2007年12月31日月曜日

直訴的発想

 「どうやら直訴的発想というのは、想像以上に根強く、深く、わが国民の体質中に潜んでいるものなのかも知れぬ」と英文学者の中野好夫は云っていました。 ぱっとこのことばを見ると「直訴的発想」の何が悪いの?と素朴な疑問を抱くほどにこの発想は身にしみついている、と云うこともできるのかもしれません。し かしちょっとだけ冷静になって考えてみると、「直訴」ということばの響きが既に反民主主義的なものだと気づきます。もちろん今の時代だれも天皇に直訴して どうにかなると思うひとはいないでしょう。しかし直訴の対象が天皇でなくなると、この直訴的発想が不透明になってしまう。不透明であっても、これが反民主 主義的であることには変わりがない。
  薬害肝炎事件が最近問題になっていました。ここでも原告団はただひたすら現行の権力にかけあっていました。対抗勢力に働きかける、あるいは自分で対抗勢力 をつくりだそう、というような気持ちは微塵もみられなかった、と云っていいでしょう。心情的には被害者の方に同情しますが、私がここで問題にしているのは 心情ではないのです。
 いつも非常に耳障りに感じられるのが、民主党のひとがテレビに出てくると必ず言う「国民のみなさま」。私はこのことばは日本人の直訴的発想に働きかけるものだと思っています。
  なぜこれが反民主主義的なものなのでしょうか。少なくともこれが間接民主主義という制度とあいいれない発想であることはまちがいない。日本で選挙になるた びに憤りを覚えるのが、政治家と有権者のこの直訴的発想の上に立ったぬるま湯的な融合状態である。間接民主主義においては、極端なことを云ってしまえば、 有権者は投票することによってすべての政治的権利を行使してしまっているのだから、当選したひとが任期のあいだ公約を破ろうが、何もしなかろうが、好き勝 手なことをしようが、そのひとを選んだ有権者にはまったく文句を云う権利がない。選んだ方がまちがった、有権者としての責任を真剣にとらえていなかったの である。幸いなことに任期はそれほど長くないので、これで自分がまちがったことがわかった有権者は次の選挙では対立候補に投票することになるのである。投 票というのがそれほどに大変なこと、自分のこれから数年の未来をかけた腹をくくった行為であるというのが、大半の日本人にはわかっていない。
 ど うしてこれがわからないか、というと、「現在の権力者に話せば何とかなる」という発想がしみこんでいるからである。だからこの「必ず何とかしてくれる」は ずの権力者の首をすげかえようとは思わないのだ。何とかすることができるのが今の代議士さんしかいないのなら、それがどんなひとであろうとそれをかえるわ けにはゆかないのは当たり前である。投票には行かなくても後で何か問題があったら「直訴」すればいい、と恐ろしいことを考えている日本人はかなりいるのではないだろうか。そしてそれが恐ろしいということを理解すらしていないのではないか。そして政治家の「国民のみなさま」ということばは、民主主義的感性が芽生えないように、国民を眠らせておくために口にされるのではないか。政治家は投票によって信任されたら任期の間は何をしてもいいのに、「いつでもあなたの『直訴』を聞いてあげますよ」という甘い嘘を言っているのである。
 日本人だけが民主主義をちゃんと理解していないわけではない。さまざまな国、共同体の制度において有権者に 選出されたひとがその任期の間は好き勝手なことをしてもいい、という間接民主主義の原則を大声で云うのはだれにとっても得なことではないだろう。フランス では2002年の大統領選挙で、決選投票にシラクと極右のルペンが残り、フランス人はヒステリーを起こして「ファシストのルペンをおさえこむために、フラ ンスの民主主義を守るためにシラクに投票せよ!」と叫び、シラクにみんなで投票したのである。私はこの時期「今度シラクに投票する」と云っていたひとみん なに「いつからシラクを支持してるの? シラクの政見に同意してるの?」と聞き、「民主主義社会においては、あなたに政治を任せます、という意味で投票するのであり、対立候補を落とすためにもう 一方に投票する行為など民主主義の原則には存在しない」と云ったのだが、だれも変な東洋人の云うことは聞いてくれなかったよ。 しかもあとでみんなシラクに投票したことを後悔してやがんの。
  おかしかったのが、この期間中に民主主義に関してまともなことを云っていたのが、民主主義の敵たるルペン自身と極左トロツキストのアルレット・ラギエだけ だったということ。アルレットは一次投票でシラク以外の候補に投票したひとに棄権を呼びかけ、「あなた方がシラクに投票しなくても、シラクの支持者がシラ クに投票すれば、ルペンには選挙に勝てるわけがありません」としごくまっとうなことを云っていました。これがしごくまっとうだということが、なぜかまった くみんなにわからなかった。民主主義の先進国たるフランスですら、人心はかくも簡単にメディアに惑わされてしまうのである。それでもフランス人はまだ政治 の力、一票の力を信じているからいい。日本人には最初からそれを信じるつもりがない。つもりがない理由がこの直訴的発想なのではないのか。投票よりも直訴 が大切だ、という前近代的、反民主主義的な幻を信じつづけているのではないか。
 民主党の決まり文句「国民のみなさま」は非常に罪深いものであ る。これはしばしばカリカチュアになる。小沢辞任騒動直後にテレビに出てきた何十年来の小沢の盟友渡部恒三。大連立構想に関して、福田と小沢のどちらがも ちかけたのかについては、「国民のみなさまに判断していただく」って…。 失笑を通り越す、とはまさにこういう状況である。何十年来の盟友が真相を知らなくて、どうして国民のみなさまにわかるのよ。国民のみなさまっていってりゃ あいくらでも自分では無責任でいられるもんな。全部決めるのは国民のみなさまなんだから。民主党を名乗る政党の政治家が間接民主主義の原則を否定している のである。有権者の代表が共同体の運命を一身に背負うのが間接民主主義というものだ。候補者も有権者もそれだけ命がけで選挙し投票しなければならないので ある。
 ちなみに、これは言っておかなければならないというのなら云うが、私からすれば、結果論的には、ホッブズが正しくて、ルソーが間接的に人 類をだましたのである。しかし民衆には政権を転覆することができる、という点においてルソーはまちがっていない。社会契約の理念において、ルソーは人民に あめだまを渡した。これがいけない。ルソーは「人民にあめだまを渡す」という悪智慧を権力者に与えてしまったのである。私はルソーが人類をだました、とい う事実を見据えながら、私はキリスト教徒ではないし、本音はもっと左寄りとはいえ、日本におけるキリスト教民主主義に類似したような政治イデオロギーの確立を望むものである。と はいえ、この望みはまったく具体的ではない。 (ちなみに、私が今までに読んだいちばんあほくさい小説は、ルソーの「新しきエロイーズ」だ。それでもこれだけ長くて退屈な小説をだれにも強制されること なく読んだので、読み終わったときは一生でいちばん強く「本当に読み終わってよかった」と思った。ぜんっぜんわかんないけど、これはこれでいいのかもしれ ないなあ、なんて思ってしまったよ。私はフランス語で読んだので邦訳がどうなっているかは知りません。)
 あと最近笑ったのが、宮台真司のブロ グ。別に私はこのひとのことをばかだとは思っていなかった。しかし「知識人、いでよ」みたいなことを言っていて、何だかもう力が抜けてしまった。今の世の 中で、あんたみたいなひとが自分からやらないで、「知識人、いでよ」と云っていてどうすんのよ。
 最後に、今年の締めくくりとして中野好夫 の敗戦直後の文章を引いておく。よいお年を。私はこのことばを形骸化した挨拶として云うのではなく、来年は必ずいい年になるはずだ、という楽観主義をもっ て云う。非理性的ではありますが、せめて言霊を信じましょう。理性の神様もこれくらいのことをいったからってきっと怒らないよ。では、かさねがさね、よいお年を。

一、 二度前に書いたり話したりしたこともあるが、戦争中ついに私に諒解できなかったことは、指導者出でよ、大号令を待つ、というあの国民の声である。さらに もっと滑稽なのは、国民の準備はできている、今はただ大号令を待つのみ、というあの悲鳴である。それも一般大衆だけならまだしもだが、堂々たる知識層も 言った。一流の新聞紙までが臆面もなく三日に一度は書いた。一番情けなかったのは帝大新聞の投書欄にさえ何度か同趣意の見解を散見した。これもアングロサ クソンにはまったくもっと不可解(ミステリアス)のひとつであろう。彼らは指導などご免だ、号令を廃してくれとは言うだろうが、号令を掛けてくれとは死ん でも言わない国民だからである。一体号令してくれとは、正直に言って一人前の成人のそう口にすべきことばではないはずである。民主主義に再出発するという 日本人が真剣に考え直さなければならない問題ではないかと思う。(中野好夫「歴史に学ぶ」昭和21年3月)

2007年12月30日日曜日

アルタイ語族の特徴など

 フランスにしばらくの期間滞在している同国人に関してよく不思議に思ったのが、彼らがルイとかジャンとかフランス風の(しかも何だか古臭い)名前をフランス人に対して名乗るこ とである。あるいは名前を半分にはしょる。訓読みの名前を音読みにして短くするひともいた。これは非常に不思議である。不思議に思って本人に聞くと、「日本の名前はフランス人には難しい」と口をそろえて云う。本当かなあ。私は十年いて日本の下の名前(ひさし)を名乗って一度も困らなかったけどね。それに普通は変わっ たひとの名前を喜んで覚えるんじゃないかな。フランス人にはそういう文化的な好奇心がないとでも思ってるんですかね。そういうのとつきあってるのかな。私なんて久々に会ったひとに名前で呼ばれて、自分の方が相手の名前を覚えてないなんてことがよくあった。
  戦前に外国人に日本語をいかに教えるかの議論があったときに、日本語をやさしくしようと云う輩がいて、それに対して「日本語を外国人に学ばせるには日本の国力を強くするべきなのである。学んでもらうために日本語をやさし くするなんてとんでもない」といったひとがいたそうだが、まことにそのとおりだと思 う。自分の名前を言ったときにひとり「はあ?」といったひとがいたからって、その後は自分の本当の名前を言うのをやめるのなんて変だよね。私は繰り返させて自分の名前を言わせた。と云うか「言わせる」なんてほど押しが強くないので、相手に言われるがままに繰り返していただけですが。それやらないんだろうね、みんなきっと。何を面倒くさがっているんでしょうか。「はあ?」と云われてそこでやめちゃう。それでなぜだか自らすすんで文化的に従属することを選ぶわけ。で、そこで従属することを選ぶというのが、フランスにいながらにして非常にフランス的でない。もうちょっと自分を強くもった方がいいんじゃないのかなあ。フランス人ひとりひとりに日本の人名を教えることが、フランス人の日本文化理解の助けになると考えなさい。もし「おまえの名前は西欧風でないから西欧風にしなさい」と云うフランス人と出会ったのだとしたら、そんな植民地主義者の白痴とつきあうのはおことわりもうしあげた方がいいね。もと英国の植民地の香港人じゃないんですからね。
 考えてみると、本人は意識していなくても、「このひとたちとは深くつき合うのではないのだから、本当の名前を教えなくてもいい」とこういう日本人は思っているのかもしれない。無意識的にね。日本語で別れの挨拶は「さようなら」だと教えるのにも、さっさと別れたいという気持ちが透けてみえる。
 それにどうしてこういう日本人たちには「フランス風」の名前を名乗ろうという気持ちしかないのかな。自分の日本の名前が仮にフランス人には記憶しにくいものだとして、フランス人になじみのある別の名前を選ばなければならないのだとしたら、モアメッドとかアリとかアラ ブ系の名前を選んだっていいじゃないか。寡聞にしてそういうのは聞いたことがない。どうしてなんだろうね。そもそもフランスというのはどちらかといえば反ブルジョワ的な国だと思うが、日本人はどういうわけか鼻もちならないブルジョワのフランス人とつきあったりするんだ。だから日本にもちかえられるのが鼻もちならないフランスのイメージだったりする。よく云うが、これ、「日本のフランス」ですから。
 日本人の女の子に関しては、もとの名前が既に西欧風にできている場合もあるし、愚かしいことながら自分のことを売りにいっているような変なのも多いからね。みんながそうだなんて云ってないよ。それに私は西欧風の女の子の名前はかわいいと思うので、あまり気にならない。(それかよ)

