「犬」ということばを聞けばいろいろなことを思い浮かべます。「犬死に」とか「夫婦喧嘩は犬も喰わない」とか「犬猿の仲」とか「犬神様」とか。「間者」のことを思うかもしれないし、「食べ方が汚い」と思うかもしれない。犬ではじまる単語はずいぶんたくさんあります。日本語では警官のことを犬と呼ぶと外国人に説明することはできるが、同じ発想をしろと強要するわけにもいきません。でも「犬」と聞くと「ヴァカンスに連れて行く」とかあまり日本で生まれ育ったひとは思わないのではないでしょうか。「雨がすごい犬猫降り!」は冗談でしかありえません。
「鍋」ということばを聞けば、「母さんが夜なべをして」と思ったり、わたなべというひとのことを思ったり、「なべて」ということばは鍋と関係があるのかと思ったりします。ひとつのことばの周りには、何十、何百もの連想されることばの範列があります。
しかし一方で「シャワー」ということばを聞いて思い浮かべるのは、ヒッチコックの『サイコ』の殺人の場面などきわめて狭いものになります。英米人は陽光のことを思うかもしれないが、日本語だけを話すひとが「太陽の光のシャワーを浴びて」なんて云うと何だか気恥かしいような感があります。どうしてもこれがお湯のシャワーであってほしいのは、シャワーがしゃわしゃわ音を立てるものであるべきだからでしょう。この単語が日本語に定着したのはこのような音の支えのためでしょう。
「シャワー」の場合は確かに外来語だと云えますが、たとえば「プチ」や「スルーする」といった俗語の場合はどうでしょうか。「シャワー」の場合は擬音語の支えがこの特定の意味をもった単語を日本語に定着させた理由だといえるのに対して、「プチ」や「スルーする」の場合には「ぷちぷち」「するする」といった擬音語擬態語の語感が口実としての外来語としての意味を8対2くらいの比率で上回っているような気がします。もし「プチ」が本当に外来語であれば、「プティ」という表記のヴァリエイションが可能なはずだし、女性形は「プティット」という配慮をどこかですることもありうるはずです。しかしそのようなことはありません。
「スルー」という英語の副詞(ときに形容詞)、前置詞らしきものを動詞にすることのなかには、もっぱらことばの響きだけがあると考えられないでしょうか。詳しく研究してみると、日本語で「プチ」をつけられる単語のなかには、きわめて間接的なしかたであっても、「ぷちぷち」を思わせるような小さくて丸っこいものが多いということが出てくるかもしれません。「セレブ」ということばが日本語で単にお金持ちを意味しうるのは、「クラブ」という少人数の集団を連想させるからでしょう。この「クラブ」という単語も、最後に「ブ(部)」という音があることを支えとして日本語に定着したものでしょう。うちの父親は一応フランス語から来たことになっている「のんしゃらん」という外来語について「のんとしてしゃらんとしているからのんしゃらん」と云っていたが、今の日本人も「するする抜けるからスルーする」と云った方がいいのではないでしょうか。
ひとつの単語はひとつの言語のなかでいろいろな単語の範列を連想させ、意味と音声の網のなかに相対的なしかたで位置づけられています。ひとつの単語が外来語としてとりいれられた際には、その外来語が生まれた言語のもつ単語の連想の範列は当然のことながら完全に無視される一方で、その単語は受け入れ側の言語のなかにその場を見出さなければなりません。もし意味的、音声的な支えをもつことができなければ、その外来語は根なし草、糸の切れた凧のようなものとして言語のなかに存在することになります。
「ホームレス」「レイプ」「ドメスティック・ヴァイオレンス」といったことばは、このような糸の切れた凧のようなものとして日本語のなかにあると云えるでしょう。何か日本語として違和感を感じさせるものとして日本語のなかにおける存在意義を見いだしていると云えるのではないでしょうか。はっきりと云いたくない、話題にしたくないものにこのような外来語が用いられるという傾向がひとつにはあるでしょう。
「コンプライアンス」「リテラシー」といったことばにもこのような傾向を読みとれると思います。なぜ「コンプライアンス」ということばが日本語として使われるようになったのかは知りません。メリアム・ウェブスターのオンライン辞書で compliance の類義語を見ると、deference, docility, obedience, submissiveness と「ひとに対する従順さ」を示す単語が並び、日本語で使われている意味とはかなり遠いのではないかと思われます。フランス語では「愛想のよさ、へつらい」を意味する complaisance と同じ語源なのかと一瞬思ったのですが、そうではなくて compliment 「ほめことば、お世辞」と同根でした。いや、語源はむずかしいですね。もっとも WordReference の仏英辞典では、compliance の訳語として conformité (適合性)とともに complaisance が出てきます。語源はちがっても、意味としてはこちらと近いということです。
