2008年6月27日

奴隷ボランティア

 女優の高樹沙耶さんがカフェをつくるために藁積みと土塗りの作業をボランティアで募っています。交通費、宿泊費も自己負担なのだそうです。「昼食のみ、こちらで用意させていただきます」と書いてあります。それでこのブログが炎上しているというのですけど、「ボランティアは奴隷か」とか、何だかコメントの云っていることが理解できません。「ボランティア」とか「奴隷」ということばの意味がわからないひとが存在するのは別にいいのだけれども、それはたくさん存在するものなのでしょうか。どこをどうしたらグッドウィルの名前が出てくるのか、何だかもう脳味噌がトワイライトゾーン(マンハッタン・トランスファー)です。
 だいたい何をどのように不満をもってコメントしているのかが理解できません。「まったく、高樹沙耶は、水の結晶の話なんて信じてるなよ!」と云いたいのなら、それはボランティアの募集と関係がないだろうし。自分はぜひとも高樹沙耶さんのカフェの壁塗りに参加したかったけど、交通費も宿泊費も足りなくて行けなくて残念、というのなら、それでおしまいでしょう。奴隷なんてことばは出て来ようがない。「これからは高樹沙耶さんの例にならって、他のところでもボランティアには交通費も宿泊費も提供しなくなるかもしれない!」と恐れているのだとしたら、そもそも何の恐れなんだかよくわからないけれども、「それなら行かない」と思うひとが行かなくなるだけの話で、それでもボランティアに参加したいというひとの側にどのような隷属の問題があるのかがわかりません。
 いったいどういう理屈で「ボランティア」ということばと「奴隷」ということばが結びつくのかがわからないのですけど。だからカタカナことばはやめとけって言ったのに。ボランティアっていうのは自ら望んで、志願して奉仕を提供するひとのことでしょう。どんなことをしたって「奴隷」ということばと結びつくはずがないんだよ。交通費も宿も提供しなくてもそもそも何の問題もないでしょう。昼食を用意する義務だってそもそもないと思います。ボランティアを募集すると云っている時点で、まったく何の見返りもないからといって、そこにいったい何の問題がありうるのか、本当にこいつら何なのかな、と思います。理屈はどうでもいいんだろうなあ。このひとたちが頭のなかで「ボランティア」ということばをどういう意味で理解しているのかが知りたい。自分のカフェをつくるためにボランティアを使うな、というむりなことを云っているひともいます。ボランティアということばが人道目的(あるいは文教の分野)のものと結びついていると思っているのなら、それがまちがいなんですね。無償で参加したいという意志が必要なだけであって、目的のことはまったく問題ではない。それにエコなカフェをつくろうというのが人道目的かそうでないかなんて見方によると思いますけどね。
 Volunteer を「有志」と訳せば、これが奴隷ということばとまったく相反するものであるということがこういうひとたちにもわかるのかと思うが、「有志募集」では何となくなじみません。ここは「有志来たれ! はらからよ!」と書いたら誤解がなくなるのではないでしょうか。
 でも私は必ずしもボランティアというものに対して好意的ではありません。あえて少し短絡的な考え方をしてみるならば、喰うには困らないひとの「自分探し」が、本来なら失業者に対して有償の仕事として提供できたかもしれない労働を無償で奪っているという考え方ができるからです。
 さらにこういったボランティア作業というものは、「あそこに行けば何日かはただ飯喰えるから行っておくか」という失業者の参加によって成り立つものではありません(なかにはそういうひとが参加することがあるのかもしれないけど)。私は高樹沙耶さんのブログに不満を書きこんでいるひとがそんな失業者のことを考えて云っているのかどうかはよくわからないんですけど。もし考えたとしても、この場合この失業者は高樹沙耶さんのところには行かないんだから、奴隷状態などあるはずがない。
 私がボランティアに是々非々である理由は、ひとえに何でも無償でやろうという「エコエコ有閑階級」(階級じゃないけど、面白いから階級と呼んでおく)の存在です。こういうひとたちが存在することが問題なのであって、高樹沙耶さんがこういうひとたちを相手に募集をかけることが問題なのではない。「エコエコ有閑階級」は、交通費、宿泊費が自分もちでも喜んで馳せ参じるんだから、そんなひとたちが奴隷扱いされていると感じることはまったくありえない。(私はこういうボランティア活動に参加するひとが全員裕福で何の苦労もないと云っているのではありません。ある種の経済効率の考え方からすれば、ボランティア活動は苦労のないひとの余興であるとみなされかねないということだけを云っています。そのようなものだとみなされかねないことを理解しつつボランティアをするのなら、それでいいのです。大方においてボランティアに参加しようとするひとは善良で、その善良さは必ずしも世間知らずと形容されるべきものではないと思います。まあ、善良ならいいってもんじゃないというのも正直なところですが。どんなボランティアにも「プチブルの自己満足」の側面は見られるような気がします。) 非常に意地悪な考え方をすれば、高樹沙耶さんは喜んでただ働きするひとを利用していると考えることもできるが、何もそんなひねくれたことを云わなくてもいいでしょう。要するにブログを炎上させているひとたちは、「エコエコ有閑階級」に対する意識の水面上には現れていない「私にはそんなことはできない」という嫉妬羨望の気持ちから、どこに向かっているのか自分でも理解しようのない不満を書いているのでしょう。自分では行かないけど、行ったら奴隷だ、という何だかよくわからないことを云っている。自分でも自分の云っていることがわかっていないはずなんだけど、わかっていないということに気づいていない。望んで行ったら奴隷になるということがわかっているなら、だれも望んで行くはずがない、ということをわざわざ説明してやらなければわからないのでしょうか。ここまで頭のなかが曇っているものなのでしょうか。もしかしたらこのひとたちにとっては、「自分では行かない」のではなくて「余裕がないから行けない」のであって、この「行けない」ということばをしっかりと意識的に理解できないから、ことばにして考えたくないから奇妙な不満が噴出するのかもしれません。要するに「私にはボランティアはできない!」ということをこのひとたちは宣言しているだけなのかもしれません。それだけの話か。
