐疑論(哲学の話)と真剣に向き合うべきで、安易に自明の事実を想定するべきではないと私は考えます。歴史は絶え間なき過去の再生産、過去に意味をもたせるための試みであることを理解した場合、歴史修正主義に抗するひとの頭のなかにある自明性は闘いの武器としてまったく有効ではありません。おそらくこの自明性は自らの思考の基盤を賭して懐疑論と対することの恐怖から生まれたものではないのでしょうか。この恐怖を乗り越えなければ、議論が説得力をもつことはありません。たとえ懐疑論が乗り越え不可能の地平であるとしても、「私の選択」を主張することはできます。懐疑論に呑み込まれるのではないかという恐怖に対して自らの選択を置くのが有効な闘争の手段になるかと思います。絶対の真理が存在しないのであれば、多くの人間が相対的に正しいと思われる選択をする社会が望ましいということになります。この「望ましさ」も最終的には「私の選択」でしかないのですが…。本当に懐疑論は化けものですね。ここでものおじせずに私の選択は正しいのだと信じて闘うしかありません。
 しかし大多数の人間が懐疑論と真剣に向き合うべきであるかといえば、そのようなことは思いません。私はしばしば教育の重要性を繰り返しますが、この「教育の重要性」ということばについても、ちがうことを理解するひとがいるようです。私は教員や学校の数を増やすという形式的なことの重要性しか云っていません。だから「ゆとり教育」で日本のレベルが落ちたとはまったく考えるはずもなく、日本の学校教育は一貫してだめだった、少なくとも近代民主主義社会に必要な個人の尊厳を教育するにはふさわしくないシステムだったと思っています。ともかくもっと一クラスの人数を少なくして高校教育まで行えるようになれば、それぞれの教師がそれぞれの生徒と対することができるようになるから、ひとりひとりの人間の存在のかけがえのなさの思想が教育の間に身について、「人助けをするのは自明のこと」と考えるようなひとが増えるのではないでしょうか。皮肉ではなく、このような未来が望ましいと思います。

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