  ジーン・ケリーが「雨に歌えば」を歌うのを聞けば、日本人の耳にはだいたい「アンシーンインインダレー」くらいに聞こえるだろう。それでも「アイム・シー ンギング・イン・ザ・レーイン」と耳に聞こえていると思い込むひとが多いと思う。実際にはカタカナでまったくそうは耳に聞こえていないのにもかかわらず、 である。「ム」とか「グ」は特にまったく聞こえないだろう。それでもこう聞こえるような気がするのはなぜかといえば、どう書くか、どう目にみえるかを知っているからである。恐ろしいこと に、耳には絶対聞こえるはずもないスペースを中点で転写するという神業までものにしている。これはすごい。本当はカタカナ表記に関しては「見える派」と「聞こえる派」の闘いはとうのむかしに決着 が着いているのだが、外国語を聞いたときにそれが目にみえるものとして脳裏に描けない場合、つまりその外国語によく慣れていない場合、愚かにも耳に聞こえる音でカタカナに転写し てしまう場合がある。これをそうするひとが自分が無教養で愚かでそうしていることを自覚していればいいのだが、愚かものは自分のしていることが正しいと思い込むのである。しかも先人が見えるように転写していたのは「まちがっていた」と傲慢にもほどがあることを思うのだ。この際この愚かものはちゃんと大学を出て通訳として活躍している場合も十分ありうる。ひとがどのように書くかを熟知している場合には、ほぼ機械的に「みえる」表記から日本語に転写することの方を選択するのは、シナの固有名詞を見たら明らかである。フランス人は英米人の「ロバート」のことを「ロベール」と云うが、それについて「どうしてフランス人はこうするの? 絶対おかしいよ」と私に云った日本人がいた。しかしことばの表記が自国語に同化されている場合には、原語でどう耳に聞こえるかなんてことはひとは無視するのである。フー・チンタオが日本だけで発音がコ・キントウなのがこれの証明だ。シナで発明された文字だけは日本語の表記に同化されているのである。もっともフランスでも最近は変わってきていて、ドイツの首相が変わったときのラジオのニュースで、最初はアンジェラ・メルケルと発音していたのに、あとで「アンゲラのまちがいでした」と訂正していた。しかしスペイン語のアンヘラさんのことはそう発音はしないと思うけど。
 それでも、もともとラテン文字で書かれていない言語に関して 「目にみえる」ようなカタカナ表記をすること、あるいはケルト語のように複雑な歴史をたどった言語を目にみえるようにカタカナで表記することは難しい。たとえばタイの王様はフランスでは Bhumibol と書かれるが、日本ではプミポンだ。Bがパ行で転写されることには驚かないが、Lが「ン」とは何とも不思議。それなりの理由があるのでしょうね。
 (今さらことわるのも何ですが、「目にみえるように」というのはその言語を理解するひとの知っている規則に従って目にみえるように書くということであって、もちろん日本語のローマ字風に読めるところを書くということではない。たとえばフランス語でアの鼻母音は en とも書かれるが、これを「エン」と書けと言っているのではない。フランス語を知っているひとの規則によるとこれは「アン」と書かれるべきで、「オン」と耳に聞 こえることがあるからといってカタカナでそう書くのはまちがいだと私は云っているのです。英語や他の言語に関しても類推してください。)
 マダガスカルの首都はむかしタナナリヴで今アンタナナリヴォになったなんてよく考えられているが、これをマダガスカルのひとに聞いたら、マルガッシュ人は 「アンタナナリヴォ」と発音していたのに、フランス人の耳には「タナナリヴ」と聞こえたからマルガッシュ語をよく知らなかったフランス人は聞こえたままに書いた、ということなのだそうである。マダガスカルは国名で、マルガッシュは民族と言語の名前だ。実際そのアンタナナリヴォをマルガッシュ風に発音してもらったが、何度繰り返してもらってもタナナリヴにしか聞こえなかった。本当に最初の「アン」を発音してるの?と聞いたら、ちゃんと読んでいる、と答えていた。(しかしこのことを別のマルガッシュ人に聞いたら、まったく意に介さなかった。津軽には上磯と書いてカミソ、三厩と書いてミンマヤという地名があるが、これをよそゆきの標準語風に読んで、カミイソ、ミウマヤだとよそのひとに対して主張する津軽人もなかにはいるだろう。マダガスカルの首都の名前を私の耳にアンタナナリヴォと聞こえる音で発音したマルガッシュ人はそういったものではなかったのか、と想像している。) ロナウドとかクレモンティーヌとカタカナで書くひとは、マダガスカルの首都は、マルガッシュ人が何を云おうと、そう聞こえるものはそう聞こえるのだから、タナナリヴであると主張するべきである。ブラジル人はLを発音しているのに「ウ」だ、フランス人はアの鼻母音を発音しているのに、それは「オン」だ、といっているのだから、まったく同じことである。(私は外国語が話せるひととして率先 してこういうカタカナ表記をさせているひとのことを批判しているのであって、外国語が話せない普通の日本人のことはまったく問題にしていない。)
 ところで、外国語を習得する際に非常に大切なのは、「声の流れのなかでは決して聞こえるはずのないスペースが見えるようになること」である。

 日本語の音節の時間的等価性に関して、似たような言語が他にないか、と少し探してみているのだが、なかなか他にはないようだ。それでもアルタイ語族の面白い現象を少し紹介。
  比較言語学というのは何でもかんでも分類するのが好きな学問だったので、日本語はウラル・アルタイ語族のうちのアルタイ語族に属すると思われていました。 このアルタイ語の特徴のなかに、語頭にふたつ以上子音がつづかない、というものがあります。たとえば英語には strong と語頭に三つ子音がつづくものがありますが、日本人はSとTの後に母音を入れて発音をする、と意識されます。実際には「ス」には母音がつづいていなくてもいいのですが、意識としては母音があります。これを私はしばらく前から問題にしているのですが、たとえばアルタイ語を代表するトルコ語では次のような現象 が見られるそうです。
 たとえば station という単語は語頭にもうひとつ母音を加えて istation になります。この例は日本語とはちがいますが、tramway の方は tiramvay になる、とこれはかなり日本語に似ています。日本語ではTの後にオをつけるところに、トルコ人はイをつけているのです。
  これは日本語のカタカナ表記やローマ字表記の問題とは直接かかわらない問題なのですが、面白いと思ったのはアルタイ語の「語頭に流音が来ない」という特徴 です。日本語にはシナ起源の単語と外来語以外では、ラ行ではじまるやまとことばの単語がない。朝鮮語ではローマ字で Lee と書かれる名前の語頭の子音が発音されない。朝鮮ではローマ字表記に言語の歴史を反映させるというごく当然のことをしているのでしょうか。たとえば韓国の現職大統領ノ・ムヒョンの名前にしても、ウィキペディアには「英語でノーになることを嫌った」から Roh にした、と書いてありますが、言語学的には、シナ語の流音が朝鮮語では無音あるいはNになったということが云える。だからRはただ元に戻しただけだ。日本でもロシアのことをオロシアなんて いったりしますが、これも語頭の流音を嫌うことの影響だ。しかしシナ語起源の単語の流音はまったく嫌わないので、これが「日本語はアルタイ語ではない」と いう意見の根拠でもあるようです。

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2007年12月28日金曜日

DQNネームについて

 友人からリクエストがあった話題だが、これはちょっと難しいですね。まとまりはないが、考えたことを書いておきます。十年間日本にいなかったら、何と悪魔くんのお父さんの闘いが実を結んでいて、祝福したらいいのやらどうやら。DQNというのは「ドンキホーテネーム」、ドンキホーテにつどう頭は悪いが気のいい若人が子供につける名前のことだそうです(ウソ)。メリアム・ウェブスター略語辞典によると、Don't Question Nobody (だれにも聞くな)の略だそうで…。
 友人からのメールを読んですぐに、ちょっと前に希空と書いてノアと読む子供のことが話題になったことを思い出して、希は稀と通じるから(この漢字の原義 はこれです)、「空気が薄い」、「空がまれ」と考えてみると、大洪水の後にたれこめていた暗雲が薄くなり、そこから一条の光が射し、「ノアよ」と神の声が 響きわたる…という意味が実はそこにあった、ということがわかるのである(本当かよ)。
 ところで、フランスのスター水泳選手でロール・マノドゥーという女の子がいるのだが、なぜか朝日新聞のニュースで「マナドゥー」と書いているので、 ちょっとグーグルで検索してみたら、マノドゥーわずか5件でマナドゥーが400件を超えている。どう読んだってマナドゥーとは読めないのでどうしてだろ う、と考えたのだが、きっとこれはオリヴィア・ニュートン・ジョン&ELOの歌「ザナドゥー」の影響なんでしょうね。あるいはこの娘、泳ぐから、 マナティーという動物の名前の影響も大きいでしょう。DQN親も朝日新聞の記者もあまりレベルは変わらないのである。
 あと、「菓子屋」と書いて「パティシエ」と読ませるのも同レベルですね。いや、菓子屋と漢字で書くというプロセスはここでは省かれているが、だまされて はいけません。DQN親と同じです。フランスに行って菓子づくりの技術だけ学び、自国語を大切にするという精神性はまったく学ばなかったこういうひとた ち、まったくもういつまでたっても和魂洋才なんだから。
 それに変な名前をからかうひとが、DQNと書いてドキュンと読ませるのも実は同じレベルですよね。本人は自嘲なり自己反省なりをこめてこのことばを使っているんですかね。
 その友人に教えてもらったDQNネームのサイトをのぞいてみたのだが、特にDQN度ランキングの上位に入っている名前に関しては、予想を超えていて、腰 が抜けた。「腸」と書いて「ひろし」と読ませるのが一位になっているが、ひょっとして親は夢野久作ファンだったりするのだろうか。 「ばかかよ」とか「おかしい」とか思うより、まがまがしいものを感じてしまった。実はこれは文学なのではないだろうか。 坂口安吾の「文学のふるさと」を思うのは私だけではなかろ う。三池崇史の「オーディション」みたいなまがまがしさ。深沢七郎の「秘戯」のような、見てはいけない日本社会の陰部を見てしまったかのような。(「秘戯」は実際に陰部を見る話。ってどんな話なんだ、とも思うが、実際に「まったくこれはどんな話なんだ」、と感じいる必読の短篇小説である。)
 フランスでお芝居を勉強していた女子学生に、 今こんなものを学校でやっている、といってむかし見せてもらったのが、受刑囚の書いた文章や詩だったのだが、それがまったくフランス語になっていなくて びっくりしてしまったのだった。非常にまがまがしい。フランスにはピエール・ブールディウという社会学者がいまして (もう死んだけど)、このひとの監修した書物に『世界の貧困』というものがあり、ここには教育を受けられなかったひとのことばが多々収められている。しか し彼女の見せてくれた、囚人が書いたままの文章は、まがまがしさにおいて比べようがなかった。野間宏が「世界」に連載していた「狭山裁判」にも被告の文章 が多数引かれており、こ れもまたまがまがしいものであった。
 こういうことを書くのも、そのサイトに載っている名前に関して、「本当にこれはどうなの?」という名前は別としても、ほほえましいような名前に関して、 「こういうコメントはどうかなあ」というものが散見されるからである。私はたとえば職業倫理の欠如に関しては批判する。だからスポーツ・ジャーナリストが 水泳選手の名前を、マナティーという動物の名前に影響されて、何も考えずにまちがって書く、とかこういうのは叱るべきだと思う。専門の教養があってしかるべ き ひとにその教養が欠けているのは許されざることだが、そもそも無教育な人間は社会構造の犠牲者なのだから単純には責められるべきではない。フランスの学校 で字が書けないひとの文章を勉強するのは、こういった地点に立脚している、ということが、云われなくても前提になっている。ここでは職業倫理の話はしなく とも、 「この名前はおかしいよ」と云っている、つまり私は教育を受けましたよ、と言外に云っているひとの方が教養の浅薄さをひけらかしているのはどういうものか なあ、 と思うのだ。わざと悪い意味の漢字の名前をつける、というのは決してなされなかったこととは云えないし、そもそも万葉仮名なんていくらでも「読めねえ よ!」という言葉遊びとかとんちみたいなものが出てくるんだから。
 もっともこういうことを書くと、「しかしDQN親は万葉仮名の内在的な論理を把握していない」とかいうことをしたり顔でおっしゃるひとも出てくるかもし れないのだが、いや、そんなものないんだよ。『好色一代男』がおふざけだったことも知らずに、ちゃんと読もうとしたこともないのに立派な古典的名作だと信 じるひととこういうのは同類です。私はちゃんと読もうとして、読んだけど、よくわからなかった。 そもそも万葉仮名の内在的論理なんかがあったら、いまだにここはどう読むのか、と万葉学者が首をひねる箇所がごろごろ出てくるはずはないだろう。漢字が読 めるとか読めないとかそんなくだらないことを自分のアイデンティティの一部としているから、教育を受けなかったひとのことをDQNとかいってばかにするん じゃないか。自分には総合的思考能力がないことのコンプレックスの裏返しじゃないの。日本は義務教育だからみんな中学校を出るまで教育を受けている、と主 張するひとも当然いるでしょうが、教育の問題はそんなに単純ではない。ブールディウは教育を受ける態度も親から受け継がれる、とまあだいたいそんなことを 言っている。
 そもそも変な命名を問題にするより、「シッコ」という題名の映画を「もとはこういう題名だから」といって公開しちゃうような現在の 映画業界の言語感覚の低落を嘆いた方がずっとましだ。もとはあったはずの正常な感覚を失ったことを恥知らずにも日本中にさらしている方が責められるべきで、 ひとの命名は二次的な現象でしかない。テレビの画面に「ひとりで」を意味した「1人で」という字幕が出ることは、どんなひどい名前よりもずっとひどい。特 にそれが見過ごされているからこそさらにひどい。「言い訳」とか「思惑」とか自分から書くのをやめた方が、DQN親をばかにするよりもずっといい。「可愛い」とかな。
 結局のところ、この問題も私の常に感じる日本社会の居心地の悪さにつながっている。たとえば犯罪は犯罪者が悪いとして、決して社会の責任を問おうとし ないこと。子供の将来のことを考えない無責任な親がさまざまな市町村にいることはまったく驚くべきことではない。しかし届けを受理する公務員が職務を放棄 しているのはけしからんことだ。子供は親だけに属しているのではなく、共同体にも属しているのである。いや、むしろ親よりも先に共同体に属しているのであ る。本当にこんな名前をつけられた子供はかわいそうだな、と思うような名前もあるが、私は名前に関する法律をつくって制限しろとは言わない。こんなものは窓口で普通に対応できることのはずなのであり、こういった責任を完全放棄して税金から給料をもらうなど許されることではないのである。共同体に将来属すべき人間の運命に対してまったく無関心な人間が役所の窓口で働いていていいものだろうか。もしこういった役所 に、窓口で受付するひとにたいして、「おまえの一存で判断できると思うな」と言う上役がいるとしたら、こういう人間が人権を蹂躙しているのである。ひとり の人間の一存で判断できないことが他の人間に判断できるはずがない。もしこういう乱暴なことばが正しいというのなら、自分の職務についてまともな判断ができないような人間をその職務につけるのがそもそもまちがっているだろう。だったら窓口にひとをたてずに機械で書類を受理するよ うにした方がいいだろう。
 それにこういう変な名前を元劣等生が子供につけることには「反撃」の部分もあるのも無視しえないことだと思う。本当にカウンターカルチュアが好きなひとなら、このカウンターアタックを評価できなかったらだめ。(わたしゃちがうよ。) それに日本語のかな文字化運動やローマ字化運動の歴史をまったくふまえずに、こういうひとたちに何でもかんでも漢字で書くのがえらい、と思い込ませたひとの責任も大きいと思うよ。ブログとかで「寧ろ」とか漢字で書いてあるのを見ると、そんなものわざわざ漢字で書くなよ、と思うけどな。
 ラジオの番組か何かで「放送禁止歌」がかかった、というニュースを見た。だれが規制していたのか、だって? ふざけんな、しらばっくれるんじゃねえ。だれが規制していたのか、って放送局のみなさまが自分で判断する責任を放棄してひとの言うなりになっていただけじゃねえか。私はクレア・デインズちゃんラヴラヴの「ターミネーター3」のついに機械に支配されてし まう未来の世界、というのは日本の暗喩だと思ってますよ。人間性をとりもどしてよね、日本人のみなさん。ロボットばっかりつくってないで。お願いだから。

