今朝の朝日新聞の「天声人語」が、「憮然とする」という表現の意味が忘れられていることについてこう書いています。
私自身は、頭のなかで「そういえば憮然とするとか、檄を飛ばすとか、みんなまちがって使っているということらしい」と思うくらいで、実際にどういう意味が正しかったのかはしょっちゅう忘れています。それでも、このような意味が忘れられたことばを教訓として、他のことばも同じ運命をたどらないように、ことばを大切にしていこうという気運がどうして盛り上がらないのだろうか、と私は不思議に思います。「理解のある良識派」はみんな「ことばとはこういうものだよ、うん、うん、あとは野となれ山となれ」と納得してしまっているような印象を抱きます。みんな芸者のように時代に色目をつかってやがる。これは職業差別ではなくて、中桐雅夫の詩「やせた心」のなかの表現の応用です。中桐雅夫は、「ある意味で」と書く学者はどういう意味なのかちゃんと書いた方がいい、ということも云っていましたね。まあ、私もよく使っちゃいますけど、「ある意味で」。あらさがしをしてみたら、中桐雅夫も使っていたぞ!、ということもあるのかもしれないし。でも理解をみせるのよりも、中桐雅夫のようにひとが嫌がるようなことを云うのが大切だと思うんですよ。
ことばをコミュニケイションの武器として闘ってゆく、という意識が薄いからことばの意味の変化に対して無頓着になるのだと思います。「私はこのことばをこの意味で使うが、これは相手に通じるのか?」という疑問を抱くことがない。たとえば多くのブロガーがパソコンのスクリーンでしか通じないことばを仲間意識から用いています。この意識はさっきの疑問を感じる意識とむしろ逆で、自分の話している相手に通じる意味の方に意識的にことばの意味をずらして使うのです。自分の話が通じる人間にだけ話が通じてくれればいい、という慎み深いひとが多すぎるのです。みんな「これ、わかるよね。うん、うん」でやってやがる。たとえば外国人で日本語を勉強しているひと、外国人の日本文化の専門家などが自分のブログを読むという可能性を考慮に入れて書いている日本人はどのくらいいるのでしょうか。ほとんどいないのではないかと思います。日本語が読めない外国人にも通じる日本語で書いてやろう、というくらいの気概がほしい(うそ)。それでもしょっちゅうパソコンの前に座っていないひと、あるいは20年後の日本人に通じそうな日本語を使おうというような気持ちがもう少しあってもいいのではないか。だから私は何の役にも立たないくだらない世代論をやめろと言っている。フランス人の中高生やじいさんばあさんは私と普通に会話が成立するのに、十歳ちがう日本人が私と話が通じないと思いこんでいるのはものすごいことですよ。
結局、理解があるひとが「私は理解がある」というメッセージを発する行為も、「こういうことを云うと私は理解がある人間として理解される」という、大きくとらえられた「仲間うち」のコードにのっとったものでしかないのです。「憮然ということばから想像されるのは失望の顔ではあるまい」と書くことによって、その「わかります仲間」を規定しているのです。ここでもくろまれているのは「ささやかなコミュニケイション」であって、まったく闘いのコミュニケイションではない。「ことばとはこういうものだよ、うん、うん」という気運はたぶん今だけのものだろうが、今のなかでそれが通じていればそれで満足だ。「ねえ、そうだよねえ」、それ以上のことは云っていない。「私が理解する仲間」に理解される言説を繰り広げることで、その外部にあるものをばっさり切り捨てているのです。「憮然とする」の正しい意味が忘れ去られている、と主張するひとはまさにこの過去という「私」と「あなた」の間に成立するコミュニケイションの外部を切り捨てないでほしいと主張しているのにもかかわらず。「私」と「あなた」が会話している場において現れる「彼」(三人称の人物)は、実際に今も生きているかどうかを別として、その不在において語られている会話においては過去のものとして表象されています。言語の過去を切り捨てることは、「私」と「あなた」の会話の場に居合わせていない三人称の人間を切り捨てることにつながります。言語の過去を忘れないようにすることは大切なことなのです。