 (でもこれはなかなか面白い問題です。ボランティアで参加することのなかにも何らかの強制の介在があるという発想をどうしてもせずにはいられないのだとしたら、それがなぜなのかを考えてみなければなりません。強制されて何かをするということしか理解できないひとが数多く存在するということでしょうか。何かを求めるとか、募集するとか、そういうものが既にこういうひとたちにとっては強制と結びついているのかもしれません。いや、これ面白いわ。)
 別の考え方をしてみれば、こういうひとたちは「私はボランティアに参加できない」ということに対して一種のひけめのようなものを感じていたけれど、交通費も宿泊費も出さないというボランティアの募集を女優さんのブログで見て、この「ひけめ」が一気に解放されたのかもしれません。
 私はボランティアに対してあまり好意的ではないとはいっても、このブログ炎上に見る「何にでも(物質的なものであれ精神的なものであれ)見返りがあって当然」というさもしい根性を見ると、日本人にはボランティアって向いてないのかなあ、と何だか寂しい気持ちになります。「高樹沙耶は当然この期間中自分でも無償で働くんだろうな?」みたいなことばがあったが、だからこういう発想が全然ボランティアというものの精神に反しているんだって…。「自分は自分で無償の行為をする」というのがボランティアで、他人のことなんてどうでもいいの。どうして高樹沙耶のカフェのためにそんな気持ちになれるか、というのはわからないけどさ、それなりの充実感があるんでしょう、きっと。たぶん「高樹沙耶さんもずっとそこにいてくれたらうれしいなあ」と思うのがこれに参加するひとの気持ちだろうし、そこにずっといてくれたとしたらそれは素晴らしいことだろうが、こんな条件を求めるならお前もそこにずっといろ、という言い方はやっぱりおかしい。高樹沙耶なんて全然関係なくて、ただそういう作業をするのが好きなひともいるだろうし。こういうのに参加するみんなと友達になりたいというひともいるだろうし。こういうひとたちが望まれた数だけ集まるのか、そうではないのかはわからないけれども、ともかくそれを好ましからず思うひとがいるということです。「何でお前ら自分から奴隷になることを選ぶんだ!」とこのひとたちは云いたいのだが、当の「奴隷」の方では、自分には奴隷である可能性がないのだから、まったくこんなことばは意に解しようがない。結局はここで奴隷のことを考えちゃうひとの変な発想しか残らない。
 このひとたちは「奴隷」ということばを用いながらも、たぶんどういった主人にその仕事を強制されるのかということを考えていない。きっと鞭をもった高樹沙耶さんのことを想像しているというのではないでしょう。(私の推測では、きっとこのひとたちはむしろ奴隷の主人と想定される高樹沙耶さんの現場での不在の方を前提しているのではないかと思います。) 仕事を強制する主人の存在を考えずに「奴隷」ということばを用いるひとがひとりやふたりではないというのが何やらものすごいことだと思います。主人の姿が見えずとも隷属をすすんで選ぶひとの気持ちがこんなところに出てきてしまうのが、インターネットの面白いところですね。主人の姿が見えずとも隷属をすすんで選んでしまうのなら、ボランティアなんてことが理解できるはずがない。自由なことをする人間が憎らしいのだ。Volunteer は「意志的」という意味だ。おっと、こっちでは話が理解できた!
 自発的に隷属しか選ぶことができない人間の、自発的に自分の意志を選ぶことができるひとに対する憎悪は、進展著しい日本経済のダイナミズムを担保する原動力です(うそ)。この他人の意志が立派そうな目的に使われているうちはまだ許せるとしても、エコカフェだなんて大義名分も何もないものにまで意志的な行為が求められるのを見ると、主人の姿は見えなくとも強制されたことしかできない奴隷のなけなしの寛容の精神には耐えられなくなり、堪忍袋の緒が切れてしまったのでしょう。しかし自他の峻別ができていないから、そこに行くのは自分ではないのに、奴隷の自分がそこに行ったら当然奴隷労働だ、という変な形で爆発が現れている。何だか頭のなかが混沌としているんですね。現代日本人の奴隷精神はここまで来ているのか、と考えるとなかなか感慨深いものがあります。
 ところで、英語の辞書を見ると、英語の volunteer という単語の語源はフランス語の volontaire なのだそうです。それではフランス語では日本語でいう「ボランティア」のことを volontaire というかといえば、あまりそうではない。よく使われる単語は bénévole (べネヴォル)という単語です。Volontaire は「自発的」という意味ですが、bénévole の語源的な意味は「善意」です。これからは「ボランティア」をやめて「べネヴォル」にしよう。使って、使って。