今日の一言
「女が眠れない時代は許せない
許せない時代を許す心情の頽廃はいっそう許せない」
 ― 草野比佐男

2007年12月26日水曜日

日本語をローマ字で書くこと

 以前ジャルゴン(いわば「業界用語」のようなもの)の使用をちょっと批判しましたが、田中克彦の『差別語からはいる言語学入門』という本のなかに、私の 言いたいことをぴったりと言い当てている一節がありました。ジャルゴンの話をしたすぐ後で、ここでは略語のことを云っている。

こういうような略語は、使っている人にはきもちがいいかもしれないが、その代償として、その聞き手と、自分あるいは自分たち専門集団の間に深いみぞを作り出してしまうだろう。すなわちあらゆる略語は、潜在的な境界線と差別的な空間を作り出す方向にはたらき得るものだ。

 これは略語をそのままジャルゴンと言いかえてもいい箇所です。結局は「エクリチュール」という「用語」をカタカナで書くのはこういう専門集団の自らを差別化しようとする意識でしかなく、デリダの思想そのものとは何の関係もないものだとまちがいなく云えます。
 さて日本語におけるカタカナ表記の問題を考えるときは、日本語が外国語で(この場合は西欧語ですが)どのように転写されているかについて考えてみるのが有益なことでしょう。なぜかというに、日本人は一般的に云って言語に対するものの見方が非常に狭いからである。
  たとえば日本人は、なぜかは知らないが、それを文部省の指定どおりに用いるかどうかは別としても、非常にヘボン式のローマ字に固執する傾向がある。しかし もともとラテン文字で書かれていない言語がラテン文字に転写される際、そこにゆれがあるのは当然のことである。たとえば日本語では「ビン・ラディン」と書 いている、もともとアラビア語で書かれるであろうところの名前は、Bin Laden、Bin Ladin、フランスでは Ben Laden などさまざまなしかたで書かれる。名前がもとはキリル文字で書かれている「プーチン」大統領は、フランス語では Poutine だが、英語では Putin だ。この英語の表記はフランス人が見たらかなりおかしいんですけどね(「売女」を意味する単語と同様に発音されるだろう)。でも英語式でこう書くとフラン ス人にとっておかしいからと考えて、フランス人がフランス語式にロシア人の名前を転写しているのか、といえば、まったくそういうことではなくて、むかしか らフランス人はロシア人の名前をフランス式に転写しているのである。たとえばプーシキンは英語では Pushkin だけど、フランス語では Pouchkine だ。だったらどうして日本人はいつでもどこでも英国人ヘボン式で通そうとするかね。「神風」だってフランス語で最後に kamikazé という風にアクセントをつけておけばよかったものを、アクセントをつけないヘボン式を頑迷に守ったから、フランス語では「カミカーズ」と呼ばれる単語に なってしまったよ。フランスでならフランス語風に日本語のことばを転写しよう、と考えておけばよかったのに。もっともこの語は「自爆テロリスト」を意味す るのだから、日本語とは縁のないフランス語の単語だと考えることもできる。 藤田という画家はフランスに行って自分の名前を Foujita とつづったが、このひとの場合はかぶれすぎで改宗してレオナールさんになっちゃったからなあ。
  たとえば富士山が Fuji になったり Huzi になったりするのも、とんでもないといえばとんでもない話だが、文部省によれば両方とも正確なんだからさらにとんでもない。ローマ字でFと書くからとわざ わざ下唇を噛んで「ふ」を発音する日本人はもっととんでもない。私もむかしはそうやって発音していたが、たぶんこれは方言である(本当かよ)。 でもこれはもとはといえば日本語が悪いのではなく(当たり前だけど)、そもそも海の彼方で発明されたローマ字によっては日本語を正確に転写できないという のが真実なのである。だったらシナで発明された文字を簡略化した仮名で日本語を正確に転写できているのか、という話になると、もう何がどうなれば正確なの かわからなくなるので、壁にぶちあたるとわかっている方にはわざわざ行かない安部公房。(難しいひとのために、「石川淳でも可」と云っておく。)
  ここで参考になるのは鎖国の直前に出版された『日葡辞書』。若い方にはなじみがないかもしれないが、葡はポルトガルのこと。「ローマ字」の黎明期の書記法 がわかります。たとえば、適当にページを開いたところに出てきたこの引用はどうでしょう。見出しは Guen すなわち「験」です。

Qiyomori xujuno qito nadouo xeraretaredomo, sono guenga nacatta.

 日本語です。さてわかるでしょうか。これは「清盛種々の祈祷などをせられたれども、その験がなかった」と読みます。ヘボン式だと sh になるところが、ここではポルトガル語風に x で表記されています。「せられたれども」が「シェラレタレドモ」になっているあたりが、いいぞお、ポルトガル人、九州男児だねえ、という気がしますね。 「を」は uo とつづられています。「あいういぇうぉ」の時代だからなのでしょうね。この引用の出所は Feiqe。『平家物語』でございます。「ハ行」はこの時代Fだったようです。「カ行」を転写するためにKを用いずにQを用いているのは、ラテン系の言語 ではKよりもQの方がなじみがあるからでしょう。Kという文字を用いないラテン語を用いていたローマ文明の復興期であるルネサンスと、ヨーロッパと日本との出 会いが同時期であるということも、中世の迷妄を象徴するかにみえたKの使用を疎んだ理由のひとつであるのかもしれません。
 もしこういうローマ字 表記を「まちがっている」とか「遅れている」という感想を抱く方がいらっしゃったとしたら、そういう感じ方の方が少しまちがっているのではないかという気 がします。私の感じるところの「普通」なひとであれば、「面白い」と思うのではないでしょうか。確かにヘボン式ローマ字は日本語の西欧語の出会いの初期の ローマ字を「改良」したものですが、その改良の視点は、あくまで言語学者ではなく医者であった英国人の観点でしかない(19世紀の流行の最先端の科学で あった比較言語学は医者の教養でもあったのかもしれないが)。
 この『日葡辞書』で特に刺激的なのは、「つ」の扱い方です。たとえば「出没」とい う語の見出しは Xutbot です。「日本語の音節が開音節であるというたてまえ」からすると「ウ」の母音が「脱落している」といわれるような表記が、既に400年前になされていたの です。--つづく--

