前に「役に立つ英語」は必ずしも英米人と張り合うための英語ではないということを書きました。真剣に英語でものを書こうとするならば、英語を母国語としないひとには一生かけても間に合わないくらいの時間と努力が必要ですが、実に都合のいいことに単純化された英語が存在し、英語の表現と文体に特別強いひと以外は、文体のエレガンスや自然さを看過した英語で書くことができ、それが認められています。「国際語」としての英語は「美しい英語」ではありません。
18世紀まではヨーロッパを中心とした世界において「国際語」であったフランス語の現在の旗色はよいものであるとは云えません。フランス語の擁護者には、現在第一の国際語の英語がそうであるような状態をフランス語について認めることができないということが、国際語としてのフランス語の「凋落」の大きな理由でしょう。その一方で、この同じ理由がフランス語が決して第二の国際語としての地位を失わない理由でもあるでしょう。
アイルランド人のサミュエル・ベケットは、「なぜフランス語で書くのか」と問われて、「英語で作品を書くときには必ずひとつの文体を選ばなければならないが、フランス語にはひとつしか文体がないから、そういったことを考える必要がないからだ」と云うようなことを答えたと云われています。もちろんこれは外国人であるベケットの意見で、フランス語にはひとつしか文体がないという意見にフランス人は納得しないでしょう。それでもこれは他でもないサミュエル・ベケット、フランス人が読んでもそこに外国人が書いたフランス語の不自然さを認めないフランス語を書く作家の意見です。ドイツ語は野卑な言語であると信じてフランス語を用いた18世紀プロシアの専制君主フリードリッヒ大王のことは置いておくとしても、20世紀にはトリスタン・ツァラ、イヨネスコ、シオラン、アラバール、クリステヴァなどの多くの作家や著述家が自分の母語ではないフランス語で書くことを選びました。最近では(将来的に大作家になるかどうかは大いに疑問ですが)アメリカ人のジョナサン・リテルがフランス語で書いた小説がゴンクール賞をとったことが話題になりました。フランス語で正確に自然に書くことはむずかしいことですが、ベケットが感得したように、比較的に透明なしかたで思考を表現できるこの言語を習得するためにする時間と労力のかかる訓練はむだなことではないでしょう。
しかし日本のフランス文学や語学の学生(および一部の教師)はこの訓練の困難をどのように考えているのでしょうか。かなり安易なしかたでフランス語で論文を書くことがすすめられることがあります。私はここに大きな疑問を感じるのです。英語の科学論文を書くのと同じ気分でフランス語の文学論文を書くことはできません。「意味が通じればいいだろう」という気持ちで書いたとしても、必ずしも意味が通じるというものではありません。フランス語で立派な文章が書けるのならば、フランス語で論文を書いてもいいでしょう。でもそうでない場合は、何も一部のフランス語を母語とするものをほほえませる、あるいは首をかしげさせるような文体のフランス語を書く必要はないと思うのです。
正確な文法の知識と正書法はフランス語でものを書くために要求される最低限のものですが、その段階の後には、重要なものでありながら日本人があまりそれを自覚していないと思われるものに、語彙と定義の問題があります。動物の名前とその鳴き声の動詞が代表的なものですが、フランス語ではこの単語とこの単語が結びつくという規則があります。(ロベールから Dictionnaire des combinaisons de mots という便利なものが出ていますが、残念ながら私はまだ入手していません。) 類義語、同義語だからといって単語をとりかえて、決まった型を変えると、どうしても不自然なものになります。日本語で云うと、たとえば「同じ釜のご飯を食べた仲」が(「国際語」としての日本語で記事を書くことが決まりになっている朝日新聞以外では)不可能だというような例です。決まった言い回し以外は創造してはならないということは云えないのかもしれませんが、それは決まった言い回しをしっかりマスターした後のことにしましょう。