P.S. なぜかアクセスが多いのでつけくわえておきます。
 まず私は何も「奴隷」ということを書いているひとがみんな本気で云っているとは思いませ んし、自分だって大真面目で書いていると思わせるような書き方では書いていないと思います。かといってまったくいい加減なことを書いているというのではなく、だらだら書 いているうちに本質をつかむこともあるかもしれないな、くらいのつもりで書いています。思いつきが浮かぶままにそのまま書かれたものを読まされるのはかなわないというひともいるでしょうし、それがそのまま書かれているから面白いと考える奇特なひともいるでしょう。私はどちらかといえばそういう奇特なひとに向けて書いています。
 「ボランティアに交通費や宿泊費を出すのは義務ではな い」ということはやはり云えると思うんですね。ボランティアのひとがすすんで提供してくれるサーヴィスに対して、こちらでも心からサーヴィスを返す、とそ ういうことでもともとのボランティア活動は成立しているのだと思います。ここで「お礼は義務だ」と考えたら、そこにはボランティアの喜びがなくなるでしょう。人間としてお礼は義務だと考えることはできるが、それはボランティア活動そのものの義務ではないでしょう。義務で はなく、それが本質的には必要ではないから、サーヴィスを提供してくれたひとにお礼をしない、ということではない。あとは「心」がなすことだろうということが理解されるべきなのではないかと 思うのですけれど。もちろんボランティアの世界でのお礼の渡し方に関する常識はあるだろうし、その常識を否定するつもりはそもそもまったくないけれども、もともとの原則としてはサーヴィス関係の授受を義務づけるものがないというのがボランティアの特質だということで考えるのはまちがっていないと思います。ボランティアの方へのお礼はいくら、と決まっている場合が多いとはしても、それはあくまで現場でのやりとりを簡単にするための気配りで、ボランティアの本質にかかわるものではないと考えるべきではないでしょうか。
 何だか気取った言い回しだから書かなかったことを書いておきますと、気持ちのことは別としても、少なくとも経済的にはサーヴィスに対して報酬を与える義務が存在しないという非対称性がなければ、それはボランティアとは呼べないと思うのです。

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2 コメント:

匿名 さんのコメント...

自分の利益のために無償で働いてくれる人を公の場で募るってのが「いやらしい」んでしょ。
あなたの意見は筋違い。

NeiMuroya さんのコメント...

 やっぱり私は呼びかけるひとよりも「それでも馳せ参じるひと」の存在の方が問題だと思うのです。かといってこういうひとたちの精神性を(皮肉をもって考えてはいるけれど)本当に問題にしているというのではないのです。ただもしかしたら長い目で見るとこういうボランティア活動がマイナスの経済効果を生んでしまうのではないかという余計な心配をしているのです。しかし考え直してみると、これは建設業者をあざ笑う有効な手段なのかもしれないという気もしてきます。こういう活動にくわしいひとに理念をうかがいたいものです。