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2007年12月22日土曜日

日本語の音節の特殊な性格

 いったい今の日本には、日本語のローマ字化、特にヘボン式と呼ばれるローマ字について何の疑問も抱かないひとはどの程度いるのだろうか。私もそうだった のだが、小学校の頃は何となく「ふ」が fu で「ち」が chi のヘボン式ローマ字の方が、それぞれ hu と ti になる「日本式」ローマ字よりも恰好いいような気がしたものだが、もう少し大人になって考えてみると、日本式の方がヘボン式よりもずっと論理的であるとい うことがわかった。(私の名前のイニシアルは日本式だとエッチエッチになるのに、ヘボン式だとエッチエフになるので、小学生の私はヘボン式の方が気に入りました。)
  ローマ字についてよくある誤解は、ヘボン式の方が何となく恰好よくみえるせいか、日本式よりも新しいのではないかと考える誤解である。実際には日本式はヘ ボン式の不合理を改めようとしたものだったのだが、既にヘボン式の方が広まっていたために日本式の方が用いられるようになることはなかった。文部省はもと もとこのふたつの方式をローマ字表記の方法として認めているが、外務省はパスポートのローマ字表記にヘボン式を用いている。
 ところでこれよく思 うんだけれども、たとえば「アリス」というような日本国籍の女の子がいる場合、外務省ではパスポートに Alice という名前の表記を認めるのだろうか。もし Arisu なんかにされたらかわいそうだよなあ。これだけ日本各地の役所がどんなことをしても絶対に読めない漢字の変な名前を認めているのだから、外務省がこの程度 のことを認めないことはありそうにないが。でも「大野」さんがパスポートに名前を Ohno と書いてもいいことになったのはつい数年前だったような気もするから、もしかしたら頑迷に変えていないのかな。
  今の日本人がヘボン式ローマ字と呼ぶものは本当はヘボンさんの使ったものではない。たとえばヘボンさんは「え」のことを ye と書いていたそうだ。だから日本の通貨単位は en じゃなくて yen なんですね。そして当時はあいうえおの発音があ、い、う、いぇ、うぉだったらしい。今でもこういった発音は九州の方に残っているそうですね。こう考えてみ ると、言語学者ではなくてお医者さんだったヘボンさんが、転写の方向は逆ですが、「聞こえる」派表記のさきがけだったということにもなります。日本人がこ のどちらかといえば非科学的なローマ字表記を好むことは、「聞こえる」音を重視したのはどちらが先かはわからないけれども、この転写の思想の共通性による ところが大きいでしょう。実際にこの Hepburn という名前のカタカナ表記に関しても、ヘボンは「聞こえる」派で、ヘップバーンは「見える」派です。
 ともかくヘボン式ローマ字にしても、日本式 ローマ字にしても、よく考えてみると日本語の表記にはまったく適さないということがわかってきます。特に太平洋戦争後に一時盛り上がりがみられたらしい日 本語のかな文字化運動、あるいはローマ字化運動において、細かくどのような議論がされたのかは、残念ながらよく知りませんが、革新的な表記方法を考えよう としたひとがいたという話は聞いたことがありません。実に不思議なのは、かな文字化運動の支持者は、やはり「聞こえる」現代仮名遣い風のものにしようとし たということなのです。どうして同音異義語を区別しやすい旧仮名でかな文字化しようとしなかったのでしょうか。日本語のローマ字化に関しても、語源を重視 した旧仮名からローマ字を考える、という議論はなされたのでしょうか。
 日本語をアルファベット化することの困難にはさまざまな要素があります。同音異義語の分別のむずかしさ、日本語における単語の概念の曖昧さ(どこにスペースを置くべきかわからない)、そして日本語の音節のもつ特殊な性格などがすぐに思いつきます。
  中途半端なローマ字教育のせいで、日本人はしばしば日本語の音節は「ん」と「っ」以外はほぼすべて「子音プラス母音」でできていると思っています。しかし 実際には母音は発音されないことが多く、音節は「拍」として理解されています。既にこの例はあげましたが、「きたない」という語を発音するとき、重要なの はここに四拍の単語があるということであり、「き」という音節の軟音化したK’の後にIという母音が存在するかしないかは問題になりません。さらに云えば、「ない」は Nの後に二重母音がつづいていると理解すべきではなく、はっきりと二拍の別のものとして理解しなければなりません。ローマ字表記に疑問を感じないばかり か、ローマ字から日本語を考えることは本末顚倒もはなはだしいことです。(額賀という政治家は助詞の「を」を wo と発音します。どうやら今やNHKのアナウンサーですらこういう発音をするひとがいるようです。もっとも私にはこれが本当にある種のローマ字表記の方法に 影響された無教養スノッブの日本語の発音なのか、それとも単に方言なのか、あるいは「あ、い、う、いぇ、うぉ」という発音の揺り戻しなのかどうかは断定で きません。いや、ロック歌手はもともと欧米にあこがれてやるものなのだから、こうやって歌ってもいいんですよ。)
 この日本語の発音の性格に無自 覚であるがために、日本人の発音する外国語は外国人からすると聞きづらいものになることがあります。たとえばフランス語で「大学」を意味する université という単語(カタカナで書くとだいたい「ユニヴェルシテ」というような感じ)がありますが、日本人には si の部分のIの母音が発音できない。「シ」あるいは「スィ」と発音しているつもりだが母音が出ていない。声帯を使わないで「スィ」と発音するのである。日本 人からすれば、拍を尊重しているのだから問題ないような気がしかねないのだが、このはっきりとそこに書かれている母音の存在を無視した発音はフランス人の 耳に非常に奇異に響くのである。--つづく--

P.S. わたしがここで「音節」と呼んでいるものは、現代の言語学の「音節」ではないので気をつけてください。他の記事でフランス語には現代の言語学上の音節とむかしながらの綴り上の「音節」があるということを書きましたが、ここで問題になっているのはどちらかといえば後者のものです。これはフランス語でも日本語でも既に否定されたものです。

P.S. 現在小学校で教えることになっているローマ字は日本式に変更を加えた訓令式ですが、これは現場では敬遠されているというのが現状のようです。

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2007年12月19日水曜日

カルラ・ブルーニと富士正晴(いや、別にふたりの間に関係はない)

 サルコジが離婚したとき、朝日新聞に「フランスでは前は政治家の私生活はタブーだった」と書いてあって、世の中にはいろいろなものの見方があ るものだなあと思ったことでした。タブーというより、フランス人はそんなものをばかばかしいと思っていただけじゃないのかな。それでもしばらく前からヴォ ワシとか日本にもあるようなスキャンダル系のくだらない雑誌が増えてきて、新しい読者層を開拓した、ということなのだと思う。朝日新聞は海外ニュース欄が むかしから好評であるが、フランスに関しては首を傾げることしきりである。日本人がミシュランガイドの日本料理屋に対する採点に首を傾げるのがばかばかし いように、日本の新聞のフランスに関する記事にフランスに十年もいたひとが首を傾げるのもやっぱりばかばかしいのかしら。
  今回サルコジがカルラ・ブルーニとのディズニーランドでのデートの写真を公開させたのは、先週リビアの独裁者カダフィ大佐がフランスを訪問して高まったサ ルコジに対する不満から目をそらすための計算ずくのものだという意見が、フランスではもっともらしく語られている。テレ朝の番組では、パリの街角でフラン ス人が街角の日本人と同じようにこの話についてコメントしているが、いやあ、何だか。「どうだっていいよ」と答えたひとの方が、こんな風にくだらない ニュースにうれしくコメントしたひとよりもずっと多かっただろうなあ。もっともこの前テレ朝では、「今のリビアは北朝鮮とはおおちがいのすばらしい国で、 テロ支援国家の指定が解除されるのは当然であった」なんて恐ろしい情報操作番組をやってましたが。
  カルラ・ブルーニの一枚目のCDは、なぜかフランスで発売日に「こんなものが出たのか」と思って買ったような気がするが、しばらくするととんでもなく話題 になって、フランスのレコード大賞までとってしまった。まあ、過大評価ですね。私は女優さんの歌は好きだからいいんだけど、シビル・シェパードの過大評価 のアルバムと同様、「感じがいいアルバム」以上のものではない。二枚目は理解不能だったし。(関連記事が数本おまけブログの方にあります。)

 私はお姉さんのヴァレリア・ブルーニ・テデスキの方 が(芸域が狭くてノイローゼ役しかできないとはいえ)好きだが、彼女の出ていた「私のことは忘れてください」(Oublie-moi)というノエミ・ル ヴォフスキー監督のものすごい映画は日本でやったのかしら。別に傑作とかいうものではないが、圧倒的に好きな映画である。十二、三年前のどんづまりのグラ ンジ感満載だ。私は嘘くさい「トレインスポッティング」じゃなく、「ネイキッド」かこれですね。もうちょい時間がくだると、ブノワ・デュモンの「29パー ムズ」というのもすごかった。自身も存在感のある女優として活躍するノエミ・ルヴォフスキーの新作はつい最近フランスで公開されたようだ。数少ないひいき の映画監督である。
 「私のことは忘れてください」では、ヴァレリア演じるところの身勝手に自分で苦しみ、その鬱憤を周囲にまきちらしている気の 狂った主人公が、カフェの汚いトイレの中でゆきずりの男とセックスして、出てきた直後に「ごめん」と相手に謝るが、男の方では何を謝っているのかまったく わからない、という場面があり、すごいなあと思ったのでした。と書くとぜんぜんすごくないけど。

 富士正晴のことは知らなかった。同人誌 「VIKING」の主宰として名前は知っていたが、本人は主宰と呼ばれることがいやだったようで。私が偏愛する戦後の作家、島尾敏雄、武田泰淳、梅崎春 生、深沢七郎と同世代だが、何か通じるものがあります。富士正晴は最初は野間宏と同人をはじめたらしいのだが、大岡正平と野間宏は戦後派を代表する作家だ けど何だかぴんとこない。「俘虜記」と「狭山裁判」は好き。
 富士正晴をはじめて読んだ感想は、これはすごい、というものではまったくなく、非常 に自分とそりが合う、ということだ。尾形亀之助と同じくらいそりが合う、といっても、何のことやらわからないひとがほとんどだろうが、何をいっているのか わかる一部のひとには非常によくわかるだろう。尾形亀之助も富士正晴も、徹底的に社会へのコミットを拒む世捨てびとのようなところがある。尾形亀之助は散文詩と呼ぶには中途半端な散文詩などを書いたひとだが、その中途半端にとどまってしまうとこ ろに非常に惹かれる。
 以前からの私の座右の銘は、中 桐雅夫のぼやき詩の中の一篇「やせた心」を結ぶ「戦いと飢えで死ぬ人間がいる間は、おれは絶対風雅の道はゆかぬ」というものだが、この詩の完成とはほど遠 いところにある中途半端の美というようなものにどうも足をとられてしまうのである。中桐雅夫からしてみれば、こんなぼやき詩をありがたがられてもいい迷惑 だろうが。
 好きな詩といえば、中野重治の「歌」も好きだが、それは堀辰雄が言った意味において好きなのである。プロレタリア文学者たることを選 んだ中野重治は「おまえは歌うな/おまえは赤ままの花やとんぼの羽根を歌うな」といい、ひよわなもの、うそうそとしたもの、ものうげなものをはじき去り、 「胸さきを突きあげてくるぎりぎりのところを歌え」という。堀辰雄は、これは「素朴な詩句」ながら「云いしれず複雑な感動をよび起こした」という。それは 中野重治が赤ままの花を歌い捨てたからではなく、それを歌い捨てようと決意しているところに、「そこにパラドクシカルな、悲痛な美しさを生じさせているの にちがいないのだった」からだ。もしここにこのクッションがなければ、中野重治のプロレタリア詩はきわめてつまらないものだっただろう。
 私は尾形亀之助、富士正晴らの世捨てびとと、中野重治、中桐雅夫らの社会派詩人の中間のどこかにいる気がする。
 最後に富士正晴の「わたしの戦後」から。

  「熱烈に何かの思想をとき、しかもその運動の先頭を派手な姿で走って行く人間を見るとき、どうもわたしは不信と疑惑の念を抱かずにはおれない。大東亜戦争 のはじまりのころから、戦中、戦後を通じて、そのような先頭人種の怪しさをつくづく感じさされたと思う。それは先頭人種であり、このごろ思いついた言葉だ が、強力なものへのベンチャラ(お世辞)人種であると思う。明治百年がやかましく云われだしてから、あらゆる新聞にこの先頭人種、ベンチャラ人種がうごめ きはじめて、どうも大東亜戦争のはじまりの頃のあたりにまで一めぐりしてきているようなキナ臭さを感じてならない。
 勇まし気な奴が最も女々しい奴であり、立派なことを喋りちらす奴が最も不立派な奴であることを一わたり知り得たことが敗戦後のありがたさであったかも知れない。」

 これがわたしの生まれた年、四十年前の文章である。まったく我々は何をやっているんだ。

P.S. 何だか来週ヴァレリア・ブルーニ・テデスキの新作映画が公開されるので、サルコジとカルラ・ブルーニの話はそれのプロモーションじゃないか、と いうことをテレラマのメールマガジンには書いてあったけど、カルラ・ブルーニが主演であるというわけでもないし、それはありそうにないなあ この映画にノエミ・ルヴォフスキーは出ているし、ノエミ・ルヴォフスキーの新作にもヴァレリア・ブルーに・テデスキは出ている。これはまあお約束ですね。