先月朝日新聞に「和テイスト短歌」のことが書いてあって、そこでもコラムを書いているひとは、もともと「話」のきわみである短歌なのに…、といってめくじらをたてることはしない、ねじれを楽しもう、というようなことを書いていました。もうここでめくじらをたてないのがお約束であるように感じられ、そのお約束に従ってものを書くという態度が何やら許せないものに思えるのです。みんなこうやってささやかに毎日を楽しんでいって、それでいいのか、それで満足なのか、と私は思うのです。「私は理解がある」というメッセージがせいぜい大好きな日本人に対してしか向けられていない。日本語を愉快な日本人同志の暗号にしてゆく態度のなかには、非常に危険なものがあります。辞書を用いて日本語と親しむ外国人のことももう少し考えましょう。
話はちょっと変わりますが、前回ヴェジタリアンについての記事を書いたときに、「あれ、食事を制限するってこういう漢字でいいのかな」、と思いました。でもヴェジタリアンは病気で食べものを制限しなければならないのではないのだから、これでいいのだろうと思いました。しかし昨日のテレ朝の番組では、糖尿病について、「食事療法」、「食事の制限」と書いていました。そのすぐ後でこの「憮然とする」「檄を飛ばす」の話をしていたので、何かおかしかったな。この「食事療法」に困ってしまうのは、いったいテレ朝のひとは知識がないのか、それとも「餌」という漢字が常用漢字にないから「事」でいいだろうといい加減なことを考えているのかどっちなのかがわからないということです。どうして得意の「食じ療法」と書かないのだろう。「食餌療法」が「食事療法」でいいのなら、「障がい者」もたとえば「障概者」「障該者」あるいは「生涯者」「渉外者」でいいような気がするのですけれど、どうでしょうか。これがばかにしていると感じられるなら、「障がい者」もばかにしていると思いますけどね。
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「日本語の乱れ」と嘆く向きもおられよう。だが、これらはもはや「誤」が「正」になった感がある。「憮然」から想像するのは仏頂面であって、失望の顔ではあるまい。歩くひとが多くなれば、それが道になっていく。何かおかしいんですよね、云っていることが。「あるまい」と云うのだけれども、これはただの開き直りではないですか。「天声人語」はふだん「みんなやっていることだから、と云って同じことをするのはよくない」ということをよく書いていたんじゃないかな。
私自身は、頭のなかで「そういえば憮然とするとか、檄を飛ばすとか、みんなまちがって使っているということらしい」と思うくらいで、実際にどういう意味が正しかったのかはしょっちゅう忘れています。それでも、このような意味が忘れられたことばを教訓として、他のことばも同じ運命をたどらないように、ことばを大切にしていこうという気運がどうして盛り上がらないのだろうか、と私は不思議に思います。「理解のある良識派」はみんな「ことばとはこういうものだよ、うん、うん、あとは野となれ山となれ」と納得してしまっているような印象を抱きます。みんな芸者のように時代に色目をつかってやがる。これは職業差別ではなくて、中桐雅夫の詩「やせた心」のなかの表現の応用です。中桐雅夫は、「ある意味で」と書く学者はどういう意味なのかちゃんと書いた方がいい、ということも云っていましたね。まあ、私もよく使っちゃいますけど、「ある意味で」。あらさがしをしてみたら、中桐雅夫も使っていたぞ!、ということもあるのかもしれないし。でも理解をみせるのよりも、中桐雅夫のようにひとが嫌がるようなことを云うのが大切だと思うんですよ。
ことばをコミュニケイションの武器として闘ってゆく、という意識が薄いからことばの意味の変化に対して無頓着になるのだと思います。「私はこのことばをこの意味で使うが、これは相手に通じるのか?」という疑問を抱くことがない。たとえば多くのブロガーがパソコンのスクリーンでしか通じないことばを仲間意識から用いています。この意識はさっきの疑問を感じる意識とむしろ逆で、自分の話している相手に通じる意味の方に意識的にことばの意味をずらして使うのです。自分の話が通じる人間にだけ話が通じてくれればいい、という慎み深いひとが多すぎるのです。みんな「これ、わかるよね。うん、うん」でやってやがる。