この単語の結びつき以上に日本人に把握しがたいのが、隣接した単語の定義の差異です。たぶん日本人は定義音痴なのではないかと思います。あまりに自由に単語を使いすぎるんですね。確かに同じ単語を繰り返して用いると、シャルル・ペギーの文章のように理解不能になってしまうのだが、かといって類義語辞典を引いてそこに載っているもので自由に置き換えることもできません。特にジャーナリストの文章に顕著だけれども、フランス語の文章でメトニミー(換喩)が頻繁に用いられるのはこういうわけです。たとえば le Quai d'Orsay といえば外務省のことですが、この換喩が用いられるのは外務省がこの住所にあるからです。極端な考え方をすれば、「外務省」は ministère des Affaires étrangères だが、同じ単語を繰り返してはいけないと云うのならと、ministère, affaires, étrangères それぞれの類義語をもってきて組合わせて新しい表現をつくることもできないわけではないと考えるひともいるかもしれないが、そういうわけにはいきません。よってフランスの重要な省庁はしばしば住所を用いた換喩で呼ばれます。(日本は官庁全体が霞が関の名前で呼ばれるので、換喩の機能のしかたの質にそもそもちがいがあります。)
ジャーナリスト用語は別ですが、ここではどういう単語をもちいたらいいのか、という疑問に答えてくれる辞書がフランス語にはたくさんあります。だからしっかりと辞書を駆使して文章を書けばいいのです。だからといって完璧なフランス語が書けるというわけにはなかなかいきませんが…。和仏辞典はまじめなフランス語を書く場合にはあまり信用してはいけませんが、どれが信用できてどれが信用できないかが判断できるようになるまでにもかなりの時間がかかるでしょう。
あるロシアの現役の劇作家(名前は忘れました)が、フランスの雑誌の記者に「最近はロシアの若い学生でフランス留学をするものが多いがそれについてどう思うか」と聞かれて、実に否定的な答え方をしていました。ロシア語でものを書くのは既にむずかしいのに、それを途中で放り出してフランスにきて、まるで自分がフランス人であるかのような気持ちになって悦に入っているが、実際にはフランス人のようにフランス語を書けるようになることはむずかしく、その結果彼らはロシア語でもフランス語でもちゃんとした文章が書けなくなってしまう、優秀な学生が残念なことにすぐ留学を選ぶのが現在のロシアの知的貧困のひとつの原因であるということをこのひとは云っていました。
フランス人と結婚して30年フランスに住んでいるという日本人女性のブログにたまたま通りかかることがありました。最初は日本語で書いていたのに、フランスのブログサーヴァーなのでフランス人が通りかかることが多く、「いったい何を書いているんだ」ということをコメントに書くひとがいたのでフランス語で書くことにしたと書いてありました。しかし最初は自分の書いたフランス語の文章を夫がまめに訂正してくれていたのに、そのうち夫が最初から全部彼女の云うことを聞きながらフランス語で書くようになり、自分では書くはずもない夫の悪い冗談でひとを傷つけてしまったことを謝っていました。しかしこのひとがブログをフランス語にする前の日本語のブログが、とても日本語を母語とするものの書いたものとは思えないような奇妙な日本語で書いてあるのです。つまりこのひとは日本語でもフランス語でも正確な文章が書けず、夫の書いたフランス語の悪い冗談の意味もわからずにブログに発表してしまうという状態なのだということになります。文章を読んでみると、決して頭の悪いひとではないと思われるからこそ、いろいろなことを考えさせられます。
ともかくものを書いたり話したりする日本人は単語の定義についてもう少し注意した方がいいのではないかと思います。「間引き(トリアージ)」と書いているひとを目撃したことがあるけれども、本当に triage という単語に「間引き」という意味があるのか。だいたいそんな感じだろう、という気持ちで書いていてはいけないと思うんですね。(冗談なのかもしれないが、冗談だとしても自分の望む方に勝手に話をもっていこうとする悪質な冗談でしょう。) 「セレブ」を「金持ち」の意味にしたいというような気持ちでものを書いているのかもしれないのだけれども。「書いているうちに、話しているうちにそういう意味になるだろう」という自分中心の甘さが、日本語でも外国語でも結局何も書けないということにおいおいつながってゆくのではないでしょうか。こういうひとは、外国語で書いたり話したりするときでも、自分勝手な定義でことばを用いていながら、日本語で書くときと同じく「これで通じるだろう」と思ってしまうのでしょうから。「これで通じるだろう」がしばしば勝利するのを目撃するからといって、私はそちらの側には行きたくない。
ことばに敏感だからといってまったくうまい文章が書けるわけではないのを身をもって証明している自分もどういうものだかなあ、と反省しきりですね。