2007年12月16日日曜日

マルセル・デュシャン

 今朝NHKの「迷宮美術館」とかいう番組で、「型破りアート」という題名なので、きっとバンスキーの話でもするのだろうと思ったら、期待が外れてクリス トやデュシャンの話をしていた。別に自分で見たくて見ているのではないが、灯油も高いのでストーブのついている部屋にいるしかないから、家族の見るものを 見てしまう。
 デュシャンといえばいつまでも「泉」の話をしているのは、一般向けのテレビ番組でもあるし、別に問題ないのだが、それでもデュシャンというひとに関するいつまでも変わらない誤解について一言言っておきましょう。
  まずこの「泉」という題名についてであるが、男子用小便器に「泉」(la fontaine)と名前をつけた、というのはフランス語の文章にも必ずそう書いてあることだけれど、これを読んだときにフランス人がもつ感想は、小便器がこの単語で呼ばれることもあるのだから、「そのま んま」である。何も便器にきれいな名前をつけたわけではない。デュシャン自身のいったこと、すなわち「この芸術家はこの便器に『泉』という題名をつけ た」といったということは、この見方からすれば「すっとぼけたこと」であるといえなくもないが、それよりもむしろ単語の多義性を問題にしていたと考えた方 がいいだろう。何の意識もなくフランス人は便器のことをときに「泉」という単語で呼んでいた、ということをデュシャンはこうして改めて意識させたのである。(そのまんまとはいっても、自慰にふけるひとのことを「ひとりよがり」と呼ぶようなコミカルな効果はあるだろう。)
 デュ シャンはしばしばある意味で「不真面目」な人間として表象される。その芸術はわけがわからないといわれる。これが大きな誤解である。もちろん他愛ないこと ば遊びに興じたりした部分は否めない。しかし芸術家としてはきわめてまじめな人間であり、その芸術はむしろ断絶よりも継続において意味があったといえる。 もし革命(révolution)が「元に戻る」ことを意味するならば、確かに革命的な芸術家だった。
 19世紀までの西洋絵画のテーマは宗教や神話などの文学的 なものであった、とデュシャンはいいます。絵画はこういった「文学」に言及する、原義での「イラストレーション」、つまり目に見える説明のようなものとして機能してい た。しかしクールベ以来、西洋絵画は筆のタッチを重視するようになり、これらの文学的な言及を切り捨てて、絵が絵の面だけで成立するようになった。近代絵 画においては絵画を読み解く際に文学的教養が必要であったが、クールベ以後の現代絵画は絵の面を見るだけで絵を評価できるようになった。デュシャンはここ でクールベ以来の、絵が絵の面だけで成立している現代絵画を否定して、それ以前の近代絵画の文学的な伝統を取り戻そうとするのです。
 さて、なぜデュシャン はクールベ以後の現代絵画を否定しようと思ったのでしょうか。デュシャンはこのように考えます。動物はいつも同じことだけを繰り返して生きている。一方で 人間の特性は同じことを繰り返さないということである。クールベ以後の面を重視した絵画の中にとどまることは、人間性を放棄して動物性に堕することだ。そ してだからこそ、デュシャンにとって、芸術における文学性を取り戻すということは、クールベ以前の近代絵画にそのまま戻るということではありえない。
  ここからデュシャンはいわゆるレディメード論を展開していくのですが、私はここでこの立脚点を確認しておきたかったので、それにここから先は正直なところ よく覚えていないので、ここでやめておきます。ともかく、デュシャンは実に人間的で歴史的な観点からその芸術をつくりだしたのだということを忘れてはなり ません。
 デュシャンはフランスのノルマンディー出身ではあるが、ノルマンディーの友達に聞くと、地元では嫌われている人物だそうである。フロー ベールもかなり嫌われているらしい。地元では嫌われているひとが外で名をなすのである。「だれも自分の国では預言者になれない」ということわざがフランス にあります。しかしデュシャンがたとえアメリカで有名になったとしても、彼がフランスで生まれ育ったフランス人であるという事実は決して無視できることで はない。日本人はフランス絵画というとそれこそクールベ以後の絵のことを考える。それはまさしく鑑賞に宗教や神話などの教養を必要としない絵画だからであ る。しかし理由はそれだけではないだろう。
 今年の夏に南仏のモンペリエ市のファーブル美術館で印象主義展をやっていた。(今年の頭に改装されて 非常によくなりました。今ではフランス有数の美術館のひとつです。ご旅行の際はぜひとも立ち寄ってやってください。) 印象主義展とはいっても、テーマがユニークで、フランス印象主義の絵画を19世紀末当時たくさん買ってアメリカに紹介した画商のことを中心にした展覧会 だった。開国後の日本人が浮世絵などの貴重な美術品を二束三文で売ってしまったのと同様に、フランス人も当時は印象主義の価値がわからず簡単に手放してし まった。これがアメリカで好評を博し、あっという間にフランス芸術といえば印象主義であるということになってしまった。しかしこれは「本当に優れた絵画は アメリカ人ごときには売れぬ」という事実の裏側でもあった。
 他方で、印象主義の画家がかなりの量の浮世絵を目にしえたのは、日本人がその価値を理解していなかったからだというのは、歴史の偶然なのか。ベンヤミンの「複製時代の芸術」、それにつづくマルローの「想像の美術館」は、主に写真という新しい技術の進歩によってもたらされた芸術の世界の変身を問題にしたものだが、芸術作品のために「巡礼」する必要がなくなることは、むしろ19世紀帝国主義世界における消費の様式の変容によって準備されていたと考えることもできるだろう。おそらくこれが写真技術の進歩よりも本質的なものである。ベンヤミン、大満足で言及す。 ベンヤミンの名前を口にすると頭がよくなった気がするひとが日本にはよくいるそうです。
  さて、デュシャンはフランスで生まれ育った芸術家として、しっかり西洋芸術の本質を見きわめていた。現代芸術のブームには本質的には動かされない人間であ るからこそ、クールベ以後の面だけの絵画のある意味での浅薄さに気づいていたのである。日本人もアメリカ人と同様に、印象主義大好きで、それ以前の西洋芸術はよく知らないことが普通であ るから、デュシャンの主張を身をもって理解することはなかなか難しい。ある程度現代絵画以前の近代絵画を読み解くことを訓練してその態度を獲得した人間で なければ、そのデュシャン自らが文学的なものと呼ぶものを理解するのは困難なのではないだろうか。クールベ以後の絵画をまず優れた西洋絵画として頭に描くアメリカ人や日本人には、相変わらず「巡礼」を必要とするものの本当の価値が抜け落ちているから、基本的な西洋美術の教養を消化吸収することが難しい。デュシャンの芸術がむしろアメリカで何も理解しないス ノッブにありがたがられ、西洋人には嫌われたとしたら、それは歴史の皮肉であり、別にデュシャンの意図した皮肉ではないだろう。
 つけくわえてお きますが、デュシャンは大芸術家であって、アンディ・ウォーホルはあれはポスター描きなんで。雰囲気でごっちゃにしないようにね。みんながこれだけもては やすからには、ウォーホルの絵にはきっと深い意味があるのだろう、と思った批評家かジャーナリストかが、ウォーホルの作品を見ながら、「これにはどういう 意味があるのですか」と本人に聞いたら、無邪気にほほえんだウォーホルに「どうです、きれいでしょう」と答えられ、驚いてその顔をのぞきこんでも、まった く本気でそういっているようで、ますます驚いた、という話が残っているが、たぶん本当にそういうひとだったのだと思う。
 ルー・リードとジョン・ ケールのアンディ・ウォーホルに捧げられた実に感動的なアルバムの中に「働け!」という曲が入っているが、たぶんこの労働の倫理こそがウォーホルの本質 だったのだと思う。才能があるかどうかは別として、ともかく一所懸命働いてつくりだす、ということ。その点において、私はこの人物を好もしく思う。

P.S. よくフランスでBanskyと書いてあるからバンスキーかと思ったら、どうやらBanksyらしい。しかしかえってそれっぽいので直さないでおこう。

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2007年12月14日金曜日

日本語の音節の時間的等価性

 もう題名がものすごいの何の。
 でもいつものように下書きも何もなくぶっつけ本番で書いているので、お読みの方もそのつもりで読んでくださいね。それに、反応してくれてもいいんですよ。 こわくないから。
 だいたい今日この問題にたどりつけるかどうかはわかりません。NHKじゃないんだから、私がぶっつけ本番というときには、実はちゃんと台本ができていたりしていないの。
 「聞こえるカタカナ」を主張する人の何が許せないのか、を一応整理しておく。なぜ一応かといえば、思いついたたびにメモするとか全然していないから、きっと何か忘れると思うんですね。
  これが許せないのは、こういうひとたちが昔から蓄積されてきたカタカナ表記の智慧を自らの無知ゆえにゆるがせにしているからである。先人がなぜそのように カタカナで書いたかを考えて想像力を働かせることをせず、自然(じねん)にとどまることに開き直った状態で勝手にカタカナ表記を変えているからである。お そらく昔のひとにはその外国語を耳にする機会がなくて、学者が本だけで読んでつくったカタカナ表記だとかこのひとたちは勝手に考えているのだろうと私は推 測する。しかしこれはとんでもないまちがいである。戦前のひと、およびつい最近までの教育を受けた日本人は発音と表記の間にある本質的なずれの存在を理解 していたのであり、発音と表記のありうるはずもない一致をうたう戦後の日本人の現代仮名遣いノイローゼに悩まされていなかった。こういったひとたちが、長 い時間をかけて四苦八苦しながらカタカナ表記を考案した。それにこれは日本のカタカナにとって非常に幸運なことであった。なぜなら、たとえばブラジル語の カタカナ表記を今変えようとしているひとは、なぜかブラジル語の音節を閉じるLだけが日本語で「ウ」に聞こえると妙なことを思っているのかもしれないが、もしこ の聞こえるカタカナを英語にも採用すれば、「ピーポー」とか「リロー」(little)とかカタカナで書いて当然だということになっていたかもしれないか らである。もしかしたら「聞こえる」主義者はどういうわけかこれを意識からシャットアウトしてしまっているのかもしれないが、英語の音節を閉じる「暗いL」は「ウ」に 聞こえるがカタカナでそうは書かないし、そう書いたらおかしいということは昔から知られている。「ピープル」とか「リトル」というカタカナ表記は、「聞こ える」音よりも「見える」表記を重視するという、ことばの表記においてきわめて当然のことをしている。「ピーポー」や「アンビリーバボー」のレベルで名前 を書かれている「ロナウド」とかその事実を知ったら、どう思うのか、って別に日本語の表記の事情がわからなかったら何とも思わないだろうけど。
 そ もそも日本人の耳に「聞こえる」ようにしていたら、英語のアルファベットはどうなっていたことだろうか。LMNが「エウ、エン、エン」だぞ。Rは「アー」 か。日本人は「エウ」と「アー」を混同するなんて、スカーレット・ジョハンソンにももう何がなにやらわからないぞ。BとVは両方「ビー」か。Vは日本人の 耳に「ヴィー」に聞こえるなんて湯木さんもびっくりの嘘をつくのはやめましょうね。これを「ブイ」と書いたひと、およびこれを「ウ」に濁点で転写しえたひ とは、西洋語の生理において、この文字がWと通じることを知っていた。「私の日本人の耳にはカタカナでこう聞こえる」なんていっているひととはえらいちが いである。
 英語の sing という単語も「聞こえる」主義者には「シン」だろうが、こんな風にして thin とか sin とか既に同じように書かれているカタカナのリストを長くする必要はまったくないのである。昔のひとがいかに効率的にカタカナ表記の仕方を考えたかをちゃん と吟味した上で、それからもし必要があるなら表記を改めるようにするのが当たり前でしょうが。
 ところで、日本語はイングリッド・バーグマンとイングマール・ベルイ マンの苗字の見た目がちがう言語である。これがちがうのがいいことなのか、悪いことなのかは、結局のところよくわからない。うがった見方をするならば、男根中心主義の日本人は、たかが女優はハリウッドに売り、偉い男の映画監督は生まれた国に帰属するものにしたいというような発想がここには見られるといえるのかもしれないが、それは定かではない。ただひとついえることは、一度 定着するとなかなか変わらないということである。それでもこれをあえて変えようとするひとの隙間自己主張が思慮の浅いものである場合、これは困ったことに なる。私は行っていないが、フェルメール「牛乳を注ぐ女」展の目録を見たら、ガブリエル・メツという名前だと私が思っていた画家の下の名前というかファー ストネームがハブリエルと書いてある。この分なら将来的には「ホッホ展」なんてやったりして、そのうち「ゴッホとは俺のことかとホッホいい」とかいう川柳 が新聞に載っちゃうような時代になるのかな。棟方志功も「わだばホッホになる」といったことにされちゃうかな。 そもそもオランダの画家がオランダ出身だからといって、その名前をオランダ語風に読むことに正当性があるといいうるのだろうか。そこまで人間の民族に対する帰属 性が強いものだと想定することを自明のものだとすることに正当な根拠はあるのだろうか。世界中で「オランダ語では発音がこうだ」という豆知識が表記に関して必要だとい うことにされてしまう国もそれほど多くないだろうが、こういうの、本当に意味があるのかな? でも今の日本ってどうしようもないくらいに豆知識至上主義の国だからな。現代仮名遣いノイローゼを治療して、正しいカタカナ表記などありうるはずもないこ とを理解し、これ以上意味もなく「日本語」をいじらないようにお願いしたいものです。繰り返しますが、カタカナで書かれたことばは日本語なのです。外国語 じゃないんです。日本語ではこうだ、ということと外国語の発音には何の縁もないんです。日本語でガブリエルと書いてあるものを、オランダ語を勉強するひと がオランダ語で話すとき、「ハブリエル」と日本人には聞こえるのかもしれないオランダ語風のしかたで発音すればいいというだけの話なのだ。
 さて、本題に入りましょう。
  前回お話した「国際音声記号」なるものは、現在西欧語を勉強するアジア人に珍重されているようである。しかしこれはどこから生まれたものなのだろうか。実はこ れは悪名高き「比較言語学」の落とし子なのである。この学問は偉そうな名前をしているが、錬金術や占星術と似たような死んだ科学のひとつである。占星術は生き ているよ、とお考えのひともいらっしゃるかもしれないが、実際には占星術という科学が大学で研究されるということはありえない。社会学や歴史の研究の題材 にはなりうるだろうが、自然科学の一分野としてはとうの昔に死んでいる。比較言語学が死んだのはわりと最近のことだが、それでも死んだことには変わりな い。なぜこの死んだ科学の悪名が高いのかといえば、西欧語が世界でいちばん進んでいて、中国語は世界一原始的な言語だ、というような不健全なイデオロギーに 毒されていたからである。(ここで変な差別的なこと考えるの禁止ですからね。おわかりとは思いますが、一応言っておきます。) とはいっても、錬金術がなければ今の化学はなかっただろうし、占星術がなければ今の天文学はなかっただろう。それと同様に、比較言語学がなければ今の言語学はなかったのだが、それでもこのイデオロギーの残滓は今すぐ消し去るべきである。
 かようなイデオロ ギーから生まれた「国際音声記号」は、当然のことながら西欧中心主義を刻印されている。それはラテン文字のアルファベットとギリシア文字を中心に用いた表記方法からも明らかである。だからこ そ、この音声記号によってあらゆる言語の発音を効果的に表記することができると思ってはならない。印欧語は子音と母音の交替をこととし、音節という概念も それによって規定されている。しかし日本語においては、音節は必ずしも開音節、閉音節には有効なしかたで分類されず、母音、子音の在不在にかかわらず、時間的に等価である 音声単位が音節であるとみなさなければならない。そもそも既に言ったように、西欧語ですらこの音声記号によっては本当は合理的に転写しえないのである。--つづ く--