たとえば外国人で日本語を勉強しているひと、外国人の日本文化の専門家などが自分のブログを読むという可能性を考慮に入れて書いている日本人はどのくらいいるのでしょうか。ほとんどいないのではないかと思います。日本語が読めない外国人にも通じる日本語で書いてやろう、というくらいの気概がほしい(うそ)。それでもしょっちゅうパソコンの前に座っていないひと、あるいは20年後の日本人に通じそうな日本語を使おうというような気持ちがもう少しあってもいいのではないか。だから私は何の役にも立たないくだらない世代論をやめろと言っている。フランス人の中高生やじいさんばあさんは私と普通に会話が成立するのに、十歳ちがう日本人が私と話が通じないと思いこんでいるのはものすごいことですよ。
結局、理解があるひとが「私は理解がある」というメッセージを発する行為も、「こういうことを云うと私は理解がある人間として理解される」という、大きくとらえられた「仲間うち」のコードにのっとったものでしかないのです。「憮然ということばから想像されるのは失望の顔ではあるまい」と書くことによって、その「わかります仲間」を規定しているのです。ここでもくろまれているのは「ささやかなコミュニケイション」であって、まったく闘いのコミュニケイションではない。「ことばとはこういうものだよ、うん、うん」という気運はたぶん今だけのものだろうが、今のなかでそれが通じていればそれで満足だ。「ねえ、そうだよねえ」、それ以上のことは云っていない。「私が理解する仲間」に理解される言説を繰り広げることで、その外部にあるものをばっさり切り捨てているのです。「憮然とする」の正しい意味が忘れ去られている、と主張するひとはまさにこの過去という「私」と「あなた」の間に成立するコミュニケイションの外部を切り捨てないでほしいと主張しているのにもかかわらず。「私」と「あなた」が会話している場において現れる「彼」(三人称の人物)は、実際に今も生きているかどうかを別として、その不在において語られている会話においては過去のものとして表象されています。言語の過去を切り捨てることは、「私」と「あなた」の会話の場に居合わせていない三人称の人間を切り捨てることにつながります。言語の過去を忘れないようにすることは大切なことなのです。
先月朝日新聞に「和テイスト短歌」のことが書いてあって、そこでもコラムを書いているひとは、もともと「話」のきわみである短歌なのに…、といってめくじらをたてることはしない、ねじれを楽しもう、というようなことを書いていました。もうここでめくじらをたてないのがお約束であるように感じられ、そのお約束に従ってものを書くという態度が何やら許せないものに思えるのです。みんなこうやってささやかに毎日を楽しんでいって、それでいいのか、それで満足なのか、と私は思うのです。「私は理解がある」というメッセージがせいぜい大好きな日本人に対してしか向けられていない。日本語を愉快な日本人同志の暗号にしてゆく態度のなかには、非常に危険なものがあります。辞書を用いて日本語と親しむ外国人のことももう少し考えましょう。
話はちょっと変わりますが、前回ヴェジタリアンについての記事を書いたときに、「あれ、食事を制限するってこういう漢字でいいのかな」、と思いました。でもヴェジタリアンは病気で食べものを制限しなければならないのではないのだから、これでいいのだろうと思いました。しかし昨日のテレ朝の番組では、糖尿病について、「食事療法」、「食事の制限」と書いていました。そのすぐ後でこの「憮然とする」「檄を飛ばす」の話をしていたので、何かおかしかったな。この「食事療法」に困ってしまうのは、いったいテレ朝のひとは知識がないのか、それとも「餌」という漢字が常用漢字にないから「事」でいいだろうといい加減なことを考えているのかどっちなのかがわからないということです。どうして得意の「食じ療法」と書かないのだろう。「食餌療法」が「食事療法」でいいのなら、「障がい者」もたとえば「障概者」「障該者」あるいは「生涯者」「渉外者」でいいような気がするのですけれど、どうでしょうか。これがばかにしていると感じられるなら、「障がい者」もばかにしていると思いますけどね。
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