P.S. なぜか一ペイジの記事数を二本以上にするとサイドバーが横から下にずれてしまうのだけれども、どなたか解決法をご存知でしたらお教えください。
前の記事 ラマダンについてひとこと
次の記事 一見充溢と見えるものもまた欠陥を抱えている
18世紀まではヨーロッパを中心とした世界において「国際語」であったフランス語の現在の旗色はよいものであるとは云えません。フランス語の擁護者には、現在第一の国際語の英語がそうであるような状態をフランス語について認めることができないということが、国際語としてのフランス語の「凋落」の大きな理由でしょう。その一方で、この同じ理由がフランス語が決して第二の国際語としての地位を失わない理由でもあるでしょう。
アイルランド人のサミュエル・ベケットは、「なぜフランス語で書くのか」と問われて、「英語で作品を書くときには必ずひとつの文体を選ばなければならないが、フランス語にはひとつしか文体がないから、そういったことを考える必要がないからだ」と云うようなことを答えたと云われています。もちろんこれは外国人であるベケットの意見で、フランス語にはひとつしか文体がないという意見にフランス人は納得しないでしょう。それでもこれは他でもないサミュエル・ベケット、フランス人が読んでもそこに外国人が書いたフランス語の不自然さを認めないフランス語を書く作家の意見です。ドイツ語は野卑な言語であると信じてフランス語を用いた18世紀プロシアの専制君主フリードリッヒ大王のことは置いておくとしても、20世紀にはトリスタン・ツァラ、イヨネスコ、シオラン、アラバール、クリステヴァなどの多くの作家や著述家が自分の母語ではないフランス語で書くことを選びました。最近では(将来的に大作家になるかどうかは大いに疑問ですが)アメリカ人のジョナサン・リテルがフランス語で書いた小説がゴンクール賞をとったことが話題になりました。フランス語で正確に自然に書くことはむずかしいことですが、ベケットが感得したように、比較的に透明なしかたで思考を表現できるこの言語を習得するためにする時間と労力のかかる訓練はむだなことではないでしょう。
しかし日本のフランス文学や語学の学生(および一部の教師)はこの訓練の困難をどのように考えているのでしょうか。かなり安易なしかたでフランス語で論文を書くことがすすめられることがあります。私はここに大きな疑問を感じるのです。英語の科学論文を書くのと同じ気分でフランス語の文学論文を書くことはできません。「意味が通じればいいだろう」という気持ちで書いたとしても、必ずしも意味が通じるというものではありません。フランス語で立派な文章が書けるのならば、フランス語で論文を書いてもいいでしょう。でもそうでない場合は、何も一部のフランス語を母語とするものをほほえませる、あるいは首をかしげさせるような文体のフランス語を書く必要はないと思うのです。
正確な文法の知識と正書法はフランス語でものを書くために要求される最低限のものですが、その段階の後には、重要なものでありながら日本人があまりそれを自覚していないと思われるものに、語彙と定義の問題があります。動物の名前とその鳴き声の動詞が代表的なものですが、フランス語ではこの単語とこの単語が結びつくという規則があります。(ロベールから Dictionnaire des combinaisons de mots という便利なものが出ていますが、残念ながら私はまだ入手していません。) 類義語、同義語だからといって単語をとりかえて、決まった型を変えると、どうしても不自然なものになります。日本語で云うと、たとえば「同じ釜のご飯を食べた仲」が(「国際語」としての日本語で記事を書くことが決まりになっている朝日新聞以外では)不可能だというような例です。決まった言い回し以外は創造してはならないということは云えないのかもしれませんが、それは決まった言い回しをしっかりマスターした後のことにしましょう。
この単語の結びつき以上に日本人に把握しがたいのが、隣接した単語の定義の差異です。たぶん日本人は定義音痴なのではないかと思います。あまりに自由に単語を使いすぎるんですね。確かに同じ単語を繰り返して用いると、シャルル・ペギーの文章のように理解不能になってしまうのだが、かといって類義語辞典を引いてそこに載っているもので自由に置き換えることもできません。特にジャーナリストの文章に顕著だけれども、フランス語の文章でメトニミー(換喩)が頻繁に用いられるのはこういうわけです。たとえば le Quai d'Orsay といえば外務省のことですが、この換喩が用いられるのは外務省がこの住所にあるからです。極端な考え方をすれば、「外務省」は ministère des Affaires étrangères だが、同じ単語を繰り返してはいけないと云うのならと、ministère, affaires, étrangères それぞれの類義語をもってきて組合わせて新しい表現をつくることもできないわけではないと考えるひともいるかもしれないが、そういうわけにはいきません。よってフランスの重要な省庁はしばしば住所を用いた換喩で呼ばれます。(日本は官庁全体が霞が関の名前で呼ばれるので、換喩の機能のしかたの質にそもそもちがいがあります。)