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2007年12月10日月曜日

国際音声記号の罠

 ファイアーフォックスの拡張機能でバックワードという英語の辞書機能があって、これで単語の国際音声記号(IPA)による表記を表示することができる。 でもこれは中国人が開発したアドオンだ。どうやらアジア人はこれが好きなようですね。日本で出版されている外国語の辞書には、とりあえずまじめそうな顔を したものにはみんな国際音声記号が載っている。まったくそんなものは気にしたことがなかった、というひとも中にはいるでしょうから説明しておきますと、 this という見出しの隣で大カッコに入っている [ðis] みたいのがそれです。
  でもこれは欧米の辞書には結構載っていない場合が多い。だいたいみんな読めないと思う。おそらく国の差はあるでしょうけど、フランスでは言語学をやるひと 以外ほとんど知らないんじゃないでしょうか。そんな気がします。日本人とか中国人とかが、もとがラテン文字を使う言語で読み書きをしていないので、外国語 を勉強するときにこういった人工的な記号を使うことに有益性を見出すのでしょう。
 今考えてみると、私は中高生のときに学校でも模試のたぐいでも英語で90点以下はとったことがないと思うのですが(自慢、自慢)、そういうひとにとっては、点数を稼ぐために国際音声記号を勉強することが必要だったのではないかと思います。学校ではよく教えてくれないこれを勉強することで、模試でも100点に近い点数をとることが可能だったのです。
 だからきっと国際音声記号に慣れ親しんでいる日本人は結構語学に自信のあるひとが多いのではないかと思います。中学高校時代、英語の勉強はまったくそんなものにまで手が回らなかった、というひとの方がきっと多数派でしょう。
  国際音声記号においては、長母音はコロンのようなもので示されます。英語では、[i]は短いイで、[i:]は長いイだと言われます。厳密にはこれも俗説 で、実際には「長いイ」と呼ばれるものが「短いイ」よりも口の開き方が狭い、という音価のちがいなのですが、まあこれはいいとしましょう。こういうものに 慣れ親しんだ語学の優等生が大学に入って仏和辞典を買うと、国際音声記号の欄のなかに長音を示すおなじみの二重の点がまったくない。ということであっとい う間にフランス語には長母音がない、という結論にこのひとたちは達してしまったのではないか、と私は推測するのですが。
 でもね、そこからこういう俗説を喧伝するにいたるのはあまりにも恥知らずではないだろうか。中途半端に成績がいいひとはこうなっちゃうのかな。中高で英語ができたくらいで声高に自説が主張できるなんて普通思い込まないよなあ。 長音記号がないことで疑問をもつのはいいよ。ならばまず言語学あるいは音声学というものに興味をもってもっと知識を深めればいいではないか。果たしてこの 国際音声記号というものはどのようなものなのか、フランス語でこの書記法をどのように使用するのか、そういったことを立ち止まって考えるべきなのだ。
 実際には、フランス語の単語を国際音声記号で表記する際に、昔はちゃんとコロンのような長音記号を使用していたのである。古本屋に行って昔の仏和辞典を買うと、ちゃんと長母音がありますよ。 ただフランス語には母音の長さによる意味の分別機能がないから、言語学者の率先によって、1960年代ごろから徐々にこれを利用しなくなったのだ。そのこ ろまでフランス人が長めに発音していた母音が、そういった辞書が発売されたとたんにフランス国中で短くなったなんて誰も思わないでしょ。
 国際音 声記号なるものはせいぜい120年ばかり前に生まれたものだ。たとえば英語において、TやLに少なくとも二種類の発音があるのは知られている。たとえば little という単語の最初のLは「明るいL」で、最後のLは「暗いL」だ。それでも国際音声記号では、音声学的にはちがうこれらの音を、意味の分別機能がないとい う理由で、ひとつの音素とみなし、同じ仕方で表記する。フランス語の母音に関してもこれは同じことである。長くても短くても意味にかかわらないのであれ ば、そのちがいを無視して表記することに決めた、ということである。音素としては長母音も短母音も同じ価値をもつが、実際にはフランス人の発音において、 長めに発音される母音も短めに発音される母音も、どこで長くなるか短くなるかは一般化できないとしても、ちゃんと存在しているのである。そもそも日本語で 「おばさん」と「おばあさん」の意味がちがうからといって、母音の長短が意味を区別しないフランス語には長い母音が存在しないと結論するのはひどい暴論だ ろう。フランス語の話をするなら、日本語からはじめて発想するべきではない。昔うちの兄貴がフォーションのお店に行ってフォーションと発音したら、 「フォーションじゃなくてフォションです」と店員さんに直されたなんてことを言っていたのだが、それは「おばさん」と「おばあさん」がちがう意味になる言 語を自分の第一言語としているひとの論理であり、その論理をその差異が存在しない言語のフランス語に適用されても困るんだな。くだらない自己主張撲滅運動 に参加したい方、結集しましょう。どっちでもいいことはどっちでもいいと言える正常な感性をとりもどせ!
 ところで、英語のLに関しては、上記のように少なくとも二種類の発音が存在するといえるのだが、本当のことをいえば、一億人のひとが little と発音したら、Lの音も最初と最後の子音それぞれに関して一億通りの発音があるといわなければならないのである。
  前に一言言及したエドワード・サピアは、ほぼ100年前の言語学者だが、彼の書いた本は今読んでも面白い。いかに国際音声記号なるものが子音の差異や母音 の長さのちがいを無視したものであるか、これを読むとよくわかります。サピアが「心理的なもの」と呼んだものの一部が整理されて、言語学における音素のも つ意味の分別機能にまで進歩したとも考えられるのだが、その過程で切り捨てられたものもずいぶん多かったような気もしますね。
 であるからして、 フランス語には長母音がない、というのは嘘である。フランス語には短母音と長母音のちがいに意味を分別する機能がない、といわなければならない。しかしこ れもフランス人がほとんど誰も知らない国際音声記号からはじめた議論でしかない。実際にはフランス人は「フランス語には長い母音がない」という説をまった く理解しない。前に言ったように、耳に「聞こえる」外国語から離れようとしないのはただ単に現代の日本人の戦後の傷を背負った精神性で、普通のフランス人 はふだんフランス語を目で見ているからである。たとえば詩人のボードレール、Baudelaire という名前を見たとき、日本語で長音符号を使っているところで、フランス人はそれぞれふたつ母音を見ている。だから普通のフランス人にこの母音が短いとい う意識はない。だってそこにふたつ母音が仲良く並んで書いてあるんだもの。言語学的にはこれは短母音である!なんて東洋人に主張されても、普通のフランス 人に対してはあまり説得力がないだろうな。 これらのふたつの母音で書かれた母音が短母音であるということ自体にはまちがいがない。しかしそれは長母音に対立して意味の分別機能をもつ短母音ではな い。こういうくだらない生半可なことを主張するひとは、それを自分よりもフランス語を知らない日本人相手におしつけるのではなく、まず言語学の専攻ではな い普通のフランス人の友達に聞いて確認をとるべきなのである。だって言語学が専門だったら、これは短母音だといったらそのとおりだ、と答えるだろうから ね。しかしこういうことを聞くあなたの心のなかに「フランス語には長母音がない」という俗説を広めようとする悪巧みをこの言語学の学生が読みとるかどうか はわからない。
  だいたい普通のフランス人は、「日本語には五つしか母音がないけど、フランス語にはたくさん母音がある」というと、「そうかな、AEIOUとY、そうか、 フランス語には六つ母音があるんだ」なんて答えますから。日本人が「いかに聞こえるか」、と考えて苦慮しているフランス語が、フランス人にとっては目に見えるも のでしかないことが、これでもわかりますね。--つづく--