日本語で「コンプライアンス」として使われる意味は、英語版のウィキペディアでは Regulatory compliance として項目が立てられているものでしょう。米国では一般的に「明確に規定された約定、施策、基準、法律に準ずること」を意味するとあります。最近の流行りことばのようです。ウィキショナリーの compliance の記事を見ると、この意味が6番で、この6番の意味の日本語訳がご丁寧にも「法令遵守」として出ています。Compliance という単語には他の意味がいろいろあるのに、本来は regulatory compliance という特化した形で使われるべきであっただろう特別な意味だけを日本語の外来語の意味として用いているということでしょう。この単語がもともと位置していた英語のなかのことばの網はまったく無視されています。それでもこの米国の流行りことばが日本で用いられることのなかには、米国人が云うんだからしょうがないというような態度が見られるような気もします。「法令遵守」ということばよりも「コンプライアンス」という外来語を用いたいという気持ちのなかには、面倒なことには触れたくないという感覚があるでしょう。
「リテラシー」ということばについても同じことが云えると思います。Literacy という単語からは、letter とか literature という単語が英語では思いつきます。フランス語では lettré は「教養がある」という意味です。手元にある英仏辞書(ロベール・コリンズ)は alphabétisation (識字化)というフランス語の訳語を与えています。これは「文盲」と対立する概念です。和仏辞典では、lettré の対義語の illetré と analphabète に同じ「文盲」という日本語を与えていますが、フランス語ではこのふたつの単語を混同することはできません。前者は教育がないために読み書きができないひとで、後者は識字障碍のあるひとのことです。
西洋言語のなかではこういったことばの網のなかにある literacy という単語は「読み書きの能力」ということですが、日本語の外来語は必ずしもそれを意味していないようです。これもまた regulatory compliance のように、本来であれば cultural literacy, visual literacy といった表現と同じ発想で生まれた media literacy, internet literacy という表現に相当する特化した意味として使われることが多いのではないかと私には思われます。
ところで、フランス語(ケベック)ではこの internet literacy の訳語として alphanétisation (alphabétisation + net) ということばを発明しています。醜悪なものですが、英語社会の脅威から身を守るカナダのフランス語社会の防衛策の一環としては理解できるものです。ときにはケベック人が発明した新語がフランス本国で取り入れられることもあります。Email については、フランス人も email という単語を使うことが多いのですが(結合符号を用いないつづりがより多く見られます)、それでもケベック人が考えた courriel という単語を用いるフランス人も多くなってきています。これは courrier électronique からきたものです。私もこの単語を好んで使います。
一方で、日本語で「リテラシー」というときは、英語からの防衛意識とは正反対のものが働いているのですが、こういった外来語に対する一見素朴な無防備さが可能なのは、そもそも日本人が外来語を取り入れるときに本来英語でどうあるかということを実際にはほとんど意識しないからなのでしょう。どのような文脈で用いられるかということは関係なく、使うひとの頭のなかにあるものによって意味がかなりどうにでもなるものとして用いられます。何だかだいたいこの辺にちょうどよさそう、というものが選ばれているのではないでしょうか。最初にこういったカタカナことばを用いはじめたひとはもしかしたら何かを自慢するような気持ちではじめたのかもしれませんが(米国ではこういうことばが流行ってるんだよというような)、それを聞いた他のひとによっては、糸の切れた凧のようなことばが、はっきり云いたくないこと、何となく面倒なことを表すために用いられることになります。「くさいものにはふた」という発想が肝要なのだから、homeless よりも un-housed の方がおそらく適切であるといった論理はとりあえず関係ありません。(あくまで「とりあえず」の話です。)
フランス語の場合には、もし英語の単語を多くとりいれると、その単語が連想されることばの網なども重なりあうために、フランス語全体の質が変わる危険があります。日本語においてはその危険がないと考えられますが、それは同時にそれだけ日本人が自分の言語に対して無責任なしかたで外来語をとりいれているということを意味しています。日本語で云うのが面倒なところ、日本語に訳すのが面倒なところには外来語を使っておけばいいのです。