ジャーナリスト用語は別ですが、ここではどういう単語をもちいたらいいのか、という疑問に答えてくれる辞書がフランス語にはたくさんあります。だからしっかりと辞書を駆使して文章を書けばいいのです。だからといって完璧なフランス語が書けるというわけにはなかなかいきませんが…。和仏辞典はまじめなフランス語を書く場合にはあまり信用してはいけませんが、どれが信用できてどれが信用できないかが判断できるようになるまでにもかなりの時間がかかるでしょう。
あるロシアの現役の劇作家(名前は忘れました)が、フランスの雑誌の記者に「最近はロシアの若い学生でフランス留学をするものが多いがそれについてどう思うか」と聞かれて、実に否定的な答え方をしていました。ロシア語でものを書くのは既にむずかしいのに、それを途中で放り出してフランスにきて、まるで自分がフランス人であるかのような気持ちになって悦に入っているが、実際にはフランス人のようにフランス語を書けるようになることはむずかしく、その結果彼らはロシア語でもフランス語でもちゃんとした文章が書けなくなってしまう、優秀な学生が残念なことにすぐ留学を選ぶのが現在のロシアの知的貧困のひとつの原因であるということをこのひとは云っていました。
フランス人と結婚して30年フランスに住んでいるという日本人女性のブログにたまたま通りかかることがありました。最初は日本語で書いていたのに、フランスのブログサーヴァーなのでフランス人が通りかかることが多く、「いったい何を書いているんだ」ということをコメントに書くひとがいたのでフランス語で書くことにしたと書いてありました。しかし最初は自分の書いたフランス語の文章を夫がまめに訂正してくれていたのに、そのうち夫が最初から全部彼女の云うことを聞きながらフランス語で書くようになり、自分では書くはずもない夫の悪い冗談でひとを傷つけてしまったことを謝っていました。しかしこのひとがブログをフランス語にする前の日本語のブログが、とても日本語を母語とするものの書いたものとは思えないような奇妙な日本語で書いてあるのです。つまりこのひとは日本語でもフランス語でも正確な文章が書けず、夫の書いたフランス語の悪い冗談の意味もわからずにブログに発表してしまうという状態なのだということになります。文章を読んでみると、決して頭の悪いひとではないと思われるからこそ、いろいろなことを考えさせられます。
ともかくものを書いたり話したりする日本人は単語の定義についてもう少し注意した方がいいのではないかと思います。「間引き(トリアージ)」と書いているひとを目撃したことがあるけれども、本当に triage という単語に「間引き」という意味があるのか。だいたいそんな感じだろう、という気持ちで書いていてはいけないと思うんですね。(冗談なのかもしれないが、冗談だとしても自分の望む方に勝手に話をもっていこうとする悪質な冗談でしょう。) 「セレブ」を「金持ち」の意味にしたいというような気持ちでものを書いているのかもしれないのだけれども。「書いているうちに、話しているうちにそういう意味になるだろう」という自分中心の甘さが、日本語でも外国語でも結局何も書けないということにおいおいつながってゆくのではないでしょうか。こういうひとは、外国語で書いたり話したりするときでも、自分勝手な定義でことばを用いていながら、日本語で書くときと同じく「これで通じるだろう」と思ってしまうのでしょうから。「これで通じるだろう」がしばしば勝利するのを目撃するからといって、私はそちらの側には行きたくない。
ことばに敏感だからといってまったくうまい文章が書けるわけではないのを身をもって証明している自分もどういうものだかなあ、と反省しきりですね。
P.S. なぜか一ペイジの記事数を二本以上にするとサイドバーが横から下にずれてしまうのだけれども、どなたか解決法をご存知でしたらお教えください。
前の記事 ラマダンについてひとこと
次の記事 一見充溢と見えるものもまた欠陥を抱えている



0 コメント:
コメントを投稿