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2007年12月8日土曜日

フランス語には長母音がないという俗説

 今までに何度か日本人の口から聞いたフランス語に関する俗説として、「フランス語には長母音がない」というものがあります。だからフランスではラップが 流行るのか、なんて納得しているひともなかにはいるかもしれないけど、この俗説はあまり真剣なものではないので、だまされないでくださいね。もしそう信じ ているひとがいるとしたら、私の書いていることを読んで考えを改めてください。フランス語の歌を聴いて、「ここでエーーーって伸びてるけど」と考えつつ、この奇妙な俗説主張に歯向かえなかったあなた、まちがっていたのはあなたではありません。 安心してください。
  それでもまず順序として「フランス語には長音がないからカタカナ表記の際に長音符号を用いない」という意見について反駁しておきたいと思います。たとえも し本当にフランス語に長音がなかったとしても、いくらでもカタカナで書くときに長音符号は用いることができるのです。そもそもフランス語にないものを使っ てはならない、というならば、カタカナを使ってはならないことになるでしょう。ご存知ないかもしれないけれど、フランス語にはカタカナがありませんから ね。 フランス語には長音がないとしても、カタカナには長音符号があるので使ってもいいのです。ないものは使わない、と考えるよりもあるものを活用するほうが賢 い考え方です。そもそも、フランス語に長音がないからカタカナで長音符号を用いない、とする考えには、日本語ではカタカナが外国語の転写に用いられるもの だから、外国語とカタカナを混同してしまうという幼児的で分裂症的な発想が見られます。外国語とカタカナには何の縁もないのに、共通する特性をもっている と想定するからこそ、こういうそもそも無理な屁理屈が生まれるのです。
 だいたいフランス語をカタカナで転写することには非常に無理があるので す。無理があるところでどうしてさらに記号の使用まで制限しなければならないのですか。フランス語をカタカナに移し変えるのが難しいからこそ、日本語の仮 名遣いで使えるものは、常識の範囲内で総動員するべきなのです。フランス語にはつまる音の促音もないからカタカナ表記にも小さいツを使わないなんていって 意味もなく可能性を狭めるよりは、あるものは全部活用しましょうよ。
 たとえば今年の春のフランスの大統領選にフランソワ・バイルーというひとが 立候補していました。朝日新聞のフランス担当のひとはこのどこかで聞いた俗説を素直に信じているか、あるいは長音符号一文字によっても印刷の経費削減をす るほど徹底しているのかどうかはわかりませんが、バイルと書いていました。これはおかしいんですね。まずバイルと書いたカタカナを見ると、まず普通日本人 はバを高くはじめてルの母音は弱く発音する。だからこの場合原語の「ル」にあたる音の母音は不在のものと推定される。たとえば英語風にすると bile というようなつづりが想像される。しかし実際にはこのひとの苗字は Bayrou だ。Rの後ろにちゃんと「ウ」という母音がついているのである。この場合はちゃんと母音を伸ばしてやった方がいい。こうやってバイルーと四文字のカタカナ にしてやると、頭が高い音ではじまらずに、平らな発音になるのである。しかもこの「ウ」 ou の音は前回言ったように日本人にとって特に注意を要する母音なので、配慮あるカタカナ表記をしようとするのなら、省略することは本当なら許されないのだ。
 この「カタカナ隙間利用自己主張主義者」に共通する特徴は、おおよそカタ カナとして不自然な表記を用いたがるということだ。「何々語では本当は」という、大方の場合は俗説であるどこかで聞きかじったものを、思いついたところで カタカナ表記に理論的に適用してみているだけで、実際にそのカタカナが口に出すとどう読まれるのかについてはまったく何も考えない。なぜかは知らないけ ど、日本語の発音は知り尽くしているからわざわざ反省して考える必要はないとでも思い込んでいるのかしら。たとえば彼らは非常に素朴に日本語の文節はすべて音声 学的に開音節であると信じる。開音節というのは母音で終わる音節ということである。その反対の閉音節は子音で終わる音節です。これは英語にはたくさんあり ます。たとえば it はTで終わっているから閉音節ですね。これは日本語にはほとんどないと信じられていて、フランス語にもあまり数は多くありません。
  しかし日本語の文節はほぼすべて開音節であるというのは、それがもし事実であるとすれば、何らかの言語学的な事実であるかもしれないけれども、ともかく まったく音声学的な事実ではありません。二、三箇月前ドイツだかどこだかで何かの日本の漫画を真似た殺人事件が起きたときに、「WATASHI WA KIRA DESS」とかいうような置き書きがしてあったということの記事で、朝日新聞では「DESSはDESUの間違いだろう」といかにも朝日な愚かなことを書い ていた。ヘボン式と呼ばれるローマ字が広まってしまった後で日本式ローマ字を定着させようとしたものの追いつかず、その後野放しにしているローマ字に正し い表記などあるものか。こういう朝日の記者さんは17世紀初頭に出た「日葡辞書」の当時のポルトガル人のローマ字表記を見たら、ポルトガル人はまちがって いた、なんてばかなことを考えるんですかね。教養がないだけだよな。だいたいこういうひとはヘボン式と呼ばれるローマ字はそのヘボンさん当人が使っていた ローマ字ではないということも知らないんだろうな。
 ともかく「です」を「DESS」と書くことはヨーロッパの日本語教科書ではときに行われてい る。わざわざヨーロッパ人に教えていただかなくとも、日本語の母音のなかで特にイとウは弱くてしばしば無音化することは日本人には簡単に理解しうることで ある。地方差はかなり大きいけれども、たとえば「きたない」ということばを発音するとき、しばしば日本人は「き」のイの母音を発音しない。ここで聞こえる のはKの子音が口蓋化(軟音化)したものである。こういった口蓋化子音はたとえばロシア語にあります。
 だから、カタカナにしてみるとイ段とウ段 のカタカナになるものに関しては、長音符号をつけてあげた方が表記として親切になる場合がよくある。ばんばん長音符号を省略する印刷費削減の鬼のカタカナ テロリストは、これからは本当にイとウの母音が発音されているかどうかを考えて、もうちょっと自重するように。
 そもそも長音符号というのは、つけてあげると「遠くからきたな」 という気がするのです。たとえばこれも朝日だが、もともとカタカナでギーと書いていたフランスの男性の名前を「ギ」と書くんだよ。こういった、もう、日本 語を読むときのリズム感とか生理をまったく無視した青臭い主張カタカナ表記には虫唾が走るよ。何だよ、たった一文字削って経費削減か?とうんざりしてしまうわけだが、こういうのを見ると「ギなんて魏志倭人伝じゃないんだし」と愚痴もこぼれるわけだ。何となく欧米の名前から長音符号を削るとご近所第三世界の空気になるよ。「よく来たねえ」という感じがしなくなるんです。
 たとえば「アメリー・プーラン」という映画に主演した女優も、オードレー・トトゥーと書けば普通に読めるのに、オドレイ・トトゥなんて何だか突っかかってるよう な名前にされてしまった。これも日本語のリズム感と生理を無視した好例である。 だいたい Audrey という名前の最後のYはフランスでは発音しないのに、どうして「イ」って書いてあるのかな。 こんなの知らなかったらだれかに聞けばいいだけの話のような気がするんだけど、まあ正しいカタカ ナというよりは、まず担当者のつまらない自己主張が大切なんだからな。でもまあ、この映画は最近のフランス映画にしては世界的にヒットしたけど、あまり面白くなかったね。
  しかし長音符号を削って印刷費を浮かす朝日の記者が、前のフランスのヴィルパン首相のことを、ドなんてつけなくっていいのに「ドビルパン」って書いてまし たから。ひょっとしたら英米の新聞がそう書いていたのかもしれないけど、ドゴールというひとがいたからってドをつければいいってもんじゃないの。それとも これからはドバルザックとかドモーパッサンとか呼ぶことにするか? 源頼朝の苗字が「みなもとの」だとか小野小町の苗字が「おのの」だとか主張するようなもんだな。これも無教養のしるしです。
 じゃ、まあ次回はフランス語には長母音がないというのは俗説だ、という話をしましょう。もし大学でフランス語を教える先生でもこんなことを主張しているひとがいたら、それはまちがいだよ、とやさしく教えてあげてくださいね。では次回をお楽しみに。

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2007年12月7日金曜日

フランス語では本当はこうです

 フランス語では本当はこうです、といってカタカナの話をする、というのは私にはどうも解せないことだ。カタカナはカタカナでフランス語じゃないじゃない、と私は思うのだが。
  まずこの前マヌ・チャオという名前をブログのなかで記したので、この名前について考えてみよう。ミュージック・マガジンを見ていたら、だれかが「前はマ ヌー・チャオと書いていたが、フランス語ではマニュ・チャオなのでこれからはこう書く」というようなことを書いていた。別にいいんですけどね。まちがった ことを云っているわけじゃないし。でも私なんかは、前は日本にマモル・マヌーというひともいたらしいし、別にマヌーでいいんじゃないの、と思うんだ。とり あえず私は長音記号をつけないけど、それは特につける理由がないから。それに目で見たら Manu だし、フランス人だけど何だかスペイン人ぽいし、別にマヌでいいんじゃないかな。
 こう書くと実にいい加減なことを云っているようなので、もう ちょっとまじめなことを書いてみましょうかね。まず日本人は訓練をしないかぎりフランス語の「ウ」(ou)を発音できない。フランス語を勉強する初心者は のどちんこで出すRの発音とか、ここでマニュの「ニュ」の音のなかにあるイとウの間のU「ユ」の発音を勉強するのに苦労するものだが、実際にはこれらの音 はかなり簡単にマスターできる。実際にフランス語の発音で日本人にとって難しいのは、たとえば「ウ」(ou)であり、Jの音であり、オの鼻母音であり、濁 音一般である。だから携帯電話だか何だかの宣伝で「ボンジュー」 とか言ってるのを聞くと、非常に私には聞きづらいんですが。Bonjour のなかには最後のRはまあいいとしても、濁音、オの鼻母音、Jの音、「ウ」の音と難しい音が全部入ってる。特に日本人が「ジュ」ってカタカナで書いてある から「ジュ」と発音する音って、私には耐えがたいものがあるんですが。 これをどうやって発音すればいいかといえば、日本人はこの音を発音するときに、何も意識しないでJの前にDをつけて発音してしまうので、これを避けるべき なのです。舌先が口蓋につかないように注意して「シュ」の有声音の「ジュ」を発音してください。英語だとたとえば pleasure という単語のなかにこの子音があります。「ヂュ」と発音しないことが大切なのです。まあ、フランス人なんてどうせ東洋人がフランス語を話せるとは思ってな いから、おまえのJの音が耐えがたい、なんて言われることはまず実際にはないでしょうが。
 一方フランス語の「ウ」(ou)の音というのは非常に 難しい。Jの音とちがって意味の分別にかかわるので、これは特に気をつけて身につけなければなりませんよ。これを習得するためには、「オー」といいながら 喉の奥の方を動かさないように注意しながら、徐々に口を閉じてゆくのです。だから日本人の耳には「ウ」よりもむしろ「オ」に聞こえることがある。英語で いったら for us にあたるフランス語の pour nous 「私たちにとっては」ということばが「ポルノ」に聞こえて困るという経験はフランス語を勉強した人間ならだれもが経験したことである。 こんなことを書くと、ならばこれからはフランス語のウ段の音はオ段のカタカナで書こうなんて白痴じみたことを考えちゃうひとが出てくるかもしれないけど、それはまったく私のメッセージじゃないからね。フランス語にウ段の音なんてあるはずがないんだから。
  だから、日本人が普通に「ヌ」を発音したら、フランス人の耳には「ニュ」に聞こえるんです。だから「マヌ」と書いてあるカタカナで十分にフランス人の耳に は「マニュ」なんですね。カタカナというのはその外国語をマスターしていないひとのための指標なのだから、この場合わざわざ表記を変える必要はないというわ け。「マヌー」と音を伸ばしたらまた別の話かもしれないけど。それじゃ今度はこの長音記号について考えてみましょうかね。