たまたま私が気になるふたつの単語がそうだというだけなのは認めますが、この「コンプライアンス」と「リテラシー」という単語は、現代社会の倫理にかかわるものとして、「面倒なもの」と考えられているところにすっぽり落ちたのではないでしょうか。面倒だから日本語で云いたくない。Regulatory compliance というものは、フランス語で déontologie (「職業倫理」、英語では何と云うのかと思ったら、professional ethics で、これに対応するひとつの単語はないようです)と呼ばれるものとは別ものですが、日本語では「コンプライアンス」を、「法令遵守」よりはむしろ、「職業倫理」と言い換えた方がいいのではないかという気がします。同じ論理によって、「リテラシー」も「情報に関する倫理」と言い換えられるのではないでしょうか。こういった単語をもってきたのはただ欧米人の真似をしたいひとだったのでしょうが、それが面倒なものを避けたいひとたちには都合がよかったのでしょう。これはあくまで私の意見です。
日本語を用いるひとが他の日本語を用いるひとに対して「リテラシーがない」と云うときには、多くの場合この意味で用いられていると思われます。もしこれからこのリテラシーということばが日本語のなかで多く用いられることになるとすれば、それは「らしい」と云うことばの響きに負うところが多いでしょう。このことばを用いるひとが英語によく親しんでいても、日本語のなかでこの単語を用いるときには、letter や literature のことが連想されることはなく、「らしい」の方が意識(あるいは無意識)にのぼります。「デモクラシー」のことも連想させますが、このデモクラシーも「でも」と「暮らし」でできていて、「でかんしょ、でかんしょで半年暮らす、よいよい」な雰囲気を出しています。他方でコンプライアンスの方はあまり生き残りの可能性がないような気がします。
むかし竹下登くんが「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚を求めるようなものである」と云って物議をかもしたことがありました。なぜか「コンプライアンス」ということばを聞くとこのことばを思い出します。この外来語で云おうとしていることとは裏腹に、どことなく「倫理を求めるのはおかどちがい」と云われているような気がするのです。倫理が問題になっているのなら倫理と云えばいいのに、それをしないからなのでしょう。日本人に倫理がないとは云いません。でも今や現代の日本語のなかに倫理の二文字を求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものなのかもしれないという、古いお話でした。
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「鍋」ということばを聞けば、「母さんが夜なべをして」と思ったり、わたなべというひとのことを思ったり、「なべて」ということばは鍋と関係があるのかと思ったりします。ひとつのことばの周りには、何十、何百もの連想されることばの範列があります。
しかし一方で「シャワー」ということばを聞いて思い浮かべるのは、ヒッチコックの『サイコ』の殺人の場面などきわめて狭いものになります。英米人は陽光のことを思うかもしれないが、日本語だけを話すひとが「太陽の光のシャワーを浴びて」なんて云うと何だか気恥かしいような感があります。どうしてもこれがお湯のシャワーであってほしいのは、シャワーがしゃわしゃわ音を立てるものであるべきだからでしょう。この単語が日本語に定着したのはこのような音の支えのためでしょう。
「シャワー」の場合は確かに外来語だと云えますが、たとえば「プチ」や「スルーする」といった俗語の場合はどうでしょうか。「シャワー」の場合は擬音語の支えがこの特定の意味をもった単語を日本語に定着させた理由だといえるのに対して、「プチ」や「スルーする」の場合には「ぷちぷち」「するする」といった擬音語擬態語の語感が口実としての外来語としての意味を8対2くらいの比率で上回っているような気がします。もし「プチ」が本当に外来語であれば、「プティ」という表記のヴァリエイションが可能なはずだし、女性形は「プティット」という配慮をどこかですることもありうるはずです。しかしそのようなことはありません。
「スルー」という英語の副詞(ときに形容詞)、前置詞らしきものを動詞にすることのなかには、もっぱらことばの響きだけがあると考えられないでしょうか。詳しく研究してみると、日本語で「プチ」をつけられる単語のなかには、きわめて間接的なしかたであっても、「ぷちぷち」を思わせるような小さくて丸っこいものが多いということが出てくるかもしれません。「セレブ」ということばが日本語で単にお金持ちを意味しうるのは、「クラブ」という少人数の集団を連想させるからでしょう。この「クラブ」という単語も、最後に「ブ(部)」という音があることを支えとして日本語に定着したものでしょう。うちの父親は一応フランス語から来たことになっている「のんしゃらん」という外来語について「のんとしてしゃらんとしているからのんしゃらん」と云っていたが、今の日本人も「するする抜けるからスルーする」と云った方がいいのではないでしょうか。
