きのう英語の発想をもとにした日本語の文章を批判したのだが、今日は朝日新聞朝刊の一面で編集委員の星浩さんがやってます。
それにいったい、何なのよ、この書き方は。本人にはわかってるのかもしれないけど、どうしてここに英語の話が出てくるのかがわからない。政府・与党のやっていることには筋道が通っていないから正統性が欠けていると云えばすむ話じゃないんですか? まったくもう。どうして英語の話が議論の支えに必要なのよ。わけがわかりません。(私はこういう日本語の文章の書き方が全部おかしいと云っているのではない。実際にこのように外国語の単語を引き合いに出すのが必要な日本語の議論はありうるし、自分でもときどきする。しかしこの場合は、英語の単語を引き合いに出すことに何の必然性もない単なるカリカチュアだ。)
ウェッブ上で見つけたずっと重大ないい加減なこと。これに比べたら、星さんなんてもう、余裕で許しちゃうよ。
知らないけど加藤弘一という文芸評論家の書評。
どうしてパリの市長が聖火リレーの際に市庁舎に人権擁護を主張するような横断幕を出したがったかと云えば、その直前のサッカーの試合で、一部の心ないパリ・サンジェルマンのサッカーチームのサポーターが北部の町のランスとの試合のときに、北国のひとに対する差別的な横断幕をスタジアムに張ったというスキャンダルが理由のひとつにある。パリ市長ドラノエの意図はフランス全体にかかわるものではなく(あたりまえだけど)、パリの町のイメージの失地回復にあった。だいたいパリの市長はフランスかって。だったら慎ちゃんの意見が日本を代表することになっちゃうぞ。フランス政府としては、パリ市のこういう勝手な抗議行動に困惑していて、中国に何人も特使を送って謝罪しているのに、それはどうなのか。卑劣な情報操作を書評という場でやるなよ! このブログ記事で名前をあげられているヴェドリンヌ外相なんて、外相経験者のなかでも名前を忘れられちゃっているようなひとだしね。それにここに引用した文は意味不明です。「人権を商売にする人たち」って何? 人権が商売になるの? まったくどういう品性をしてこんなことが書けるんだ。今の中国のことを「社会主義国」と形容するのもなかなかのレトリックですなあ。今の中国政府の問題は「社会主義国家であること」ではないでしょうが。やめなさいよ、本当に。紀伊国屋さんはこれでいいんですか?
こっちの方も、理解を超えた今はいつの時代やらという議論。国際情勢の分析と予測。
ここで差別されているのは行動規範が存在しないことにされてしまった中国人だけではありません。民衆のことは云わないでおこう。しかし今欧米の国の政府の閣僚クラスの要人のなかに、キリスト教の社会層の出身ではないひとが普通に見受けられるけれども、そういうひとたちはキリスト教徒じゃなくても、キリスト教のひとたちに大目に見てもらってるんですかね? まったく、キリスト教徒の寛容の精神にはありがたくって涙が出ますよ。
それに今BRICと呼ばれている国々はみんな多かれ少なかれ倫理なき経済拡張が問題にされているのだけれども、それはどのように宗教的に説明されるのですか? これは全然宗教の問題じゃないでしょって。俺の専門は文学で、まったくの社会科学音痴だが、これくらいのことは俺でもわかるよ。20世紀後半において経済的に豊かだった国が今新興国に対する防衛として保守に回っていることが何か宗教や道徳の問題であるとでもかんちがいされているんですかね。
だいたい社会的な実体としてのキリスト教と聖書という書物が何だか曖昧にごちゃ混ぜになっているような状態でよくこんな文章が書いていられるよ。
やれやれ。
P.S. 「カリカチュア」ということばがおかしいというのはまったくそのとおり! 反省いたします。こう書くことによって自分を正当化したいというわけではないが、どうしてこの単語を用いたかを説明すると、2002年にジャック・シラクが大統領選の決選投票前の恒例になっているテレビ討論会をすることを拒否したときに、相手方の極右の大統領候補について「ジャンマリー・ルペンはフランスの政治の caricature である」と云ったのが頭に残っていてこういうことばづかいをしてしまいました。フランス語ではこの単語は「デフォルメされた醜く滑稽なもの」という意味になり、シラクの云いたかったところは「政治家とは似て非なる醜悪なもの」という意味だと思われますが、これは日本語の「カリカチュア」ということばで理解される意味ではありません。この点において朝日新聞の編集委員と同じ穴のむじなであると云われてもしょうがありません。私は「外国語への依拠がそれが必要だから依拠している場合と似ているようだけれども、実はそうではないがゆえに滑稽なもの」ということを意味しうるものとしてこの「カリカチュア」という単語を用いました。しかしこれはまったく日本語の「カリカチュア」という単語の意味ではない。正直なところ、書きつつ「この単語はどうかなあ」と思ったのだが、「まあいいや」と思ってそのままにしてしまいました。それにだいたいフランス語でこの意味で使うのはおそらく人物に対してだけなのでしょう。失礼いたしました!
