2008年9月3日水曜日

においの話ではないの?

 「ホームレス」という単語が、「浮浪者」や以前から使われていた外来語の「ルンペン」ということばに代わって、社会的に適切なものとして使われるということに少し違和感を感じます。英語ではこの homeless という単語はやはりあまり politically correct なものではないと考えるひとがいるようです。「ホームレス」(homeless)と呼ばれるひとの多くは、un-housed という呼び名を好むということが、たとえばスタンフォード大学の新聞に書いてありました。住む家がないひとは必ずしも帰るべき場所をもたないわけではないからです。「ハウス」はなくとも「ホーム」はあるという場合がありえます。私はそもそもこの社会的適切性の運動にもカタカナことばの濫用にも批判的ですから、あまり適切ではない「ホームレス」ではなく、より適切な「アンハウズド」という単語を用いるべきだと云っているのではありません。ただこの日本語における「ホームレス」ということばは、本人がどう呼ばれることを好むかどうかにかかわりなく、「善意あるひと」におしつけられたものであろうという気はします。この「善意」に反して、日本語としては、今や「ホームレス」という単語は烙印を押す機能をもっていると云えるでしょう。
 ところで、上に引用した新聞記事に書いてあったのですが、「社会的適切性」(political correctness)のラウトレッジ倫理学百科事典による定義は、「ヨーロッパ中心の偏狭な世界観とある種の社会集団の長きにわたる従属を回避し訂正することを目的とした、言語、政策、社会行動、文化的表現に加えられる変更のすべて」ということだそうです。「ヨーロッパ中心の偏狭な世界観」ということは、日本ではこれを定義しなおさなければなりませんね。
 フランスでは、以前「ホームレス」は sans-abri (「寝床のないひと」、「宿なし」)と云われていましたが、最近は sans-domicile-fixe (「固定住居をもたないひと」)と呼ばれています。略称の SDF という呼び方が定着しています。私は「ホームレス」ということばを使いたくないので、とりあえず「無宿者」ということばを用いることにします。「宿なし」よりも軽蔑的ではないだろうという理由から使うのであって、それ以上の根拠はありません。(「宿なし」もそうですが、「浮浪者」や「ルンペン」ということばを使うと、今ここでは意図しない滑稽な効果を生みます。ことばが嫌いというよりも、滑稽な効果は望んでいないので使いません。「無宿者」も滑稽だというひともいるでしょうが、私は「とりあえず」と云っています。)
 さて、無宿者が図書館を使うとか使わないとかそういう話が話題になっているようです。しかし無宿者にもさまざまあります。昨日無宿者になったひともいれば、明日はもう無宿者ではないひともいます。図書館に行く無宿者もいれば、図書館に行かない無宿者もいます。
 心ない差別の対象になることがあるひとのなかに身体障碍者がいますが、彼らを弁護するひとのなかには「障碍を治す」ことを前提とした議論を差別的であるとみなすひとがいます。拝聴すべき意見でしょう。しかしこのような論理を無意識に自分のものとして、無宿者の無宿性を弁護するのもおかしいでしょう。確かに無宿者であることから抜けられないし、抜けようとする気もないひともなかにはいるのでしょうが、そういったカテゴリーの無宿者を無宿者の代表として論じることにはむりがあります。ほんの数日、あるいは数週間の間無宿であることを経験したひとの数は少なくないでしょう。「ホームレス」という日本語としての定義があいまいにならざるをえないことばを使っているかぎりは、「ホームレスはにおう」という偏見に対して論理をもって反論することができません。実際に「ホームレス」に対する強い偏見をもっていて、数日間、あるいは数週間無宿であることを余儀なくされたひとは、自分は無宿になったことがあるのであって、数日間ホームレスになったのではないと頑として主張することでしょう。事実「ホームレス性」を主張する、あるいはそこに甘んじてとどまる無宿者もいるのでしょうが、「ホームレス」ということばのもつ社会的烙印の機能を看過して、弁護する側も「ホームレス性」をもった「ホームレス」を「ホームレス」として弁護するのは、私には同意しがたいことです。
 この単語の定義があいまいなのだから、「ホームレス」ということばによって指示されるものがひとによってちがうのはやむをえないことではあるけれども、現在のブログ圏の議論においておもに問題になっているのは、長きにわたる無宿の生活をしていて、さしあたりそこから脱出しようとしていないひとのことではないかと思われます。特にその「におい」が問題になっているような印象があります。
 フランスの歴史家アラン・コルバンはその『瘴気と黄水仙』(日本語訳の題名は『においの歴史』だそうです)において、五感のうちでもさげすまれてきた嗅覚という動物的なものであると考えられてきた感覚を分析し、いかに近代フランス社会が不寛容の精神によって環境の脱臭を行ってきたかを語ります。たとえば、以前にはムスクなどの動物性香料が好まれていたのに、それが水仙などの軽い香りの流行に取って代わられたことが語られています。脱臭のしかたも、強いにおいによって悪いにおいを消すようなしかたから、大きな脱臭の流れのなかで、もともとにおいの弱いものが軽いにおいのものを身につけるようなしかたへと変わってきたのです。80年代以後のフランス歴史学のなかでも最重要のものとみなされているこの本は、フランス革命当時の公共衛生担当の医師の「貧しきもののいやなにおい」と書いた一節に触発されて書かれたものです。「集合的過敏さ」のことをコルバンは語ります。瘴気は公共衛生、ひいては社会秩序に対する脅威であると考えられました。無臭であることは、ブルジョワの豊かさのしるしです。
 ブルジョワの無臭化は豊かさ、少なくともゆとりを前提としている。この無臭化は単純労働に頼らなくてもいいということを証明しているのである。貧乏人、においのしみこんだ汚穢屋は、自らの拒絶を正当化するために生き残りの欲望を引き合いに出す。農民は必要不可欠な肥料を戸口に置くことに固執する。街では、ぼろ屋がお役所の施策に反対する。
 ここでコルバンが語っているのは、彼の専門の19世紀のフランス社会のことですが、無臭であることがゆとりの証明であり、社会の下層の人間は、全体化しようとする社会に抗して、自分のにおいにあえて固執するということはあるのかもしれません。
 もっともここで私が云いたいのは、無宿の生活が長きにわたるもののなかでにおいを漂わせているひとは反抗心のために意識的にそうしているのだろうということではありません。そうではなくて、近代のゆとりの特性であり、ますますその傾向を強めているように思われる「ブルジョワの無臭」の側にあるものが、相対的貧しさのしるしであるにおいによってひとを断罪するのは、人間的な判断であるよりはむしろ動物的な快不快の本能によるものではないのかということを私は云いたいのです。
 しかし、それによってひとを断罪するかどうかという問題を別としたら、悪臭が不快であるから図書館から出ていってもらうということを図書館の職員が判断することがあるとしても、私は必ずしもそれがスキャンダラスなものだとは思いません。歌ったり騒いだりするひとも図書館においては望まれざる客なのですから、嗅覚を度外視するわけにもいかないでしょう。それは無宿者であるかどうかにはまったく関係がありません。もっとも実際にくさいのではなくて「くさそう」という理由で退去を願うということがあるとしたら、それは大変な問題ですがね。

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