ひとつの単語はひとつの言語のなかでいろいろな単語の範列を連想させ、意味と音声の網のなかに相対的なしかたで位置づけられています。ひとつの単語が外来語としてとりいれられた際には、その外来語が生まれた言語のもつ単語の連想の範列は当然のことながら完全に無視される一方で、その単語は受け入れ側の言語のなかにその場を見出さなければなりません。もし意味的、音声的な支えをもつことができなければ、その外来語は根なし草、糸の切れた凧のようなものとして言語のなかに存在することになります。
「ホームレス」「レイプ」「ドメスティック・ヴァイオレンス」といったことばは、このような糸の切れた凧のようなものとして日本語のなかにあると云えるでしょう。何か日本語として違和感を感じさせるものとして日本語のなかにおける存在意義を見いだしていると云えるのではないでしょうか。はっきりと云いたくない、話題にしたくないものにこのような外来語が用いられるという傾向がひとつにはあるでしょう。
「コンプライアンス」「リテラシー」といったことばにもこのような傾向を読みとれると思います。なぜ「コンプライアンス」ということばが日本語として使われるようになったのかは知りません。メリアム・ウェブスターのオンライン辞書で compliance の類義語を見ると、deference, docility, obedience, submissiveness と「ひとに対する従順さ」を示す単語が並び、日本語で使われている意味とはかなり遠いのではないかと思われます。フランス語では「愛想のよさ、へつらい」を意味する complaisance と同じ語源なのかと一瞬思ったのですが、そうではなくて compliment 「ほめことば、お世辞」と同根でした。いや、語源はむずかしいですね。もっとも WordReference の仏英辞典では、compliance の訳語として conformité (適合性)とともに complaisance が出てきます。語源はちがっても、意味としてはこちらと近いということです。
日本語で「コンプライアンス」として使われる意味は、英語版のウィキペディアでは Regulatory compliance として項目が立てられているものでしょう。米国では一般的に「明確に規定された約定、施策、基準、法律に準ずること」を意味するとあります。最近の流行りことばのようです。ウィキショナリーの compliance の記事を見ると、この意味が6番で、この6番の意味の日本語訳がご丁寧にも「法令遵守」として出ています。Compliance という単語には他の意味がいろいろあるのに、本来は regulatory compliance という特化した形で使われるべきであっただろう特別な意味だけを日本語の外来語の意味として用いているということでしょう。この単語がもともと位置していた英語のなかのことばの網はまったく無視されています。それでもこの米国の流行りことばが日本で用いられることのなかには、米国人が云うんだからしょうがないというような態度が見られるような気もします。「法令遵守」ということばよりも「コンプライアンス」という外来語を用いたいという気持ちのなかには、面倒なことには触れたくないという感覚があるでしょう。
「リテラシー」ということばについても同じことが云えると思います。Literacy という単語からは、letter とか literature という単語が英語では思いつきます。フランス語では lettré は「教養がある」という意味です。手元にある英仏辞書(ロベール・コリンズ)は alphabétisation (識字化)というフランス語の訳語を与えています。これは「文盲」と対立する概念です。和仏辞典では、lettré の対義語の illetré と analphabète に同じ「文盲」という日本語を与えていますが、フランス語ではこのふたつの単語を混同することはできません。前者は教育がないために読み書きができないひとで、後者は識字障碍のあるひとのことです。
西洋言語のなかではこういったことばの網のなかにある literacy という単語は「読み書きの能力」ということですが、日本語の外来語は必ずしもそれを意味していないようです。これもまた regulatory compliance のように、本来であれば cultural literacy, visual literacy といった表現と同じ発想で生まれた media literacy, internet literacy という表現に相当する特化した意味として使われることが多いのではないかと私には思われます。