前の記事 これはどうなんですか、朝日さん
政治に大切な「正統性」が政府・与党に欠けている[…]。正統性は英語の「レジティマシー」の訳だが、日本語の「筋道の通ったこと」「まっとうなこと」といった意味も含まれるのだろう。まずいつも言ってるけど、カタカナで書いてあることばは日本語です。「レジティマシー」が英語だなんて云われてもみんなきょとんとしちゃうでしょって。せいぜいちゃんと英語のつづりを併記してください。それが新聞の紙面上、特に一面ではできないというのなら、そもそもこんなことを書く必要はないのだよ。
それにいったい、何なのよ、この書き方は。本人にはわかってるのかもしれないけど、どうしてここに英語の話が出てくるのかがわからない。政府・与党のやっていることには筋道が通っていないから正統性が欠けていると云えばすむ話じゃないんですか? まったくもう。どうして英語の話が議論の支えに必要なのよ。わけがわかりません。(私はこういう日本語の文章の書き方が全部おかしいと云っているのではない。実際にこのように外国語の単語を引き合いに出すのが必要な日本語の議論はありうるし、自分でもときどきする。しかしこの場合は、英語の単語を引き合いに出すことに何の必然性もない単なるカリカチュアだ。)
ウェッブ上で見つけたずっと重大ないい加減なこと。これに比べたら、星さんなんてもう、余裕で許しちゃうよ。
知らないけど加藤弘一という文芸評論家の書評。
だが、フランスが最初に異議申し立てをしたのは不思議でもなんでもない。日本では人権を商売にする人たちが社会主義国の人権問題を隠そうとしているのであまり知られていないが、フランスは以前から一貫してチベット問題に強い関心を寄せていたのである。まあフランス人は何にでも口を出したがるんだから、その意味では不思議でも何でもない。でもフランスが以前から一貫してチベット問題に強い関心を寄せていたなんてこと全然ないでしょうよ。米国の方がまだあるよ、そんなの。
どうしてパリの市長が聖火リレーの際に市庁舎に人権擁護を主張するような横断幕を出したがったかと云えば、その直前のサッカーの試合で、一部の心ないパリ・サンジェルマンのサッカーチームのサポーターが北部の町のランスとの試合のときに、北国のひとに対する差別的な横断幕をスタジアムに張ったというスキャンダルが理由のひとつにある。パリ市長ドラノエの意図はフランス全体にかかわるものではなく(あたりまえだけど)、パリの町のイメージの失地回復にあった。だいたいパリの市長はフランスかって。だったら慎ちゃんの意見が日本を代表することになっちゃうぞ。フランス政府としては、パリ市のこういう勝手な抗議行動に困惑していて、中国に何人も特使を送って謝罪しているのに、それはどうなのか。卑劣な情報操作を書評という場でやるなよ! このブログ記事で名前をあげられているヴェドリンヌ外相なんて、外相経験者のなかでも名前を忘れられちゃっているようなひとだしね。それにここに引用した文は意味不明です。「人権を商売にする人たち」って何? 人権が商売になるの? まったくどういう品性をしてこんなことが書けるんだ。今の中国のことを「社会主義国」と形容するのもなかなかのレトリックですなあ。今の中国政府の問題は「社会主義国家であること」ではないでしょうが。やめなさいよ、本当に。紀伊国屋さんはこれでいいんですか?
こっちの方も、理解を超えた今はいつの時代やらという議論。国際情勢の分析と予測。
欧米人はキリスト教徒であり、聖書の言葉が彼らの行動の規範となっている。日本人は仏教と神道の二つの宗教を有するが、周囲の人々の意見が行動規範になっている。しかし、中国人の場合は、欧米人や日本人のような行動規範が存在せず、むき出しの欲望に歯止めをかけるシステムが存在しないのだ。いやあ、何と云ったらいいものか。まじめぶって偉そうにして、ペロッと素朴な差別的言辞を弄さないでほしいよ。
ここで差別されているのは行動規範が存在しないことにされてしまった中国人だけではありません。民衆のことは云わないでおこう。しかし今欧米の国の政府の閣僚クラスの要人のなかに、キリスト教の社会層の出身ではないひとが普通に見受けられるけれども、そういうひとたちはキリスト教徒じゃなくても、キリスト教のひとたちに大目に見てもらってるんですかね? まったく、キリスト教徒の寛容の精神にはありがたくって涙が出ますよ。
それに今BRICと呼ばれている国々はみんな多かれ少なかれ倫理なき経済拡張が問題にされているのだけれども、それはどのように宗教的に説明されるのですか? これは全然宗教の問題じゃないでしょって。俺の専門は文学で、まったくの社会科学音痴だが、これくらいのことは俺でもわかるよ。20世紀後半において経済的に豊かだった国が今新興国に対する防衛として保守に回っていることが何か宗教や道徳の問題であるとでもかんちがいされているんですかね。
だいたい社会的な実体としてのキリスト教と聖書という書物が何だか曖昧にごちゃ混ぜになっているような状態でよくこんな文章が書いていられるよ。
やれやれ。
P.S. 「カリカチュア」ということばがおかしいというのはまったくそのとおり! 反省いたします。こう書くことによって自分を正当化したいというわけではないが、どうしてこの単語を用いたかを説明すると、2002年にジャック・シラクが大統領選の決選投票前の恒例になっているテレビ討論会をすることを拒否したときに、相手方の極右の大統領候補について「ジャンマリー・ルペンはフランスの政治の caricature である」と云ったのが頭に残っていてこういうことばづかいをしてしまいました。フランス語ではこの単語は「デフォルメされた醜く滑稽なもの」という意味になり、シラクの云いたかったところは「政治家とは似て非なる醜悪なもの」という意味だと思われますが、これは日本語の「カリカチュア」ということばで理解される意味ではありません。この点において朝日新聞の編集委員と同じ穴のむじなであると云われてもしょうがありません。私は「外国語への依拠がそれが必要だから依拠している場合と似ているようだけれども、実はそうではないがゆえに滑稽なもの」ということを意味しうるものとしてこの「カリカチュア」という単語を用いました。しかしこれはまったく日本語の「カリカチュア」という単語の意味ではない。正直なところ、書きつつ「この単語はどうかなあ」と思ったのだが、「まあいいや」と思ってそのままにしてしまいました。それにだいたいフランス語でこの意味で使うのはおそらく人物に対してだけなのでしょう。失礼いたしました!
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