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2007年12月5日水曜日

今夜も風呂場から足音がひたひたと

 ブラジルの歌手にリタ・リーというひとがいる。ブラジルロックを代表するグループ、オス・ムタンテスに在籍したひとだ。なんて書き方をすると私のことを 無知と鼻でせせら笑うひともいたりするかもしれない。ヒタ・リーだろ、オス・ムタンチスだろ、なんてことをこんなことをいうひとは得意気にいうのでござい ましょう。でもどうなんだろうね。ブラジルではRの音が語頭などでは日本語でハ行に聞こえる音になることがあるとか、語尾のEは「イ」のような音になった りするとか、Lは「ウ」に聞こえるとか。そんなの実際にはたいして役に立たない豆知識なんじゃないのか。ポルトガル語をブラジル風発音で発音しなかったら ブラジル人とのコミュニケーションに大いに困るというわけでもあるまいし。(ポルトガル語とブラジル語でちがうのは発音だけでなく、文法的にも少しちがい があるそうです。たとえばブラジル語は英語のように、二人称では近称が消失して、遠称に統一されているそうです。ちなみに英語では二人称の近称は thou、遠称は you です。) ケベック人のフランス語を聞くと、フランス人は「変なの」と思うが、問題なくコミュニケーションはできる。細かいことをいったらいろんなちがいはあるが、 それは上級者向けの話。「カタカナ表記」なんて外国語を普通に話せない日本人を相手にしたところにこんな発音上の細かい知識をもちこまなくてもいいんじゃ ないかしらん。
  確かにブラジル語が話せるひとがこういう発音あるいはカタカナ表記に関することを云うことには本来であれば意味があるのかもしれない。でもあんまり日本語 の文章を読んでいるひとで、ブラジル語で会話するひとの比率は高くないだろう。想像してみるに、日本人がたとえばブラジル音楽を好きな外国人と、英語、フ ランス語、ドイツ語、あるいはその他の外国語などで会話するときに、いきなり「ヒタ・リー」と発音したら、かなり奇矯な印象を与えないだろうか。普通は相 手に Rita と聞こえる音で発音するべきだろう。十中八九これは一般的な日本人にだいたい「リタ」と聞こえるような発音でしょう。本人だって「リタ」と呼ばれたときに 自分が呼ばれたとわかるし、もし「ヒタ」と呼ばれたら、何か「へえ」と感心するかもしれないが、それだけのことでしょ。特に「ヒタ」なんて風呂場を歩いて るような音の変な名前よりも「リタ」の方がよっぽど普通の女性の名前に感じられる。実際「リタ」という名前なんだから、それをあえて変なカタカナにするこ との意味を感じない。それにこれを「ヒタ」と書くことに意味があるのは、ブラジル語を話せて日本語が読める人間がブラジル語を話すひとと話すときだけの話 で、これは恐ろしく狭い世界だと思う。それにこういうひとたちがこれを徹底してヒオ・ジ・ジャネイロとかブラジウと書くかといえば、そうではない。一度主 張しはじめたなら最後まで行けばいいものを、第二歩すら踏み出さない。最近の著名人の名前で終わり。だらしない、情けない。「おおい、ここだよおっ!」っ て云ってんだな。カタカナなんていかにもつまらないものだが、それでも自分の業績を見てほしいという。ほらほら、これ、俺が言ったんだよ、てこと。科学的 に云って正しい表記というよりは、老後にはいい思い出になる青年の主張だ。だいたいこういう「聞こえるカタカナ」主義者はそのようにカタカナを日本人が読 んだときに、当のその外国語を話すひとに自分がそう望んでいるように本当に聞こえるのか、そして相手にきちんと理解できるように聞こえるのか、ということ にはほとんど想像力を働かせないようだ。常識的に考えて、LがあるところではLの音を発音しておいた方が相手には伝わるだろう。ブラジル語のLの日本人の 耳に「ウ」と聞こえる音は、日本人が「ウ」と発音するときにブラジル人の耳にLと聞こえるのかもしれないし聞こえないのかもしれない音と同じものではない だろうから。ところで、Lがふたつあったら、Lの音を発音すべきだというのは西欧語について一般的に言えることではないだろうが、ふたつとひとつでは別物 です。普通のひとはことばを耳に聞こえるようにではなくて目に見えるように発音し、そしてそれを目に見えるように理解するのである。日本人が「肯定」、 「皇帝」、「校庭」を別々に理解するのは、聞こえるように理解するのではなくて、目に見えるように理解するからである。それは26文字のアルファベットと 句読点とスペースなどなどで書かれた言語でも同じことである。
 こういう変なことをはじめるひとがすることって、前回に言ったように「隙間を利用 したつまらない自己主張」でしかないので、既に隙間をくまなく探索されているかのような英語のカタカナ表記にはなかなか変なものは出てきにくい。出てきて も淘汰されることが多い。淘汰されなくても、こっちが正しい、とか無益なことを青筋を立てて主張せずに、複数の方式が並立する余裕が既に確立されている。 「ジス」と「ディス」とか。フランス語とかポルトガル語とかのカタカナ表記がつまらない自己主張ぶっつけの対象になりやすい。しかもその愚かな自己主張 に、「どっちでもいいよ」という、あるべき余裕がない。どういうわけだか「私が正しい!」と声を荒げてしまう。スペイン語とかイタリア語は日本語と案外発 音体系が似ているので、やはり比較的に隙間がない。「マドリッ」とかびっくりしちゃうものはたまにあるけど。
 こういう新しいカタカナ表記を特徴 づけるものは、どちらかといえば、外国語を学ぶひとの役に立つように新しい表記を考えるというよりは、むしろ外国語を知っている自分に酔っている、といっ たような感じなのである。あまりその外国語を話すひとを相手にした有機的なコミュニケーションに役立つようなことをしていない。どうもこの手の日本人の外 国人に対する夢のような(反?)コミュニケーション志向というのは、ばか右翼の天皇に対する思いみたいなもので、いっそ通じてもらったら困る、コミュニ ケーションできないからこそ潔い、みたいな片思いなんだな、なんて思う。
 通じたら、かえって困る片思い。
 それにしてもブラジウだとロックじゃなくてホックだったりするのか。それで五七五? それとも本当はホッキなんですかね。 いやあ、わけがわかりません。

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2007年12月2日日曜日

聞こえるカタカナ、本当はカタカナ

 日本人の美徳は先人の業績を尊重することであるなんてことを言われますが、私も基本的には先人の業績を尊重することに賛成でございます。前にも言ったこ とがありますが、私は人間が日々進歩だけをしてきたとは思わず、前進したり後退したりを繰り返してきたと思うのです。たとえば太平洋戦争あるいはそれにつ づく時期に教育を受けた人間が外国語が不得手だからといって、それはその前の世代がさらに不得手だったことをまったく意味しない。おそらく開国後から 1930年代あたりまでの日本人は今の日本人よりもよほど外国語がよくできていたのではないかと思います。西脇順三郎、日夏耿之介、中原中也などは外国語 で詩を書いて本国で出版したりしました。今の日本生まれの日本人でそれができるひとはなかなかいないでしょう。当時だってたくさんいたわけではないだろう けどね。
  さて、こういったことを考えるのは、たとえば突然たいした根拠もなくカタカナ表記の仕方を変えたがるひとが世のなかに散見されるからなのです。先人がまち がっていたのならそれはまちがいを改めるのがよかろう。しかしそういうわけでもないのに、つまらない自己主張のためにこういうものを利用しないでほしいの である。「こういうもの」というのは日本人が自国語を尊重しないがゆえの隙間、である。隙間を利用すれば自己主張が簡単なのはわかるが、もうちょっと志を 高くもてよ。そもそもかようなひとたちはなぜかカタカナが日本語の問題であるということがよくわかっていない。カタカナの話をすることが外国語の話をする ことだとなぜか思い込んでいるのである。
 こういったひとたちはだいたい二パターンに分類される。「日本人の耳にはこう聞こえる」といってカタカ ナ表記を変えたがるひと、「何々語では本当はこうです」と主張するひとである。私は「変えてはならない」とはいかなる意味でも主張しない。しかし「どうせ やるなら徹底しろ」と主張したいのである。
 まず「聞こえるカタカナ」について考えてみましょう。そもそもどうして外国語をカタカナに移し変える ときに「どう聞こえるか」を重視するのでしょうか。これを自明の理と考えているひとにはなかなか気づくことができないのですが、ことばとは聞こえるものだ けではない。ことばとは聞こえもすれば、見えもし、話せもすれば、読めもするし、書けもするものである。だったらどうして外国語の「聞こえる」側面にだけ 注目するのか。
 たとえばフランス人には日本語の「はい」という返事が「ほい」に聞こえる。だからといって、hoi とローマ字にしていいということになるだろうか。「ごめんね」は「こめね」、「こんにちは」は「こにしわ」だ。「そうは聞こえないだろう」、と日本人が 思ってもせんないことである。こう聞こえるフランス人が確かにいるんだから。私も十年もフランスにいて日本語を聞く機会があまりなかったので、ハ行の音が 聞きとりにくくなった。「日本人の耳にはこう聞こえる」といってカタカナ表記を変えようと主張するひとには私は「おまえは耳が日本人ではない。国籍剥 奪!」なんていわれちゃうのかな。そんな「聞こえる」なんてあいまいな感覚をことばの表記に応用するのはいいことなんだろうか。
 日本語ではなく ても、英語の smash ということばをフランスの国営テレビのスポーツアナウンサーが日本人には「スマッチ」と聞こえる仕方で発音する。国営テレビのアナウンサーであるから、ば かであるとは思えない。日本人がLとR、BとVを耳で混同するように、フランス人はフランス人にとっての外国語の「シ」音と「チ」音を混同するのだ。
  たぶん「聞こえるカタカナ」は、自分では自覚がなくても戦後の日本語の表記改革のトラウマを引きずっちゃっているひとの主張なのだろうな、と思う。表記を 「聞こえるもの」に合わせるのがまちがっていた、ということを本当は自覚しているからこそそれを繰り返さなければならない。一種のノイローゼですね。アメ リカ合州国が、インディアンを虐殺したことがまちがいだったということを本当はわかっているからこそ、虐殺を繰り返さなければならないのと同じことであ る。だからこそ私はカタカナ表記をめぐる問題はまったく外国語の話をしているのではなく、むしろきわめて日本的な話しかしていないと思っている。「カタカ ナ表記の問題は日本語の問題だ」なんてトートロジー、同語反復でしかないのだが、わからないひとがいるので言っておく。
 たとえばフランス語のア の鼻母音が「オン」に「聞こえる」からといってカタカナ表記を変えようとするひとがいる。私は「やるなら徹底しろ」と主張する。それならフランスではな く、これからはフロンスでいけ。シャンペンのことをシャンパーニュというのではなくションパーニュといいなさい。黄色くていいぞ。 それがおかしいならつまらないことを主張するんじゃないの。あなたの耳にそう「聞こえる」のは勝手だが、それをみんながもつべき感覚としておしつけないでほしい。
  そもそも言語を「聞こえる」観点から主張するのは教育がない証拠である。果たしてアの鼻母音はフランス人には決してオの鼻母音に聞こえないのか、といえば そうではない。たとえば quand même 「でもさ」というような表現があり、これをチャットで comme même とか書くひとがときどきいる。するとすぐに「何だよ、おまえものの書き方もしらねえの」とあっという間にばかにされて終わりである。こういう「聞こえるカ タカナ派」のひとたちが悪意をもってフランス語をこれから学ぼうとする日本人をあえて罠に落とそうとしてこういうことをしてくすくす笑っているのなら、私 は理解する。そうでないとしたら、あなたたちのやっていることはわざと無教育と笑われるようなことを「本当のこと」として教えることなのだから、実に罪深 いものだということを理解するべきだ。
 だいたいこういうひとたちは、それじゃあ日本人が「オン」と発音したときに、それがフランス人の耳にアの 鼻母音として聞こえるかどうかを実験したのか。それに、たとえそう聞こえたとしてそれがどうだというのか。正直な話そこから先はない。だってすぐに初心者 は、それならこれをオの鼻母音とどうやって区別したらいいのかという壁にぶち当たるはずだからだ。こういったことは初心者の心を混乱させるため以外の何の 役にも立たない。そのためなんですか。
  「聞こえる」のは外国語を勉強する際のスタート地点の手前の地点みたいな話だ。よく言う話だが、外国人は生まれたときから外国語を話している。話せるなん てのは本当はたいしたことではない。外国語を「聞ける」ようになるためには「話せる」ようになる以上の訓練が必要だが、「聞こえる」なんて耳があればいい だけの話だ。しかし読める、さらに書ける、という風になるためには教育が必要なのだ。ならばむしろ「見える」感じを表したカタカナの方が「聞こえる」カタ カナよりも正統なものであるはずだ。先人はしっかりそれを理解していたのである。
 フランス人に日本語を教えていてよくわかったのは、日本語のカ タカナ表記の難しさである。なぜならフランス人にはこの日本人の「聞こえるように書く」という理屈が理解できないからだ。たとえば Hyacinte あるいは Aurélie という女の子がいた。それぞれ「ヤサント」、「オーレリー」とカタカナで書くような名前だろう。しかし彼女たちにかなで自分の名前を書かせると「ヒヤシン テ」とか「アウレリエ」になってしまうのである。つまり彼女たちにとっては、最初に何も知らずに自分の名前をカタカナで書け、といわれると「見える」よう に転写するのが当然であるように思われるのだ。これはこのふたりだけではなく、私の生徒全員の話です。日本人だって、もしこの「聞こえるイデオロギー」に 毒されていなければ、見えるようにカタカナに転写するはずである。いちいちめんどくさいけど、私は「オーレリー」でなくて「アウレリエ」と書けなんてぜん ぜん言ってませんからね。
 日本語が「アウ」と書いて「オー」と発音する時代であったら、こういうことももっと理解しやすかったのだろうが、現代 仮名遣いという暴挙のために表記と発音のずれの存在がわかりにくくなった、という風に多くのひとが勘違いしている。実際にはこのずれは書きことばに本質的 なものだ。ここでデリダなんてまったく引き合いに出す必要はないんだよ。私は原語のアルファベットの字面の雰囲気を出すカタカナ表記がいいものだと思うの であり、むかしのひとはそれにたけていた、と思うのだ。「アウレリエ」はさすがにないとしても、「アウレリー」と書いて「オーレリー」と読ませるという可 能性はあったのかもしれない、と妄想する。「雰囲気」とか「気分」とか、私がよく云うことは科学的なものなの?という疑問を抱く方がいたとしたら、その疑 問は当然のものだけれど、すでにほぼ百年前にエドワード・サピアが、心理学的なものを大切にして、言語を物理的な事象とする説に反論している、とお知らせ しておきましょう。それに「イギリス」「スペイン」「ホンジュラス」をそのままにして、原語に近い発音のカタカナも何もあったものではないのだから、「雰 囲気」がせいぜいだろう、くらいのことを云っておくのが潔いんじゃないの?--つづく--