ところで、フランス語(ケベック)ではこの internet literacy の訳語として alphanétisation (alphabétisation + net) ということばを発明しています。醜悪なものですが、英語社会の脅威から身を守るカナダのフランス語社会の防衛策の一環としては理解できるものです。ときにはケベック人が発明した新語がフランス本国で取り入れられることもあります。Email については、フランス人も email という単語を使うことが多いのですが(結合符号を用いないつづりがより多く見られます)、それでもケベック人が考えた courriel という単語を用いるフランス人も多くなってきています。これは courrier électronique からきたものです。私もこの単語を好んで使います。
一方で、日本語で「リテラシー」というときは、英語からの防衛意識とは正反対のものが働いているのですが、こういった外来語に対する一見素朴な無防備さが可能なのは、そもそも日本人が外来語を取り入れるときに本来英語でどうあるかということを実際にはほとんど意識しないからなのでしょう。どのような文脈で用いられるかということは関係なく、使うひとの頭のなかにあるものによって意味がかなりどうにでもなるものとして用いられます。何だかだいたいこの辺にちょうどよさそう、というものが選ばれているのではないでしょうか。最初にこういったカタカナことばを用いはじめたひとはもしかしたら何かを自慢するような気持ちではじめたのかもしれませんが(米国ではこういうことばが流行ってるんだよというような)、それを聞いた他のひとによっては、糸の切れた凧のようなことばが、はっきり云いたくないこと、何となく面倒なことを表すために用いられることになります。「くさいものにはふた」という発想が肝要なのだから、homeless よりも un-housed の方がおそらく適切であるといった論理はとりあえず関係ありません。(あくまで「とりあえず」の話です。)
フランス語の場合には、もし英語の単語を多くとりいれると、その単語が連想されることばの網なども重なりあうために、フランス語全体の質が変わる危険があります。日本語においてはその危険がないと考えられますが、それは同時にそれだけ日本人が自分の言語に対して無責任なしかたで外来語をとりいれているということを意味しています。日本語で云うのが面倒なところ、日本語に訳すのが面倒なところには外来語を使っておけばいいのです。
たまたま私が気になるふたつの単語がそうだというだけなのは認めますが、この「コンプライアンス」と「リテラシー」という単語は、現代社会の倫理にかかわるものとして、「面倒なもの」と考えられているところにすっぽり落ちたのではないでしょうか。面倒だから日本語で云いたくない。Regulatory compliance というものは、フランス語で déontologie (「職業倫理」、英語では何と云うのかと思ったら、professional ethics で、これに対応するひとつの単語はないようです)と呼ばれるものとは別ものですが、日本語では「コンプライアンス」を、「法令遵守」よりはむしろ、「職業倫理」と言い換えた方がいいのではないかという気がします。同じ論理によって、「リテラシー」も「情報に関する倫理」と言い換えられるのではないでしょうか。こういった単語をもってきたのはただ欧米人の真似をしたいひとだったのでしょうが、それが面倒なものを避けたいひとたちには都合がよかったのでしょう。これはあくまで私の意見です。
日本語を用いるひとが他の日本語を用いるひとに対して「リテラシーがない」と云うときには、多くの場合この意味で用いられていると思われます。もしこれからこのリテラシーということばが日本語のなかで多く用いられることになるとすれば、それは「らしい」と云うことばの響きに負うところが多いでしょう。このことばを用いるひとが英語によく親しんでいても、日本語のなかでこの単語を用いるときには、letter や literature のことが連想されることはなく、「らしい」の方が意識(あるいは無意識)にのぼります。「デモクラシー」のことも連想させますが、このデモクラシーも「でも」と「暮らし」でできていて、「でかんしょ、でかんしょで半年暮らす、よいよい」な雰囲気を出しています。他方でコンプライアンスの方はあまり生き残りの可能性がないような気がします。
むかし竹下登くんが「政治家に倫理を求めるのは八百屋で魚を求めるようなものである」と云って物議をかもしたことがありました。なぜか「コンプライアンス」ということばを聞くとこのことばを思い出します。この外来語で云おうとしていることとは裏腹に、どことなく「倫理を求めるのはおかどちがい」と云われているような気がするのです。倫理が問題になっているのなら倫理と云えばいいのに、それをしないからなのでしょう。日本人に倫理がないとは云いません。でも今や現代の日本語のなかに倫理の二文字を求めるのは、八百屋で魚を求めるようなものなのかもしれないという、古いお話でした。
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